立花勇気の出現
『靖志、準備はどうだ?。今日は連発で行くから、へばんじゃねえぞ!』
『やだなあ、神部さん。そこいらの若手とは違いますって。相変わらず意地悪なんだからさ』
『生意気言ってんじゃねえよお!。誰のお陰で歌えるっていうんだよ。この野郎!』
『誰って、もちろん秋山さんのお陰だよ。おれが歌えんのはさ』
『何言ってやがる。俺の後押しがなけりゃよ、お前なんてただの歌好き小僧だ。この馬鹿野郎!』
『はいはい、今後は神部さんの名前も追加するから。そう怒るなって』
『お前のその言葉が気に入らないんだよ!。このおお馬鹿野郎!!』
『ちっ、扱いにくいなあ』
『な、何て言ったよ、てめえ!。ったく……。いいから、とっとと支度しろよ。ほれ、この辺の荷物運んで。裏口で待ってろ!』
『はいはい、そうしますって』
いつの間にか、父と神部さんとの溝は埋まっていた。神部さんは常に悪役を買って出ていたのだ。そうすることで、甘えの許されない現場環境を作り出すことが出来る。彼はそのことを自らに言い聞かせ、実行していたのだった。
『おーーい、秋山。ちょっといいか?』
『どうしたんですか、神部さん?』
『どうしたもないぜ……。あの生意気な小僧の面倒は誰が見るんだよ?』
『誰がって、まだマネージャーなんて早いし、ここに居る皆で見るしかないでしょ?。他に誰か居るんですか?』
『なあ、秋山さ。会長に頼めないかなあ、あいつのこと』
『頼むって、まさか、会長を小森のマネージャー代わりにするなんて考えてないでしょうね!、神部さん』
『ズバリ、その通りさ。なあ、いい考えだろ。その方が奴にとっても好都合だろ?、ついでに躾もしてもらえそうじゃないかよ』
『躾って、今更……小森にですか?』
『今更じゃねえだろ!、ったく。気付いてんだろお前も、奴の社会性のお粗末さっていえばだな、ここじゃ無法地帯の申し子ってさえ言われてんだぞ!』
『そんな、大袈裟な。誇張し過ぎですよ神部さん……』
『そう来たか。はああっ、まったく父親に似て、能天気な野郎だぜ……、秋山よお』
歌の出来栄えの前に、父の人間性が裁かれていた。確かに父の放漫さと、欠如した社会性には、反論などし難い事実が裏付けられていた。
『誰が、能天気なのかな?』
『えっっ……!?』
突然の背後からの聞き覚えのある声に、神部さんは一瞬、言葉を失っていた。
『親父、どうして?』
秋山さんも会長の声に怪訝そうに振り返った。会長が現場に姿を見せるなんて、最近では珍しいことだったからだ。
『小森の、歌の出来はどうなのかな?、神部くん』
『あっ、はいっ……、順調に……運んでおります。ああ……、今日も、都内で興行の予定が入っておりまして……、はい……。彼の歌声に期待している次第です……』
『そうか、私も期待しているよ。何せ、神部くんの後押しがあってのことだものなあ』
『あっ、はい、何とか、ご期待に沿えるように、全力で……』
『ああ、小森くんのことだけどね、私の家で面倒見ようと思うんだが。どうだろうね?』
『えっ……?、会長のところでですか?。それは……』
『そんなこと急に言われてもさ、おふくろは大丈夫なの?。どうせ、今決めたことなんだろ?』
秋山さんが呆れて仲裁に入った。
『いいじゃないか。お前に迷惑の掛かる話しでもないだろう』
『そりゃ、そうだけど』
『中々、興味深い人材だよ。少し、社会性に乏しいところがあるようだけどね。そうだよね、神部くん?』
『あっ……。はい、恐れ入ります……』
『家内と二人っきりだ、丁度いいじゃないか。さぞかし賑やかな家になるだろうな。善は急げだ、今日の仕事が終わったら、迎えに行くと伝えてくれんか、彼に』
『はい、そのように』
『ようし。そうなったらびしびし躾せんとな、君達のような全うな大人になるようにね!。そうだろ?、神部くん』
『あっ、はいっ、恐縮です……』
こうして父は、秋山会長の自宅に住み込みという形で世話になることになった。でも、よくよく考えてみると条件の良い話だ。飯付き、風呂付きで、わずかな家賃程度を払えばいいのだから。
『さあ、靖志、もう出る時間だ!。俺は後で追っかけるから、くれぐれも上手くやるんだぜ!』
『神部さんこそ、遅れないでよね!』
『ちっ、一言余計なんだよ、この野郎!』
『えへへへっ!』
絶妙のコンビの誕生だった。神部雄一郎の手掛けた楽曲は、父の若く伸びのある歌声を、最大限に引き出した最高の曲となっていた。
都内のデパートの屋上を数箇所回る。それが、父の初仕事だった。とは言っても、父のワンマン・ショーなんてある筈はなかった。
数名の所属歌手の歌謡ショーだ。ベテランから父のような新人まで、幅広い歌声のお披露目が予定されていた。
現場に到着した父の顔は少し緊張の趣はあったものの、元来のお祭り好きも手伝ってか、まるで、新しいおもちゃを与えられた子供のようにはしゃいでいた。
『明さん、おれ何番目だったっけ?』
進行役の小田村明に、何気なく父が訊いた。
『何だよ、おめえプログラム見てないのか?』
『そんな余裕なんか無いって!。歌詞だってろくに覚えてないんだからさ』
『はあっ?。そんなんでよく来たよな、どうかしてるぜ』
『いいの、いいの。その時はその時さ』
父の言葉の意味が、小田村明には理解出来ていなかった。持ち歌の歌詞を忘れるなんてことは、歌手生命に、“最低”の烙印を押されるようなものだ。
『おめえの番はトップだよ。つまり、最初だ』
『えっ!、最初?。そんなの聴いてないよお!。おれ』
『あのな、昨日今日決まった訳じゃないんだぜ。いい加減にしろよな!』
『で、何時から始まんの?』
『馬っ鹿かぁ、おめえはよお!!』
やはり、父の社会性は乏しかった。と言うよりも、情けないほど皆無にも思えた。
『頼むぜえ、おめえの出来次第でさあ、俺まで巻き添えにされたんじゃ、堪ったもんじゃねえぞ。そこんとこ判ってくれよな!』
『明さん、大丈夫だから。心配しないで仕事に集中してよ、ねっ、いい?』
『おめえの頭ん中、覗いてみたいよな。一体、どうなってんだよ!』
『新人の小森くんって言ったっけ、君』
この時、傍にいた男から声が掛かった。
『そうだよ、小森靖志ってんだ。芸名は、“ゆうじ”だけどね。ところで、おたく誰?』
『誰って?、随分と失礼な訊き方だなあ……。少なくとも君よりは先輩なんだけど』
『そうなんだ、よろしく!』
『立花勇気だ、忘れんなよ!』
『ああ、忘れない。けど、おたくこそ忘れないようにね、おれのこと』
『何だと!、そんな言い方ってあるかよっ!』
『おいおい、止めろよお前ら。もうじき本番だからよ、気を抜かないようにしろや!』
小田村の制止で、この場は収まったように思えた。しかし、父と立花勇気との確執は、この先、互いの運命を決定的にすることとなる。この先に起こる、ある事件を切っ掛けに・・。
『はい、本番始まるぜ!。小森、準備はいいか!』
『はいな、万全だぜ!』
司会者の発声と、盛大な伴奏に送られて、父は舞台に飛び乗った。白いスーツに身を纏った父の姿は、目を見張るほど立派に映っていた。
『最初に歌いますは、新人ながら稀有の歌唱力を持ちます。トウチク・レコード期待の星!、“小森ゆうじ”です!。曲名、“君が待つ丘”っ!。どうぞお聴きください!!』
背中にせせらぐ前奏に軽く身を躍らせて、父は観客に目を配っていた。名も知れぬ新人歌手に、場内から、まばらな拍手が送られた。
“いつかしーらー、待つことにー、なれてしまったあーー。夕暮れのー寂しさがあー、紅く染まるうーーっ。そこにわあーー、居ないはずの君いーー、たそがれが甘くうー空をそめーーるうーっ・・・・”。
歌い出しは見事に成功だった。感情を上手く抑えたテンポの良い曲調は、今までに無い新しいブルース調に仕上がっていた。さすが神部雄一郎の手腕は、まさに父の歌声を存分に活かしていた。
いよいよ盛り上がりに差し掛かった時だった。突然、マイクの音が途絶えた。
『えっ……?』
驚いた役員達は、予期せぬその失態に焦っていた。動揺を隠し切れない小田村さんは、その場に立ち尽くしていた。次第に観客がざわめき始めた。
幸い伴奏だけは続けられていた。父は特に焦った様子も無く、ゆっくりとマイクスタンドから離れ、そして舞台から飛び降りた。
『何やってんだよ!、あいつ!!』
小田村さんは、この事態に目を疑った。父は、観客の目の前に身を置き、再び歌い出したのだ。
“君がーー、来るのはぁーーたそがれー時いのおーー、風にゆーられえーーてえー、おれのーー心ーにいー、舞いおーーりぃるーー”。
何と父は、マイクに頼らず生声で歌い始めた。しかも舞台を無視して、観客のど真ん中で一人ひとりに歌いかけるように、その歌声を届けた。
圧巻だったのは、マイク無しでも充分に響き渡る父の声量だった。発声練習なんて我流でしかない、専門知識すらおぼつかない。まるで雑草をお手本にしたような父だった。そんな父の歌声でも、次第に観客の心を引き寄せ始めた。
図々しくも、握手の手を差し出した父に、戸惑いながらもそれに応える客。舞台を降りて歌うなんて芸当は、当時は誰も想像すら出来なかっただろう。それはまるで斬新なワンマン・ショーの光景を垣間見ているようだった。
曲を歌い終わって暫くは、拍手の渦の中で父は満足気に、何度も頭を下げていた。
『小田村さん、マイクコードが抜けていました……』
『何だって?、どうしてだよ!』
『いやっ、どうしてって言われても。さっぱり……』
『誰か抜いたのか!、それとも、抜けたのかよ??』
原因不明の事態に、皆、不安を隠せないでいた。
『小田村さーん!。どうしたんですかあ、原因は判ったんですか?』
調子外れのトーンで、立花が様子を窺いにやって来た。
『ああ、立花か。どうやらマイクコードが抜けてたみたいだ。原因はそれだが……、何故かは判ってねえんだ』
『そうなんですか。迷惑な話だなあ。僕の時は見張っててくださいね、お願いしますよ!。僕は奴のような大衆性はないですからね。はははっ』
立花が嫌味たらしく父を笑った。父と対照的な立花の歌声は、雅な個性を光らせていたからだ。
高音で透き通るような歌声。しかも、すらりと伸びた足元。それに加え、日本人離れした精悍な顔立ちは、トウチク・レコードの中でも屈指の若手歌手の一角だった。
『……判ってるさ、任せなよ』
そう応えた小田村は、何故か立花の言葉に違和感を覚えた。元々、立花の接し方に嫌悪感を抱いていた小田村には、ある種の疑念が残っていた。
『立花くん、何番目だったっけ、君の出番!』
『やだなあ、小田村さん。最後ですって、忘れてたんですか?。僕以外に、とりを飾れる人って、残念ながら、この中にいないからなあ』
案の定、立花らしい返事だった。
『そうだよなあ。今んところはね……』
『今のところって?、気になる言い方だなあ……。小田村さん、言っておきますけど。今は、僕の機嫌を損なわないほうが懸命だと思いますよ。あなたの立場上ね』
『判ってらあ、とっとと行きな。後がつかえてんだよ!』
『ちぇっ!』
『おい、お前ら。マイクコード抜かれねえようにな、見張っとくんだぜ、いいな!』
『小田村さん、何か言いたげですけど、僕に……』
『出番が控えてんだ、余裕こいて席なんか立ってもらって欲しくないんだよ。こっちも進行の具合ってもんがあるんでね』
『ああ、そういうことね』
小田村さんのイラついた言葉に、背を向けるように立花はその場を離れようとしていた。
『参ったなあ!。マイクが使えないんじゃ、客席に降りるしかないよ。ねえ、明さん!』
歌い終わった父が、小田村さんの下にやって来た。その顔は晴々として、満足気だった。
『すまねえな、靖志。とんだ失態だったなあ、悪かった……』
『いいんだよ、お陰でお客さんと仲良くなれたさ。最高の舞台だったよ!。ありがとう!』
『はーーん。仲良くなれたか。気楽なもんだね、君は』
まだその場に居た立花が、呆れたように切り出した。
『ああ、さっきの、あんたか。ええっと、名前、なんてたっけ?』
『なっっ、お前さ、先輩に向かって失礼だろ、おい!!』
頭に来た立花は、父の襟元に手を絡めた。
『先輩って、そんなに偉いのか?』
『何をっっ!!』
更に強く、立花の両手が父の襟を持ち上げた。
『馬っ鹿じゃねえの……』
そう言って、ポケットに入れていた両手を出すや否や、襟元に結ばれていた立花の手を軽々と跳ね除けた。
『ううっっ!』
次の瞬間、立花の右腕は背後に吊り上げられていた。
『あ痛てててっ!!』
『あんたの歌の実力はどうか知んねえけどさ、喧嘩は酷くお粗末なようだな』
『やめろ!、靖志。手を放すんだ!』
小田村さんが慌てて父の手を解いた。
『馬鹿な真似は止めろ!、ここを何処だと思ってんだ!。お前らの大切な場所だろうが!。何を考えてんだよ!!』
『ああ、そうだった。わりい……』
小田村さんのその言葉に、父はあっさりと従った。一方、気が収まらない様子の立花は、髪型を整えるとすぐに、向きを変えて歩き出した。
『立花!、何処へ行く気だ。出番まで時間は無いんだぞ!』
『誰か適当に埋めてくれよ。こんなんで歌えるかよ』
『何言ってんだ!、穴を開けるっていうのか?。お前プロの歌い手だろ!。そうじゃねえのかよ!』
『へっ、恥をかかされて歌えるほど、粗末に出来てないんでね。誰かさんと一緒にしないで欲しいよな』
立花の自尊心は、この場を放棄することを選んだようだ。それにしても、あっさりとだ。
『何を揉めてんだ?、お前ら。小田村!、何やってんだよお!!』
『あっ、神部さん……』
ようやく駆けつけた神部さんが、烈火のごとく火を吹いた。神部さんが到着するや、役員の一人からの状況説明に、現場の醜態を聞かされた神部さんは、事態の収拾を重く見ていた。
『立花っ!。歌の準備は出来てるのかよ?、お前』
『あっ、はい。どうにか……』
『で、何処に行くつもりなんだ?。手洗いだったら逆の方向だろうがあ!』
『戻れば、いいんですよね……』
『どうした、戻らない選択もあるのかよ?』
『いえ、そういう訳では……』
神部さんの言葉に、しぶしぶ移動するしかない立花だった。
『靖志、気持ちよく歌えたか?』
『ああ、最高の気分さ!。やっぱ、歌はいいぜ!』
『そうか、それは良かった。俺も聴きたかったよなあ、お前の晴れ舞台の歌をさ』
マイク無しでの父の熱唱。その事態を聞かされていた神部さんにとっては、余計にでも立ち会っていたかった。それほど、父に寄せる期待は大きかったのだ。
『生声だってな』
『ああ、機械に頼っちゃ駄目だな。そう思ったぜ』
『強がりか?、それとも本心か?』
『へへへっ、両方だね!』
『無理すんなよな、いいか』
密談とも窺える、父と神部さんの些細なやりとりは、無意識ながらも互いの信頼を前提としていたのだろう。大袈裟に立ち振る舞う必要なんて、無駄に思えた。
『小田村、ちょっといいか?』
『は、はい……』
『靖志!、わりいな、またあとでな』
『ああ、声掛けてよね。神部さん!』
父に遠慮しながら、小さく小田村さんに声を掛けた神部さんは、足早に舞台袖に移動した。小田村さんは、躊躇しながらもその後を追い掛けた。
『確認したいことがある。迷ったりするなよ』
『迷うって、どういうこと……』
『それが余計なんだ。黙って聞いてろ!』
小田村さんの言葉を制止した神部さんは、怒りにも似た煩わしさを口にしていた。
『音響の人間どもは、何処にいたよ?』
『何処って、ここに、段度っていましたけど』
『小森の出番の時はどうだった?、奴らどうしてたんだ?』
『いや、靖志の時だからって、特別なことは指示してませんけど……』
『はあ?。だったら何であんなことが起きたんだよ。聞いてびっくりだぜ、今までに無い演出だってよお。そう言われた時は、何のことだか判んなかったけどよ……』
『あ、はいっ。俺も正直、真っ白になりました。頭ん中……』
『誰かに心当たりはないのか?』
『誰かって……?』
『だから、誰かだよお!。お前の身近にさ、そういう奴はいないのかって訊いてんだ!。察しろよお、いい加減』
『はい……』
『音響の他に舞台の袖に行けるとすれば、誰だよ?』
『ここに居る全員が行けます。簡易式で組み立てた舞台だし、そもそも、デパートの敷地に専用通路なんて無理ですから』
『そんなことは承知で喋ってんだよお!。お前、責任者だろお?、他に誰に訊けっていうんだ?』
『すみません……』
『ちなみに、立花の様子は、どうだったよ?』
『立花ですか?、どうって言われても、漠然としか……』
『奴のことだ、体よく音響の奴らに挨拶でも行ってたんじゃねえのか?』
『おそらくは』
『そうか、お前も、感ずるところはあるようだな』
『あっ、はい……』
『まあ、今回は怪我の功名ってとこで、落ち着かせるしかないようだな』
『申し訳ないです……、神部さん』
マイクコードが抜けていた原因は、立花が絡んでいたに違いない。いや、立花本人が父の妨害を手掛けたに決まっている。それほど彼は狡猾な男だった。