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家出  作者: GUN
10/55

秋山と多嶋屋の親父


16歳で東京に上京してから歌にたどり着くまで、生半可な努力ではいられなかった。

朝早くから、人の寝静まるころまで、若い身体は嫌というまで働き続けた。

レコード会社の門を叩きながら、夜の流し家業で夢を繋いでいた。


そんな父が、18歳を迎えたある晩。勤め先のナイト・バーで、いつものように曲をこなしていた。

土曜日の夜にもかかわらず、客席はまばらに席を埋める程度の入りだった。

父の姿など眼下にも置かない酔った客。お喋りに夢中で、大きな声で談笑する中年女性。グラスを口にするわけでもなく、ただ、ステージのピアノを睨み付けているだけの気取った紳士。


『ねえ、成二さん。あの客また来てるよ、ほら、いつもの席』

『なんだ、今晩もかあ……?。よっぽど暇らしいな』

『成二さんのピアノばかりみてるぜ、しかも渋い顔してさ。もしかして、成二さんのこと気に入ってんじゃないのかよ』

『馬鹿言うなよ、俺の技術なんてたかが知れてるよ。それに、もう歳だ。ここで演奏するのでやっとだよ』

『そう?、惜しいような気がするけどなあ……』

『ほら、時間だ。さっさと行きなよ』

『えっ、もうそんな時間かよ。ちっ、もっと休んでいたいよな』

お決まりの数曲を、今晩も決まった時間に披露するしかない父だった。

もう飽きるほどに歌い込んだ流行の歌に、ある客席から、“待った”の声が掛かった。

『おいおい何だよ!、暗いんだよ、もっと楽しく歌えないのかあ!』

『暗いってえ、おれの歌がかよ……?』

『おおっ、何だお前……、客に文句が言えんのかあ!』

東京での生活に既にうんざりしていた父には、客であろうと誰であろうと、歓迎出来ない輩は、皆、一緒だった。


『けっ!、俺の持ち歌だったらぶん殴るところだけどな。仕方ねえや他人様の歌だもんな、まあ、大目に見てやるぜ』

勝気な父の性格は、“はいそうですか”で済ませられるほど、柔ではなかった。


『何て言い方だ!。おい、この野郎!』

酒の力を借りてか、その客も引き下がる意思はないようだった。

互いに譲らぬまま、しばし睨み合いが続いていた。

その時だった。父のバックに控えていたピアノの鍵盤が、急に踊りだした。軽快なリズムと、跳ねるような高揚を隠し切れない音楽が流れ出したのだ。

『成二さん……。この曲?』

後ろを振り向いた父に、ピアノ奏者の小田成二が、“にんまり”と笑いながら言った。

『靖志!。ついて来いよ!』

ピアノの音に合わせて、父はご機嫌に身体を揺すぶり始めた。ホールの客たちの数人が、それに続いて手拍子を重ねていた。

スタンドマイクを抱擁するかのように両手で掴み、父が歌い始めた。


“When The Saints Go Marchin In――”、なんと、流暢に歌いだした曲は、デキシージャズの名曲。“聖者の行進”だった。

先ほど苦情を申し入れていたその客は、“きょとん”としていたかと思うと。やがて手拍子の渦の中心となっていた。

気づけばホール全体の客が、総立ちでスイングを愉しんでいた。

額に汗を滲ませながら、父の熱唱は数分間続けられた。それは嬉しそうに、父の眼はとても輝いていた。

圧巻だった。わずか18歳の少年が、ここまで客を引き付けるなんて、ピアノ奏者の小田成二でさえ想像もしていなかっただろう。最後の鍵盤を叩き終えた時の彼の目線は、目の前の父以外を見る由もなかった。

両手を大きく翳した父の誇らしげな顔は、まるで大スターのように観客の前に映し出されていた。

鳴り止まない拍手の中で、素に戻った父が照れくさそうにマイクを抱きしめていた。


『あっ、うん……。ありがとう……。皆さん、ありがとう!』

礼を済ませ深々と頭を下げる父に、一人の客から声が掛かった。

『ねえ君、もう契約してるのかい?。どこかのレコード会社と』

その男は、さっきからピアノばかりを睨んでいた紳士だった。

背広姿のよく似合う、40歳前後の男が、穏やかな顔つきで父に声を掛けた。

『えっっ?』

『そうか、まだのようだね。それは好都合だ。あとで話せるかな、待っているからさ』

言葉運びから察すると、その男は、どうやらレコード会社の関係者らしかった。


『靖志、もう上がっていいぞ。あとは俺が流すからさ』

演奏を終えて腕を組んでいた小田成二が、やはり、“にんまり”と笑っていた。

『ありがとう、成二さん!』

火照った身体を冷やすかのように、さっと上着を脱ぎ捨てた父は、その紳士の下に駆け寄った。

『いったい、話ってなんだよ?』

『まあ、そうせっつくなよ。それより、時間はいいのかい?』

『ああ、今夜はもう終いだから、あんたの好きにしていいさ』

『ははっ……。なるほど、噂どおりの生意気さだ。しびれるよ、実際』

『噂どおり……?』

『ここじゃ、話しづらいだろ?。場所を変えよう』

そう言ってその男は、父を外へと連れ出した。店を出てからしばらくは、さして会話もあるわけではなかった。その男の後ろについて歩いていた父には、宛も無くただ通りを歩いているだけのように見えたのだろう、しびれを切らして父が背後から喋り掛けた。


『どんだけ歩かせるつもり?、あんた』

『腹減ってるだろう?』

『……。確かに』

『その角を曲がれば、美味い飯屋がある』

『ああ……』

『魚は好きかい?』

『ああ、好きだ』

『肉はどうだろう?』

『ああ、もっと好きだ』

『そうか、満足させてやれそうだな』

お互いの淡々としたやり取りに、特段、違和感もなかった。父の機嫌を損ねることなく、見事にその男はペースを保っっていた。いや、その男のペースに父が従っていたという方が、自然な見方のようだった。

角を曲がると、その男の言ったとおり一軒の店が二人を待っていた。その店の暖簾には、“多嶋屋”の文字が張り付いていた。店の外観からは、どう見ても料亭には程遠かった。


『さあ、入りなさい。遠慮はいらないから』

『ここって、定食屋じゃんか?』

『そうさ、飯屋って言っただろう?』

『魚とか、肉とか言ってたよなあ』

『勿論、両方とも揃っているさ。何か?』

『いやっ、てっきり……』

『まあ、ここまで来たんだ。とにかく入んなさい』

父のがっかりした顔が目に浮かぶようだった。きっと豪華料亭の膳が、脳裏をかすめていたに違いない。

『ああ、そうだな』


豪華膳ではないにしても、ただで飯に有りつけるという打算だけが、父の内心を堰き止めていた。

その紳士は慣れた様子で、飯屋の暖簾をくぐった。

『おおっ、いらっしゃい!。秋ちゃん』

『どうもおやっさん、いつも世話になるね。活きのいい子連れてきたから、面倒見てやってよ』

『おや、今度は長続きしそうかい?』

『そんなことは判んないさ。だって、まだ素性さえ判っていないんだからね』

得体の知れない会話が、父の頭上を飛びかっていた。ただひとつだけ判ったことは、その男の呼び名は、“秋ちゃん”と、だけだった。


『へえーっ、結構、しぶとい眼してんじゃないか。それに男前ときたもんだ、中々のもんじゃねえかよ、秋ちゃんさ!』

『だろ?、僕もそう思ってね、早速連れて来たってわけさ』

『……。ここ、座ってもいいのか?』

店内を見回しながら父は、いつもの無礼を披露した。

『ああ、どうぞ好きなところに座っておくれよ。と言っても狭い店だ、勘弁しろなあんちゃん!』

『ふーーん』

そのおやっさんの声を頼りに、父はカウンターのど真ん中に席を取った。飯時を外していたせいか、店内は貸切状態だった。


『さあ、好きなもの頼んでいいんだよ。ここは何を食べても美味しいからね』

『玉子焼きと味噌汁。あと、ご飯大盛りで』

『おや、そんなんでいいのかい?。刺身だってあるんだぜ、あんちゃんさ』

『いいや、どうせ金も持ちあわせてないしさ』

『お金の心配なんていいんだ。私が招待したんだから』

『……。素性の判らない男の話に甘えるほど、おれは善良でもないんでね。あんた、名刺くらいあるんだろ?』

『ああっ、忘れてたよ。そうか、まずはそっちからだよね』

生意気な少年にまんまと指摘されてか、その男は慌てて背広のポケットから名刺を取り出した。


『失礼!。私は、こういう者だが』

『トウチク・レコードって、あの?』

『そう、いちおう業界ではトップクラスの、会社のつもりだ』

『宣伝営業部、部長……。秋山昭二』

『あんちゃんさ、この人相当偉い人なんだぜ。感謝しなきゃなあ』

おやっさんが得意げに父に絡んだ。

『ああっ、ご馳走になる。ありがとう』

『そんなことを言ってるんじゃねえよ、判ってねえなあ、あんちゃん。おめえの歌に惚れたんだよ。スカウトだよ!』

『そんなこと判ってるって。あの状況でこれだ。判らないほうが野暮ってもんさ』

『いちいち腹に溜まんだよな、おめえの喋り方は……。軽々しく大人を敵に回すもんじゃねえよ』

『軽々しいなんて思っちゃいないさ。ただ、やり方が気に入らないんだ。優位的立場ってやつだろ、つまり。レコード会社関係者の肩書きで声を掛ければ、誰でものこのこと着いて来る、そこで飯でも食わせりゃなんてさ、どうせそんなとこだろうぜ』

父の悪態は止まらなかった。


『小森靖志くんだったよね。誤解してもらいたくないんだ。私は君の歌に興味を示した。ただそれだけだ。そして君を知るために、この店に連れて来た。私にとってはね、この店は一番安心出来る場所なんだよ。少々、小汚なく見えるだろうけど・・』

秋山さんは落ち着きはらった言葉で、父の誤解を解とうとしていた。

『小汚いは余計だけどさ。だけどね、ほんと正直な人間だよ、秋ちゃんはさ』

『おじさんは、この人と長い付き合いなんだろ。で、どうなのさ。信頼出来るか、そうでないか。もしくは二人しておれのことを担いでんのか』

この店に着いてからの父の言葉は、まるでスカウトを否定するかのように角が立っていた。レコード会社からの、しかも営業部長から声の掛かったお誘いに、どうして素直に喜べないのだろうか?。


『小森君。単刀直入に言うよ。君の歌で萎縮してしまったこの国を変えてみる気はないかい?』

『おれの……歌でか?』

『そうさ、さっきの君の大胆な歌声が、客の心を掴んだように。この国の萎んだ民衆の心を活気つけるんだよ。私にはイメージ出来るんだ、君の歌声は必ずこの国を走破する。間違いなく私にはそう思えたんだ。どうだろ?』

『どうって、言われてもさ・・。おれには現実味薄いな・・』

東京に夢を探しに出てきた父にとって、得るもののないここでの暮らしには、すでにうんざりしていた。それと言うのも、過去、幾度となく持ちかけられた甘い話に、悉く裏切られていたからだった。そんな傷を負った父にとって、今更、夢の咲く場所をなんて口説かれても、それは想像すら皆無に等しかった。

その日暮らしに追われる多くの若者は、足元の轍を気に留めるばかりで、遠く彼方に灯る希望を、叶わぬ夢と見とれていたのだろう。


『小森君。ここに現実があるんだよ』

そう言ってしっかりと結ばれた秋山さんの口元には、迷いなんて微塵も見えなかった。

『現実……?』

『そうだ、今の君は、光り輝く場所に立とうとしている』

『おれがそうだって言うのか?』

『もーう、じれったいんだよなあ!。おめえが首をたてに振ればさ、ここは問題なく落ち着くってもんさ。いつまでだだこねてんだよ!』

堪らず親父さんがけし掛けた。


『今までにさ……、おれ……』

そう言いながら、父は次の言葉に詰まっていた。

『んんっ?。どうしたよ、よっぽど腹すかしてんのか?。ああん?』

『そうじゃない……。おれさ、今日まで偉ぶった大人たちには、さんざんな目に遭ったからな。どうしても、疑う癖が抜けないんだ。今のあんたたちのことだって、正直、喜んでなんかいられないって、そんな心境さ……』

『そうなんだね・・。評判の良くない連中の話は、私も時々、耳にすることがある。正式な契約書も交わさずに、ろくな賃金を与えないってね・・。歌を志す若者を愚弄するばかりか、潰しに掛かっているとしか思えないよ。まったく、馬鹿な話さ』

秋山さんが嘆きの言葉を添えていた。それは父の思いを庇うようにとても優しく響いた。

『秋ちゃんは、そんないい加減な男じゃないぞ!。俺が誓ってもいい。おめえのことを、いま一番考えてんのはよ、何を隠そう、この秋山昭二以外にいやしないって』

親父さんが力強く父を諭した。


『信じていいんだよな?』

『あったりめえよ、人間はな、信じることで救われるんだよ。確かに悪い奴らも多いけどな、善い奴らはもっと沢山いるぜ。まんざらでもねえぜ、この世の中もさ。おっと、玉子焼きあがったぜ、ほら、大盛り飯だ。ああ、かあちゃん、味噌汁出してやってくれよ!』

『はいよ、お待っとうさん』

厨房の奥からおかみさんが顔を出した。

『おや、随分と若いお客さんだねえ。しかも、男前だよ。いい子連れて来たねえ、秋山さん』

親父さんに次いで、おかみさんんも同じように父の風貌を褒めていた。

『けど、すっきりしない顔が気になるねえ、一体、どうしたっていうの?』

すかさず、おかみさんが読み取った。

『いいんだよ!。おめえが口を出すとろくなことがねえ、黙って奥に引っ込んでなよ。おっ、そうだ。いい肉があったろ、かあちゃん。この子に焼いてやんなよ。少々の量じゃ足んねえからな、判ったな!』

『はいよ!。ごめんねお兄ちゃん、この通り口の悪い人でさ。悪気は無いんだよ、勘弁してやっておくれよ』

『ああ、そうだな』

『おめえ、“やすし”って言ったよなあ?』

『ああ、そうだけど』

『どんな字を書くんだい?』

『靖国の靖に、志って書く』

『へえ、国を案ずるに志すかあ。立派な名前じゃねえか。故郷は何処だい?』

『熊谷さ、埼玉の』

『ご両親は二人とも達者かい?』

『親父はとうの昔に死んでいない。お袋は独り暮らしだけど、まだ元気さ』

『そうか、母親は独り暮らしか。兄弟はどうした?』

『へっ、兄貴が二人いたけどさ、戦争に持って行かれてしまってさ、おれだけ残ったんだ』

『そりゃあ、寂しいな』

『今時、珍しい話でもないだろ?。どこの家だって同じようなもんさ。気にしないでよ、おじさん』

父が他人の言葉に気遣うなんて珍しいことだった。自分中心が売り物で、他人に干渉されない生活を散々送っていたのだから。


『ここじゃさ、おめえの親と思ってくれていいんだぜ。なあ、靖志よ!』

『そうだよ、遠慮しなくていいからね。でも、こんな無愛想なひとでごめんよ、お兄ちゃん。もっとましな人がいれば、なんてねえ』

『いやっ、そんなことないさ』

『かあちゃん!、余計な口をはさむんじゃねえって!。ところで肉はどうした、腹すかしてんだよ靖志はよお!』

『ちょっと。穏やかにやろうよ、お二人さん』

秋山さんが呆れて言葉を入れた。目の前の会話に、口元を緩めている彼の面持ちからは、どこか信頼出来る人間の匂いがしていた。


『小森くん。、まあ、こんな店だけど、出入りしてやってくれよ。確かに味は私が保証するから』

『ああ、そうする』

『秋ちゃん、俺たちの人柄も保証してやってくれよお。なっ』

『えっ?、それも保証対象なのお、おやっさん?。うーーん、どうしたもんだろう』

『かあちゃん、秋ちゃんのお茶、下げていいぜ。ったくよ』

『冗談、冗談さ。そんなにふくれないでよ、おやっさん!』

『なんてね。わっはっはっはーっ』


豪快に店内を駆け巡る親父さんの笑い声は、錆びれていた父の心に笑顔を作ってくれていた。人間不信に陥っていた少年の心を包み込んでくれたんだ。

その後、とんとん拍子に話はまとまり。父は、秋山さんの会社、“トウチク・レコード”に身を置くことになった。東京に出て来てから、3年目のことであった。

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