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家出  作者: GUN
12/55

父の歌手人生


その日の夜、父は秋山さんに呼び出されて、多嶋屋に席を取った。


『親父さ、塩さば定食にしてよ。ご飯特盛りだよ!』

『汁はどうするよ、靖志』

『ああ、豚汁がいいな。それも特盛りでお願い!』

『かあちゃん、どんぶりで入れてやってくれよ。いいな』

『相変わらずの食欲だねえ、靖っちゃんは。見てて気持ちいいよ、ほんと』

『おおい靖志!。どうだい歌の勉強のほうは上手くやってんのかい?』

店の奥から常連さんの声が届いた。

『もちろんさ、松田さん。絶好調だぜ!。楽しみにしててくれよな』

『頼もしいねえ。こっちまで嬉しくなっちゃうぜえ。なあ皆』

『靖志!。おめえの後援会の会長は俺でどうだろう!』

『馬鹿野郎!。お前に会長が務まるもんかい。調子に乗んなって重雄よお!』

『そうかあ……?、俺が適任だと思うけどなあ』

『そんなことより、もっと飲めよほらっ!』

夜の多嶋屋は、酒飲みの常連客の隠れ家でもあった。


『靖志よ、お前も飲めんだろ。どうだ一杯』

『いいの?、松っちゃん!』

『へへへ、遠慮なんていいよお。親父ぃ、ビール。ビールやってよ靖志にさ!』

『はいよ!、こちらも特盛りでね!』

『あんたは調子に乗らなくていいんだよ。まったく』

『お前は出しゃばんなって!。乗りが大事なんだよ、判ってねえな!』

『どっちでもいいけどさ、さば焦げてない?。親父』

『おおっと、危ねえや!。折角のさばが黒焦げになるところだったよ。すまんな靖志』

秋山さんと初めてここを訪れて以来、父はまるで本当の親子のようにこの夫婦を慕っていた。この多嶋屋を訪れる客の大半も、父のことを応援してくれていた。


『それにしても、秋ちゃん遅いよなあ。一体、何してんだか』

『おれのことで揉めてんじゃないかな。険悪な雰囲気だったけど』

『誰と揉めてんだよ、ええっ?』

『気になる?』

『あったりめえだろう!。秋ちゃんを敵に回すなんてよ、人の道理が判っちゃいないってことだ。そんな奴に付き合わされたんじゃ、時間の無駄ってもんさ。秋ちゃんも堪ったもんじゃないよな!』

『そうだろーっ、とにかく生意気でさあ、そいつ。おれも頭にきたからさ、余計に一言いってやったんだ。ざまあねえって』

『どこのどいつだよ、一体。ああん?』

『うん、神部って奴さ』

『えっ……、神部っ……て?』

一瞬、親父さんの声が裏返った。それは心当たりのある戸惑いの声でもあった。


『神部って、あの神部さんかい?』

『あのって。他にいるのか?、神部って』

『靖志よ……、あのな、よーく考えて言うんだぞ。いいな、もう一度訊くからな。秋ちゃんと揉めてたっていう男はだな、何ていう男だったかなあ?』

『ああ、神部だよ。どうも秋山さんの先輩らしい』

『……。ああっ、そうなんだな……』

『どうしたの、親父?。顔色よくないぜ?』

『靖志!、おめえすぐに頭下げて来い。神部さんに謝って来い!』

『何だよ急に、おれは間違ったことは言ってないよ。なんで謝らないといけないんだよ!』

『あのな……靖志。間違ってるとかそういう次元じゃねえんだよ。おめえは今、秋山さんの下から世に出ようって時なんだ。その大切な時にだな、敵を作っちゃあなんねえんだよ』

『敵って、神部って奴のことか?』

『そうだ、神部雄一郎。トウチクレコードの敏腕プロデューサーだよ。あの人のさじ加減ひとつで、売れる売れないが左右されるってほどさ・・。あんな人を敵に回してみろよ、おめえなんて造作もねえって・・』

『へえ、そんな大そうな男には見えなかったけどなあ』

『いいから、一刻も早く頭を下げるこった。さあ!』

『やだね。おれは自分の主張を曲げることはしない主義なんでね。人に頭を下げるなんてお断りだよ!』

『そんなこと言ってる場合じゃねえんだぞ!。てめえのことばっか考えやがって。おめえは秋山さんの夢を台無しにするっていうのか?。おめえに託したあの人の夢を、いいや!。俺たち夫婦の夢をも壊そうっていうんだな!。このおお馬鹿野郎がっ!!』

『そうだよ、靖ちゃん!。あんたの晴れ姿が、あたしたちの夢なんだよお。あたしたちばかりじゃないさ。ここに来てくれているお客さん全員が、あんたを夢見ているって・・、気づかないのかい!』

『おばちゃん……』

『そんなろくでなしとは、付き合いきれないね。そんな子に飯を食わせる義理もないんでね、とっとと出て行ってもらおうじゃないの!』

『ち、ちょっと待ってよ!。そんなに深刻な問題なの?』

珍しく、父が身を乗り出して言い迫った。


『おめえはまだ知らないけどよ。今まで秋ちゃんの連れてきた若い衆の末路なんてさ、哀れなものだったさ。そりゃあ自信家の集まりだったからな、お山の大将って奴ばかりでよ。今のおめえみたく、他人の言葉なんてどこ吹く風さ。けどな、歌の世界ってそんなに甘くはないんだぜ、靖志。辛いのはどこの世界も一緒だと思うけどよ。特別だな、ありゃあ』

親父さんの嘆きは、そんな父の無鉄砲さを戒めていた。

『判ってらあ。おれだって、今まで楽に暮らしてきた訳じゃないんだぜ。もう歌なんて辞めようかって、何度、考えたことか』

『靖志、おめえ……』

『強く生き続けるためにはさ、自分を守れる言葉が大事なんだよ。生意気だろうが、なんだろうが、武器をもたなきゃいけないんだ。学の無いおれみたいな者には、それしか無いんだよ!』

『そうか……。今のおめえの話は、俺たちがしっかりと聞き受けてやるぜ。だからよ、靖志、ここは大人になれ。おめえの将来のためにも、今日だけは秋ちゃんのた……』

『いいんだよ、おやっさん!。それ以上は野暮ってものさ』

突然のその声の持ち主は、秋山さんだった。


『あ、秋ちゃん!。いつの間に……』

『筒抜けだな、この建物は。多嶋屋での密談は、控えたほうが無難なようだね』

『秋山さん』

さっきまでの険悪な雰囲気が、秋山さんの登場で吹き飛ばされた。

『靖志、何食ってる?』

『ああ、さばの、塩焼きさ』

『親父、僕にも同じものを。それと熱燗を二合で』

『……?。熱燗って、秋ちゃん飲めないんじゃなかったっけ?』

『ひと口くらいはいいだろう?。気持ちのいい日なんだ、今日はね』

『揉めてたんじゃ、ないのかい?』

親父さんが恐るおそる、秋山さんに問いかけた。

『揉めるって、何のことだろう?』

『あっいやっ、靖志がそう言ってたからさ。てっきり、誰かさんと……かなって……?』

『意外とお喋りなんだな、靖志は。何でもないさ、仕事での衝突は今に始まったことじゃないし。時にはお偉いさんとも、やったりもするさ』

『言ってくれよっ!。おれが原因なんだろ?。だから、神部って奴と、揉めてたんだよな!』

『落ち着けよ靖志。お前が気にすることはないんだ。お前の素性はすでに、この業界の一部では有名なようだ。生意気を絵にしたような若造だってね。恥ずかしいけど、知らないのは僕だけみたいだよ』

『そう』

『ところで、幾つの会社を蹴ったんだ?。今まで』

『……。はっきりと覚えてんのは、六つかな……。でも、蹴ったんじゃないぜ!。向こうから一方的に解雇さ。話になんねえや!』

『レコーディングはしたのか?』

『いいや、そこまでは』

『じゃあ、どこまで?』

『面接で歌って褒められて。それだけさ』

『ふーーん、それだけねえ……?』

『ああ……。事務所に顔を出してさ、お茶を飲まされて。確か……、偉そうなおっさん連中の相手をしたな』

『それで話はまとまった。それでいいか?』

秋山さんはまるで誘導尋問のように、父の話を誘い出していた。


『まとまる訳ないじゃん。まるでおれのこと判っちゃいないんだぜ、あいつらさ』

『判っていないって、どういう風に?』

『どういうって。そうだな、流行の歌で好きな曲はあるか?、とか、どんな歌い手を目指してるんだとか・・・…。おれは別に人に頼んないからさ、答えようがなくて。だから言ってやった。“おれにどんな歌を歌わせたいんだ”ってさ』

『そしてついに、お前の、“いい加減にしろ”、かあ?』

『判ってんじゃん、秋山さん!。つまらない話にはうんざりでさ、つい喧嘩腰になっちまうんだ。当然、相手はおれみたいな野良犬は御免だってね。契約どころじゃない』

『靖志、お前の本音を訊こう。どんな歌が希望だ?。どんな歌だったら僕に応えてくれるんだ?』

秋山さんは父の右肩にしっかりと手を置き、覗き込むように父を凝視していた。

『どんな歌だって歌ってやるさ。自分に与えられた楽曲は、つまり、おれ自身の命みたいなものだからな』

『そうか、そうだな』

多くを語らない秋山さんは、それでも満面の笑みを浮かべていた。


『おやっさん、早く熱燗出してよ!』

『おおっと、ごめんよ』

父と秋山さんの前に、ふたつのお銚子が並べられた。それに向けてなみなみと熱燗が注がれた。

『靖志、乾杯だ!』

『えっ、何のための?』

『お前と僕の未来にだ。駄目かな?』

『ちょっと待っておくれよ!、秋ちゃん。折角なんだからさ、全員で乾杯しようや。なあ、皆よ!』

『そうだぜえ!。二人きりなんて野暮なことはよしてくれよお。俺たち全員の夢なんだからさ、靖志の晴れ舞台はよお!。秋山さん、独り占めはずるいぜえ!』

『そうだよ、水臭いなあ!』

『さあさあ、全員立った、立った!』

『えーっ、小森靖志くんと、秋山昭二さんの。いや、こうなったらここに居る全員のだな、えーっと、明るい……、あーっ、将来にだな……』

『なんだよ親父ぃ!。早くしろよ!』

『ええい!、判ってらあ、うるせえなあ。とにかくよお、乾杯―っ!』

『乾杯――っ!』

父と秋山さんの門出を、多嶋屋の全員が祝福してくれた。それはそれは、盛大なる出発式だった。


『秋山さん。おれ、どんな曲だって歌うから。命を削る覚悟でさ!』

『立派なこと言うじゃないか。さては、誰かの受け入りかな?』

『やべ、ばれてんだなあ……』

『僕も何度も言い聞かされたよ。あの父の言葉には、まったく感心ものだ。同じ歌をいつも歌っていると、つい気が緩んでしまうからね。そこに落とし穴が待ってるってことなんだろうな』

『秋山さんの親父って、歌手だったの?』

『ああ、かなり昔だったけど。結構、有名だった時期もあったらしい。けれど、第一線から外れてしまったよ・・。たまに父のレコードを聴くことがあるんだけど、素晴らしい歌声だよ』

『げっ、そうだったのか。生意気言っちゃったなあ、おれ……』

『気にしないことさ。そこがお前の良いところでもあるんだし。角が取れた小森靖志なんて、僕は想像もしたくないよ』

『じゃあ、いいのかこのまんまで?。おれは』

『お前にもじきに判る時が来るだろうさ、大人社会の渡り方がね。その時までは自然体でいいんだ。背伸びなんて、今は何の得にもならないよ』

『そうか、そうだよな……』


父の中で、少しずつ変化していくものがあった。それは物理的には解明出来ない、目には見えない変化のようだった。大人の言葉に無抵抗の父を、この時初めて見たような気がした。

結局、神部さんとの揉め事は解消されていた。秋山さんとの言い争いは業務上の成り行きで、特に珍しいことでもなかったようだ。せっかちな父の思い過ごし、つまり、“フライング”だったってこと。

人騒がせな父の恒例は、今に始まったことでもなかったけど、この時ばかりは皆に頭を下げるしかなかったようだ。


順調に仕上がっていく父に与えられる曲は、あの神部雄一郎が手掛けた楽曲となった。

秋山さんの希望でもある洋楽の趣を配慮してか、実にモダンな歌謡曲に仕上げられていた。

昭和恐慌の後、ようやく回復された庶民の生活には、演歌・民謡、そしてムード歌謡等の、感傷のメロディーで、国民の感情はようやく安泰を保てたといっても過言ではなかった。


閉塞された闇の時代を打ち破るのには、民衆に根付いた明るい歌声が何よりも大切だったようだ。

こうして父の一世一代の歌手人生が、ようやく始まろうとしていた。

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