ジョー片桐と、絵梨という女
数秒間の沈黙が続いた時だった。
『おーーいっ!、ここの席が空いてるよ。良かったら来ないか!』
店の一番奥のテーブルから、予期せぬ声が掛かった。
その声の持ち主は、浅黒い精悍な顔立ちで、派手な色柄のシャツを身にまとっていた。
まるでお伽の国からやって来たような、不思議な格好をしていた。
『充ちゃん、やめときなよ』
隣で迷惑そうに、連れの女性が呆れていた。へんちくりんな、白い枠のサングラスを右手にぶら下げて、しかも金髪の凄さって言うと、獅子舞を遥かに超えていた。
『いいじゃんかよ!、困ってるんだろ。あの兄弟』
『あいやっ、片桐様。ご冗談を……』
小太りの支配人らしき男が、派手男の傍に歩み寄っていた。
『山手さん!。いいからここに呼んでよ。あの二人』
『あっ、そうでございますね。はい、かしこまりました……』
山手という支配人らしき男は、暑くもないホールの中で、やたらと汗を拭いながら、僕たちの方向に進んで来た。
『あっち!……。行ってよ、早く!』
兄の放り出した荷物を手渡しながら、目線を下げたまま不本意な動作で、兄のシャツを引っ張った。
『おい、もう一度言うぞ。おれ達は、客だ!!』
山手という支配人らしき男の顔の前に、兄は鼻を突きつけるかのように接近して、勝ち誇ったように言った。
『ぬぬっ……』
みすぼらしい小僧に悪態をつかれた挙句、客として招かなければならない不条理に、額からは大粒の汗がこぼれおちていた。
『高志、入れよ。遠慮なんていいからさ!』
周りの客の目線なんて気にもせずに、兄は、派手男の座るテーブルへと向かった。
その後を遠慮がちに着いて歩く僕は、少なからず、場違いを痛感していた。
『座んなよ!。遠慮なんてしなくていいんだぜ』
『ふーん、良い席じゃんか』
派手男の計らいに礼を言う訳でもなく兄は、満足気に腕を組んだ。
『どうした、座んなよ』
『ああ』
“ドサッッ!”。遠慮なんて知らない兄は、荷物ごとソファーに蹲った。そして、得意の無礼を披露した。
『あんた、ここの社長さんか?』
『社長なもんか・・、ただの客さ』
『ただの客にしては、おれ達とは雲泥の差だよね……』
『当ったりまえじゃんかよ!、金持ってるしよ、俺!。お前らみたいにしょぼくれてなんかねえぜ!』
派手男の言葉に、僕は気が気じゃなかった。何故ならば、兄の一番嫌いなタイプだったのだ。その傲慢な態度が。
『……。だよねえ!、そうだよ、その通り!!』
長い物に巻かれた兄を、僕はこの時初めて見た。いいや、きっと打算が先行したに違いない。
『それにしても、臭い芝居打ちやがったなあ。お前ら』
『判ったぁ……?。へへへっ』
『度胸は認めてやるぜ。こんだけの大勢の客の前で、中々、出来るもんじゃないさ』
派手男があっさりと、さっきの芝居を見抜いていた。
『肉喰うか?』
『もちろん!』
『弟くんは、どうする?』
ソファーに座れないままの僕に、派手男が訊いた。
『……。もちろん』
兄の真似をしたつもりが、まるで呟き声になってしまった。
『山手さん!!、ここ、特大二枚ねっ!。特大だよっ!!』
大きく手を上げて、注文を繰り返す派手男の横で、金髪女がうんざり顔をしていた。
『ねえ、もう出ようよお!。皆、変な目で見てるよお……。こっち』
ホールの客の目が、僕たち一行に注がれていた。けれどそれは、至って自然な事の運びのようにも思えた。
店の格式を損なうかのような、小汚い兄弟の入店。それに申し合わせたように気取った派手男の演出。目の前のステーキに齧り付く暇を与えない、それはとても、陳腐過ぎる余興だったからだ。
『見られて嫌なのか、お前』
『だって、恥ずかしいじゃん!』
『そうか、恥ずかしいか……』
天井に吊るされた扇風機の、旋回する羽根を目で追いながら派手男が、金髪女の肩に手を回した。
『恥ずかしいよなあ……』
『ええっ……!?』
『恥ずかしいんだよっ!、この俺もさっ!!』
そう言って、派手男の手は、金髪女の髪の毛を引っ張り上げた。
『いやああっっ!!!』
『人前で恥をかいてなんぼだろっ!、すましてんじゃないぜっ!。この役立たずがあっ!!!』
髪の毛ごと持ち上げられた金髪女は、必死に喘いでいたけど。その勢いか、余っていた派手男の左手が、女の顔面へと向けられていた。可哀そうな結末が、僕にも想像出来た。
『ぬぬっっ??』
振りかざした派手男の左手が、何故か急に重く感じられた。
その原因は、兄の正義感だった。
『ちょい待ちっ!』
派手男の左手は、兄の手によって動きを封じられてしまった。
『おい、なんのつもりだ?』
『こういうつもり』
まるで交わりのない会話の後、派手男が笑いだした。
『ふふ。はははっ……、わっはっはっはっっ!!』
自由を許された金髪女と、ホールでその光景を見ていた客は、共に声を押し隠していた。
高笑いを興じる金髪男を追って、すかさず兄も笑い出した。
派手男の誘いを受けた時から、調子に乗った兄の行動パターンは、僕の心配を煽っていた。しかしそれは、穏便な解決へと実を結ぶことになる。
『はっはっっ、はぁぁ……』
燃料が切れたように、派手男が静かになった。
『ふうっ!』
大きく深呼吸を済ませて、シャツの襟を正しながら派手男が、厨房の傍に身構えている支配人に目をやった。
『山手さん、帰るわ』
『あっ、はい……?』
『帰るよ、俺たち』
『あ、ありがとうございますっ!』
深々と頭を下げた山手と言う支配人は、会計係に目配せをして、手元に伝票を運ばせた。
『片桐様っ、本日は二千円でございますっ!』
『お前らは、残ってていいぞ。肉喰って帰れよ』
派手男が僕たち兄弟に向けて言った。彼の約束は、履行中だった。
『いいの?』
兄がすかさず確約をねだった。兄にしたって、目的を果たしてはいなかったからだ。
『いいぜ。けどな、明日も来るって言うのが、ひとつ条件だけどな』
『明日ぁ?。そうか、明日か……。判った、そうするよ』
少し考えて、兄は派手男の約束に従った。
『じゃあな。愉しかったぜ』
そう言うと、金髪女の腰に手を回して、気障に店を出て言った。
『何者だよ、あいつ』
感心していたのか、呆れていたのか。兄の口から他人を察する言葉なんて、滅多にないはずだった。
『お前たち、知らないんのか?。ジョー片桐だよ、歌手の!』
山手と言う支配人が派手男の正体を口にした。
『歌手ぅ……?。あいつがかあ?。歌手って言えば、春日八郎とか三橋美智也くらいしか知らないぜ!』
『ロカビリーさ、今、巷で流行ってるんだよ。特にあの男は、横浜辺りじゃ有名でな。たまにテレビにも出たりして、相当稼いでるって噂だ。うちもひいきにしてもらってるんだ。仲間連れで来た時なんてなあ、そりゃあ貸し切り状態さ!』
『へえ……?、どうりで態度でかい訳だ』
『気に入られたみたいだな、お前さん!』
『おれが?』
さすが人付き合いに疎い兄だ、明日も、なんて声が掛かる意味合いを、全く理解していなかった。
『ところでお前たち、肉は喰うのか?』
『もちろん!』
食べ物の話になると、俄然、嗅覚が敏感になった兄だった。
『焼き加減はどうする?』
『はあ?。焼き加減って……?』
ステーキなんて食べたことのない僕たちに、支配人の言葉は意味不明だった。
『そうか、じゃあミディアムでいいな』
支配人の言葉に興味を持った兄は、すかさず厨房へと足を向けた。
『これ以上は駄目だ!、客が入れる場所じゃないっ!』
支配人も、さすがに兄の行動を遮った。それでも興味の尽きない兄は、支配人の耳元で何やら呟いていた。
『ふーっ、そうきたか……』
呆れた様子の支配人は、それでもどこか楽しげに厨房に支持を出していた。
しばらくすると、僕たちのテーブルへと数枚の皿が並べられた。
真っ白い皿にどっしりと盛られた、焼きたてのステーキがテーブル狭しと配置された。
『あのね。右から、ウエルダム、ミディアム、レアだ。まっ、平たく言うと歯ごたえの硬い順だな』
話を聞く間もなく、兄はそれぞれの皿の肉を、一切れずつ順に口に運んでいた。それだけではない、別の大き目の皿には、ライスがやはりたんまりと盛られていた。黙々とそれらを口にほお張る兄の顔は、至福の時を満喫しているかのようだった。そして咀嚼を繰り返していた兄は、ようやくその反応を見せた。
『うん……。美味いな、これ』
テーブルに並べられた、左端の皿の最後の肉片を口に頬張ってから、兄は妙に頷いていた。
『やっぱ、肉はレアだよな』
そう言って、“ふうっ”と、満足気にお腹をさすりながら、兄が箸を置いた。
派手男の財布に甘えて、兄は、三枚ものステーキを一気にたいらげた。そればかりか、明日のメニューの打診を支配人に耳打ちさえしていた。
『はあ?。図々しい奴だなあ……。お前は』
『支配人、ありがとう。良い店だよな、ここ!』
『調子に乗るんじゃないよ。この若造が……』
『へへっ』
店を出る頃には、穏やかな笑顔の支配人が、兄の再訪を期待しているようだった。
思わぬ展開に、目的を忘れ掛けていた僕たちは。鎌倉に入ってから、すでに二時間近くを浪費していた。
『満腹だーっ!。たまんねえーなあ』
一人、はしゃぎ始めた兄は、まるで観光気分のように次を物色し始めた。
『高志、この後はどうするよ』
『どうするって、父さん探すんだろ。違うの?』
『判ってるって、だから鎌倉へ来たんだろうが』
まるで父の件を思い出したように、気のない返事だった。
『今晩、ここに泊まるの?。お兄ちゃん』
『ああ、あいつに会うまでは帰れないよ。明日の約束もあるしなあ』
『父さんの働いてる店、覚えてる?』
『キャッツだろ?、確か』
『うん、そんな名前だった』
『キャッツかあ。どうしたもんかな……』
重い荷物を引き摺りながらの、店名だけを頼りに歩き回るなんて、そんな余裕はないはずだった。
『電話番号簿だ!。おい、高志。戻るぞ!』
そう言って、兄はステーキ屋、“アラジン”に舞い戻った。
『支配人!、お願いがあるんだけど!』
『ああん?、どうした、お前ら?。まさか、もう腹が減ったのか?』
『店探してよ!、キャッツって店!』
間髪いれずに兄は、説明も無く支配人に言い寄った。
『キャッツ、だってえ?』
『探してよ!、電話番号簿あるだろ?』
『ああ、あるけどよ……』
『早く、探して!』
兄の勢いに押されてか、支配人は僕たちを事務所に案内した。
『絵梨ちゃん!、電話番号簿ってあったろ?』
事務員らしき若い女性が、怪訝そうに僕たちを見ていた。
『あっ、はい、そこの戸棚の中に』
『キャッツって店、知ってるかい?。絵梨ちゃん』
『キャッツ……?、ですか?』
『兄ちゃんよ、なに町にあるんだ、そのキャッツって?』
電話番号簿をめくりながら、支配人が訊いた。
『知らないよ、そんなの!』
『知らないって。そもそもお前ら、この町の人間じゃないな?』
『そうだよ、この町のモンじゃない』
『どっから来たんだよ?』
『埼玉からさ、熊谷!』
『観光か?』
『いや、違う!』
説明下手の兄は、聞かれた事だけに端的に応えるだけだった。
『あのう……、実は』
つい僕が口を挟む結果となった。でも、その方が正解だとも思ったんだ。
鎌倉への目的を少し簡略させて、父のことも親戚の手伝いってことにした。夏休みを利用した、兄弟の訪問と言うことで、話をまとめた。
『そうか、そりゃ感心だなあ。それにしても、弟の方が随分しっかりしてんだな』
『クスッ!』
事務員の絵梨という女性が、僕の方を見て笑っていた。二十歳前後だろうか、ブラウスのボタンをふたつ外した胸元が、大きく開いていた。
『キャッツねえ、キャッツっと……』
『支配人、電話番号案内で聞いたらどうです?』
『有料だろ?、もったいなくて駄目だよ!』
折角の彼女の言葉を無視して、支配人と兄はひたすら電話番号簿をめくりながら、“キャッツ”と言う名を繰り返していた。
この時代の電話帳には、50音引きなんてものは存在していなかったから、やたら時間を費やしていた。
『訳ありなんでしょ?』
絵梨という女性が、僕の傍に寄り小さく呟いた。
『えっ……?』
『だって、そうじゃなかったら事前に住所くらい、調べるわよねえ。そうじゃないかしら?。電話番号も知らないなんて、大冒険よね……』
『あっ、そうかも……』
『ほら、自白した!。やっぱりそうね』
彼女の誘導尋問に、僕はまんまとはまってしまった。しかし、絵梨という女性の言葉の発し方には、語尾を持ち上げる、独特な響きがあった。まるで、映画の中の台詞のようにも聴き取れた。
『あったあ!。これだ、キャッツだあっ!』
電話帳に人さし指を当てて、支配人がメモを始めた。住所と、電話番号を記していた。
『大船かあ。ここからだと、5キロ近くあるなあ』
『結構大きな商店街がありましたよね。すぐ見つかるかしら?』
『まあ、電話番号も判ってるんだし。大丈夫、だろ?』
『どう行けばいいの?。教えてよ』
『そうねえ、大通りに出てから、線路伝いに歩けば間違いはないと思うわ』
『線路伝いかあ。まあ、行ってみるか!。なあ、高志』
『タカシくんって言うんだ、君。ねえ、どう書くの、“タカシ”って』
『ああ……、高い志って書くんだけど』
『へえ、いい名前ね』
にっこり微笑んだ彼女は、僕の目の前に顔を近づけた。彼女の前傾姿勢に、大きく開いた胸元が露わになっていた。
『おれの名前は聞かないのか、あんた!』
少しむっとした兄が、彼女に言い寄った。
『そうねえ。お兄さんの方も聞かないとね……』
『強志って呼んでよ。強い志って書くんだぜ、どう、いかしてるだろ?』
『そうね、その通りだと思うわ……』
曖昧に言葉を濁すと、机に戻りそそくさと伝票類に目を通し始めた。
『ちっ、感じ悪いなあ』
『急がないと、日が暮れてしまうわよ』
そろばんを弾きながら、彼女はさっきとは別人みたいに、事務的だった。
『一時間も歩けば、着くだろうさ。さあ、急いだ、急いだ!』
支配人も僕たちを追い立てるように、事務所から離れて行った。
『一時間かあ……』
頭を掻きむしりながら、兄は何やら考え込んでいた。
『ねえ、絵梨さん、タクシー呼んでくれよ!』
『タクシー?』
『そう、タクシー。それだったら、すぐじゃん!』
『タクシーなんて贅沢だわ、止したほうがいいわよ』
『そうだよ、歩こうよ。お兄ちゃん』
『でも、雨が降りそうだったぜえ、外……』
『今日は降らないわよ。いい加減なのね、あなた』
そろばんを弾く手を休めることなく、冷たく彼女が兄に言った。
『おれの金じゃないか、あんたにどうのこうの言われる筋合いなんてないねっ!』
『だったら、外で拾いなさいよ。あたし、忙しいんだから!』
『そんな言い方ってないだろがっ!』
幾分声を張り上げた兄に、彼女は手を止めて溜息を吐いた。
『ふうっ……!。あのね、宛ての無い冒険旅行なんでしょ!。無駄な出費は止した方がいいって、そう言ってるの!』
『宛ての無い、だとお……?。高志!、おまえ、また何か喋ったのか?』
『いやっ、僕はただ……』
『見れば判るわよ。お父さん探しの旅なんて、事前に準備しておくものでしょう?。それに、あなたの顔に書いてあるわ。“いい加減”な男って・・』
『なっっ!!!』
年上の女性からの攻撃には、さすがに免疫がなかったのだろう。兄は充分過ぎるほど戸惑っていた。
それにしても、妖艶な彼女の視線は、僕たち二人をまるで金縛りにでもしそうなくらい、魅力的だった。
『いっそ、電車にすればいいんじゃないの?。その方が安上がりだわ』
『なんだよ!、それなら最初からそう言ってくれよ!。あんたが、線路伝いなんて言うからさ、歩いた方が近いて思うだろ!。なあ、高志』
『まあ、なんて言い方なの!。どうせ貧乏旅行なんだから、歩けばいいのよ!。二人とも、若いんでしょ!』
兄の言い方に感化されたのか、彼女がヒステリックに応えた。
『ああ、少なくてもあんたよりはな。失礼しました、絵梨お姉さま……』
『もうっ、さっさと出て行ってよ。感じ悪いわ……』
目を反らして、どこか悔しそうに唇を噛む彼女の横顔が印象的だった。
ようやく兄の反撃も実を結んだようだった。その後、“キャラバン”を出た僕たちは、とにかく大通りを目指して歩いた。
『もうすぐ駅が見えるはずだよ。多分、その先の交差点を、左だと思う』
『おい、そんなに急がなくていいよ。腹いっぱいで大変なんだ、おれは』
『だって、もうすぐだから、急がなきゃ!』
『焦るなって、電車は逃げやしないって』
マイペースの兄は、どこまでも自分勝手だった。
『今日は、泊まりなんだよね……?』
判っていながらも、心配になっていた僕は、敢えて兄に聞いた。
『今日だけじゃない、決着が着くまでだ。長期戦は覚悟しとけよ!、いいな!!』
『そんなあ、夏休み終わっちゃうよ……、どうすんの?』
『少しくらい大丈夫だって、皆、大目に見てくれるって!』
そんな根拠もないまま、やはり自分勝手に全てを判断していた、兄だった。
『あっ、駅だよ。ほら、あそこ!』
大通りに差し掛かったほぼ正面に、鎌倉駅の文字が見えた。
『へえ、割と大きいじゃんか』
そう言う兄の形容には、逆の場合を意味する変な癖があった。。
『大きなもんか、高々、二階建てだろ!。こんなの当たり前だよ!』
兄の先手を打って、僕が生意気を装い声を張らした。
『ああ、そうだよな。まあ、こんなもんか』
やはり兄は、つけ込む先を見失っていた。つまらない兄弟の見栄の張り合いは、時に兄と弟の配列を狂わせることもある。
そんな不具合を嫌ったのか、兄が奥の手を持ち出した。
『高志、おまえ惚れたのか、あの女によ?』
『えっ?、あの女って……?』
『ははーん、とぼけやがってえ。この野郎ぉ!』
『えっ……』
『ほらあ、赤くなった。図星だな!、高志ちゃんよお』
得意そうに僕を困らせ始めた兄は、執拗にそのことに迫った。
『絵梨って女さ、いいオッパイしてたなあ。見たんだろ、おまえ!』
『……、なんのことだよ!、それって……』
『へへえ?。照れてんじゃないぜ、ったく。しかもあの女、おまえのこと誘ってたんじゃなのか?』
『そんなこと、あるわけないじゃん!。年上だよあの人、しかも相当上だってえ!』
そう言いながらも、さっきまでの絵梨さんの顔が、いやっ、大きく開かれた彼女の胸元が、僕の言い訳じみた言葉に、割り込んでいた。
『思春期の特権だよなあ。年上女からの求愛ほど、そそられるものは無いからなあ』
更に追い打ちをかける兄の興味本位な言い方に、遂に僕の反論は最上級に達した。
『お兄ちゃん……。僕、もう帰るよ!。お父さんを探しに来たんだろ!。だったら、早く探そうよ!。そうでなきゃ、帰るよ……。帰るよ、僕・・』
勢いに任せていた、兄との家出旅行を考えるにつれ、やはり我慢出来なくなったのだ。
『次の電車で、東京行きに乗るから、いいね……?』
『なんだよ、高志。おまえ、本気なのか?』
先ほどの勢いが、途端に消沈したように、兄が語気を弱めた。
『お兄ちゃんこそ、本気なの?。どうしてもお父さんと喧嘩するの?。それでいいの?。それで……、それでお兄ちゃんは満足なのっ!!』
堪らず叫び出した僕のことを、兄はどうすることも出来ないで立ちすくんでいた。
発車の合図に応えて、時刻通りに走り出す電車の騒音が、僕たち兄弟の隙間をくぐり抜けて行った。
『あいつに会うために、出て来たんだろ?。おまえもそれを望んだんだろ、なあ、高志?』
『会いたいから出て来たんじゃないよ、お兄ちゃんが馬鹿やらないかって、心配だったから、着いてきた……』
『おれが、馬鹿を?。そんな心配してたのか?、おまえ』
『だって、そうだろ!、無茶苦茶じゃないか!。今までお兄ちゃんのやってきたこと、知らないって言うの……?。どんだけ母さんが、悲しんでいたか・・。本当に、知らないのかあ・・!。お兄ちゃん・・』
今回に限ったことではない。兄の自由奔放な行動は、他所様から見ればとんでもなく極道息子に見えたことだろう。
『お兄ちゃんが、学校を退めた時も、母さん、平気そうな顔してたけど。泣いてたんだよ……!。寝れずに、泣いてたんだよ!、母さんは・・。勝手なんだよ!、自分のことばっかり考えて、簡単そうにいつも、いつもお兄ちゃんは片づけてるけど・・。周りの人は・・、僕は・・、いつも大変なんだっっ!!』
『高志、おまえ・・』
『う、うっ、ううう……っっ……』
兄に対して、口ごたえなんてしたことのなかった僕が、堰を切ったように、兄にお説教を始めていた。
『……、』
急に黙り込んだ兄は、駅の階段を見上げて暫く突っ立っていた。
『そうだよな……』
そう言うと、荷物を肩から降ろして、急に階段を駆け上がって行った。
『どうするの!』
僕の声に半身になりながら、兄が応えた。
『帰りの時間見て来るから!、おまえはそこで待ってろっ!』
一気に階段を上って行く兄は、僕の気持ちを察してくれたのだろうか?。帰りの電車の時刻を調べるために急いでくれていた。
『お兄ちゃん……』
無鉄砲で短気で、自己中心な兄にも、周りを労わる心は存在していたのだ。
数分後に、めずらしく兄が落胆した様子で降りて来た。
『どうしたの?。帰る電車はあったの……?』
『高志・・。残念だが、一足遅かったようだ。もう、東へ向かう時刻は、とうに過ぎてしまった……』
『ええっ!、だってえ!』
『ここからだと、横浜経由になるんだ。上野に着いたとしても、その後の高崎線は無い。仕方ないけど、今日はここに泊まるしかないさ……』
『そうなんだ……。それじゃあ仕方ないよね……』
兄の折角の気遣いも、電車が走らなきゃどうにもならない。でも、兄の改心とも言えるその行動が、僕にはとても嬉しく思えたのだ。
『お兄ちゃん、美味しいもの食べようよ、今晩!』
『ああ、そうだな。そうするか……』
兄に抱擁されるように、大船行きのホームに辿り着いた。
『宿が見つからなかったら、駅のベンチでもいいか?。高志』
『うん、我慢するよ。一晩くらいならね』
『そうか。そりゃ頼もしいや、さすが、おれの弟だ!』
『お兄ちゃん……、ごめんね。さっきは』
『ああ、いいんだ。全ておれのせいだもんな……。母さんにも、おまえにも責任は無いって。気にすんじゃないぞ!』
『うん、判った!』
次の大船行きの電車が来るまで、二人、駅のベンチでぼーとしていた。夏の太陽はまだ高く留まり、休まずに熱を放出していた。
ようやく電車がやって来た。割合、閑散とした車内には、やはり夏休みということもあってか、学生の姿はなかった。
15分くらいで到着した大船の駅のホームに、ぽつりと二人が並んでいた。
『怖くないの……?、お兄ちゃん』
『何がだよ?』
『お父さんのことだよ……』
『なんでだよ、父親に会うだけだろ?。何が怖いもんか!』
いささかも動じていない兄は、僕の肩を支えてどんどん前に進んで行った。
今まで僕の兄に抱いていた不満が、その心配事が。急に萎えてきたように感じていた。
『高志、おまえ覚えてるか?。あの人のこと』
『あんまり覚えてない……』
『そうだよなあ。おれだってそうかも知れないな』
『花火が奇麗だったよね。確か家の前だったかなあ』
『ああ、あの人が一度に花火に火を点けるもんだから、母さん怒鳴っていたな。高志の浴衣の裾に、火の粉が!、って。親父のこと……』
『えっ!、親父って、呼んだよね。今、お兄ちゃん!』
『な、なんだよ!。そんなこと言ったかあ?。まさかあ……』
弟の指摘を受けてか、照れ笑いの兄は、大きく白い歯を見せていた。
当初の勢い弱く駅の改札をくぐると、真正面に商店街の看板が立てかけてあった。