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家出  作者: GUN
18/55

小幡邸での語らい

それからというもの、父は小幡邸に度々足を向けた。次郎のためなんかでは無かった。それは父自身の利益のためだった。


『小森さん、紅茶、おかわりはいいの?』

『はい、お願いします!』

『良ければお饅頭、全部食べちゃっていいのよ』

『はい、喜んでいただきます!』

秋山家で抑圧された食欲が、ここでは全快だった。父の安らぎの場となっていたのだ。

何より心地よかったのは、父の歌に小幡の奥方が絶賛してくれることだった。


“酒ぇは涙―か 溜息いかあー こころのーうーさぁのぉ 捨てどころぉー とおいぃーえにぃしーの かーの人ぉにいー 夜毎のぉ夢のぉー 切なさよぉー ” 


『素敵ねえ・・・。ほんと、よく伸びる声だこと』

『でしょ?、おれの自慢なんだ。特に高音の部分なんてさ、自分でもしびれるほどさ』

父は、嬉げに高々と声を張った。


『酒は涙か溜息か・・・。古賀久男も、立派な曲を書くようになったもんだ。藤山二郎にしても、やはり基本が出来ている』


『小幡さん・・・!。なんだよ、居るなら言ってよねえ』

『お邪魔かな?』

『とんでもない!。家主を追い出すほど、おれは非常識じゃないからね』

『相変わらずの口達者だな、はははっ』


『ところで、小幡さん古賀久男のこと知ってんの?』

『ああ、随分昔に世話をしてやったことがある。もう、8年も前だったろうか。奴がまだ学生だった頃だ、ギター演奏者でいい奴がいるってなあ、演奏会に足を運んだもんさ。実際、驚いた。何て曲を演るんだってねえ・・。斬新で、心に沁みる歌だった』


『小幡さん、あんた一体、何者なんだよ・・・?!』


目の前のやせ細った爺さんは、ただ者ではなかった。それどころか、とんでもない経歴を感じ取った父は、勢い余るほどの質問を投げ掛けた。


『秋山の爺さんもそうだけどさ、小幡さんのさっきからの大口と言い。一体、あんたの経歴ってどんだけのもんなのさ!!』

『おいおい、高々、ひとつの会社の経営に携わっただけだ。それでも何とか、社会の役には立ってるんだろうな・・・。はははっ』

そう言いながら、小幡の爺さんはまるで役目を果たしたかのように、部屋の奥に引っ込んでしまった。


『会社って・・。奥さん、どういうこと?』

『コラムビアって会社よ。あなたも知ってるでしょう?』

『もちろん、知ってる。トウチクと肩を並べるほどの会社だよ。そりゃまた、すんげえや・・・!』

それからは奥方からの話で、しばらくは盛り上がっていた。


『録音技術者だったのよ。しかも、相当、腕利きだったらしいわ』

『へえっ、そうだったんだ。それで秋山の爺さんを知ってんだな』

『秋山さんはね、当時、酒場で人気の歌い手だったのよ。民謡からジャズまで、何でもこなしてたわ。とても男前でね、若い娘から散々言い寄られたりしてね』

『ええっ!、あの爺さんが?』

『若かったもの。それは情熱的だったわあ』

『爺さんにとっては、いい時代だったんだなあ』

『うふふ・・。うちのひともね、最初から音楽になんて携わっていなかったのよ。その前はね、電信事業の技師だったの。ああ、つまり、電話関係のお仕事よね。それがね、古い友人からの紹介でって、変な会社に呼ばれちゃったのよ。それが縁で、音楽業界に入ることになるの。今になって思うと、ほんと不思議よね・・・』


蓄音器の発明とともに、日本でもレコード鑑賞という商売が始まった。明治30年のことだった。10年後の明治40年には、国内での蓄音器製造が開始され、レコードの生産も行われた。

一部階級でしかなかった音楽が、楽団の奏でる楽しい音の源が、まさに庶民の耳心に入り込みつつあった。それは充分に画期的な、大衆興行の始まりだった。


『へえ、それで二人が出会ったってことなんだな。なるほど、納得』

『でもね、あの人たちまったく反りが合わないの。まるで水と油ね、だから、一緒に仕事なんてしたことがないのよ。それで、コラムビアと、トウチクって訳なのよ』

『なんだ、まるで子供じみた喧嘩みたいじゃないか。それじゃ犬も喰わないって!』

『んんんっ!!、犬が喰わないのは、夫婦喧嘩じゃなかったのかな?。小森くん』


『げっ!、また居た!!』

小幡の爺さんが、したたかに笑いながら立っていた。


『我が家のことは、秋山にはもう喋ったのか?』

『いやっ、まだだけど。どうして?』

『奴のことだ、途端に、君を見張ることさえしかねないだろうな』

『見張るって・・・、どうしてさ?』

『私が、君を手懐けてだな、そしてコラムビアに引っ張る。それくらいの筋書きは、奴も考えるだろうからね』


『おれが、コラムビアにって?』


『いいか、小森くん。秋山は口にこそ出しはしないだろうが、君の歌にほれ込んでいるのには間違いない。そう言う私も、君を欲しいと思っているくらいだ。正直なところね』

『えっ、そうなの!?。いやーっ、そうと判っててもさあ・・。なんだか、改めて言われると照れくさいもんだよなーっ』

『但し、今までの君では無理だな。これからの小森ゆうじが、どう化けるかだ。それは奴にも想像に及ばんだろう。無論、この私とてな・・・』

小幡の爺さんにしても、父に興味津々なのだ。


『・・・?。んじゃあ、どうすればいいんだよ?』

『それは、私には言えないなあ。いやっ、言うべきでは無いと思うんだが・・・』

『はーあっ?。なんだ、もったいぶってないでさあ、言えばいいでしょう?』

『言ったところで、今の君には効かんだろうなあ・・。それほど厄介な問題さ』

『厄介・・て?。それ、どういうことだよ!!』

『おいおい、突っ掛かるなって。すぐには判るはずもなかろう。今は、そういう時期だってことだ』


遠まわしに語る小幡の爺さんには、確固たる思惑があったのだろう。けれど、父の正式な親元は、秋山会長の率いるトウチク・レコードなのだ。その枠を外してまで、“小森ゆうじ”に傾倒するのは、余りに危険だった。


仮に、小幡という力加減だけで動いたとするならば。近い先の父の将来に、何らかの障害を引き起こすことにも成りかねない。それを考慮しての助言だったのだろう。


『難しいこと言うよなあ・・・。会長以上だぜ』

『まあ、そう言うことだな。もうしばらくは、奴の愚痴に付き合ってはもらえないだろうか、小森くん』

『ふっ、そうだよなあ・・・。てめえの身を任せたんだ。どうしたって従うしかないってことさ。それくらいは承知してるつもりだよ』

『そうか、そうだな・・。それが賢明ってものだ』

双方の割り切った会話の締め括りに、父が注文をつけた。


『おれの歌を聴いて欲しいんだ。今、ここで』

『君の歌は、随分と聴かせてもらっているつもりだ。どうした、今更?』

『正面で聴いてもらったことはない』

『正面か・・・?。そういえば、そうだな』

『正面で歌いたいんだ。小幡さんの真正面で。いいよな?』

『ああ・・・。是非とも、聴いてみたいものだな』

『恐縮です・・・』


父らしくない神妙な面持ち。その裏には、或る思いが秘めていたのだろう。と、僕にはそう感じた。それは、未だ父自身にも目覚めてはいない、歌手人生に向けた覚悟だったのかも知れない。

そうして、庭の中央に移動すると、父はそこで深々と頭を下げた。


『トウチク・レコードの、小森ゆうじです。私の歌を忘れないでください!』


“忘れないでください”と、不思議に前置きをしてから、父は持ち歌を披露した。

もちろんその曲は、“君が待つ丘”に、他ならなかった。


“いつかしーらー、待つことにー、なれてしまったあーー。夕暮れのー寂しさがあー、紅く染まるうーーっ。そこにわあーー、居ないはずの君いーー、たそがれが甘くうー空をそめーーるうーっーーー”。


おもむろに拡げた両手を、胸元にぎゅっと引き寄せたかと思うと、次に、不意に差し出した右手は、頭上へと運ばれた。


怪しげなその動きは、後年、“振り付け”という技として、様々な歌い手により歌謡界に定着していった。しかし、この当時にあっては、直立での歌唱が当たり前とされていた。


“君がーー、来るのはぁーーたそがれー時いのおーー、風にゆーられえーーてえー、おれのーー心ーにいー、舞いおーーりぃるーーー”。


夕焼けを背に、父の透き通る歌声と妖艶に揺らいだ手の先が、庭の木々を揺らしていた。やや、溜息にも似た吐息を過ごすと。まるで自分の子供の成長を按じているかのように、小幡の奥方は優しく目を細めていた。

反面、小幡の爺さんといえば、伏目がちに腰に手を当てたまま微動だにしていなかった。

歌を終え、さきほどより更に深く礼を済ませた父は、顔を上げるとすぐに小幡の爺さんを直視していた。父のその目線は、決して媚びることを望んではいなかった。


『ほう、中々のもんだ。で、満足は出来たのかな?』

先ほどの様子から一転、穏やかな顔の小幡の爺さんが、短く父に訊いた。


『ああ、気持ちよく歌えたよ』

屈託のない笑顔で、父が返した


『そうか、それが一番だな』

小幡の爺さんは、小さく頷いた。

『ご静聴、ありがとうございました』

礼儀正しく、父が感謝の言葉を述べた。


『礼には及ばんよ。こちらこそ、いい歌を聴かせてもらった』

『また、寄ってくださいな・・・。いつでもね』

まるで父との別れを示唆するかのような、奥方からの名残惜しそうな言葉だった。


『また、二郎を連れてくるから。今度は、洋菓子をお願いね。奥さん!』

そう言って父は何度も頭を下げては、二郎の綱を引きながら小幡家の門を出て行った。


『小森ゆうじか・・・。この国の歌の進む先を、変えるかも知れないな』

『そう感じるんですね、あなたには』

『間違いが無ければの話さ・・・』

『心配性なんですね。相変わらず・・・』

『おいおい、せめて用心深いってくらい言ってくれよなあ』

『はいはい、そのようで・・・』


小幡夫妻の年期のこもったやり取りが、父の背中を見送っていた。急にがらんとした庭先では、友達の去ったベッシーが寂しそうに尾っぽを下げていた。

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