その扉の向こうがわ
食事時のご高覧は、あなたの食欲を損なう恐れがありますのでご注意くださいませ。と言っても、食事場面は一切登場いたしません。
逃げ出したい自分を何とか励まして。
俺は、“それ”の前に足を踏み出した。
世界がぐらりと傾いた気がして、視線を落とす。
揺れているのは、ありふれたフローリングの床なんかじゃなかった。
いっそ、そうであればどんなによかったことか。
震えているのは、俺の膝だった。
あぁそうだ。
昨日の部活で筋トレしすぎたんだよ、調子に乗って。
そんなごまかしが脳裏をよぎり、すぐに朱で修正される。
昨日も今日も明日も、俺は帰宅部だ。
筋肉痛と親しくなるほど筋トレをすることはまずない。
・・・親しくなりたいとも思わないが。
本道からそれだした思考を現実に引き戻す。
手ぐすね引いて俺を待ちうけている悪夢に、怖気が走った。
勇気を振り絞るんだ!
RPGの勇者だって、木の棒だとかそんな貧弱な装備で村を追い出されるじゃないか。
自分に言い聞かせながら、頭を上げる。
目の前にあるのは、どこの家庭にもあるような、金属製の白い扉。
クラスの平均的な身長を誇る俺の目線と同じ高さで、取っ手が誘う。
なにぐずぐずしてるの?
脳裏をよぎったのは、自称女神から投げかけられたばかりの言葉だった。
その響きの冷淡さにヤケになった手が、取っ手に伸びる。
触れる直前で慌てて引っこめた。
待ってくれ!
まだ覚悟が決まっていないんだ。
頭の隅でわめく弱さを、振り払いたくて首を横に振る。
…そう。
俺は、知っている。
誰よりも、知っている。
この扉の向こうに広がる、絶望に支配された世界のことを。
開けるべきか、開けないべきか。
問題は……、そんなところにはない。
この扉を開けたら最後、後戻りは許されないのだ。
深く息を吐いて、吸う。
無意味な行為だ。
分かっている。
分かっていながら、俺は深呼吸を繰り返す。
他に心を落ち着ける手段がないのだから仕方がない。
そうして、なんとか震えが治まった手を伸ばして、その扉を開けた。
20秒後。
俺は、自分の行動を深く悔いていた。
「……1998年、9月28日」
目に映った年月を口に出しただけで、身体が震える。
せめて言葉にしなければ…、これほどまでの戦慄を覚えずに済んだハズだ。
あぁ、やはり。開けてはならない扉だったのだ。
知ってはならない世界を知ってしまったような気分が、俺の身体を重くした。
誰が何と言おうと、どれほど頼まれようと、たとえ脅されたとしても、踏み込んではならない領域というものがこの世には存在する。
出来るものならそれを、30分前の自分に懇々と諭してやりたい、と俺は思った。
だが、同時に。
選択の時はとっくに過ぎ去ってしまったことも、俺は知っていた。
扉を開けてしまった今、道は1つしか残っていない。
とりあえず、常に意識しておかなければならない事実は、たった1つだ。
それだけが俺の味方で、武器だった。
それさえ忘れなければ、どうにかな……らなかったらどうしよう。
いや、強気で行け! 行くんだ俺!!
今なら憂鬱という漢字が辞書なくして書けそうだ、と自嘲しそうになる自分を鼓舞し、俺は扉の向こうがわに向き直った。
ただ1つの呪文を、武器として脳裏に思い描きながら。
2007年2月22日。
まぎれもなく、今日の日付だ。
俺に赦された装備は、それしかなかった。
扉を開けてから30分が経過した。
荒れ果てた世界は荒れ果てたままでそこにある。
甲高い怨嗟の声が耳に痛い。
漂う腐臭に、下がっていくテンションを自覚する。
こんな心もとない防具で何をしろと言うんだ!
叫び出したい自分を必死で律した。
何しろ素手だ。
頭と口元はかろうじて布で覆ってはいるが、そんなものが通用するような次元はとっくの昔に通り越している。
勇者だ、勇者がここにいる。
本気でそう思いかけた瞬間、俺は首を横に振った。
・・・いや、むしろ悪の権化だ。
誰だ、命は尊いとぬかしたのは。
その誰かを小一時間ほどかけて問い詰めたい衝動にかられて、俺は唇の内側を強く噛んだ。
この場を見れば、一目瞭然だった。
俺が積み上げた残骸が、かつて生きものだった、と。
そんなことが信じられるものか。
命が尊いと言うのなら、なぜ!
こんな事態になるのだろう。
俺のせいか? あぁ、俺のせいだ。
責任を、逃れることなどできようハズもないことは解っていた。
この扉を開ける前から解っていた。
この惨状を作り上げたのは、見知らぬ誰かではない。
俺の軽率な行動も、確実に一役買っているのだから。
俺が悪かった。
汚れきった手に眼を落として、誰にでもなく呟く。
誰にでもいいから赦しを請いたい気分だった。
ぬめりを帯びた液体の付着した手からは、鼻が曲がりそうな悪臭がする。
追い討ちをかけるかのように音量を増した怨嗟の響きに、吐き気がこみあげてきた。
それでも、俺は手を動かし続ける。
バリッ………、グチャ……
絶え間なく響く、耳を覆いたくなるような音に責め立てられているような気がして、俺は力なく首を振った。
いつの間にか染みついてしまった腐臭に、眉をしかめる。
なんてことだ、やはり安物のシャツを着るべきだった。
悔やんだ瞬間、謝罪の言葉を口にする資格すらもたない自分に気づいた。
この手で作り上げた、かつて生きものだったものたちの山を見やって、深く深く息を吐く。
その間にも身体は勝手に動き、気づけば終りがすぐそこまで来ていた。
光が、見える。
茫然と、俺はその場に立ち尽くした。
見開いた視線の先に広がっているのは、もはや荒れ果てた異世界ではなかった。
清浄な白さに包まれ、灯りに満ちみちた厳かな空間だった。
どうして忘れていたのだろう。
この世界は、こうあるべきだった。
「……や、…やっ、た」
これで、終わりだ。
感動のあまり声がかすれた。
ひしひしと湧き上がる実感に、身体が震える。
俺は、やり遂げた。やり遂げたんだ!
そう叫びだしてもかまわないような気さえする。
未だ途切れることのない甲高い声が、いっそ耳に心地よい。
これで、この声ともお別れなのだ。
申し訳なさと寂しさが入り混じったような奇妙な感覚を受けとめながら、俺はこの手が作り出した骸の山を横目で見やった。
「九割……か」
痛恨の事実が、眼に見える結果となってそこに現れていた。
九割まで行くとは、考えもしなかった。
少なくとも四割は救い出せるだろう、と。
そう予想していた俺の甘さが作り上げた光景だった。
もう少し早く手を下していれば、無駄にせずにすんだのだ。
善か悪か、と問うならば、俺は間違いなく悪だ。
罪悪感のあまり、目をそらすことすらできない視界には、それでも光が満ちていた。
白い、光。終る世界を、それでも照らす光。
確認も兼ねて、俺はもう一度その光景を見つめる。
完璧だ、と思いながら、俺はもう二度と開けることはないだろう扉を閉じた。
これでいい、全ては終ったのだ。
そう思った途端、罪悪感を凌駕する爽快感にのみこまれた。
鼻唄が、勝手にこぼれる。
いい気分だ、と不意に思った。
本当に、罵られても仕方がない。
それでも、どうしようもなく気分は高揚していて、爽快だった。
この気分をぜひ、誰かと分かち合いたい。
そう考えた俺は、念入りに手を洗って携帯を手にとった。
悪友にメールを送ろうとして、しばし逡巡する。
どう書けば、この奮闘が伝わるだろう。あの恐怖と後悔と、嫌悪が。
……お前の家にも、その扉は存在する。
文字を打ち込み始めた右手が、不意に止まった。
いや。何か、重大なことを忘れているような感覚が、手を止めさせたのだ。
何も考えずに振り返った……瞬間、俺は激しく後悔した。
「……」
心の迷いだ、と思うことはできなかった。
幻覚として受け流すこともできず、俺は茫然とその場に立ち尽くす。
勝手に唇からこぼれていく笑いを止めることができない自分は、ひどく打ちのめされている、と思った。
現実の厳しさを、嫌というほど思い知らされた気分だった。
こんな割りに合わないことを引き受けた自分を、心底呪いたい。
有無を言わせず押し付けたお袋に、物申したい。
あんまりじゃないか。
あの惨状は俺のせいだけじゃないはずだ。
むしろ、片付けられないお袋のせいじゃないか!
五千円、返すから。
返すからもう生ゴミ処理は勘弁してくれ。
本当に限界だ。
精神的ダメージが酷すぎる。
新しい冷蔵庫が来るから、なんて理由で片付けられるわけがない。
冷凍室
チルド室
野菜室
白い扉は、あと三つ残っていた。
はじめまして。もしくは、お久しぶりです。
水音灯と申します。
あなたが、そこに居てくださることが嬉しいです。
この作品を読んでくださって、ありがとうございます。
ご感想、ご批評、誤字・脱字のご指摘などいただけると嬉しいです
この物語の原型は、2006年2月15日に出来ました。
2007年、そして2008年7月の加筆修正を経て現在の形になっています。
◇◇◇◇◇◇
恐怖を作り出すのは、常に人間です。
あなたの家にも存在する扉。
その扉の向こうは、直視できるような場所ですか?