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ゆらゆらと視界が揺れている。
ここは・・・・・・・何処なんだろう?
これは夢なのか? いや違う。
ゆらゆらと視界が揺れているのがはっきりわかる。
「いい・・・・・・もっと・・・・・・」
微かに声が聞こえる。
「もっと、欲しい?」
誰かが誰かに問いかける。
「とっても良い。だから、もっと・・・・・・欲し・・・・・・い」
視界の揺らめきが激しさを伴なっていく。
「だめ。ああ・・・・・・きもちい・・・・・・」
途切れ途切れに聞こえる甘い声は耳元で囁かれているようだ。
声が漏れる。一人だけの声ではない。二人だ。激しい吐息の掛け合いのように感じる。漏れ溢れる声を我慢しているのように、心の底から溢れてどうしようもない声が聞こえる。苦しいというよりは、何か喜びを感じている。そんなふうだ。
「そこ、もっと突いて・・・・・・もっと、強く、もっともっと」
それに応えるように視界の揺れはより強くより激しくなっていく。
「うう・・・・・・限界だ」
次の日の朝。
「おはよう」と聞こえる声と共に僕の体が左右に揺れた。やめてくれ、頭が割れるように痛むんだ、揺すらないでくれ、という声にもならない声が心の中で反響する。
「もう、早く起きてよ! ねえってば!!」
空気を伝わり耳にはいってくる音が鋭い凶器のように感じる。
「・・・・・・頭が痛い・・・・・・」
はだけた毛布をゆっくり引き上げ頭までかぶせる。その刹那、「もう! 起きてって言ってるでしょ!! いつまで寝るつもりなの? 今日はデートの約束してたよね?」
頭までかぶせたはずの毛布は、一瞬で剥ぎとられた。まるでテーブルクロス引きの達人よろしく、机上に置かれているものを微動だにさせず一瞬でクロスを引き抜くそれのようだ。
「寒い、し、頭が、いたい」
訥々と言葉を発する。これが今の僕には限界だった。
「もう・・・・・・」と、テーブルクロス引きの達人がふくれっ面になるのが分かった。
これはいけないと思い、まだはっきりしない意識の中で彼女の様子を覗き込む。ふくれっ面がかわいい、と思った僕は猫の如く丸まって、再び夢の中へ入っていった。
わけではなく、しぶしぶ起きることにした。
「おはよう」
改めてあいさつを交わす。頭は引き続き見えないトンカチでガンガン鳴らされている。108の煩悩を鳴らす除夜の鐘のように。
「おはよう。昨日は飲みすぎたね。でも、楽しかったよ。樹、頭痛い?」
彼女は優しさと厳しさの両方を兼ね揃えた最強の女性だ。頭痛い? って聞いてくれることに僕は嬉しさのあまり「ううん。大丈夫。いっぱい寝たから平気だよ」と答える。が彼女は「はいはい。さっき頭が痛い~って苦悶の顔してたよ。ちょっと待っててお薬もってくるから」とリビングに歩いていった。
「樹、はい。鎮痛剤飲んで。お水ここにおくね」
「ありがとう」頭の中の除夜の鐘が収まってくれるように祈りながら奏多の想いがぎっしり詰まった鎮痛剤を水と一緒に胃の中に流し込んだ。やはり、薬は優しさが半分詰まっているのだろうと改めて思う。
「頭痛が治まったら外へ出かけよう。今日はデートなんだからね」
今日はデートなんだからね、を少し強めに発音し終えると彼女は軽い軽食を作るためにキッチンへと向かった。その背中を眺めながら、同棲生活三年目を迎える僕らのこれからを考える。が頭の中の除夜の鐘がそうさせてくれない。もう少し治まってから考えよう。きっと楽しい想像になるだろうと一人にやけ顔になる。
「大晦日に外出するのはなんだか新鮮だね~」
鼻を大きく膨らませ、一年の最後の日の空気を肺にめいいっぱい吸い込む彼女。それを隣で眺める僕。なんて幸せなんだろうか。ふうっと息を吐く仕草もなんとも愛おしい。「目に入れても痛くない」と小さな子供によく使うけれど、それは大人にも通じるものだと思う。現に僕はそうだからだ。
「気持ちがいいね。頭痛も治まったことだし、奏多の行きたいところにいこう」
「うん。今日は想い出を振り返る旅にしたいと思います」
満開の笑顔を僕に見せてくれる。屈託のないその笑顔が僕を何度勇気づけてくれたことだろうか。
「わかった。でもいいの? 今日は奏多の誕生日なんだよ?」
「いいの。私がそうしたいの。それに樹とならどこにいても楽しいよ」
うおい。そんなこと言われたら天に舞い上がってしまだろう。すこし泣きそうになる。いかんせん年々涙腺が緩んでいるっていうのに。けれどその想いはお首にも出さず平常心を保ったふりをして「わかった。僕も奏多と一緒ならどこでも楽しいよ」と答えた。
僕と彼女は同い年。出会いのきっかけは僕が話かけたことだ。けれど断っておく。断じてナンパではない。これはナンパではないのだ。
いつも通っている喫茶店でよく見かけていて、いつの間にかなんだか気になるようになっていた。あるとき、隣の席になった。僕が先に着席していてあとから彼女が隣に座ってきた。パーソナルスペースが極端に狭い僕は自分のテリトリーに入られるのが嫌だったが彼女だと分かった瞬間、自分のATフィールドを解除した。まあ奏多は僕の事などさして気にしてはいなかったと思うけどね。
僕は読書を楽しんでいた。読書を始めると周りが見えなくなる。したがって、彼女が隣に座っていたことも読書開始後、驚くべき速さで忘却した。一息入れようとコーヒーカップに手を伸ばすもコーヒーが空になっていることに気付いた。と同時に彼女と同じタイミングで腰を上げ椅子を引いた。「あ、まずい。一緒だと思われてしまう」と焦ったが時すでに遅し。彼女と目があってしまった。「あっ」と僕も彼女も声を漏らした。
「お先にどうぞ」と僕がぎこちないハニカミスマイルをしながらレディーファーストを行う。目で「お先にどうぞ」と訴える。
「あっ、ええっと・・・・・・」彼女は言葉に詰まっていた。
「コーヒーが無くなったので」と僕が言うと彼女は弾けたような笑顔を返した。
「ああ。てっきりお手洗いなのかと思いました」と恥ずかしげもなく言い返した。
トイレが一緒なのが気恥ずかしいと思ったのだろう。それにしても羞恥心を感じないのか? と要らぬ心配をする。僕はレジに彼女はお手洗いに。それからまた同じ席に着席した。僕が先で彼女があとだった。またしばらくそれぞれの世界に埋没する。彼女の読んでいる本が僕と同じであるのに気づいたのは三杯目のコーヒーを注文しに行こうとしたときだった。
「あっ」と声が漏れた。と同時に口はすでに次の言葉を発していた。
「それはもしかして四角田丸央先生の『花見月は冬に咲く』ではないですか?」
「そうですよ。一緒ですね」
「えっ!?」
「さっき一緒に立ち上がった時に見えたんです。『あっ、一緒の本読んでるって』」
嬉しいやら恥ずかしいやらドギマギした気持ちは浮足立つ心をより浮足立たせる。
「どれくらい読み進めましたか?」
浮足立ってない風をよそおいながら僕は努めて冷静に答える。
「半分くらいです。あなたは?」
「僕は8割くらい読みました」
「読むの早いですね」
「それだけが取り柄ですから」
そういって僕は笑った。そんな僕を見て彼女も笑った。
「あのカフェに行こっか?」
家を出て近くの公園に足を運んでいた道すがら、彼女が提案してきた。咄嗟に今日のデートプランは「想い出を振り返る」がテーマだったことを思い出す。
「あのカフェ?」
「そう。樹が私をナンパしたあのカフェ」
「ええー。それは心外。断じてナンパじゃありません」
「じゃあ、男の子が女の子に向かって『これから少しお時間ありませんか?』って聞くのって何になるの?」
「それはナンパだね」
「じゃあ樹は私に声かけたときなんていったっけ?」
「うーん。『この後、時間ありませんか?』っだったかな?」
「うん。ご名答。それを何て言うのかな?」
「ナンパだね」
彼女は照れくさそうに笑う僕の顔を下から覗き込んでくつくつ笑った。
公園には人気がなく、乾いた風が僕と彼女を撫でては吹き抜けていく。時折、ビューっという強い音と共に地面に落ちた枯れ葉が舞い上がる。空を見上げる。雲は一つもなく薄い青が広大に広がっている。夜には星が良く見える場所なんだが、昼間のこの公園はあんまりロマンチックではないことに気が付く。彼女の左手をダウンコートの右ポケットにつっこんでそんな他愛もない、けれどなんとも愛おしく感じる日常を噛み締める。
彼女と出会ったカフェへと赴く。その道中、彼女の好きな芸人の話に花が咲いた。
「もうさ、その芸人さんが面白くてね。何回みても飽きがこないの。樹も知ってるでしょ?」
「そんな面白い芸人さんがいるんだね。今度一緒にみてみようか?」
「このあいだ観たあの芸人さんだよー。ほんとに樹は世間知らずだよね」
「世間知らずの使い方、絶対間違ってるよ」
「いいんですー、これが私の使い方なんですー」
「そんで。その芸人さんは何て言うの?」
「なんだったっけ? 忘れちゃった」
少し前を歩く彼女の背中を見ながら、この間みていたお笑い番組を必死に思い出す。思い出せていないとふんだ彼女がジェスチャーをする。それを見てテレビ番組で漫才をする芸人のシルエットがみるみる浮かび上がった。
「わかった! きっとあの芸人さんだ、うん」
「おお! わかったのかな? シンパシーだね」
変顔を決めながらお茶目な仕草をする彼女はとても可愛くて、時々、僕にはもったいないと感じる。それと同時に手の届かない遥か遠くの人間にも思えてしまう。
「千鳥足でしょ? 『癖がクセー』の? 」
僕が解答すると彼女は「だいせーかあーい」と言って両の腕を僕の首に回して頬っぺたに軽いキスをくれた。一度ではなく何度も何度も頬っぺたにキスをくれた。
少し恥ずかしかった。でも、嬉しさのほうが何倍も勝っていたことは言うまでもない。
おしゃべりをしながら歩いているとアッという間に目的地についてしまった。
「とーちゃーく」彼女が溌剌と発した。
今日の彼女は普段よりも活発に見える。元来、アウトドアな彼女は常に活き活きしている女性ではあるのだけれど、今日は一段と元気な様子だ。その証拠にカフェへとつづく螺旋階段を軽快なフットワークで飛んでいく。一足早く入り口についた彼女は、階段の手すりにつかまり前のめりな姿勢になる。「はやく~」とまるで犬が遠吠えでもするような声で僕を呼ぶ。
階段を優雅に登り切り入り口のドアを開けた。お先にどうぞとレディーファーストをしてみせる。「あっどうもどうも」と彼女が右の掌を縦に構え二・三度振る仕草をしながら店へと入る。その後ろにつづき「どういたしまして」と会釈をする。
二人でレジに並び、それぞれ飲みたいドリンクを注文した。僕はブラックコーヒーで彼女はカプチーノ。バーカウンターでドリンクを受け取り席を探す。といっても、すでに座る場所は決まっている。
「ここにしよっか」
「私もここにしようと思ってたよ」
「運よく席が空いててよかった」
「えっ、私が予約していたに決まってるでしょ?」
冗談を言う彼女の言葉を右から左(正確には僕が彼女の右側に座るから左から右なんだけど)へ聞き流し、僕が“ナンパ”した席に二人で腰を落とした。
コーヒーの香りと静かな店内の心地よさに少しの間、物思いに耽る。大晦日だというのに、いつもと変わらい風景がここにはある。それでもいつもより人が少なく、ゆったりと時間が流れているように感じる。BGMもジャズやボサノヴァが流れている。知らない曲だとつくづく思いながらも「いいメロディだ」と感じてしまうものだから自分でも不思議だ。五分くらい自分の時間に浸ったあと、不意に昨日の夜の出来事を思い出した。
「あのさ」そういって彼女の方を見やると、彼女は僕のほうをみて微笑んでいた。
「もしかしてずっと見てた?」
「うん」
「どのくらい?」
「この席に座った時から」
「何か話かけてくれて良かったのに」
「ううん、そんなもったいないことしない。だって、樹の横顔カッコイイから」
「ありがとう」
そんなの毎日見ているでしょ、って言葉を直前で飲み込んだ。素直に嬉しいからだ。
「それで、『あのさ』はなんなのさ?」
「昨日の夜の事なんだけど」
「樹、途中で寝ちゃったから残念だった」
「残念って・・・・・・あれはきつかった。それにお酒もかなり回っていたから本当にきつかった」
「あともう少し頑張って欲しかったな~」
彼女は酔うと少し我儘になる。普段わがままを言わない分、彼女が酔った時にはその我儘を受け入れてきた。
「少し腕が筋肉痛なんだけど? 僕は精一杯奉仕したと思うよ。正直あんまり覚えていないけど」
「急に寝落ちするから驚いたよ」
「お酒をしこたま飲んだ後の『肩もみして~』はダメでしょ」
「そこは覚えているんだね」
「うん。奉仕中はかすかな記憶しかないけど。でも、奏多ちょっとエッチな声上げてたでしょ?」
「樹が発情しないかな~と思ったけど、効果なしでした。ちょっとショックだったよ」
「ごめんね。限界だったから。気持ち悪さと眠気で」
「けどね樹、上手にしてくれてたよ。酔ってあれだけできるんだからすごいよ!」
「じゃあまた今度してあげる」
「毎日でもいいよ」
「僕が疲れるから勘弁してくださいというか、酒飲んでる最中の血行促進はだめなような気がするけど」
「いいの。私、お酒強いし。今日すこぶる元気なのは樹のテクニックのおかげだね」
「そうだね。一生懸命揉みもみしたよ。疲れよ飛んでいけ~ってさ」
嘘だよ、酔っ払って覚えてないって言ってたでしょ? とうい表情で訝る彼女はふふっと笑った。
今日が彼女の誕生日ということを忘れてしまうほど、のどかで落ち着いた時間がゆったりと流れていく。
一滴いってき丁寧にいれるコーヒーのように、じっくりと味わいのある時間という名のコーヒーを僕は堪能している。彼女も堪能してくれていて欲しい、と願う。
その後もカフェでのんびりした。今年一年間の感想を言い合ったり、目標は達成できたかどうかを確認しあったり、読んだ本の話をしたり、映画の話をしたり、元旦は何処の神社に参拝に行こかとか、とにかく話題が尽きることはなかった。
気が付くと店内は少しだけライトダウンしていた。窓から見える外はすっかり夜の帳が下りている。
「さて」と両の手を軽く合わせた彼女は僕の顔を見るなり「次、行こう」と半ば強制的に席を立たされて店をあとにした。もう少しカフェの空間を楽しんでいたかったのだけれど、今日は彼女に振り回されても構わない。彼女とならいつだって退屈しない僕だから。それに今日は彼女の誕生日なんだから。
「次は何処にいくのかな?」
カフェを出たら、外は思いのほか寒くて二人身を寄せ合う。隣には行き先を決めかねている彼女が必死に次の目的地を脳内検索している。といったそんな表情をしている。
「樹は何処にいきたい」
「奏多の行きたいところ」
「ちょっとはエスコートして欲しいよ?」
「それでは、ご飯、食べ行かない?」
「まだお腹空いてない。却下」
「じゃあ映画館は?」
「観たいのがない。却下」
「散歩」
「寒い。却下」
「電車で都心に出かける」
「地元が好き。却下」
「ゲームセンター」
「論外。却下」
「本屋さん」
「・・・・・・いいよ。樹と最初のデートで行ったあの本屋さんね」
夢・未来堂書店。希望しかないような高尚な店名が有名で、学生や受験生はこの店で学習用の本を買うと成績が上がるとか受験に合格するとか、そんなジンクスとか迷信のある書店。彼女と初デートしたときに行った本屋さんだ。
夢・未来堂書店は駅から少し離れた所に店を構えている。ここでふと疑問が浮かぶ。
「本屋さんやってるかな? 今日は大晦日だし」
「たしかに・・・・・・」
彼女はムンクの叫びのように両の手を両頬にあててしばらく静止していた。そしてゆっくり口を開ける。
「行ってみよう。なんだかお店開いているよう気がする」
こういうときの彼女の直観はすこぶる当たる。だから僕は素直に従う。
「じゃ、行こう」
顔を見合わせ、二人仲良く手を繋いで書店へと歩きだした。