ヤドリギ
久々の短編です。もうすぐ夏休みが終わります。始業式って絶望の始まりですよね。学校の門が地獄の門に見えてきますね。
ある日、あなたが宿題もやらずソファーに寝転がってボーッとしているとき、一人の男性が静かに駅のホームから線路に降りた。男性はしばらく片膝をたててしゃがみこんでいたが、電車のポァァァァァという間抜けな鳴き声が耳に入ると即座に立ち上がった。その男性は堂々と胸を張り、私は無敵だ。といわんばかりの表情で、まだまだ速度が出ている電車に潰されていった。潰された男性の堂々たる立ち姿などが一般人に気に入られ、【気の狂った男性】としてネットの一部で話題になった。
男性が奇行に走る数週間前。男性が寝室で寝ていると、一階のリビングから只事ではないような音が聞こえてきた。何枚ものガラスが次々に割れる音と聞いたことも無いような恐ろしい妻の叫び声。男性は心臓が破裂しないように手で胸で押さえつけながら、恐る恐るリビングのドアを開けた。
そこには信じ難い光景が広がっていた。妻が血まみれになっている。妻が自分の頭を食器棚のガラスの窓に何度も何度も打ちつけている。食器はどんどん棚から逃げて、床に粉々になって散らばっている。ガラスの窓には妻の額の血がついて、ガラスのヒビに染みて美しい模様を作り出していた。男性は何もできずに、畑に放置されたスコップのように只々立ち尽くしていた。ガラスの窓が割れて、普段あまり聞くことのない音が耳の中に響く。妻は涙を流していた。そして、割れたガラスの山の上に倒れかけた。男性は咄嗟に妻の体を支える。そのまま妻をソファーに連れて行き、取り敢えず出来るだけの手当をした。額から溢れ出る血はそう簡単には止まらず、諦めて救急車を呼ぶことにした。外からの青い光がカーテンの隙間から見えた。時計を見ると、ちょうど5時を指していた。
「なんでこんなことしたんだ?」
ガラスの欠片がカラッと音を立てた。
「・・・なんとなくかな。」
妻はいつもの調子でそう答えた。男性は謎の恐怖心を覚えた。
救急車内で医者に手当をしてもらい、いろいろアドバイスを受けた。きっと妻は夢と現実の区別がつかなくなっていたのだ。男性は自分にそう言い聞かせる。医者にはすぐに精神科に行くようにすすめられた。
翌日。二人共昼間の2時ごろに目覚めた。軽くご飯を食べ、すぐに出かける準備をした。昨日のことがあって、妻を健常者として見ることが出来なくなっていた。男性はそんな自分が恐ろしかった。最寄りの精神科は昨日医者に教えてもらった。車に乗って行ける距離だ。車内でも妻は普通だった。騒ぐことも暴れることもない。いつもの優しくてかわいい素敵な女性だ。頭に包帯を巻いていても、昨日のようなことはまるで想像がつかない。
精神科についた。とてもきれいなところだ。精神科というと気の狂ったような人が集まっているイメージがあってすこし抵抗があったが、全くそんなことはなかった。みんな普通だ。ここは眼科です。といっても違和感がないぐらいだ。問診票を渡された。妻は淡々と書き進めていく。そのうち順番が来て、診察室に一緒に入った。いろいろな話をした。昨日の事、普段のこと。しかし妻に特別大きな異常は見つからなかった。薬を出されたが、悪影響ならすぐに使用をやめるように念を押された。
その後も特に何もなかった。なぜあの日あの時妻があのようなことをしたのか、男性は今でもずっと疑問に思っていた。誰かに相談することもできず、一人で悩んでいた。
数ヶ月後。妻がトイレから出てこなくなった。一瞬の隙だった。男性が一人で最寄りのコンビニに行って、帰ってきたらこの様だ。男性は妻が何らかの事情で倒れているのでは無いかと考え、コインで鍵を開けた。ドアを開けようとするが、どうにも開かない、隙間はできるが暗くて何も見えない。名前を呼んでも返事はない。男性は工具箱をあさり、マナスドライバーを取り出した。でもすぐに自分の阿呆さに気づき、マナスドライバーをしまう。他の場所をあさって、やっとのことで良い物をみつけた。隙間に入りそうな棒だ。これでこじ開ければ入れるのではないか。すぐにトイレかの前に行き、棒を隙間に入れた。ちょうど入った。テコの原理でドアを開ける。開いた。と同時に棒も折れた。
中を覗く。暗闇に浮遊する小さな光があった。目を細めてよく見ると、蝋燭の炎だった。電気をつけてみる。床一面に赤い何かが散らばっていた。驚いて体が跳ねる。よく見るとそれは、美しい曼珠沙華だった。蓋を閉じた洋式トイレの、その蓋の上に、妻が正座していた。真っ白なワンピースを着ている。トイレの上の部分、種類によっては流すレバーを引くと水が流れる部分に大きめの蝋燭が置いてあった。蝋が溶けて床に流れ出ている。白い蝋の一部が薄れて何かが見えていた。赤い塊のようなものだ。さらに蝋が溶けて、それがなんだかわかった。爆弾だ。漫画で見るようなありがちな爆弾だ。蝋燭の火はどんどん爆弾に近づく。男性はわああああっと叫び、爆弾の火をすぐに消した。頭の整理がついていないのがすぐにわかった。妻はそんな男性を通り抜け、爆弾を抱えてブツブツ何かを言いながら外に出ていった。男性は膝から崩れ落ちて、頭を抱えて嗚咽した。
男性は妻を探す気力もなかった。ただ泣いていた。奇行に走る妻は何かに取り憑かれたようだった。あれは妻じゃない。男性はそう思い、曼珠沙華や蝋の後始末をした。
その後、男性は再び妻と精神科に行った。しかしここでも妻は、極めて健常だった。男性は必死に妻の信じ難い行動を医師に伝えるが、それは伝わらなかった。妻のことで精神科に来ているのに、まるで男性が患者のような扱いを受けた。
それからはほぼ毎週、妻の奇行が続いた。蝉の抜け殻を砕いてサラダにかけたり、大好きなはずのレコードを素手でベタベタと触って爪とぎにしたり、カーテンに大量の服やぬいぐるみを縫いつけたり、突然机を鋸で切ったり、夏なのに暖房をガンガン効かせて部屋をサウナ状態にした上に冬用の上着をきて毛布をかぶって笑い転げていたり。男性はもう心身ともに限界だった。
そしてある日、男性は家から逃げ出した。駅のホームに行った。目的は決まっていた。男性が静かに駅のホームから線路に降りた。男性はしばらく片膝をたててしゃがみこんでいたが、電車のポァァァァァという間抜けな鳴き声が耳に入ると即座に立ち上がった。その男性は堂々と胸を張り、私は無敵だ。といわんばかりの表情で、まだまだ速度が出ている電車に潰されていった。
妻はその知らせを受け、なぜ、どうして、と悲しみにくれた。いつもの家で一人になった妻は、涙を流して酒を飲み散らかしながらインターネットに夫の死に様を投稿した。その記事はたちまち話題になった。
妻はしばらくの間、「夫の死を悔やむフリ」を続けた。夫が自分の奇行を医者以外のだれにも相談しなかったことにホッとしていた。その後妻が奇行に走ることは無くなった。「最愛の夫を亡くしたが懸命に生きる可哀想な女性」を演じ続けた。もちろん妻が、自分の気が狂ったことにより夫の精神が崩壊し自殺に追い込む。という全て意図的な殺人を犯したことは、誰も知らぬまま、みんな妻に同情した。妻が意図的にガラス窓に頭を打ち付けたり爆弾を目の前に設置したりしたことをしらずに。妻は自分の思い通りになった人生を思う存分楽しんだ。夫の死を盾にして、思う存分楽しんだ。