父の記憶
昭和二十一年十一月三日。小森家では次男坊の誕生日で賑わっていた。つまり、僕の誕生日だ。
『ケーキなんて贅沢ねえ、あなた』
『特製だぞお。パン屋の和夫に作らせたんだ。やっぱりあいつは手が器用なんだな。雑誌のケーキを見せたらさ、上手い具合に作りやがった』
『ねえ、幾らかかったの?。材料費だって安くはないんだし』
『ははっ、タダにしてくれたさ。高志の誕生日祝いにってさ。奴も喜んでくれたんだ!』
『あら、そう。今度、お礼しとかなきゃね。よかったわねえ、高志。こんなに大きなケーキなんて、滅多に食べれないよう』
『ぼくの分わあ……?』
『お前の分もあるさ、欲張りだなあ強志は』
『ねえ、あなた。ローソクはついて無いの?』
『へっ?、ローソク……?』
『そうよ、歳の数だけ立てるでしょ?。普通』
『いけねえっ!、忘れてたよ。仕方ないなあ……』
そう言って父の持ち出したものは、仏壇から拝借した大きなロウソクだった。
『これで我慢しろ、なっ、二本には間違いないや』
『やだあ、そんなに大きいの挿せないでしょ!。だいたいみっともないわあ』
『そうか?、じゃあ、俺が持てってやっから、強志、お前あれをやれ』
『あれって?』
『ハッピバースデーってやつだよ、あるだろそんな歌が!』
『うん、わかった』
兄は、僕の二歳の誕生日に、大きく元気に歌を歌ってくれた。父は大きなロウソクを頭の上で振り、はしゃいでいた。
『さあ、高志!。火を消せ。ほら!』
『そんな大きな火、消せやしないわよお。やだあ、あなた』
『そっか……。じゃあ、強志、代わりにお前消してみろ!』
『うん!』
『一気に消すんだぞ。男だもんな!』
“プーーーッ!”。兄の見事な肺活量は、いとも簡単にロウソクの火を吹き飛ばした。
『さすが強志だ、やるなあ・・』
『えへへっ』
『光代、とっとと食わせてやんなよ、強志にさ』
『ちょっと待てよ、ケーキだけじゃないんだから。今日はね、お肉買ってきたの。とびっきりの牛肉よ!』
『おいおい、牛肉なんて贅沢していいのか?。俺の給料日って、まだまだ先だぞ?』
贅沢の許された家庭ではなかったけれど、精一杯、華やかな食卓だった。牛肉は、母の内職で貯めた、へそくりのお陰だった。
『こんなこともあるだろうってね、頑張ったんだから』
『そうか、すまんな。光代……』
『ほーら、たっぷりよそったからね。こぼさないように食べるのよ、高志』
『おいおい、無理だよ。高志には多すぎるだろうよ』
『何言ってんのよ、これくらいで根を上げてちゃ、男の子じゃないわよ。ねえ、高志―っ』
残念ながら、僕はこの頃の記憶を一切無くしていた。父の在宅なんてのも、その気配すら覚えてはいなかった。
『あのな光代……』
『なによ改まっちゃってさあ』
『うん、来月の町内の歌謡祭あんだろ……?。あれな、俺、役員にされちゃってさあ……』
『へえ、出来るのあなた?』
『まあ、段取りさえ判ればな、何てことないと思うんだよ。けどなあ……』
『けど?、どうしたの?』
『集まりが多くてさ。去年、担当した奴から聞いたんだけど。出費が半端じゃないみたいなんだ……』
『出費って、町内会費で賄うんじゃないの?』
『それがさあ、表立って使えないみたいなんだな……』
戦前から開催されていた、“歌謡祭”。町の繁栄と、町民の繋がりを重んじての一大行事だった。のど自慢の一般参加者もちろん、本業の歌い手を招いての本格的なお祭りは、隣町にも影響を与える程だった。
残念なことに、やはり戦時中は開催を控えざるを得なかった。しかし、戦後の復興を願う町民の声から、規模を拡大しての歌謡祭が昨年から再開されるようになった。
『でも、役員なんでしょ?。どうして持ち出しなの?』
『町内会費の私的乱用ってさ、随分前に揉めたらしい。戦前は平気で使ってたんだろうな、そのしっぺ返しが、作年からの収支に反映されたらしいんだよな・・』
『じゃあ、割り切った集まりにすればいいんでしょ?。なにもお酒に走ることでもないじゃないのよお』
『いやっ、そこがさあ、昔からの慣習って言うのかなあ……。集まる即、飲み会って図式が出来上がってるんだ』
『そんなの断ればいいのよ。悪しき慣習、撤廃ってさ!』
『そんな訳にはいかないだろ。新米の俺にそんな力なんてあるわけないじゃないか……』
『そうなのかしら?』
『そこでさ、ものは相談なんだけどね……。いやあ、明日がさ……』
『いくら必要なの?。どうせ断れないんでしょ!』
『ああっ、大して掛からないよ。そんなに要らないと思う……。武の店でやるからさ』
『武って、相沢の?』
『そう、あいつの店』
『何言ってるのよお!。あそこ、お寿司屋じゃない!。安くなんて上がるわけないでしょ!』
『あっ、ううん……。交渉は、してんだけどさ……』
『もーう。150円もあれば十分でしょ?』
『もち、お釣りが出るってもんさ!』
『もう、期待なんてしてないわよ……』
『いやっ、そうなんだって。武の奴、俺に相当世話になってるからな!。今回は、バシっと言ってやるさ!』
『そうだといいんだけどね。ねえ、高志。お父さんに言ってあげてよ、呑みすぎないようにってさ』
……。例え、僕の記憶が蘇らないにしても。間違いなく同じことを言ったと思う。“父さん、いい加減にしてよ”ってね。
役員の集まりに託けて、飲みたい酒にありつこうとする父を、それでも母は許していたんだと思う。きつい鉄工所勤めに根を上げずに、家族を守ってくれていた父は、最高の家庭人だったからだ。
『ところで、今回は歌わないの、あなた?』
『ああ、それどころじゃないしな』
『なんだあ、そうなの……』
『歌ったほうがいいのか?』
『そうね。出来れば歌ってもらいたいかなあ』
『そうか。じゃあ、交渉してみるか!』
『そうして!、ねっ、絶対、歌ってよお』
僕たちの父である小森靖志は、意外にも才能溢れる人物だったようだ。
熊谷に住み着くずっと前に、父は東京で歌手の仕事をしてたらしい。勿論、売れたためしはない。地方を回る巡業生活で、嫌気がさした。ただ、その一言が辞めた理由として伝えられたと聞いた。。
後にも先にも、これ以上の情報はなかった。
『ねえ、招待歌手って、誰が来るの?』
『緒方健一って、言ったっけなあ?。横須賀辺りでは結構評判らしいぜ』
『緒方?。聞かない名前ね、どんな歌うたってんの?』
『俺もな、あんまし聞いてないんだ。結構、若手の中でも有望らしいってさ。なんでも、上尾の出らしい』
『ふーん、そうなの』
『まだ16だっていうから。たかが知れてるさ』
『16歳なの?、まだ子供じゃない。でも、大したもんだわねえ』
『俺だって16で東京に出たんだぜえ!。ちっとは褒めて欲しいよなあ』
『あなたの頃とは時代が違うのよ。今時の子供ってね、辛抱が足りないの。親が甘やかし過ぎるんだわ』
『仕方ないさ、戦争で可哀相な思いをしたんだ。そりゃあ過保護にもなるさ』
『過保護ねえ……。まあ、家には関係ない話だけどね』
『そうかあなあ?。案外、他人事でもないんじゃないかあ?』
まさしく父の仰せの通り、僕たちは、いやっ、少なくとも僕は、浴びるほどの愛情に包まれていたと思っている。生憎、突然の父の失踪は、誤算だったけれど。
『明日、その緒方って若造も同席らしいんだよ。お手前拝見ってやつだな』
『だめよ、調子にのって絡んだりしたら。将来のある身なんだからね』
『心配するなって、ちょいと探りを入れるだけだよ』
その探りが癖もんだった。父は興味本位で口走ってはいたが、緒方という少年を目の当たりにした時、眠っていた父の本気が目を覚ましたのだ。
それは、武さんの店でのじゃれごとが発端となった。その
歌謡際の役員の一人が、酔ったはずみで父に絡んだ。他愛も無い昔話に、話が及んだだけのように見えた。
『靖っさんもさあ、あれだよ。もう一度っていうのかな・・、歌謡界に戻っちゃえばいいんだよ。あんだけの歌唱力だもんなあ。もったいないよお!。俺は、そう思うけどな・・』
『無理無理ィ。今更歌えっこないさ、素人自慢がいいとこだよっ!』
そんな父の謙遜に、今まで大人しく座っていた招待歌手の緒方が興味を示した。
『あのお・・。本業で歌っていたんですか、小森さん?』
『いやいや、歌うってほどのもんじゃないさ、余興程度だよ。あんまし大きくすんなって、なあ、武よお!』
『緒方くんさ、この男ただ者じゃないから。環境さえ恵まれてたらね、今頃は、きっと人気歌手の仲間入りだったよ!』
『ええっ、そうなんですか・・?。何を歌ってたんですか?』
『しがない流行歌だよ。ははっ、忍びないけどさ』
『よーしっ。靖っさん、一曲聴かせてくれよお!。あれだよお、あの曲。あんたの持ち歌だよお!』
『ええっ、ここでやんのか?』
『だってさあ、実際、歌えないだろ?。当日は、役員なんだからよ』
『靖志。せっかくだから、歌いなよ』
『そうだよ、遠慮なんていらないぜ!!』
『そうか・・。仕方ないなあ、ホントいいの?』
嬉しそうに、周りの気配を窺いながら席を立った父は、大きく深呼吸をした。さも、歌いたがっている様子が、辺りにも散らばっていた。
『小森靖志、この場を借りて失礼します!』
『はあ、靖志かあ?。一体なんだってんだよ……、お前!』
奥の座敷から長老たちの声が飛んだ。
『はい、一曲やりたいと思います』
『おおっ、そうか!。靖志よお、お前が出ない歌謡際なんてな、つまんないって言ってたところだ。はっはっ!』
誰しも父の歌声を待っていた。小森靖志の出番を待っていてくれたんだ。
『 “君が待つ丘 ”。小森ゆうじ、僭越ではありますが歌わせていただきます!』
『えっ?、ゆうじ……って、どういうことだ?』
ある長老の一人から疑問が口をついて出た。
『馬っ鹿だなあ……志の芸名だよ!、去年も説明しただろうがよ!』
『えっ?、そうだっけなあ・・』
『まあまあ、当人の俺に免じてさ、ここは穏便に頼みますよお』
そう言って周りを宥めた後、背筋をしゃんと伸ばして、父はゆっくりと目を閉じた。お腹の前に両手を当てて、大きく口を開いた。
“いつかしーらー、待つことにー、なれてしまったあーー。夕暮れのー寂しさがあー、紅く染まるうーーっ。そこにわあーー、居ないはずの君いーー、たそがれが甘くうー空をそめーーるうーっ・・・・”
“君が待つ丘”は、父の思い出の歌だった。それもそのはず、本業の歌手として与えられた、最初の楽曲なのだから。