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あなちちのたんぺん第1弾 「眼球を飼う男の話。」

作者: あなちち

3月某日、火曜


唐突だが私は”眼球”を飼っている。

1匹3千円、少々値は張ったが実にいい買い物をしたと思う。

私は独身のサラリーマンだ、ここで言うのはなんだがブラック企業でこき使われている。

まあその話は置いておこう、こんなところで仕事の愚痴をこぼしたくはない。

とにかく、仕事のストレスを癒すにはもってこいの買い物をしたと思う。

今もこうして水槽の中の”眼球”と文字どおり見つめあっているところだ。

透き通ったブルーの瞳、ゆらゆらと振るう神経のひれ、まとわりつく血管すべてが愛らしい。

こいつを飼い始めたのは丁度一か月ほど前だっただろうか。

いつものように仕事帰りに居酒屋で一人で素ビール一杯を飲んだ。

なんせ金欠だ、居酒屋のボロっちいテレビに映る深夜のくだらない番組を肴にしていた。

その帰り、終電前に駅に行くはずがなぜか怪しいビルの地下に足を向けていた。

ただ単に酔っていたのか、導かれたのかはわからない。

しかし、私は明確な意志を持ってその地下室へとゆっくり進んでいった。

中にはたくさんの水槽があった。

水色をした液体、緑色をした液体、そのすべての水槽の中に様々な生物が入れられていたのを覚えている。

”心臓”や”大脳”をはじめ、”骨格筋”といった変わりダネもいた。

そんななか、私はこの”眼球”に一目ぼれをしてしまった。

運命の巡り合わせとでもいうのかとにかくこいつを飼いたくてたまらなくなってしまったのだ。

私が子供だったら親にねだり、拒否されるオチだっただろうが私はもう大人だ。

店員に聞いたところ3千円だという。

私は財布の中身を確認せずに即決した。

もちろん飼育セットなるものが必要だったのでなんやかんやあって2万円ほどの出費になってしまった。

明らかに必要ないだろう水草や、流木なども買わされ、財布の中身はすっからかん。

あげくには終電を逃す始末だった。

しかし後悔はなかった、ただこいつを買った満足感、幸福感だけが私を満たしていた。

かくして私はこいつとの共同生活を楽しんでいる。

店員によれば彼らは餌を必要とせず、定期的な水交換の際に特殊な液体を混ぜるだけで2,3年は生きるという。

私はめんどくさいことが嫌いなのでそれは非常に助かった。

当初は週1で水槽を洗っていた私も、愛着がわいたのか週3で世話を焼いている。

これは自分にとって驚きの変化だった。

昔、屋台で手に入れた金魚を飼ったものの、ろくに世話をせず三日持たず死なせてしまったことがあった。

素晴らしい成長といえよう、どこかでこいつを欲していたのかもしれない。

私はいつの間にかこの”眼球”にのめり込んでいた。

毎朝水槽をコンコンとはじくと流木の陰から頭を出してくれる。

私はそれに向かって「おはよう」と言って会社へ行くのだ。

夜には上司への愚痴を嫌な顔一つせずに聞いてくれる。

といってもゆらゆら泳いでいるだけなので聞いちゃいないだろうが。

今の私も短い缶ビール1本片手に、掃除の終わった水槽で優雅におよぐ”眼球”にたいして愚痴をこぼしているところだ。

おっと、もうこんな時間だ、明日は早くから会議がある。

私は立ち上がり、青い液体で満たされた水槽をコンコンとはじいた。

「おやすみ」





4月某日、日曜


さて、久しぶりの休日だ、どうしたものか。

私のような会社に支配されている人間はいざ休日となるとやることがないものだ。

土曜のうちに会社に提出する報告書はまとめたし、水槽の掃除も行った。

家の中で惰眠をむさぼることも捨てがたいが今は何かしたい気分だった。

きれいになった水槽の中で”眼球”は悠々と泳いでいる。

少し大きくなった気がする、きっと成長しているのだろう。

今はもう春、桜が満開、恋の季節だ。

この”眼球”もいつまでも1匹だと孤独だろう。

まあ年齢=独身歴の私が言えた義理はないが。

そうだ、今日はこいつのつがいを買ってきてやろう。

自分のことなど後回し、今はこいつの幸せが私の幸せだった。


電車を乗り継ぎ、会社の最寄り駅まで来た。

まさか休日にこんなところに来るなんて昔の私だったら想像もつかなかっただろう。

今の私は昔と違う、”眼球”のおかげで大分社交的になれた気がする。

会社での成績も上々、上司に褒められることも多くなった。

最近では入り浸っていた居酒屋にも足を運んでいない。

やはりあいつを飼って正解だったとよく思うようになったのだ。

駅の近くのビルの地下を探すと、例の店はすぐに見つかった。

前回来たときは暗かったのであまりわからなかったが昼間に来ても薄暗い地下室だった。

青や緑の液体を観賞用のライトが照らして暗くも幻想的な室内である。

私は一直線に”眼球”を展示していた水槽に向かった。

しかしその水槽の中身は空っぽだった。

店員に聞いてみたところ、最近は品不足で経営が火の車だなんだと笑っていた。

ともかく、今この店内で新しい”眼球”は手に入りそうになかった。

私は肩を落とし、帰路につこうとした。

丁度その時、1人の女性が店内に入ってきた。

彼女は私と同じように、かつて”眼球”が展示されていた水槽に一直線に向かって行ったではないか。

そして、彼女はまた私と同じように店員と何やら話し、また私と同じように肩を落として出口へ向かっていく。

私はとっさに彼女に声をかけた。

彼女曰く、やはり私と同じように”眼球”をすでに飼っており、そのパートナーを探しに来たとのことだった。

私は思わず近くの喫茶店で話したいと申し出た。

昔の私だったらまずこんなことはしなかっただろう。

私の不躾で唐突な誘いに彼女は笑顔で了承してくれた。


店内ではわからなかったが、その女性はとても整った顔だちをしていた。

今更ながらに緊張を感じている。

まず私は自身と”眼球”の話をした。

飼い始めてから日常が充実し始めたこと、他人にとってはどうでもいいことだっただろうが彼女は嫌な顔一つせず私の話を笑顔で聞き続けてくれた。

次に彼女自身と”眼球”の話をする。

彼女も”眼球”を飼い始めてから日々が華々しく変化したと言う。

たとえば長年悩んでいた喫煙から足を洗えたことや、会社での自慢話。

彼女の歯は喫煙のせいかやや溶けていたが、彼女の笑顔は美しかった。

不思議と普段は嫌がる他人の自慢話も楽しんで聞けた。

そして、私は彼女の話からある事実を発見した。

彼女は私と同じ会社に勤めていたのだ。

部署こそ違うものの、同期ということもありお互いに驚きあった。

偶然とは思えない、運命的な出会いだったのだろう。

私たちはその場で意気投合、連絡先も交換した。

来週にはお互いの”眼球”を会わせてみたいという彼女との約束もこぎつけた。

犬をダシに飼い主同士で仲良くなる連中とは一生分かり合えないと思っていた私だったが、思いもよらないところでこんな事態になってしまった。

もう一度あの店によって水草でも買っていってやろうと思い、帰路についた。





7月某日、土曜


私はそわそわしていた。

別に何用もないのにソファーに座ったり立ち上がったりを繰り返している。

水槽の中では2匹の”眼球”が身を寄せ合って仲良く遊泳している。

しかし私の心はそれを眺めているほどの余裕はなかった。

意味もなくトイレに出たり入ったりしている。

そうこうしているうちにガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえた。

妻が帰ってきたのだ。

相手はもちろん、4月に出会った会社の同僚。

結局、あの後すぐに付き合うことになり、先月には早々に結婚。

突然のことに両親は驚いていたが同時に感涙していた。

そして、今日、妻は産婦人科へ診察を受けに行っていた。

その帰りが待ちどうしくてそわそわと待っていたのだ。

私は玄関に走っていくと開口一番にどうだったと尋ねた。

妻は照れるように帽子で顔を隠すと、言った。

できた、と。

私はその瞬間飛び上がってガッツポーズを決めた。

近所への迷惑もお構いなしに万歳しながら大声で無意味に走り回る。

まるで空中を飛んでいるかのような興奮を味わっていた。

しかし、ふと妻の顔色が悪いことに気が付く。

私はハイになったテンションそのままどうしたのかと尋ねた。

その次に飛び出た妻の言葉はあまりに意外なものだった。

奇形児かもしれない…と。

そういった瞬間彼女はその場に泣き崩れた。

玄関の砂だらけの地面に顔をこすりつけながら、泣いていた。

私は突然のことにただ頭が真っ白になった。

手持ちぶさたになった両腕を下ろすこともせず。

ただ無心で、泣き崩れる妻の姿を見ていた。

私はその夜、密かに決意を固くした。





4月某日、月曜


唐突だが私は”眼球”を飼っている。

それも1匹ではない、3匹も飼っている。

大きな”眼球”が2匹、まだ小ぶりな”眼球”が1匹。

丁度人間の家族のような感じだ。

親”眼球”が2匹寄り添って泳ぎ、そのあとを子”眼球”が追っていく、実にほほえましい光景だ。

たまに3匹で仲良くぐるぐると水槽を泳ぎ回ったりする。

”眼球”に嫉妬するのはどうかと思うが、羨ましい光景ではある。

長らくこの家に住んでいるが昔と変わったところといえば、この水槽の中の光景くらいだろうか。

もうひとつあった、部屋臭というのか、この部屋はこのごろ煙の臭いがきつくなった気がする。

今日の帰りにでも消臭剤的なものを買って来よう。

炭とかでもいいかもしれない。

さて、今日も朝早くから会議だ。

そろそろ出ていかないと遅刻してしまう。

私は3匹が仲良く泳ぐ水槽をコンコンとはじいた。

「いってきます」

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