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彼女は僕に色々なことを教えてくれた。
おそらく、あのひまわり畑で彼女に出会わなければ、こんな苦しい気持ちにも、こんなに優しい気持ちもなれなかった。彼女と出会わない僕は、いつもと変わらない趣味と題したカメラを構え、何か綺麗なものを撮っていることだろう。別に、カメラで綺麗に撮れたから満足するのではなく、そういう自分に満足するのだ。
だから、その撮ったものを自分に投影をして、劣等感に塗れる。綺麗なものと自分の汚い部分を対比させる。それで、やっぱり「ダメだな自分」みたいな劣等感に満足する。
そう考えれば、時間の価値は人それぞれだと感じる。だって、僕が後少しの命で同じことをするのかと訊かれれば、おそらくやらない。時間は等しく平等だというが、実はそうではないのだ。
今だって、僕がこんなつまらない理屈を並べている間にも死んでいく人がいるということ。それのどこが平等だというのか。時間の価値はその人が生きていると感じた瞬間に作り出される虚像に過ぎないのだ。
「すみません、あなたは千恵子さんのご家族の方ですか?」
白い天使は彼女の病室を見ながら、話しかけてきた。
僕はずっと彼女の病室の前の椅子に腰をかけたまま動けないでいた。
「いいえ、違います」
正確には、これからなる予定の人でした。
「すみません、でしたらもう家族以外は面会謝絶状態になってしまいますので」
僕がはいとだけ言って俯く。
そのまま、彼女はICU(集中治療室)へと運ばれていく。
多くの白い衣装を纏った人たちが、彼女を囲み、強ばった表情で運ぶ。
家族ではない僕にもうすることなんてない。
そういえば、初めて彼女の名前を知った。千恵子っていうのか。
どうも彼女との思い出は断片的だ。
どんな風に育ち、どんな風な環境にいて、どうなりたかったのか。
それも知らない。
物語の断片的なものをかいつまんだ、彼女の人生の五日間、いや、正確には三日間。
僕と出会って何を与えられたのだろうか?
正直、彼女から与えられたものが大きくて押しつぶされそうだ。
「あの……これ、千恵子さんから預かっていて、おそらく冴えない男の人が私を心配そうに見ているだろうから、渡しといてって言われていたので!」
そう、白い天使が僕に言うと、便箋を手渡された。
「すみません、冴えない男で」と言ったら申し訳なさそうに白い天使は天に、いや、ナースステーションに帰っていた。
早速、便箋の中身を取り、中に入っていた手紙を読んでみる。
『名前の知らないあなたへ
まさか、出会って三日間のあなたに手紙を書くなんて思わなかったけど、家族がいない私にはちょっぴり嬉しいかも。
私は病気を患っています。そして、おそらくあなたと約束した五日間も持ちません。だから、言葉に残します。
率直にいうと、あなたに惚れている自分がいました。突然、見ず知らずのあなたに声をかけられた時は戸惑ったけど、何に対しても真剣で、何よりあなたの瞳が好きだった。
だから、そんなあなたを悲しませてはいけないと、嫌われるために頑張った。でも、どんな嫌がらせをしても、あなたはいつも笑って、優しくカバーしてくれた。
どうして、どうしてなの……?
本当は嫌いになって欲しかったのに。
私も本当は好きなのに好きなんて言えない。
だって、両思いだって知ったらあなたは本当に私から離れられなくなってしまう。
悲しませたくないけれど、もう一度だけあなたの顔を見ておきたくてここに呼んでしまいました。
私の最後のわがままをお許し下さい。
そうそう、私が生きているうちにあなたの名前を教えてくださいね。
大切なあなたの名前を心に刻んでおきたいから。
ちなみに私は、原田千恵子って言います。
言えなかった時のために一応書いておきます。
こんな、自己中心的な私を嫌いになったよね?
恨んでもらっても構わないです。
だけど、いややっぱりこれは言わないでおきます。
最後の拒絶交際です。
どうか、私を置いて何処か遠くへ行って幸せになってください』
おそらく、彼女が涙を流しただろうシミに僕の涙も混ざる。そして、そのシミはより色濃く変色する。
僕は彼女と一緒にこれからも過ごしたかった。
色々な所に行って、綺麗なものを見て、美味しいものを食べて、そんな当たり前なことをしたかった。そう思うと、奥底に眠る感情が濁流のように溢れ出す。
そう、僕は知らなかった。
できない奴が下を向いているのではなく、下を向いている奴ができないのだ。下ばかり見ていたら何も見えない。それを教えてくれたもの彼女。上を見る勇気をくれたもの彼女。だから、今度はしっかりと上を向いていこうと思う。
太陽に向かって伸びるひまわりのように――。
僕は椅子から立ち上がり、自分の行くべき方向へと走り出す。
拒絶交際とは嫌われる努力をすること。
その言葉を僕は胸に刻む。
後、残り少し。