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赤い声

作者: ささき

 ちかちか、ちかちか。

 眼前で点滅する声。大抵は橙で、たまに黄色。青や緑はここにはない。

 誰かが口を開く度、視界に溢れては消える。

 時々思う、耳が聞こえなければと。


 目覚ましの音で目が覚めた。

 望はおもむろに立ち上がり、部屋の隅まで歩いて行った。そして自分のバッグからタバコを取り出すと、そこにしゃがんで火をつけた。僕は驚いた。彼女がタバコを吸うとは思っていなかったのだ。

「いつも吸ってるの?」

「こういうときだけ」

 望は答えた。舌足らずな声だ。

「じゃあいつもだ」

「それはどうかな。それよりこのタバコ、面白いのよ。カエサルの言葉が書いてある」

 望は口から煙を吐き出しながら言った。煙と一緒に、十円玉ほどの赤い点が目の前を何度か行き来した。

「賽は投げられた?」

「何だと思う?」

「わからないな。そのタバコメーカーはシェイクスピアのファンなのかい」

「さあ?でも希望っていう名前のタバコよりはいいじゃない」

 望は言うと、吸いかけのタバコを窓枠のスチールの部分で消した。8畳一間の部屋に、白い煙だけがいつまでも漂った。雲に似ていた。


 望と初めて会ったのは、大学一年生の四月だった。構内で迷っていた僕は、偶然彼女を見つけたのだ。静まり返った六階。その奥の教室で女子生徒が一人、一心不乱にキャンバスに向かっていた。黒く短い髪が印象的な、絵描きを彷彿とさせる雰囲気の女子生徒だった。

「あの」

 声を掛けると、彼女は驚いたように顔を上げた。造作が整っているというわけではなかったが、かわいらしい顔をしていた。睫が長く、それが子供のような風貌を作っていた。

「人がいるとは思わなかった」

 彼女はそう言いながら筆を置いた。幼い声だった。声と同時に、視界に赤が混ざった。彼女の声は珍しい、赤色だ。

「第三音楽室って、この辺ですか」

 僕は尋ねた。学校に馴染んだ様子だったので、上級生かと思ったのだ。

「知らない。どうして私に聞くの」

 その台詞で、どうやら彼女も一年生らしいことがわかった。

「他に誰もいないから。ここって美術部の部室?」

「開いてたから勝手に使ってるだけ。こんな時間に部活動なんてしてるわけ無いじゃない。もう七時半よ」

 馬鹿にしたような口ぶりで言われる。確かに外はもう真っ暗だった。

「勝手に使っていいの?」

「さあ。それで、第三音楽室に何しに行くの」

「忘れ物を取りに」

 僕は答えた。彼女は不思議そうな顔をした。

「行ったことのある教室なのに、場所を覚えていないの」

「そのときは友達が案内してくれたんだ」

「その友達は、今日はどうしたの」

「さあね。帰ったんじゃないかな。木曜しか会わないから」

「ふうん」

 彼女はそれきり黙って、再び筆を取った。

 僕はしばらく彼女が絵を描くところを眺めていた。ときどき窓から、冷たい風が入ってきた。

「寒くないの」

 僕は訊いた。彼女は半袖のブラウスに半ズボンという、真夏のような格好をしていた。

「まだいたの」

 彼女は僕のほうを見もせずに言った。

「窓、閉めようか?」

 僕は尋ねた。

「……音楽室は、もう閉まってるわよ」

 彼女はしばらくの間何か考えているように沈黙していたが、突然口を開いてそう言った。

「それは、そう。どうも」

「じゃあね、バイバイ」

 彼女は僕に、小さく手を振った。その赤い声は夕焼けの色に似ていた。

「バイバイ」

 僕は背を向けて教室を出ようとした。

「待って」

「何?」

「窓、やっぱり閉めて行って」


 正貴はおかしな男だった。人間からは皆、金属の音がすると彼は言う。

「お前は電車のレールみたいな音がするよ。ひどい音だ」

 正貴は毎週木曜、僕に会うたびそう言った。

「じゃあ例えば、佐藤教授はどんな音なんだ」

 佐藤教授というのはこれから始まる講義の教授で、白髪の目立つ初老の男だ。

「あの人は、ナイフとフォークがぶつかる音だ」

 正貴は言うと、書きかけの楽譜を机の上に置いた。

 僕は頬杖をつきながら、ナイフとフォークがぶつかる音を想像してみた。

「なんとなくわかるよ」 

 ナイフとフォークのぶつかる音は、容易に想像ができた。それがどうして佐藤教授からするのかはわからなかったが、正貴の感覚の上ではそういうことになっているのだろう。

「そうだろ。そういえばお前、彼女はどうなったんだ」

「彼女?」

「もう二ヶ月くらい付き合ってるんだろ。美術科のなんて言ったっけ、とにかくちょっと変な女だよ」

 正貴が望を変だと評するのは、いつものことだった。

「ああ、望。火曜日うちに泊まったよ。どうってことはない」

「そんな筈ないだろう。あの女、最近ますますおかしいぜ」

 正貴が言ったとき、佐藤教授が教室に入ってきた。

 ナイフとフォークがぶつかる音はしなかった。


 楽譜を読むのは得意ではない。

 僕は音を記憶することにおいて人よりいくらか有利だったが、それだけだった。

 幼い頃から大人たちに褒められたので、これといってセンスがあるわけでもないのに芸術大学の音楽科に進学した。大人たちに褒められると、ときどき僕は自分に音楽の才能があるのではないかと錯覚した。そして、自分は音楽を愛していると思い込んだ。

 何度か遠ざかろうとしたこともあったが、音楽に関わらない自分はまるで自分ではないような気がした。

 窓の外を飛行機が横切っていく。飛行機のエンジンは、紫と青が交互に続く音をしていた。その色は僕の集中力を削ぎ取ってばらばらにしたが、正貴は全く気にした様子が無かった。

 やはり僕にしか見えないらしい。


 望と二回目に話をしたのは始めて会った翌日、火曜の授業中だった。遅れてやってきた彼女は何食わぬ顔をして僕の隣に座り、教科書を見せて欲しいと言った。

「それとできれば、ペンも貸して」

「忘れたの?」

「鞄ごと電車に」

 僕はそれを聞いて笑った。

「どうしてこの授業取ってるの」

 『近代建築の変遷』と書かれた教科書を捲りながら、僕は訊いた。人気の無い授業で、他に知った顔は見当たらなかった。

「抽選が全部外れたの。それよりええと、なんて読むの」

 彼女はそう言って、教科書に書かれた僕の名前を指した。

「ヨシキ」

「ミキって読むんだと思った。私は佐藤ノゾミ」

「どういう字?」

「絶望の望」

 その赤い声はどうしてか、じわりと僕に染み込んだ。


 小学三年生のときの話だ。

 祖母が亡くなった日、僕は両親に青い声の人の話をした。

 祖母は息を引き取る間際、僕にこっそり教えてくれた。自分を殺すのは青い声の男だと。だから僕は両親に、青い声の男を捜すのを手伝って欲しいと訴えた。

 するとそれまで黙っていた父が、静かに顔を上げて僕を見た。

「音が見えるように言うの、やめてくれないか」

 淀んだ灰色をした父の声が、ゆっくりとリビングに広がった。まるでリビングがその灰色に沈んでいくようだった。そのうち母のすすり泣く声が聞こえた。消えそうなほど微かな橙色だった。

「……そうする」

 長い沈黙の後、僕は初めて両親に嘘を吐いた。


 望は僕の話を聞きながら天井の木目を観察していた。

「素直な子供だったのね」

 望は言った。

「そう?」

「そうよ。私は嘘をついてばかりだもの。それで青い声の男はどうなったの」

 そう訊ねる望の声は、今日は少し色褪せていた。

「叔父さんが青い声の男だってことを、僕は黙ってた。祖母は少し痴呆が始まっていたから、言ったところでどうにもならなかったよ。それに僕も、祖母の話しなんて信じちゃいない」

「でも、お婆さんが人の声を青いと感じていたのは事実なんでしょう。君と同じ感覚を持ってたんじゃないの」

「どうだろうね」

 あの時の僕は幼すぎて、祖母を理解していなかった。それに祖母は、人に理解されようとはしていなかった。

「それは誰にも理解できないわ」

「理解されようなんて思ってないよ。この感覚は、人にはわからないんだ」

 僕は投げやりに言った。

「その感覚だけじゃなくて、人は他人の感覚なんて何ひとつ理解できないものだと思う」

「どういう意味だい」

「例えば私が今のこの時間を穏やかだと感じている感覚だって、君はきっと理解してないと思う」

 望の声と共に、視界が橙色で満たされた。いつの間にか、彼女の声は赤ではなくなっていた。


 木曜はいつも退屈だ。小難しい楽譜を読んだり書いたりしなければならない。書くといっても制限だらけで、好きなようにはやらせてもらえない。僕が最も美しいと感じるのは水色から始まり紫に収束する音だったが、それを譜面に起こすと酷評を受けた。

「適当にやればいい」

 正貴はいつも言う。彼は万人受けする音がどういう物なのかをよく知っていた。

「最近耳がおかしいんだ」 

 僕は言った。

「よかったじゃないか」

「聞こえなくなったならね」

 耳が聞こえなくなればいいというのは、僕と正貴が音を語る上で唯一同意している点であった。僕は常に、音と同時に視界を飛び回る色にうんざりしていたし、正貴は人間から聞こえるという金属音に苛まれていたからだ。

「どうおかしいんだ」

 正貴は隣で、書き終わった楽譜を訂正しながら言った。

「音の見え方が違うんだ、最近」

 僕はそう言って握っていたボールペンをカチカチと鳴らした。音が耳に入ってくると同時に、視界ではいつも通り黄色が二回点滅した。

「それは目がおかしいんじゃないのか」

「いや、違う。普段は目を瞑っていても瞼の裏に色が見えるんだ、目の所為じゃない」

「じゃあどうしたんだ」

「さあね。望の声が、赤く見えないんだ」

 僕は言った。耳で聞こえる望の声に変化はないが、視界に入ってくるのはいつの間にか凡庸な橙色に変わっていた。

「あの女のことか。それはそうだろう、最近のあの女、前ほど変じゃないから」

「どういう意味だ?」

「あの女、前は聞いたことも無いような高い金属音だった。耳障りで目立つ変な音だ。だけど最近は鎖の音がする。どこにでもある、がちゃがちゃした鎖の音」

 正貴は言った。僕には彼の言うことがよく解らなかった。

「人の音が変わるってこと、あるのか」

 僕は尋ねた。

「たまにある。そいつの性質が変わると、音も変わる。俺が人間から聞く金属音は、その人間の性質が音になって聞こえるだけだから」

 性質が音になるという意味も解らなかったが、僕は頷いた。

「じゃあ望の性質も変わったってことなのか、それは」

「たぶんな。あいつは異質からありきたりな存在に成り代わった。それだけだろう。お前の感覚がおかしくなったわけじゃないさ」

「そうか、よかった」

 僕は言った。思ってもないことだった。


 僕は望が好きだった。望の赤い声を愛していた。初めて彼女の声を聞いたとき声と同時に視界に広がった鮮明な赤は、液体のように僕の心に充満した。僕は魂を取られたように、望に執着した。

 会話はたまに噛み合わなかったがその違和感さえ、望は人に無い感覚を持っている、すなわち僕たちは似たもの同士なのだと思えばいとおしかった。

 それが近頃変容した。凡庸に変貌した。退色というにはあまりにも明らかな差異。僕にしか分からない筈の、望の声にしかない筈の夕焼け色の紅蓮。それが大勢の人間と同じ、退屈な橙色になった。橙は一番嫌いな色だ。曖昧な癖に自己主張が強い。それでいて、周りに溶け込もうとする。

 僕はベッドに寝転がり、部屋の天井を見上げた。木目が人間の顔のようだった。気味が悪い。

 這い出して、窓を開ける。窓枠にはまだ、望が押し当てたタバコの跡が黒く残っていた。


 僕は望に電話を掛け、話があると言った。望は三十分ほどで僕のアパートにやって来た。

 僕たちは白い小さなテーブルを挟んで向かい合って座った。

「話って何?」

 望は言った。

「ええと」

 僕は淹れたばかりの紅茶に口をつけた。

「何?」

「うちの天井の木目、人の顔に見えるね」

 僕は突然そんなことを言った。

「そうね」

 望は頷いた。二人の間に、長い沈黙訪れた。窓の外で、隣の犬が狂ったように吼え始めた。

「重要な話だ」

 僕はそう言って立ち上がり、窓をぴしゃりと閉めた。閉めても尚、犬の鳴き声は聞こえる。

「それで」

「僕は君が好きだった」

「そうじゃなきゃ、付き合わないと思うけど」

「だけど、もう君のことは好きじゃない」

 僕は窓の外を眺めながら言った。下の道路は薄暗く、街灯が点灯していた。窓には望の横顔が映っているが、俯いていて表情まではわからない。少なくとも、笑ってはいないようだった。

「どうして」

 望は僕の背中に向けて言った。

「望が変わったから」

「変わった?私が?」

震える声と同時に、目の前に散らばる橙。今まで聞いた言葉の中で、どれよりも橙。

「正確には、君の声の色が」

「よく解らないわ」

「ひとことで言えば、平凡になった。しかもそれは、僕の嫌いな橙色だ」

「平凡、ね。解ったわ。最近私も、自分が平凡な女の子になった気がしてたもの」

「そう?」

「ええ。前は誰かに気に入られようなんて思わなかったのに、ここしばらくは貴方に気に気に入られることばかり考えてたから。まるで馬鹿な女の子みたいに」

 望自身、自分の変化を理解しているらしい。僕は安堵した。ならば話は早い。

「それで、僕はそういう君のこと好きじゃないんだ。だから、わかるだろ」

「別れたいの?」

「ああ」

「私は貴方のこと、好きよ」

 望はそう言うと立ち上がった。

 僕は驚いて振り返った。今まで僕は何度か望に好きだと言っていたが、望が僕に好きだと言ったのはこれが初めてだった。だが、もう遅い。好きという言葉さえ、橙色だった。

「やめてくれ」

「嫌」

 望はゆっくりと僕のほうに歩いて来た。僕は射竦められたように彼女の顔を見た。今日も睫が長い。

 望は右手を掲げた。細い指が、銀色のものを握っていた。

「これで、大丈夫。貴方の嫌いな橙色の声は聞こえなくなるわ」

 声と共に視界が真っ赤に染まった。紅蓮だ。今まで見たことも無いほどの真紅だ。深紅だ。染み入るどころではない。これこそ僕が望んでいたものだ。聞きたかった音だ、見たかった色だ。なんだ、望はまだ赤い声をしていたのだ。ひどく驚喜した。狂喜した。

犯されているようだ。体中が震える。寒くは無い。耳が熱い。ひどく熱い。

いつの間にか犬の鳴き声が止んでいる。部屋の中が妙に静かになっていた。

僕はふと、両耳を触った。滑っていた。

赤い視界の中で、望の振り上げた腕を見る。病的に白い腕に、青白い血管が浮かんでいた。その腕を伝って、何かが流れている。

再び視線を落とし、耳を触った自分の手を見た。その掌にはどす黒い赤が広がっていた。その赤は、瞬きをすると見えなくなった。音の色ではない、本物の赤が掌にはあるのだ。

望が笑っていた。無邪気とも取れる笑いだった。笑い声は聞こえない。部屋の中はいつまでも無音だ。赤だけが僕を支配する。

 望は手に持っていた鋏を床に投げ捨てると、自分のポケットからタバコを取り出して吸い始めた。

 青いタバコの箱には、ラテン語が書いてあった。

 来た、見た、勝った。

 僕はしばらく前に望と交わした会話を思い出して笑った。笑い声も聞こえない。本当に僕が笑えているのか、僕にはもはや確かめる術が無い。

 僕は久しぶりに感じた赤に溺れながら、恍惚と望を眺めた。これでこそ望だ。この赤こそが。

 意識が霞んでいく。部屋の中にタバコの煙が満ちる。雲に似ている。

 望が煙を吐き出しながらまた何か言った。

 僕は聞こえなくなった耳で、赤い声を聞いた。


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