会長との語らい
今日の出来事を、調子にのって喋りだす父の顔には、以前のきつく篭った影はなく、その笑顔には清清しい青年の顔さえ見せていた。
多嶋屋の酒宴は、盛り上がりの最中だった。今日のデパートでの興行を反映してか、神部さんから父に向けて重大な告知があった。
それは、近々、トウチク・レコードの社運をかけた、若手向けの配曲の打診だった。
楽曲を手掛けるのは、勿論、著名な音楽家の名前だった。若手歌手の候補の中には、あの立花勇気の名も挙がっているようだ。
『ここだけの話だ、いいな、極秘だぞ。どうやらうちのお偉いさん達は、えらく立花を推してるみたいだ。そりゃそうさ、あんだけの人気と歌唱力だもんな、文句の言える筋合いでもない』
『ふーん、で、神部さんは誰を推したいの?』
『おいおい、俺の口から言わせんのかよ?』
『もったいぶってないで、言えばいいじゃん。小森ゆうじってさ!』
『まったく……、お前には舌を巻くぜ・・』
『へへへっ』
『ところでよ、お前の面倒を会長が看るって話、聞いてんのか?』
『面倒って?、どういうこと』
『ああ、どうやら会長の家に、住み込みが決まったらしいぜ』
『住み込みってことは、もちろん飯付きだよね?』
『そりゃあ、そういうことだろうな』
『じゃあ、朝飯どころか、晩飯も面倒看てくれるってこと?』
『ちょっと待ちなよっ!。あのよっ……、そのっ、会長さんの家に住み着くってなったらよ、靖志はもうここには来れないってことになんのか?、ええっ!、神部さんよおっ、そうなのか!!』
親父さんが猛烈な口調で神部さんに喰い付いた。
『ち、ちょっと待てよ、大将・・。落ち着いて聞けって……。誰も、こいつを隔離しようって訳じゃねえさ、ここに来たけりゃいいんだぜ、別にさ。大袈裟に考えすぎだよ』
『えっ、そうなのかよ、そりゃ、つい余計なこと言っちまったなあ……』
『へへ、おれが来ないと、寂しいもんな、親父もさ』
『ば、馬鹿言ってんじゃねえよお!。おめえが来なくて寂しいのは、俺じゃなくて、かあちゃんの方だよ!』
『おばちゃんが?』
『うちには子供がいねえからよ。少しでも懐いてくれる子は、可愛くて仕方ねえんだよな……、あいつもさ』
厨房の奥で、洗い物に精を出すおかみさんを背中で感じながら、親父さんが鼻を赤らめてしんみりと語った。
『会長の家の晩飯は、さぞかし美味いんだろうけど。へっ、ここの不味い飯にも、慣れちまったからな……』
俯き加減の父は、精一杯の悪態を見せるしかなかった。
『不味い飯で悪かったな……』
それに気遣ってか、親父さんは多くを語らなかった。まるで余所者に父を取られてしまうかのように、悔しげな顔をしていた。
『靖っちゃん、偉くなっても、うちのこと忘れちゃ駄目だからね。それだけは約束してちょうだいな』
『やだなあ、おばちゃん聴いてたのかよ?』
『こんな目と鼻の先でさ、聴こえたもなにもありゃしないよ。で、その会長さんの処には、いつからお世話になるんだい?』
『いやっ、おれもさっき聴いたばっかでさ、そんなとこまで考えちゃないさ』
『明日、会長を訪ねればいいさ。言っとくが、失礼のないようにな。ああ見えて、意外に神経質だからよ』
『えっ?、あの爺さんが』
『何だ、知ってんのかお前?』
『ああ、前に話したことがある。おれの歌を褒めてくれてたぜ。あの爺さん』
『一体、どこでだ?』
『会社の廊下でさ、丁度、神部さんと秋山さんが揉めてた時だよ。おれのことでさ』
『そうかあの時だな・・。どうりで、やけにお前に興味を示したはずだよ。こりゃ、良い線いくかもな』
『良い線って、なんのことだよ?』
『いいや、お前は気にしなくていい。とにかく、会長の下で修業することだ。歌もそうだがよ、その態度もな』
『修業って、なんだか大袈裟じゃないの?』
『お前なあ。いいか、あの人を甘く見るんじゃねえぞ。今でこそ丸く収まっちゃあいるが、あの人の歌馬鹿は相当なもんさ、俺にしたって反論さえ口篭るってほどだ』
『へええ、そんな風には見えなかったけどなあ』
『いずれにせよ、理屈で解決だなんてよ、そんなに甘い世界じゃないってことだけは、心して掛かれよ。まあその辺は、俺が言わなくても嫌というほど、あの爺さんから学べるってことだ。まったく羨ましい話だよな』
『そんなに凄いお方なのかい?、その秋山さんの親父さんってさ、神部さんよ』
『ああ、大正から昭和にかけて、日本の歌を引っ張ってきたと言っても、過言ではないな。少なくとも、俺はそう慕ってるさ』
『へーえ、そりゃあ、さぞかし有名な歌い手だったんだろうよ?』
『いや、そうでもなかったらしい。実際、歌手としての受けは、それ程でもなかったってさ、奴から聞いてる』
『秋山さんが、そう言ったの?』
『ああ、確かにそう聞いたつもりだぜ』
『素晴らしいよな。人前で歌うことが叶わないって、知ったんだろうな。いやっ、きっとそう告げられたに決まってるさ。それでもしがみ付いてた。普通の者だったら、とうに、歌を諦めてるさ……。それほど、それほど好きだったんだよ。たまらなく歌うってことがさ』
父は、あの時の秋山会長の言葉を噛み締めていた。“歌は大好きだ。これは誰にも負けやせんぞ。私の自負するところだ”。
胸を張ってそう言い切った会長の表情を、父は思い返していた。
父の口元に宿ったその大人びた口調に、やるせないほどの慈愛を込めた言葉の先に、神部さんも、親父さんも、そしてお母さんさえも、うっすらと沈黙を隠せないで居た。
『つまり、人気商売だからよ、情熱だけでは認めてもらえねえってことさ』
『そんなことはないよ、お父ちゃんさ。幸せなことだよ。こうして大好きな歌のお仕事ができてるんだもんねえ』
『そうなんだよな。歌を離れてこそ、真にその歌に近づけるか……。まったく、大したお方さ』
『何言ってんの?、神部さん。歌を離れるなんて最悪だろ?』
『まだ、お前には理解できやしないさ、本当に歌うってことが、どんなことかなんてよ』
『そうだぜえ、まだ靖志のような青っちょろいガキには、解んねえだろうよ!』
『なんだよお。皆しておれを子供扱いしようってのか?。こう見えてもさ、場数踏んでんだ。歌うことに関しちゃ妥協なんてないぜ』
『まあ、そう言うことにしておこう。いずれにせよ、会長の目に適ったわけだ。小森ゆうじとしての、第一段階はな』
『じゃあ、おれ、花形歌手になれるんだな?』
『おいおい、それとこれとは違うぜ、あくまでもお前の努力次第さ。いくら会長の下で面倒看てもらったってなあ、駄目な奴は去らなきゃならない。それが勝負の世界だ、決して甘くはないぜ』
『解ってるさ、それほどおれも馬鹿じゃないよ。神部さん』
さっきまでの父の浮かれた表情は、微塵もなくなっていた。
それほどの覚悟を父は受け入れていた。小森靖志としてではなく、小森ゆうじの名前に恥じないとの、覚悟だっただろう。
翌日、父は秋山会長の部屋を訪ねた。さも新人を意識した服装は、神部さんのお古を借りた地味な背広を羽織っていた。
『この辺だったよなあ』
事務所ビルの長い廊下を進む父には、どの部屋も同じように見えた。
『会長室って書いておけよ。ったく』
歩き進むうちに、ふと微かな歌声が父の耳に聴き取れた。
『練習……?』
その歌声の先を突き止めた父は、廊下の突き当たりの部屋の前に足を揃えた。
『ここだな』
伴奏も無く、歌い続ける声に、しばらく父は聞き耳を立てていた。その歌声は、どうやら聞き覚えのある曲だった。
『えっ?まさか……』
“When The Saints Go Marchin In――”、そう、父があの晩、熱唱した歌だった。
『聖者の行進、だろ……?』
強弱をうまくつけて、しかも絶妙なうなり声。伴奏無しでも跳ね上がる高揚。リズムを取っているのは、きっと机を叩く音。
『誰だよ?、めちゃくちゃ上手いぜ……』
その歌声に乗せられて、つい父が声を張らした。扉を挟んででの二重唱が、廊下に共鳴していた。
しばらく続けられた二重唱の片方が、突然消えた。それでも父は、一人扉の前で歌うことを止めなかった。
“ガチャッ”、突然、扉が開かれた。
『どうぞ、入りなさい!』
『あっ、どうも・・』
『そこで歌わんでも、中で続ければいい。遠慮はいらんよ、小森くん』
歌声の持ち主は、秋山会長だった。
『は、はいっ』
思いのほかこじんまりとした会長の部屋は、威圧感などとはほど遠かった。
『いつから来れるんだ、家には?』
『いつからって、特に決めてなんかないけど……。いやっ、ないです!』
『ははは、何を緊張しとるんだ?。いつも通りの君でいいんだ、あの時出会ったようにな』
『いや、おれはいいんだけど。神部さん達がさ、会長の前では失礼のないようにって、言うもんだからさあ』
『あの神部がか?。いやはや、何とも大人になったものだ。奴にしたって生意気を生き物にしたようなもんだったからな』
『会長、本当にいいの?、おれで』
『今更、何を言う。それとも、私の家では不服なのか?、君は』
『そうじゃないけど。急な話だったからさ、しっくりときてないんだよな、正直なところ』
『食べ物に好き嫌いはあるのか?』
『いや、何だって食うさ』
『犬は苦手か?』
『えっ?、犬を食うの??』
『そうじゃない、犬を飼ってるんだよ、家でね』
『あっ、そういうことか……。大丈夫、おれの実家も飼ってた』
『そうか、安心した。でっ、君の方からは何かないのか?、質問とか』
『うん……。会長、どうしておれなんかに、声をかけてくれたのかな?。他にだっているだろうにさ』
『君が一番、下手くそだったからかな。まあ、そんなとこだ』
『下手って……、それ、本気で言ってんの?。ち、ちょっと待ってよ!、おれ以外に上手い奴ってさ、居ないだろ?、実際!』
『ほれ、やっと本性をだしたな。中々、したたかな男だよ、君は』
『あっ、うっ!』
『君でしか歌えない歌があるんだろうな……。今からのこの時代を、明るく笑える時代を創り上げる。そんなことを考えてたんだよ。それには、楽曲に縛られない、自由な発想が必要だ。基本に忠実な優等生では駄目だ。そんな気がしてな』
『おれしか、歌えないって……?』
『君にもまだ気付いていない、歌の心がある。私にだって、そんな確証なんてないんだ。君の将来を決定付ける具体的なものなんてな、まだ見えてなんかない』
『つまり、おれの将来性ってこと?』
『そうだ。言い換えれば、大いなる冒険ってやつだな。他の奴等では駄目なんだ。いくら上手くても、既に見えてしまっている。その点、君はまだ磨かれぬダイヤモンドみたいなものだ。何処まで光を放つのかは、未知の世界って訳だな。はははっ』
気負いなく、ただ淡々と父に向けて語る会長の目は、それでも父の将来を見据えているかのようだった。
『ひとつ釘を刺しておこう。いいか、小森くん。君の歌唱力は確かに人並み以上のものを感じさせる。しかし、今のままではすぐに頭打ちだ。どう期待したってあと2,3年がいいところだろう。これからの歌謡界は激動の時代に入る。予測なんて誰も出来ない。では、どうすればいいのか?。答えを出せるかな、君は?』
『簡単さ!。真似をすればいいんだよ、アメリカのさ』
『真似を?、するって?』
『洋楽に目を向けるんだよ。心情に訴いかける歌ばかりにしがみ着いてちゃ駄目さ、長調に甘えたが最後、抜け出せなくなるんだ。つまり和の真髄ってものがさ。けどさ、音楽ってもっと自由なもんじゃないのかなあ・・・。その時期が来れば、どんどん輸入が増えると思う。そうすれば音楽だって同じさ、あちらの良い曲が労せず聴けるだろ?』
『輸入たって、今の時代にそれは無理というものだよ。米国との関係は今、戦々恐々としてるんだ。近い頃合には大喧嘩が持ち上がるだろう』
『大戦ってこと・・?』
『そうだ、世界はそれに向かって準備されているだろうな・・、間違いなくだ』
会長の読みは正しかった。事実、数年後にはアメリカを相手取っての大戦が勃発したのだ。それは昭和16年12月の、真珠湾攻撃に端を発した。
『なんだ、結局、この国の歌謡は進歩がないってことだよな』
『鎖国先進国の悩みどころというのかね、相変わらず外交などとは縁遠い』
『ちっ、嫌な時代に生まれたもんだよなあ』
『環境を悔やんでも仕方ないぞ、小森くん。別に歌うことを規制されている訳じゃないんだ、そこは幸いと思わんとな』
『大人だねえ、会長は』
『それはそうとして、仮に君の発想が活かされたとしよう。しかし、そう簡単にこの国の音楽が捨てられるものだろうか?』
『捨てる必要なんかないさ。同時に聴けばいいんだ、境界なんてないだろ?。まあ、あるとすれば、アメリカどもに敵対してる野暮な大人達だろうな』
『その野暮な大人達っていうものに、もしかして私も入れてるのか、君は』
『そう言うことになるかな』
『そうか。そうなるのか』
『だって、現に流れてるじゃん。ブルースって名の曲がさ』
戦前の作曲家の努力により、海外の魅力ある楽曲が和製歌謡に浸透されたいた。
『ほう・・、それはそうだな』
『アメリカの歌を取り入れればいいんだ。今までよりずっとさ』
父の言った通り、戦後の日本の歌謡史には、相次ぎアメリカの楽曲が輸入された。それらを取り込むと同時に、日本歌謡の趣きのある部分は据え置きつつ、新しい流れを創り出していった。
俗にいう、“カタカナ歌謡”の誕生であった。
『そうだとしても、その流れに、和の要素は消されてはしまわないだろうか?』
『うーん。それはおれにも解んないや。けど、薄らいで行くことには間違いないだろうけどさ』
『そうか、君もそう感じているか・・』
“君も”……?。既に、この国の歌の混血化を懸念していたのは、会長も同様だったみたいだ。
『大丈夫!。会長、何がどうあれ、この国から歌が消えるなんてないよ。形は変わってもさ、楽しめる歌を待ってるんだぜ、みんな』
『実に頼もしい言葉だ。どうやら、君たちの時代に任せる時が来たようだな』
『そうそう、老後をゆっくりと過ごした方が、賢明ってもんさ、ねえ、爺さん!』
『な、なにっ、爺さんだと?。しかも、老後だあ?。つつっ……、貴様!、これ以上の失礼は許さんぞお!』
『えっ?、だって、会長言ったじゃないか、いつも通りのおれで良いってさ!』
『全てを真に受ける馬鹿が何処におる!。やはり、社会性から鍛えねばならんようだな、お前という男は!』
『なんだ、結局、こういうことになるんだろ?。……ったく、気を遣って損したよなあーっ』
『な、何だとうっ!。貴様、まだ言うかあっ!!』
『落ち着いてって、血圧上がるから・・。まあ、面倒掛けますけど、今後ともよろしくお願いいたします!』
『ぬぬ……』
父は深々と頭を下げ、会長の面目を保った。凡そ父らしからぬ、それは大人びた対応だった。