父の足跡
『放っておけなかったのよ、あの人。可哀そうで……』
そう切り出して、父との想い出を噛みしめるように、孝子さんは喋り始めた。
『5年前だったわ……。あの人、酔ってこの店に入って来たの。もう、手のつけられないくらい酔っ払ってたわ。よく見るとさ、鼻血を拭ったあとがあってね、白いシャツの所どころが赤く沁みになってた。顔も腫れていたしね』
『けっ!、喧嘩かあ……。どうしようもないじゃん!、あの野郎っ!』
『もう……。黙って聴こうよ、お兄ちゃん!』
鮮明に残っている残像をまるで懐かしむ様に、彼女の言葉は流暢になった。
『何故、わたしの店に来たかなんて、本当に覚えてなかったのよ、あの人……。なんだか馬鹿みたいでしょ!。けどね、あの人が最初に言った言葉は、忘れられないんだ、あたし……。あの人仰向けになってさ、そうっ、丁度この辺にね、大の字になってた。意味不明なこと喚きながら、当分騒いでいたわ。他のお客さんも気持ち悪がってさ、もう、その時間から商売にならなかったわよ、ホント。お客が逃げて静かになったと思ったら、今度は、急に気持ち悪いって言い始めたの。慌てて洗面器を取りに行ったんだけど。もう間に合わなくてさ、そこいら中垂れ流しだものね。何度、警察を呼ぼうって思ったか知れないわ。ふっ、でもね……。仕方ないから、おしぼりであの人の顔を拭いてあげたの。そしたらね、誰かの名前を呼んでたの……。“光代、光代ぉっ!、水をくれっ”ってさ……』
『えっ!、父さんそう言ったの?』
『あんた達の、お母さんの名前でしょ?』
『ああ……。そうだな、間違いない』
『挙句のはてにさ、あたしの胸にしがみ付いて泣き始めたの。子供みたいにさ……。あんな大きな図体で抱きつかれてみなさいよ、そりゃ、大変なのよっ!。だって、支えきれないんだもの』
何だか楽しそうに喋っている孝子さんは、いつしか兄の顔ばかりを見ていた。
『力自慢のあたしだけどさ、全然、歯が立たないの!。仕方ないからね、子供を寝かしつけるようにさ、しゃがみこんだまま、あの人の頭を撫でていたの。静かだったからさ、寝息が聴こえるのよね……、あの人の。ああっ、他人の寝息なんてさあ、もう、何年も聴いて無いでしょ!。あたし』
孝子さんは、随分長く独り暮らしが続いていたみたいだ。訊きもしないのにすらすらと、彼女の履歴が披露されていった。
『独身生活の長い女性ってさ、やっぱり、男欲しいの?』
『そりゃあ欲しいわよっ!。誰だっていい訳じゃないけどさ……、実際、欲しいのよ。隣にいてくれる誰かが、欲しくて仕方ないものなの……』
『はーん。なるほどねえ、それが、あいつって訳か……』
『あいつって言わないでよ!、もうっ!』
そう言いながら孝子さんは、カウンターの中に入り込んだ。
『高志くん、ジュースでいいわよね?』
『うん、何でもいいよ』
『強志は何がいい?』
『うーん、そうだな。ジョニ黒かなあ』
棚に並んだボトルを眺めながら、兄は知ったようにオーダーした。
『まあ、贅沢ねえ!。普段からそんなの呑んでんの?、あんた』
『呑んでる訳ないだろ!。いつもはトリスさ、しかもソーダ割り。あっ、ロックにしてね!、ダブルがいいや』
まるで慣れた常連客のように、兄の大人びた会話が、僕にはとても不思議な感覚だった。さすがに、大人社会をかじっただけのことはある。真面目な学校生活だけが、正しい十代の過ごし方なのだろうか・・?。ふと、僕は考えてしまった。
だって、目に前に座っている兄は、とても格好良かったからだ。
『はい、お待たせ。じゃあ、乾杯!』
孝子さんは、ビールを片手に兄のロック・グラスと親睦を交わした。
“カチンッ”いい音色とともに、兄が一気にグラスを空けた。
『プハーーッ!。たまんねえなあ・・。やっぱ、黒は美味えや!』
『まあ、大丈夫なの?。そんなんで』
『もう一杯、おかわり!』
『まるで不良少年なのね、強志は……』
『違うんだなあ。おれはね、若くして社会経験が豊富なだけだよ』
勝ち誇ったように兄は、屁理屈を並べていた。それに対して孝子さんが、ちょっとだけ呆れて応えた。
『へえ、ものは言いようね』
『だってそうじゃないか、大人の準備を始めて何が悪いんだ?。そのための思春期だろ?。俺たち』
『物事にはね、秩序ってもんがあるの。それを無視してさ、世の中は成り立たないの。大切なことよ』
『ふーん。あんたも、他の大人と同じ種類なんだな。そうやって、諭すようなこと言ってさ、結局、決めつけてるんだ』
カウンターに肘をついて、あからさまに失意を見せた兄だった。
『ごめんね、そんなつもりで言ったんじゃないのよ……。そうよねえ、こうやって未成年に酒を出してるなんて、秩序どころじゃないわよね。あたしも・・』
『そうだろ?、いい加減なんだよ大人社会ってさ、いつも都合のいいことしか見ちゃいないんだよ!、勝手なんだよ!』
『でもね、そう言うあんたもずる賢こくない?。そんな勝手な大人たちに、要領良くぶら下がっているんでしょ?』
『……』
『ねえ、高志くんは優等生なのかな?』
兄の撃沈を確認してから、孝子さんは僕に話を振った。
『ええ?、優等生って……』
『ああっ、こいつは真面目だけが取り得でさ。学級長ばっかやってるんだぜ。なんたって、将来は博士か大臣ってところさ。なあ、高志!』
『勝手に決めつけないでくれる。僕だって考えるところはあるんだし』
『ほらあ、ねっ、真面目だろ!。こいつ』
自分に向けられた体裁の悪さを回避するためにか、撃沈したはずの兄は調子よく、いとも簡単に僕の将来をなぞった。
『へえ、お兄ちゃんとは対照的なのね、高志くん!。なんだか楽しみだわあ!』
『興味本位で言ってもらっても、僕には迷惑だよ。誰も僕の一生なんて保障してくれないんだからさ』
『高志くん……、ごめん』
そんな無責任な発言に責任を感じたのか、一瞬、孝子さんは消沈したように見えた。
『高志!、あんた、彼女なんていないでしょ!。そんな気難しい顔してちゃさあ、それどころじゃないもんねっ!』
『えっ……?』
『ほら、図星!。真面目過ぎるのよ高志くん。もっとくだけなきゃさあ、今時の女の子なんてついて来ないわよ!』
なんだ……。見せ掛けの消沈は、孝子さんの十八番のようだった。場を盛り上げるための手法に、僕もまんまと網に掛かってしまった。
『でも、芯はあると思うのよね、高志くんはさ』
大人の女性は、七色の声を持つって聞いたことがある。その場の雰囲気で、瞬時に声色を変えるらしい。けれど、声の変化は特段珍しいことでもなかった。
僕の家の近所の猫たちでも、季節毎に鳴き声を変えている。高く低く、艶のある鳴き声で相手を誘うのだ。
でも孝子さんのそれは、猫の比ではなかった。彼女自身から迸る霊的な雰囲気、怪しい目線。まるで目を操られるかのような仕草。酒の力を借りたにせよ、どこまでも妖艶でそれでいて親しみを感じてしまう彼女の特異性に、僕には父さんの心が、読めたような気がした。
『父さんは、どんな言葉をかけたの?。孝子さんに、なんて言ったの』
僕の話題の落ち着き先なんて、どうでもよかった。何故なら、父さんを求めてここに来たのだから。
『ちょっとお……。いきなりじゃ、ずるくない?』
『だって、そのために来たんだよ!。鎌倉まで』
『高志さぁ、時間はあるって。ゆっくりと語らい合おうや、これが大切なんだぜえ』
酔いがまわってきたらしく、兄はまったりとロック・グラスを眺めていた。
『時間なんてないよ!。結局、父さんには会えなかったじゃないか!。だから……、今日中に帰ろうって言ったじゃないか、違うの!、お兄ちゃん』
『仕方ないじゃないかよ・・。帰りの電車はもう、時間切れだったんだからよ・・』
確かに、高崎に経由する東京行きの最終電車は、すでに走り去ったあとのようだった。鎌倉駅の階段を駆け上がった兄が、そう伝えてくれたからだ。
『何時の電車に乗る予定だったの?。結構、遅くまであるはずよ』
『だって、お兄ちゃんがあの時確認してたもん。もう、電車は無いって!』
『いい加減なのね……、強志って』
『いやっ、おれもさあ考えたんだよね。このまま帰っていいかなってさ……。でも鎌倉まで来たんだから、会わない訳にはいかなかった。何日掛かっても、あの人の顔を見なきゃ気がすまないってね。そう思った』
『じゃあ、最終電車の話は嘘だったの?』
『おまえがさ、だだをこねるからよ……、帰る振りをしたんだ。そうでもしないと収まらないだろ、おまえ!』
『ひどいよ!、お兄ちゃんひどいっ!』
『会いたいんだろ?、高志。おまえ、親父に会いたいんだろ?。だから着いて来たんだろ!』
『……。だって……』
『だってもくそもないだろ!。おれは会う!、絶対、会ってやる!。会って言ってやるんだ』
会ってやると強く言い放った兄だったが、そのあと、何故か言葉が続かなかった。
『会って何て言うの、あの人に?。ねえ、強志さ』
『……。ああ、まだ考えてなかった……』
『はあっ、ホント、いい加減なのね、あんた……。まるであの人を見てるみたい』
『ちっ、一緒にすんなって!』
『まんざら悪くもないんじゃないの、父親似っていうのも』
『これが普通の家庭だったらね。おれも文句なんて言わないさ』
『ねえ、孝子さん。お父さんって、どうして孝子さんを選んだのかな?』
『そ、そんなことっ……、当人に訊くもんじゃないでしょ!』
顔を幾分紅らめた孝子さんは、はぐらかす様に話を続けた。
『ここに住み着くようになってさ……。しばらくしてから、やっとあの人、言ってくれたのよ。俺は家族を捨てたどうしようもない男だって。どこに行っても、馴染めなかったって』
父さんは、この町でも厄介者だったに違いない。家を離れて暫くは、各地を転々としていたみたいだし、定職もなかったらしい。
ここ、“キャッツ”に立ち寄ったのも、ほんの気紛れにすぎないのだと、彼女は続けた。
『家を出てからね、当分は横浜で働いていたんだって。土建業や、酒屋の配達。そして新聞の集金でしょ、それから、たい焼き屋と、パチンコでしょ……。えっと、確か、警備員を辞めてから……』
『もういいよ。そのへんで止めとこうぜ……。結局さ、ちゃらんぽらんな男だってことは間違いないようだし』
『短期がいけないのよねえ。普通にしてれば見掛けだっていいし、口は上手だし。文句の付けようがないのにさ……』
『まるで、誰かさんみたいだ。ねえ、お兄ちゃん!』
『誰かさんって、誰のことだよ?。まさか、おれのこと言ってんのか高志!、この野郎っ!!!』
『だから……、短期はいけないんだよお、強志ィ』
『だーーっ!、話を戻そうぜ、もっと話をしてくれよ。なあ、孝子さん!』
父親に似た自分の気性を恥じていたのか、それともそんな父が懐かしく思えたのだろうか、兄の顔は、充分に穏やかだったように思えた。
それからは、とにかく僕たちの知らない父の話で時間を過ごした。
孝子さんの中に詰まっていた小森靖志という男は、アルコールと煙草の煙の中で、ものの見事に再現されていった。
午後9時をまわった頃だろうか、孝子さんが急に声を上げた。
『やだあ、そういえば夕食まだだったわよね!。あんたたち』
『はあっ。やっと気づいてくれた。今晩はつまみで終わりかと思ったぜ……』
孝子さんの声に合わせて、安堵の声を兄が伝えた。
『言ってくれればよかったのに』
『だってさあ、あんた夢中になって話てたじゃんか。なんか、途中で割り込むのは悪いかなってさ……。なあ、高志!』
『孝子さん。僕、もう限界だよ。なにか食べさせて……』
昼間にたっぷりと肉を詰め込んだ兄は、まだ余裕だったかも知れないけど。僕はといえば、豆菓子とサイダーだけ。すでに、瀕死の栄養失調症の予兆を見せ始めていた。
『ごめんね、高志くん。そうだ、美味しいもの食べに行こうか?』
『美味しいもの?』
『何がいい?、何でも言ってよね!。遠慮なんて駄目よ!』
『……。肉以外なら、なんでもいいけど』
『ええっ、高志くんお肉嫌いなのお?。今時の子が、珍しいこと言うのねえ?』
昼間のアラジンがいけなかった。嫌というほど皿に盛られた肉を目の前に、数口しか詰め込んでいない僕でも、肉の焼けた匂いと、あの油のしたたる光景がいつまでも鼻についてしょうがなかった。
『おれは、肉でも何でもいけるぜ!』
昼間の暴食はどこ吹く風。大食で、しかも食べ盛りの兄の胃袋は、きっと野生動物さえ凌駕してしまう。そう思うしかない、そんな呆れた言葉だった。
『そうか。じゃあ、お鮨でもどうかな?。近くに美味しい店があるのよ』
そんな孝子さんの言葉に従って、僕たちの座談会は、一旦、中断することになった。店を出て歩き出すとすぐに、孝子さんの言う鮨屋の暖簾が見えた。
『ホント、遠慮なんてしちゃ駄目だからね!』
店の前で孝子さんが、繰り返し念を押してくれた。その言葉は、もちろん僕に対してのものだった。
『そうか、遠慮は失礼になるよな。そうか……』
無神経な兄は、目先の鮨に理性を失いかけていた。それでなくても酔ってしまっていて、物事の分別なんて曖昧になっているはずだ。
“夫婦鮨”の暖簾をくぐり、孝子さんが上品に扉を開けた。
『へい!、いらっしゃい!!』
すぐに威勢のいい声が、僕らを迎え入れてくれた。
『大将、相変わらず元気ね!』
『おお!、子猫ちゃんのお出ましかい、こりゃ珍しいねえ!』
『なに言ってんのよお、先週来たでしょう?』
『孝ちゃんはいいんだよお。お連れの客人のことさ。まさか、隠し子のお披露目かい?』
『やだあ、そんな訳ないじゃないわよ。親戚の子供たちよ。どう?、いい男でしょ?。二人とも』
『へえっ、どうしたもんかね。まるでさ、ジェームス・ディーンの再来かと思ったよ。ようこそお兄ちゃんたち、どうぞ、突っ立ってないでさ、ここに座んなよ』
空いている席を指差しながら、店主が豪快に僕たちを誘い入れた。
『案外、いい店だな』
『おやおや、そんな言い方はないだろうよ、お兄ちゃんよ!』
また余計なことを言ってしまった。ここでも、兄の悪い癖が出てしまうのだ。
『ごめんね、松さん。そんなつもりで言ったんじゃないのよ、生意気な年頃だから、ついね!』
『生意気で悪かったな。これが、おれの証さ』
『兄ちゃん、酔ってんのかあ?』
『松さん!、ごめんねえ……。ついさっきまでさ、うちの店で飲んでたの』
『未成年だろ?、酒を提供しちゃ、駄目だろうよ。お上にたて突くと、ろくなことになんないよ!』
『大丈夫だよお、大将。おれね、もう働いているからさ。大人みたいなもんだぁ……、遠慮なく飲ませてもらうよぉ』
“未成年者飲酒禁止法”も、この当時の大人たちには認識は甘かった。中学を卒業して働き手となる子供の大半は、まさに社会の原動力となっていた。“金の卵”とあがめ立てられる、そんな時代だった。
『そうかい、そりゃあ立派だ!。俺にもあったよなあ、そんな頃がねえ。学校なんて行ってる場合じゃなかったもんな……、何かあれば家の手伝いってさ、よく学校もさぼらされたよなあ……』
『生活に必死になってたわねえ・・。どこの家も』
『けどねえ、いい時代だったよ。人が温かかった。とにかく情に甘えられた頃だったよなあ。まあっ、戦争が始まる前までだけどね』
『そうなのよねえ……』
大将と孝子さんは、申し合わせたようにしんみりとしていた。戦前の頃の話なんて、僕たちには縁遠い御伽噺のように聴こえていた。
『さてと、なにを握ろうかね、お兄ちゃん!』
『玉子焼き!』
『あれぇ?、欲がないねえ。マグロだって、鯛だって売るほどあるんだよ。まさか、遠慮なんてしてんのかい?』
『いいから、玉子だしてくれよぉ。味見がしたいんだ』
『へえっ……。ただのきかん坊かと思ったら、こりゃまた大したお方だ。ねえ孝ちゃん!』
『そうでしょう?。まるで子供扱い出来ないのよ。どんな生活してたのか、想像もつかないわ』
鮨屋で玉子焼きなんて、僕には意外だった。当然、高級魚の握りを注文すると思っていたからだった。
『玉子焼きって、そんなに高いの?』
『そんなにって言うほどじゃあないけどよお、鮨屋の玉子焼きってさ、技量を問われるんだよなあ。最近じゃあ、玉子焼きは仕出し屋からとってる店も珍しくないんだ。それだけ手間が掛かるって代物なんだよ。まずい玉子を焼く店は、ろくな鮨は握れねえってねえ。江戸前の鮨屋では当たり前さあ』
『江戸前って?、どう言う意味なの・・?』
『おやおや、勉強熱心な子だねえ。それは兄きに訊いたほうが賢明だな!』
そうやり過ごしてから、大将は鮨職人の顔に戻った。
『ねえおにいちゃん、江戸前ってどういう意味?』
『江戸前ったら、江戸前だよ……。大昔からの、東京の調理方法だ。えっと、大将っ!、酒っ、冷でお願い!』
『はいよ、冷ねぇ。銘柄はどうする?』
『吟醸だったら、なんでもいいよ』
『はあ……。この兄ちゃんただ者じゃあないねぇ……。吟醸ってきたもんだ、今時の大人だって、こうはいかないよ』
『ごめんね、松さん。とんでもない子連れてきたわねえ……』
『孝ちゃん、あんたの甥っ子て、何者だよ!』
『小森の……、息子なの二人とも……』
『ええっ、靖志のかい!?』
驚いて手を止めた大将は、改めて僕たちの顔を見回し始めた。
『ああっ!、言われてみればそうだな。特に兄ちゃんなんて、目元そっくりじゃないか。それにもまして、さっきからの生意気な口の利き方なんてよ、あいつそのものだよお・・!』
『なんでもいいからさぁ。冷やちょうだい』
『ああ、待ってなよ。極上のやつ入れてやっからさ』
嬉しそうに大将が、まだ未開封の一升瓶を抱えて、はしゃぎ始めた。
『広島の加茂鶴酒造だ、知ってるか?』
『いや、知らない』
『伏見、灘に次ぐ銘酒の産地だよ。知らないのかあ?』
『全然、知らないねえ』
『そうか、知らなきゃしょうがねえなあ……』
『とにかく、入れてよ。コップでいいからさ』
『ああ、そうだな……』
兄のそっけない態度に落胆してか、渋々、栓を抜いてから躊躇した様子で、兄の前にそれを差し出した。
『俺のとっておきの酒だ。まずいなんてぬかしてみろ、ただじゃおかないぜ!!』
そう言って、コップ一杯に酒を注いだ。
『ありがたい……』
今にもこぼれそうな酒に、兄は口を寄せ、啜るように舌に乗せた。
『うんっっ、美味いっ!』
『だろっ!、美味いよな、そうだよなあ!!』
『だれてなくて、芯のある辛口だな……。それに、含んだ時の香りも郡を抜いてる。さすが、広島西条の地ならではの逸品だよな』
『な、なんだよっ!、西条ってよお、知ってんじゃねえか!。兄ちゃん!!』
『当り前だろ。西条の酒抜きで、吟醸なんて語れないだろうよ?。大将』
まるで品評会の審査員のような口調は、周りの客の注目を浴びていた。
『お前、名前は?』
『強志だ。小森強志!』
『強志かあ。いい名前だなあ。よっしゃ、どんどん喰って、じゃんじゃん呑め。今夜は、俺が面倒見てやっからよ!』
『大将、玉子焼きまだ?』
『いけねえ!、忘れてたよ。へへへっ』
上機嫌の大将は、僕たちの目の前に、食べ切れないほどの鮨を並べてくれた。兄は調子に乗って、大将の取って置きの一升瓶を、ついに空にしてしまうまで呑み更けた。