父の歌手人生
その日の夜、父は秋山さんに呼び出されて、多嶋屋に席を取った。
『親父さ、塩さば定食にしてよ。ご飯特盛りだよ!』
『汁はどうするよ、靖志』
『ああ、豚汁がいいな。それも特盛りでお願い!』
『かあちゃん、どんぶりで入れてやってくれよ。いいな』
『相変わらずの食欲だねえ、靖っちゃんは。見てて気持ちいいよ、ほんと』
『おおい靖志!。どうだい歌の勉強のほうは上手くやってんのかい?』
店の奥から常連さんの声が届いた。
『もちろんさ、松田さん。絶好調だぜ!。楽しみにしててくれよな』
『頼もしいねえ。こっちまで嬉しくなっちゃうぜえ。なあ皆』
『靖志!。おめえの後援会の会長は俺でどうだろう!』
『馬鹿野郎!。お前に会長が務まるもんかい。調子に乗んなって重雄よお!』
『そうかあ……?、俺が適任だと思うけどなあ』
『そんなことより、もっと飲めよほらっ!』
夜の多嶋屋は、酒飲みの常連客の隠れ家でもあった。
『靖志よ、お前も飲めんだろ。どうだ一杯』
『いいの?、松っちゃん!』
『へへへ、遠慮なんていいよお。親父ぃ、ビール。ビールやってよ靖志にさ!』
『はいよ!、こちらも特盛りでね!』
『あんたは調子に乗らなくていいんだよ。まったく』
『お前は出しゃばんなって!。乗りが大事なんだよ、判ってねえな!』
『どっちでもいいけどさ、さば焦げてない?。親父』
『おおっと、危ねえや!。折角のさばが黒焦げになるところだったよ。すまんな靖志』
秋山さんと初めてここを訪れて以来、父はまるで本当の親子のようにこの夫婦を慕っていた。この多嶋屋を訪れる客の大半も、父のことを応援してくれていた。
『それにしても、秋ちゃん遅いよなあ。一体、何してんだか』
『おれのことで揉めてんじゃないかな。険悪な雰囲気だったけど』
『誰と揉めてんだよ、ええっ?』
『気になる?』
『あったりめえだろう!。秋ちゃんを敵に回すなんてよ、人の道理が判っちゃいないってことだ。そんな奴に付き合わされたんじゃ、時間の無駄ってもんさ。秋ちゃんも堪ったもんじゃないよな!』
『そうだろーっ、とにかく生意気でさあ、そいつ。おれも頭にきたからさ、余計に一言いってやったんだ。ざまあねえって』
『どこのどいつだよ、一体。ああん?』
『うん、神部って奴さ』
『えっ……、神部っ……て?』
一瞬、親父さんの声が裏返った。それは心当たりのある戸惑いの声でもあった。
『神部って、あの神部さんかい?』
『あのって。他にいるのか?、神部って』
『靖志よ……、あのな、よーく考えて言うんだぞ。いいな、もう一度訊くからな。秋ちゃんと揉めてたっていう男はだな、何ていう男だったかなあ?』
『ああ、神部だよ。どうも秋山さんの先輩らしい』
『……。ああっ、そうなんだな……』
『どうしたの、親父?。顔色よくないぜ?』
『靖志!、おめえすぐに頭下げて来い。神部さんに謝って来い!』
『何だよ急に、おれは間違ったことは言ってないよ。なんで謝らないといけないんだよ!』
『あのな……靖志。間違ってるとかそういう次元じゃねえんだよ。おめえは今、秋山さんの下から世に出ようって時なんだ。その大切な時にだな、敵を作っちゃあなんねえんだよ』
『敵って、神部って奴のことか?』
『そうだ、神部雄一郎。トウチクレコードの敏腕プロデューサーだよ。あの人のさじ加減ひとつで、売れる売れないが左右されるってほどさ・・。あんな人を敵に回してみろよ、おめえなんて造作もねえって・・』
『へえ、そんな大そうな男には見えなかったけどなあ』
『いいから、一刻も早く頭を下げるこった。さあ!』
『やだね。おれは自分の主張を曲げることはしない主義なんでね。人に頭を下げるなんてお断りだよ!』
『そんなこと言ってる場合じゃねえんだぞ!。てめえのことばっか考えやがって。おめえは秋山さんの夢を台無しにするっていうのか?。おめえに託したあの人の夢を、いいや!。俺たち夫婦の夢をも壊そうっていうんだな!。このおお馬鹿野郎がっ!!』
『そうだよ、靖ちゃん!。あんたの晴れ姿が、あたしたちの夢なんだよお。あたしたちばかりじゃないさ。ここに来てくれているお客さん全員が、あんたを夢見ているって・・、気づかないのかい!』
『おばちゃん……』
『そんなろくでなしとは、付き合いきれないね。そんな子に飯を食わせる義理もないんでね、とっとと出て行ってもらおうじゃないの!』
『ち、ちょっと待ってよ!。そんなに深刻な問題なの?』
珍しく、父が身を乗り出して言い迫った。
『おめえはまだ知らないけどよ。今まで秋ちゃんの連れてきた若い衆の末路なんてさ、哀れなものだったさ。そりゃあ自信家の集まりだったからな、お山の大将って奴ばかりでよ。今のおめえみたく、他人の言葉なんてどこ吹く風さ。けどな、歌の世界ってそんなに甘くはないんだぜ、靖志。辛いのはどこの世界も一緒だと思うけどよ。特別だな、ありゃあ』
親父さんの嘆きは、そんな父の無鉄砲さを戒めていた。
『判ってらあ。おれだって、今まで楽に暮らしてきた訳じゃないんだぜ。もう歌なんて辞めようかって、何度、考えたことか』
『靖志、おめえ……』
『強く生き続けるためにはさ、自分を守れる言葉が大事なんだよ。生意気だろうが、なんだろうが、武器をもたなきゃいけないんだ。学の無いおれみたいな者には、それしか無いんだよ!』
『そうか……。今のおめえの話は、俺たちがしっかりと聞き受けてやるぜ。だからよ、靖志、ここは大人になれ。おめえの将来のためにも、今日だけは秋ちゃんのた……』
『いいんだよ、おやっさん!。それ以上は野暮ってものさ』
突然のその声の持ち主は、秋山さんだった。
『あ、秋ちゃん!。いつの間に……』
『筒抜けだな、この建物は。多嶋屋での密談は、控えたほうが無難なようだね』
『秋山さん』
さっきまでの険悪な雰囲気が、秋山さんの登場で吹き飛ばされた。
『靖志、何食ってる?』
『ああ、さばの、塩焼きさ』
『親父、僕にも同じものを。それと熱燗を二合で』
『……?。熱燗って、秋ちゃん飲めないんじゃなかったっけ?』
『ひと口くらいはいいだろう?。気持ちのいい日なんだ、今日はね』
『揉めてたんじゃ、ないのかい?』
親父さんが恐るおそる、秋山さんに問いかけた。
『揉めるって、何のことだろう?』
『あっいやっ、靖志がそう言ってたからさ。てっきり、誰かさんと……かなって……?』
『意外とお喋りなんだな、靖志は。何でもないさ、仕事での衝突は今に始まったことじゃないし。時にはお偉いさんとも、やったりもするさ』
『言ってくれよっ!。おれが原因なんだろ?。だから、神部って奴と、揉めてたんだよな!』
『落ち着けよ靖志。お前が気にすることはないんだ。お前の素性はすでに、この業界の一部では有名なようだ。生意気を絵にしたような若造だってね。恥ずかしいけど、知らないのは僕だけみたいだよ』
『そう』
『ところで、幾つの会社を蹴ったんだ?。今まで』
『……。はっきりと覚えてんのは、六つかな……。でも、蹴ったんじゃないぜ!。向こうから一方的に解雇さ。話になんねえや!』
『レコーディングはしたのか?』
『いいや、そこまでは』
『じゃあ、どこまで?』
『面接で歌って褒められて。それだけさ』
『ふーーん、それだけねえ……?』
『ああ……。事務所に顔を出してさ、お茶を飲まされて。確か……、偉そうなおっさん連中の相手をしたな』
『それで話はまとまった。それでいいか?』
秋山さんはまるで誘導尋問のように、父の話を誘い出していた。
『まとまる訳ないじゃん。まるでおれのこと判っちゃいないんだぜ、あいつらさ』
『判っていないって、どういう風に?』
『どういうって。そうだな、流行の歌で好きな曲はあるか?、とか、どんな歌い手を目指してるんだとか・・・…。おれは別に人に頼んないからさ、答えようがなくて。だから言ってやった。“おれにどんな歌を歌わせたいんだ”ってさ』
『そしてついに、お前の、“いい加減にしろ”、かあ?』
『判ってんじゃん、秋山さん!。つまらない話にはうんざりでさ、つい喧嘩腰になっちまうんだ。当然、相手はおれみたいな野良犬は御免だってね。契約どころじゃない』
『靖志、お前の本音を訊こう。どんな歌が希望だ?。どんな歌だったら僕に応えてくれるんだ?』
秋山さんは父の右肩にしっかりと手を置き、覗き込むように父を凝視していた。
『どんな歌だって歌ってやるさ。自分に与えられた楽曲は、つまり、おれ自身の命みたいなものだからな』
『そうか、そうだな』
多くを語らない秋山さんは、それでも満面の笑みを浮かべていた。
『おやっさん、早く熱燗出してよ!』
『おおっと、ごめんよ』
父と秋山さんの前に、ふたつのお銚子が並べられた。それに向けてなみなみと熱燗が注がれた。
『靖志、乾杯だ!』
『えっ、何のための?』
『お前と僕の未来にだ。駄目かな?』
『ちょっと待っておくれよ!、秋ちゃん。折角なんだからさ、全員で乾杯しようや。なあ、皆よ!』
『そうだぜえ!。二人きりなんて野暮なことはよしてくれよお。俺たち全員の夢なんだからさ、靖志の晴れ舞台はよお!。秋山さん、独り占めはずるいぜえ!』
『そうだよ、水臭いなあ!』
『さあさあ、全員立った、立った!』
『えーっ、小森靖志くんと、秋山昭二さんの。いや、こうなったらここに居る全員のだな、えーっと、明るい……、あーっ、将来にだな……』
『なんだよ親父ぃ!。早くしろよ!』
『ええい!、判ってらあ、うるせえなあ。とにかくよお、乾杯―っ!』
『乾杯――っ!』
父と秋山さんの門出を、多嶋屋の全員が祝福してくれた。それはそれは、盛大なる出発式だった。
『秋山さん。おれ、どんな曲だって歌うから。命を削る覚悟でさ!』
『立派なこと言うじゃないか。さては、誰かの受け入りかな?』
『やべ、ばれてんだなあ……』
『僕も何度も言い聞かされたよ。あの父の言葉には、まったく感心ものだ。同じ歌をいつも歌っていると、つい気が緩んでしまうからね。そこに落とし穴が待ってるってことなんだろうな』
『秋山さんの親父って、歌手だったの?』
『ああ、かなり昔だったけど。結構、有名だった時期もあったらしい。けれど、第一線から外れてしまったよ・・。たまに父のレコードを聴くことがあるんだけど、素晴らしい歌声だよ』
『げっ、そうだったのか。生意気言っちゃったなあ、おれ……』
『気にしないことさ。そこがお前の良いところでもあるんだし。角が取れた小森靖志なんて、僕は想像もしたくないよ』
『じゃあ、いいのかこのまんまで?。おれは』
『お前にもじきに判る時が来るだろうさ、大人社会の渡り方がね。その時までは自然体でいいんだ。背伸びなんて、今は何の得にもならないよ』
『そうか、そうだよな……』
父の中で、少しずつ変化していくものがあった。それは物理的には解明出来ない、目には見えない変化のようだった。大人の言葉に無抵抗の父を、この時初めて見たような気がした。
結局、神部さんとの揉め事は解消されていた。秋山さんとの言い争いは業務上の成り行きで、特に珍しいことでもなかったようだ。せっかちな父の思い過ごし、つまり、“フライング”だったってこと。
人騒がせな父の恒例は、今に始まったことでもなかったけど、この時ばかりは皆に頭を下げるしかなかったようだ。
順調に仕上がっていく父に与えられる曲は、あの神部雄一郎が手掛けた楽曲となった。
秋山さんの希望でもある洋楽の趣を配慮してか、実にモダンな歌謡曲に仕上げられていた。
昭和恐慌の後、ようやく回復された庶民の生活には、演歌・民謡、そしてムード歌謡等の、感傷のメロディーで、国民の感情はようやく安泰を保てたといっても過言ではなかった。
閉塞された闇の時代を打ち破るのには、民衆に根付いた明るい歌声が何よりも大切だったようだ。
こうして父の一世一代の歌手人生が、ようやく始まろうとしていた。