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携帯の震えるバイブ音で僕は目を覚ました。重い頭を起こし、携帯の通話ボタンを押して、耳に当てる。
「もしもし――」
「随分、不規則な生活をしているんですね。変態さん」
たどたどしい罵声を並べる通話相手は、間違いなく彼女である。
時計をちらりと見て現在時刻を確認する。どうやら、あれから半日ほど寝ていたようだ。
「はい、変態ですけど、何か用でしょうか……?」
今思ったが、不規則な生活と変態という言葉のリンクはどこにあるのだろうか。そんなことを考えてしまったら、笑わずにはいられなかった。
「いきなり私に質問したと思ったら、急に笑い出すとかキモさが異次元ね。この世の末だわ。今日も私の尻に敷かれてもらうわよ」
もう、笑い声を彼女に聞かれまいと堪えていたが、最後のフレーズに思わず吹き出し、人生で一番の笑い声を上げた。
「何笑っているのよ! ゲス男」
「ごめんごめん、そのゲス男は今日何をすればいいですか?」
そう僕が言うと、彼女は少し間を空けてから、今までとは明らかに違う口調でこう言った。
「私の本当の姿を見せるわ。後で場所をメールに添付して送るから、それを頼りに来て。おろらく、それであなたは私のことを本当に嫌いになるわ」
僕の分かったという言葉と彼女のじゃあという言葉が重なり、通話が切れた。
彼女の言う本当の姿とは一体どういうものなのだろうか。今までのこういう関係が崩れてしまうのではないかと思って、少し怖かった。
彼女の微笑む表情が浮かぶ。すごく優しくて、周りにいる人を笑顔にさせてくれる。何よりも彼女自身が優しくて素直な人なんだろうなと思っている。罵声一つも自然に言えない人が人を騙すことなんて想像できない。だから、結末はハッピーエンドであると信じている。
でも、すごく不安だ。心を鷲巣かみにされて、握り潰されてしまいそうな感覚。
とりあえず、彼女からのメールを待つ事にしよう。
テーブルに置いた携帯を手に持ち強く握りしめ、目の前にある白い壁をぼーっと見つめる。ゆったりと進む時間の感覚と比例するように睡魔に襲われ、目の前が暗転する。
突如、僕の体温で温められた携帯は音を立てて鳴り響く。
あまりの驚きに、携帯を放り投げてしまった。
時刻を確認すると、五分ほどが経過しており、自分が寝ていたことに気づく。
放り投げた携帯を拾い上げ、画面を見る。
「病院……?」
彼女からのメールに添付されていた目的地はそこを示していた。
まさか、本当に白い天使と言われている、いや、僕が勝手に呼んでいる看護師なのかと、淡い期待が生まれる。彼女の容姿と看護服を想像し、さっきまでの不安は嘘のように消えていた。
急いで病院に向かうために支度をする。
病院なら、あまり刺激的な服装はいけないなとか、色々と手間取っているうちに日が傾き始めていた。というか、彼女からメールが来た時点で傾いていた気もする。
もう、これでいいと彼女と初めて会った時に着ていた服を身に付け、病院へ向かった。
平日の病院は閑散としていた。それもそうだろう、殆どの診察時刻はもうとっくに終わっているのだから。病院の受付のお姉さんに彼女を読んでもらおうと口を開こうとしたが、そういえば彼女の名前を知らないことを思い出し、口を閉じる。そして、携帯をポッケから取り出し、彼女に電話をかける。
何回コールしても繋がることはなく、電話を切ろうとした瞬間だった。
携帯の着信音が近くで聞こえたので、電話を切るボタンから手を離し、周囲を見渡す。
しかし、彼女の姿はどこにもなかった。諦めて、切ろうとした瞬間、誰かが着信音を鳴らしながら近づいてきていることを感じた。そして、その音は僕の後ろで止まった。
彼女は僕を驚かせようとしているなと思い、キモいと言われ続けた満面の笑みで振り向いた。
「……?」
「……嘘?」
「……嘘……だろ?」
聞こえていた着信音が途絶える。
僕は元気でたどたどしい罵声を言う彼女しか知らない。だから、勝手に先入観を持っていた。馬鹿だ、馬鹿である。
彼女の本当の正体は優しさで包まれていることを前々から知っていたはずだ。
「どうしたのよ、いつもみたいに笑いなさいよ」
「……何で」
果たして、今出た言葉は彼女に向けられた言葉なのか、自分の過ちを責める言葉なのか、自分自身でも見当がつかなかった。
「何故、あなたが泣くのよ。男のくせに」
あれ、僕は今泣いているのか。瞼の下あたりに指を置く。そこに、大量の目から溢れた滴が集まる。そうか、これは僕の想像を悠々と超え、もしかしたら本当に嫌いになってしまいそうだ。
おそらく、僕の思い描くようなハッピーエンドはもう来ない。
「こうなるから、最初から私は嫌だったの……」
返す言葉が見つからない。ただ、変わり果てた彼女の体に繋げられた管が痛々しく僕の視界を刺激する。誰がここを彼女の職場だといった? 誰も言っていない。誰が彼女のことを患者ではないといった? 誰も言っていない。
嫌いである自分がもっと嫌いになってしまいそうだ。
「元々、私は延命治療というのをしていてね。最期のカウントダウンがとっくの前に始まっていたのよ。そして、私は死ぬまでにやりたいリストとか作っちゃって、バカみたいだけどね。それで、そのリストにあのひまわり畑もあったの。一度でいいから、ひまわりに囲まれて陽を浴びたいなって。まあ、それが結果的に私の運命を――」
彼女の言葉が詰まったので、どうしたのかと俯いていた顔を上げると、彼女はまた優しく微笑んでいた。そして、僕はあることに気づいた。彼女はネガティブな表情を我慢していることに。
おそらく、リミッターが外れれば、彼女は彼女ではなくなってしまうのだろう。ただの弱い病人になってしまう。
だから、彼女は笑うのだ。
誰よりも優しく、誰よりも強く。
「ごめんなさい……。時々、こうなってしまうの、許してね。本当はあなたの告白なんて断るつもりだったの。だって、初対面の他人が背負うにはあまりにも重い荷物ですからね。でも――」
「ごめん、それ以上はもう……」
僕は彼女の言葉を遮った。
これ以上聞いていたら自分自身がおかしくなってしまいそうだった。拒絶交際は彼女の優しさが詰まった行為である。嫌いになれるわけがない。
四日間? いや、実質は三日間の短いごくごく僅かな時間しかともにしていない僕に何ができるかもわからない。
だが、僕は彼女を好きになってしまった罪深き罪人。
「やっぱり、私のことを嫌いになったでしょ? 変態さん」
彼女はまた笑った。
僕は首を横に振る。
死を知った人間はここまで強くなれるのだろうか。それとも、特別彼女という人間が強かったのか。僕らは、等しく生という時間が与えられ、死という終焉を迎えることになっている。しかし、その終焉はいつ来るかわからない未知のものだ。自分の終焉を知っても尚、人に尽くそうと思う人はいるのだろうか。それは怖くないのだろうか。
計り知れない重圧が僕の背中にのしかかる。
「あれ――おかしいな。嫌いになって欲しかったのに、あれほど嫌だと思っていたのに、なんだか胸の奥が温かくなる。もう、おしまいね……」
彼女が僕に初めて見せたネガティブな表情でそう言った。そして、ひまわりが枯れるように首が下を向き、意識を失った。
彼女は昏睡状態になってしまった。
僕はあの後に起きた一連の事態を全く思い出すことができない。ただ、彼女の病室の前の椅子で少しの間眠っていたというだけ。
今は一体何日の何時だろうか。
あたりは薄暗い中でも、一筋の微かな光が病院の窓から降り注いでいた。
少し、外の様子を見ようと窓に近づく。
朝刊の新聞を運ぶバイクの音、ランニングをする人、スポーツバックを担いで自転車に乗る少年。
こうやって、彼女の命の灯火がいつ消えるかわからない最中、世界は何も変わらずに動く。
確実に、彼女の命の灯火が消えるカウントダウンが始まっている。
僕はそれまでに彼女に何ができるのだろうか?
後、残り半日。