秋山と多嶋屋の親父
16歳で東京に上京してから歌にたどり着くまで、生半可な努力ではいられなかった。
朝早くから、人の寝静まるころまで、若い身体は嫌というまで働き続けた。
レコード会社の門を叩きながら、夜の流し家業で夢を繋いでいた。
そんな父が、18歳を迎えたある晩。勤め先のナイト・バーで、いつものように曲をこなしていた。
土曜日の夜にもかかわらず、客席はまばらに席を埋める程度の入りだった。
父の姿など眼下にも置かない酔った客。お喋りに夢中で、大きな声で談笑する中年女性。グラスを口にするわけでもなく、ただ、ステージのピアノを睨み付けているだけの気取った紳士。
『ねえ、成二さん。あの客また来てるよ、ほら、いつもの席』
『なんだ、今晩もかあ……?。よっぽど暇らしいな』
『成二さんのピアノばかりみてるぜ、しかも渋い顔してさ。もしかして、成二さんのこと気に入ってんじゃないのかよ』
『馬鹿言うなよ、俺の技術なんてたかが知れてるよ。それに、もう歳だ。ここで演奏するのでやっとだよ』
『そう?、惜しいような気がするけどなあ……』
『ほら、時間だ。さっさと行きなよ』
『えっ、もうそんな時間かよ。ちっ、もっと休んでいたいよな』
お決まりの数曲を、今晩も決まった時間に披露するしかない父だった。
もう飽きるほどに歌い込んだ流行の歌に、ある客席から、“待った”の声が掛かった。
『おいおい何だよ!、暗いんだよ、もっと楽しく歌えないのかあ!』
『暗いってえ、おれの歌がかよ……?』
『おおっ、何だお前……、客に文句が言えんのかあ!』
東京での生活に既にうんざりしていた父には、客であろうと誰であろうと、歓迎出来ない輩は、皆、一緒だった。
『けっ!、俺の持ち歌だったらぶん殴るところだけどな。仕方ねえや他人様の歌だもんな、まあ、大目に見てやるぜ』
勝気な父の性格は、“はいそうですか”で済ませられるほど、柔ではなかった。
『何て言い方だ!。おい、この野郎!』
酒の力を借りてか、その客も引き下がる意思はないようだった。
互いに譲らぬまま、しばし睨み合いが続いていた。
その時だった。父のバックに控えていたピアノの鍵盤が、急に踊りだした。軽快なリズムと、跳ねるような高揚を隠し切れない音楽が流れ出したのだ。
『成二さん……。この曲?』
後ろを振り向いた父に、ピアノ奏者の小田成二が、“にんまり”と笑いながら言った。
『靖志!。ついて来いよ!』
ピアノの音に合わせて、父はご機嫌に身体を揺すぶり始めた。ホールの客たちの数人が、それに続いて手拍子を重ねていた。
スタンドマイクを抱擁するかのように両手で掴み、父が歌い始めた。
“When The Saints Go Marchin In――”、なんと、流暢に歌いだした曲は、デキシージャズの名曲。“聖者の行進”だった。
先ほど苦情を申し入れていたその客は、“きょとん”としていたかと思うと。やがて手拍子の渦の中心となっていた。
気づけばホール全体の客が、総立ちでスイングを愉しんでいた。
額に汗を滲ませながら、父の熱唱は数分間続けられた。それは嬉しそうに、父の眼はとても輝いていた。
圧巻だった。わずか18歳の少年が、ここまで客を引き付けるなんて、ピアノ奏者の小田成二でさえ想像もしていなかっただろう。最後の鍵盤を叩き終えた時の彼の目線は、目の前の父以外を見る由もなかった。
両手を大きく翳した父の誇らしげな顔は、まるで大スターのように観客の前に映し出されていた。
鳴り止まない拍手の中で、素に戻った父が照れくさそうにマイクを抱きしめていた。
『あっ、うん……。ありがとう……。皆さん、ありがとう!』
礼を済ませ深々と頭を下げる父に、一人の客から声が掛かった。
『ねえ君、もう契約してるのかい?。どこかのレコード会社と』
その男は、さっきからピアノばかりを睨んでいた紳士だった。
背広姿のよく似合う、40歳前後の男が、穏やかな顔つきで父に声を掛けた。
『えっっ?』
『そうか、まだのようだね。それは好都合だ。あとで話せるかな、待っているからさ』
言葉運びから察すると、その男は、どうやらレコード会社の関係者らしかった。
『靖志、もう上がっていいぞ。あとは俺が流すからさ』
演奏を終えて腕を組んでいた小田成二が、やはり、“にんまり”と笑っていた。
『ありがとう、成二さん!』
火照った身体を冷やすかのように、さっと上着を脱ぎ捨てた父は、その紳士の下に駆け寄った。
『いったい、話ってなんだよ?』
『まあ、そうせっつくなよ。それより、時間はいいのかい?』
『ああ、今夜はもう終いだから、あんたの好きにしていいさ』
『ははっ……。なるほど、噂どおりの生意気さだ。しびれるよ、実際』
『噂どおり……?』
『ここじゃ、話しづらいだろ?。場所を変えよう』
そう言ってその男は、父を外へと連れ出した。店を出てからしばらくは、さして会話もあるわけではなかった。その男の後ろについて歩いていた父には、宛も無くただ通りを歩いているだけのように見えたのだろう、しびれを切らして父が背後から喋り掛けた。
『どんだけ歩かせるつもり?、あんた』
『腹減ってるだろう?』
『……。確かに』
『その角を曲がれば、美味い飯屋がある』
『ああ……』
『魚は好きかい?』
『ああ、好きだ』
『肉はどうだろう?』
『ああ、もっと好きだ』
『そうか、満足させてやれそうだな』
お互いの淡々としたやり取りに、特段、違和感もなかった。父の機嫌を損ねることなく、見事にその男はペースを保っっていた。いや、その男のペースに父が従っていたという方が、自然な見方のようだった。
角を曲がると、その男の言ったとおり一軒の店が二人を待っていた。その店の暖簾には、“多嶋屋”の文字が張り付いていた。店の外観からは、どう見ても料亭には程遠かった。
『さあ、入りなさい。遠慮はいらないから』
『ここって、定食屋じゃんか?』
『そうさ、飯屋って言っただろう?』
『魚とか、肉とか言ってたよなあ』
『勿論、両方とも揃っているさ。何か?』
『いやっ、てっきり……』
『まあ、ここまで来たんだ。とにかく入んなさい』
父のがっかりした顔が目に浮かぶようだった。きっと豪華料亭の膳が、脳裏をかすめていたに違いない。
『ああ、そうだな』
豪華膳ではないにしても、ただで飯に有りつけるという打算だけが、父の内心を堰き止めていた。
その紳士は慣れた様子で、飯屋の暖簾をくぐった。
『おおっ、いらっしゃい!。秋ちゃん』
『どうもおやっさん、いつも世話になるね。活きのいい子連れてきたから、面倒見てやってよ』
『おや、今度は長続きしそうかい?』
『そんなことは判んないさ。だって、まだ素性さえ判っていないんだからね』
得体の知れない会話が、父の頭上を飛びかっていた。ただひとつだけ判ったことは、その男の呼び名は、“秋ちゃん”と、だけだった。
『へえーっ、結構、しぶとい眼してんじゃないか。それに男前ときたもんだ、中々のもんじゃねえかよ、秋ちゃんさ!』
『だろ?、僕もそう思ってね、早速連れて来たってわけさ』
『……。ここ、座ってもいいのか?』
店内を見回しながら父は、いつもの無礼を披露した。
『ああ、どうぞ好きなところに座っておくれよ。と言っても狭い店だ、勘弁しろなあんちゃん!』
『ふーーん』
そのおやっさんの声を頼りに、父はカウンターのど真ん中に席を取った。飯時を外していたせいか、店内は貸切状態だった。
『さあ、好きなもの頼んでいいんだよ。ここは何を食べても美味しいからね』
『玉子焼きと味噌汁。あと、ご飯大盛りで』
『おや、そんなんでいいのかい?。刺身だってあるんだぜ、あんちゃんさ』
『いいや、どうせ金も持ちあわせてないしさ』
『お金の心配なんていいんだ。私が招待したんだから』
『……。素性の判らない男の話に甘えるほど、おれは善良でもないんでね。あんた、名刺くらいあるんだろ?』
『ああっ、忘れてたよ。そうか、まずはそっちからだよね』
生意気な少年にまんまと指摘されてか、その男は慌てて背広のポケットから名刺を取り出した。
『失礼!。私は、こういう者だが』
『トウチク・レコードって、あの?』
『そう、いちおう業界ではトップクラスの、会社のつもりだ』
『宣伝営業部、部長……。秋山昭二』
『あんちゃんさ、この人相当偉い人なんだぜ。感謝しなきゃなあ』
おやっさんが得意げに父に絡んだ。
『ああっ、ご馳走になる。ありがとう』
『そんなことを言ってるんじゃねえよ、判ってねえなあ、あんちゃん。おめえの歌に惚れたんだよ。スカウトだよ!』
『そんなこと判ってるって。あの状況でこれだ。判らないほうが野暮ってもんさ』
『いちいち腹に溜まんだよな、おめえの喋り方は……。軽々しく大人を敵に回すもんじゃねえよ』
『軽々しいなんて思っちゃいないさ。ただ、やり方が気に入らないんだ。優位的立場ってやつだろ、つまり。レコード会社関係者の肩書きで声を掛ければ、誰でものこのこと着いて来る、そこで飯でも食わせりゃなんてさ、どうせそんなとこだろうぜ』
父の悪態は止まらなかった。
『小森靖志くんだったよね。誤解してもらいたくないんだ。私は君の歌に興味を示した。ただそれだけだ。そして君を知るために、この店に連れて来た。私にとってはね、この店は一番安心出来る場所なんだよ。少々、小汚なく見えるだろうけど・・』
秋山さんは落ち着きはらった言葉で、父の誤解を解とうとしていた。
『小汚いは余計だけどさ。だけどね、ほんと正直な人間だよ、秋ちゃんはさ』
『おじさんは、この人と長い付き合いなんだろ。で、どうなのさ。信頼出来るか、そうでないか。もしくは二人しておれのことを担いでんのか』
この店に着いてからの父の言葉は、まるでスカウトを否定するかのように角が立っていた。レコード会社からの、しかも営業部長から声の掛かったお誘いに、どうして素直に喜べないのだろうか?。
『小森君。単刀直入に言うよ。君の歌で萎縮してしまったこの国を変えてみる気はないかい?』
『おれの……歌でか?』
『そうさ、さっきの君の大胆な歌声が、客の心を掴んだように。この国の萎んだ民衆の心を活気つけるんだよ。私にはイメージ出来るんだ、君の歌声は必ずこの国を走破する。間違いなく私にはそう思えたんだ。どうだろ?』
『どうって、言われてもさ・・。おれには現実味薄いな・・』
東京に夢を探しに出てきた父にとって、得るもののないここでの暮らしには、すでにうんざりしていた。それと言うのも、過去、幾度となく持ちかけられた甘い話に、悉く裏切られていたからだった。そんな傷を負った父にとって、今更、夢の咲く場所をなんて口説かれても、それは想像すら皆無に等しかった。
その日暮らしに追われる多くの若者は、足元の轍を気に留めるばかりで、遠く彼方に灯る希望を、叶わぬ夢と見とれていたのだろう。
『小森君。ここに現実があるんだよ』
そう言ってしっかりと結ばれた秋山さんの口元には、迷いなんて微塵も見えなかった。
『現実……?』
『そうだ、今の君は、光り輝く場所に立とうとしている』
『おれがそうだって言うのか?』
『もーう、じれったいんだよなあ!。おめえが首をたてに振ればさ、ここは問題なく落ち着くってもんさ。いつまでだだこねてんだよ!』
堪らず親父さんがけし掛けた。
『今までにさ……、おれ……』
そう言いながら、父は次の言葉に詰まっていた。
『んんっ?。どうしたよ、よっぽど腹すかしてんのか?。ああん?』
『そうじゃない……。おれさ、今日まで偉ぶった大人たちには、さんざんな目に遭ったからな。どうしても、疑う癖が抜けないんだ。今のあんたたちのことだって、正直、喜んでなんかいられないって、そんな心境さ……』
『そうなんだね・・。評判の良くない連中の話は、私も時々、耳にすることがある。正式な契約書も交わさずに、ろくな賃金を与えないってね・・。歌を志す若者を愚弄するばかりか、潰しに掛かっているとしか思えないよ。まったく、馬鹿な話さ』
秋山さんが嘆きの言葉を添えていた。それは父の思いを庇うようにとても優しく響いた。
『秋ちゃんは、そんないい加減な男じゃないぞ!。俺が誓ってもいい。おめえのことを、いま一番考えてんのはよ、何を隠そう、この秋山昭二以外にいやしないって』
親父さんが力強く父を諭した。
『信じていいんだよな?』
『あったりめえよ、人間はな、信じることで救われるんだよ。確かに悪い奴らも多いけどな、善い奴らはもっと沢山いるぜ。まんざらでもねえぜ、この世の中もさ。おっと、玉子焼きあがったぜ、ほら、大盛り飯だ。ああ、かあちゃん、味噌汁出してやってくれよ!』
『はいよ、お待っとうさん』
厨房の奥からおかみさんが顔を出した。
『おや、随分と若いお客さんだねえ。しかも、男前だよ。いい子連れて来たねえ、秋山さん』
親父さんに次いで、おかみさんんも同じように父の風貌を褒めていた。
『けど、すっきりしない顔が気になるねえ、一体、どうしたっていうの?』
すかさず、おかみさんが読み取った。
『いいんだよ!。おめえが口を出すとろくなことがねえ、黙って奥に引っ込んでなよ。おっ、そうだ。いい肉があったろ、かあちゃん。この子に焼いてやんなよ。少々の量じゃ足んねえからな、判ったな!』
『はいよ!。ごめんねお兄ちゃん、この通り口の悪い人でさ。悪気は無いんだよ、勘弁してやっておくれよ』
『ああ、そうだな』
『おめえ、“やすし”って言ったよなあ?』
『ああ、そうだけど』
『どんな字を書くんだい?』
『靖国の靖に、志って書く』
『へえ、国を案ずるに志すかあ。立派な名前じゃねえか。故郷は何処だい?』
『熊谷さ、埼玉の』
『ご両親は二人とも達者かい?』
『親父はとうの昔に死んでいない。お袋は独り暮らしだけど、まだ元気さ』
『そうか、母親は独り暮らしか。兄弟はどうした?』
『へっ、兄貴が二人いたけどさ、戦争に持って行かれてしまってさ、おれだけ残ったんだ』
『そりゃあ、寂しいな』
『今時、珍しい話でもないだろ?。どこの家だって同じようなもんさ。気にしないでよ、おじさん』
父が他人の言葉に気遣うなんて珍しいことだった。自分中心が売り物で、他人に干渉されない生活を散々送っていたのだから。
『ここじゃさ、おめえの親と思ってくれていいんだぜ。なあ、靖志よ!』
『そうだよ、遠慮しなくていいからね。でも、こんな無愛想なひとでごめんよ、お兄ちゃん。もっとましな人がいれば、なんてねえ』
『いやっ、そんなことないさ』
『かあちゃん!、余計な口をはさむんじゃねえって!。ところで肉はどうした、腹すかしてんだよ靖志はよお!』
『ちょっと。穏やかにやろうよ、お二人さん』
秋山さんが呆れて言葉を入れた。目の前の会話に、口元を緩めている彼の面持ちからは、どこか信頼出来る人間の匂いがしていた。
『小森くん。、まあ、こんな店だけど、出入りしてやってくれよ。確かに味は私が保証するから』
『ああ、そうする』
『秋ちゃん、俺たちの人柄も保証してやってくれよお。なっ』
『えっ?、それも保証対象なのお、おやっさん?。うーーん、どうしたもんだろう』
『かあちゃん、秋ちゃんのお茶、下げていいぜ。ったくよ』
『冗談、冗談さ。そんなにふくれないでよ、おやっさん!』
『なんてね。わっはっはっはーっ』
豪快に店内を駆け巡る親父さんの笑い声は、錆びれていた父の心に笑顔を作ってくれていた。人間不信に陥っていた少年の心を包み込んでくれたんだ。
その後、とんとん拍子に話はまとまり。父は、秋山さんの会社、“トウチク・レコード”に身を置くことになった。東京に出て来てから、3年目のことであった。