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家出  作者: GUN
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一夜明けてから


それから夫婦鮨を出た僕たちは、酔った兄を抱きかかえて、キャッツの二階へと運び込んだ。

『お父さんと一緒ね……。まるで一緒』

孝子さんは兄の髪の毛を撫でながら、膝枕で兄を寝かしつけた。

孝子さんの腹部に顔を寄せる兄は、仔犬のように無邪気だった。

『高志くんさあ、お父さんのこと覚えてる?』

『あんまり覚えてない……。写真でしか知らないよ。しかも堂々と見れないんだ。お母さんの目を盗んでさ、こっそり箪笥の奥からアルバムを出してさ……』

『そう、お母さんも見てたと思うわよ。あの人を忘れられる訳なんてないもの。寂しかったのよ……』

『でも、一言もそんなこと言わなかったよ。お母さん全然、そんな素振りなんて』

『女なのよ、お母さんだって。立派に一人の女なんだから。好きになった男のことを、そう簡単に忘れられるほど、強くないんだから』

『孝子さんんもそうなの。お父さんのこと、忘れていないの?』

『忘れたいわ。出来ることならね……』

裸電球に照らされた孝子さんの寂しげな顔と、今まで決して弱さを見せなかった母さんの顔が、重なって見えた。お父さんは、嫌われてなんかいなかった。今でも、必要とされていたんだ。


『孝子さん、どうしてお父さんと別れたの?。ねえ、どうして』

『あの人の方から、離れて行ったのよ。わたしに迷惑がかかるってさ……』

『病気だから?、お父さんガンだから?』

『それもあったんだと思う。でもね、本当は家に帰りたかったのよ。あんたたちの処へ、あの人……』

『どうして?。だって、僕たちを、お母さんを捨てて出ていったんだよ!。そんなの勝手じゃないか!』

『そうよね。それじゃあ、都合よすぎるものね』

『そうだよ、今更、父親だって会いに来られたって、そんな簡単にいかないよ!』

『えっ?、だって、あんた達の方からお父さんに会いに来たんでしょ?。それなりの覚悟があってもいいはずよね?』

『お兄ちゃんは、覚悟出来てると思う。でも僕は、どうしていいか判らないんだ。お母さんだって、お兄ちゃんの行動が心配で仕方ないんだ。お父さんから慰謝料をせびるんだって、聞き分けのないことばっかり言ってるから』

『慰謝料って?。そんなこと言ってるの?、この子……』

一瞬、呆れたように孝子さんは、兄の寝顔を見入った。


『雑なようだけど、変なところに執着するのよね。あの人にそっくり、もう、嫌になるほど、似てるのね』

滲み出る孝子さんの言葉には、切なさの反面、僅かな嬉しさが付きまとっていた。

それっきり孝子さんは、殻に閉じこもったように無口になってしまった。それからしばらくは、互いに無言のまま沈黙の時間が続いた。兄といえば、相変わらず孝子さんの膝の上で、黙々と眠り続けていた。

昨日から、思うほど眠れていない僕は、いつの間にか兄の傍で横になっていた。

窓の外を薄っすらと滲ませた来光が、僕たち兄弟の今日一日を、按じてくれているかのようだった。

『んっ……。孝子さん?』

目を覚ました僕は寝汗を拭いながら、おぼろげに部屋の中を見渡した。けれど、孝子さんの姿はやはりここには無かった。

しばらく注意深く耳を澄ましていると、階下で何やら気配がしていた。それは、我が家の朝に聞き覚えのある、台所の奏でる目覚めの合図だった。


『お味噌汁……?』

美味しそうな香りが部屋中に充満していた。

『うん?、味噌汁の匂いかあ……』

見事な嗅覚の持ち主が、おもむろに半身を起こした。あれだけ喰って呑んだにもかかわらず、底知れぬ兄の胃袋は、すでに次の収穫を待っていた。

『起きたんだ、お兄ちゃん』

『ふうっ。起きたらまずいのかよ?、あん?』

『死んだかと思ったよ。あん時!』

『ああ……、あの鮨屋のことだろ……』

『さっきまで騒いでたと思ったらさ、急に“こてん”って動きもしないから、心配したんだよ!。覚えていないの?、お兄ちゃん』

『はあぁっっ。よくあることだ、気にするなよ。お前もいずれは経験するさ』

酒に酔う大人を、僕は断然好んではいなかった。それと言うのも、町内会の寄り合いでのお決まりのおじさん連中の醜態ときたら、大人社会を否定したくなるほど、目に余る光景だったからだ。

家に帰る足の、何ともおぼつかないおじさんたち。それにも増して、迎えに来たおばさん連中の罵声の数々。それに巻き添えをくったが最後、救急隊員のごとく働かされていた。

お酒の席で、何度も懲りずにその様を見せる大人たちを、軽蔑したいくらいだった。


『この部屋まで上げるのに、大変だったんだよ。お兄ちゃん、だらりとしてたから』

『まあ、そう言うな。こう見えてもな、実は反省してんだよ……』

『本当かなあ?』

“タンタンタンッーーー ”リズミカルに階段を上がって来る足音は、孝子さんのものだった。

『ねえ、起きてるう?』

ひょいと顔を覗かした孝子さんは、満面の笑みで僕たちを見ていた。

『夕べ大変だったんだから。強志……』

『ああ、世話になったなあ。礼を言うよ』

『あれ?、どうしたの。今朝はやけに素直なのねえ』

『一宿一飯の恩義だよ。それくらいは、心得ているさ。いくら、おれでもね』

『へえ……。社会勉強してるんだ、どうりで達者なはずよね』

『まあな……』

『朝ご飯出来たから、さっさと顔洗って降りて来てよね。お味噌汁冷めちゃうわよ』

そう言って孝子さんは、階下へと戻った。

『お兄ちゃん。孝子さんって、どこかお母さんに似てない?』

『……』

反論をしない時の兄は、半分が肯定で、もう半分は思案中らしかった。


『ねえ!、早く降りて来てよ。何してんのよお!』

『あっ、はーーい』

カウンターに配膳された朝食は、焼き魚と玉子焼き、ひじきに胡麻の和え物。そしてお茶碗一杯に盛られたご飯。熱々のお味噌汁は湯気を立てていた。

『さあ、召し上がれ』

得意気に孝子さんが号令をかけた。

どれを取ってみても絶品の味付けに、兄も僕もひたすら箸を走らせた。お味噌汁にいたっては、正直、お母さんのそれを超えていた。

『おかわり!』

兄は瞬時にお茶碗を空けた。それは気持ち良いほどの喰いっぷりだった。

『ゆっくりお食べなさいよ、誰も取りはしないわよお』

『美味いものは即刻、胃に運ぶ。おれの流儀さ!』

『それも、あの人の受け売りなの?』

『ああ、そうかもな。忙しない食べ方で、お袋に言われたことがあるんだ。誰かさんにそっくりってさ……。その後お袋、ばつの悪そうに取り繕ってはいたけどなあ。あの人のことだったんだよな』

『ねえ、強志。どうしても許せないの、あの人のこと』

『ああ、許せるもんか』

『あの人の本当のこと、知ったとしても?』

『何だよ、本当のことって?。まだ、隠し事があんのか、あんた?』

『隠し事って、どういう意味よ……』

『あの人とあんたが、どういう関係だろうと、おれには全く意味を成さない。男と女の、行き着く場所なんて決まっているしな。おれの知りたいのは、あの人がどうやって過ごして来たかなんだ。罪の意識はあったのか。それとも……』

箸を止めた兄は、話を途中で断ち切った。もっと言い足りないことがあるはずなのに。


『それとも、何なの……?』

『いいや!、それよか、おかわり!。大盛りで頼むよ!』

『まったく、調子の良い子ねえ』

『でっ、どこの病院に行けばいいんだ?。知ってるんだろう、あんた』

『えっ、病院……』

『そうだよ、入院しているんだろ?。夕べ言ったこと忘れたんじゃないだろうな、孝子さん?』

『ああ……。病院って、確かに言ったわよねえ……。でも、本当に病院に入ってるかどうか、わたしにも判んないのよ……』

『無責任だなあ!、それでいいのかよお?』

『無責任なのは、あの人の方じゃない!!!』

『……!』

孝子さんは兄に向けて、まるで怒りをぶつけるように叫んだ。

『どうしたの?、孝子さん。お父さんと何かあったの?』

『ううん……、ごめんなさいね……。あの人、うちの店のツケが残ったままだったから、つい……』

少し間を空けてから、孝子さんは子供じみた嘘を搾り出していた。

『ツケか……。幾らたまってるんだ?』

『いいのよ、大した額でもないから……。気にしないで、それより、お味噌汁冷めちゃったね。入れ直そうか?、高志くん』

『大人って、嘘は平気なんだ。孝子さんは正直に喋ってくれると思っていたのに、やっぱりいい加減な大人なんだね……』

『高志、大人に例外ってあるもんかよお!。皆、自分を守ることで精一杯なんだよ。別にこの人が特別悪いってことにもなんないさ』

『だって……』

『親父がいい見本だろ?、自分勝手に生きることに、周りなんて関係ないってことだ。おれ達家族なんて、あの男にとっては、ただの通り過ぎくらいのちっぽけなもんだ』

得意の兄の開き直りが、孝子さんとお父さんの関係を、いや、ずるい大人たちを否定し始めた。

『そんな大人たちに、ぶら下がっているおれも情けないけどさあ……。まだ、可愛いもんだぜ。なあ、高志!』

『うん、そうだね』

絶妙な二人の掛け合いが始まっていた。そう、相手の言葉を誘い出すための、芝居に違いなかった。


『今日帰ろうぜ、高志。鎌倉くんだりにまで来て、何の収穫もなかったよなあ!。ああ、昨日喰った鮨代、払わないとなあ……。ねえ、幾ら?』

兄はポケットにしまい込んでいた、伯父から預かった三千円を取り出した。

『ねえ、幾ら払えばいい?。ついでに、朝飯代も一緒でいいぜ』

『本当に帰るの?。ねえ、あの人に会わなくていいの?。後悔しない?』

『だったら、正直に話せよ!。あの人に会わせろよお!!』

『判った……。その前にね、話しておきたいことがあるの。聴いてくれるかしら』

もったいぶったように、孝子さんが付け加えた。

『ああ、いいぜ。何でも聴いてやるさ』

兄は腕を組んで、臨戦態勢に入った。僕は残りかけのお味噌汁を全部口に詰め込み、コップの水でお腹へと流し込んだ。


『あの人が、家族を捨てた理由はね、そう簡単でもなかったのよ……。勿論、家族を捨てるのに簡単もなにもないでしょうけど……』

カウンターの上のタバコに手を付けた孝子さんは、金色のライターに火を点けると、相変わらず揺らめく火をしばらく眺めて、タバコに火を入れた。


『確か……、昭和二十一年頃って聞いたかしら……』

うろ覚えの記憶を辿りながら、孝子さんは話を進めた。

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