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焚火  作者: 夢追人
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春雨

現実の女性と接することに慣れていない幸一はぎこちなく真理と付き合いを始める。そして時には現実の真理よりも記憶の中の真理に心寄せられたりしながら、美紀と一緒に過去へ旅する幸一。真理は幸一を信じてじっと待ち続ける……。

 大晦日の夜から数日が経った。元旦の昼近くに彼女の宅を辞してから何の連絡も取らないまま、新年の三賀日も過ぎて幸一は久しぶりに早く目が覚めた。

 今朝はきれいに晴れている。ベランダへ通じるガラス戸を開けると、春を思わせる柔らかな風が流れ込んで来た。何の変哲もない風景を眺めながら乾いた風で身体を洗う。やや肌寒さは感じるものの心地よい微風だ。あの群青の空に、浮彫りのように描かれている深緑の山々を越えて、春はやって来るのだろうか。

 そんなことを考えながら振り返って部屋を見渡すと、新鮮な空気が隅々まで行き届いて、俄かに生き生きと部屋が活気づいてきたように感じる。幸一の家族は親戚の所へ出掛けていて、今日は彼ひとりだ。彼はこのしじまを最高に幸福だと感じている。

 このところ毎晩のように真理の夢を見る。あの炎に浮かんだ真理の妖美や、月灯りに浮かんだ微笑、彼女の瞳に揺れる蝋燭の灯りなどが時々現れて来たりする。そんな真理の夢を思い出す時、今までなら切ない片思いの我が身が惨めになるだけだったが、今は熱い喜びに浸ることが出来る。

 だが、今朝は少々気になることがあった。昨夜の夢には美紀までもが現れてきた。美紀も真理に劣らず美しく、夢の中では懐かしい感情で幸一を包み込んだ。

 勿論、現実にはやはり真理が恋しい。まだ数日しか経っていないのに、随分昔の出来事のような記憶、すべては夢ではなかったのかと思えるほど、甘美で幻惑的な記憶と化している。

 少しの酒に頬を染めて、熱い吐息を漏らした瞬間に零れた真理の切ない表情が、幾度となく思い浮かんできては熱い気を残して消えていった。

 幸一は、真理を呼び出そうかと考えてみた。最初は半信半疑だったが、電話番号などを探しているうちに受話器を上げたい衝動に駆られてきた。一度は電話もしたし母親とも顔を合わせて挨拶した。

 だが、前回電話を掛けた時のあの緊張感を再度経験するには大変な勇気が必要だ。まさか自分にそんな勇気などあろうはずが無いと思い込んでいる。しかし、もしかすると、自分はこのまま実行してしまうのではないかと言う期待感もある。

 顔を洗いながら、自分は電話をするのだろうかと自問してみる。まさか電話で口臭が伝わるはずもないのに、やたらと丁寧に歯を磨いてから怖いもの見たさで電話の前に立ってみた。

「まさか」

 ひとり言を漏らして戯れに受話器を手にしたものの、ふっと溜息を吐くと台所に移って朝食の準備を始める。準備をしながらも、彼女の母親が応対したらどんな挨拶をしようかと、無意識のうちに言葉を探したりしている。彼はキャベツを刻む包丁を時々止めては、どこで待ち合わせをしようかと考えてみたりした。

 幸一はしばらくの間無心でインスタントコーヒーを回していたが、不意にスプーンを投げ出すや否や電話器の前に向かった。ボタンを操作している自分の指が他人の指のように感じる。呼び出し音が鳴っている間、彼の鼓動は頂点に達していた。

「はい、穂積です」

 どうやら母親らしい。彼は元旦に真理の宅を辞する時に母親と挨拶をした。父親はまだ東京から戻っていなかった。母親は優しそうで、若者の行動に理解のありそうな人柄に見えた。

「おはよう。早起きやね、三浦君は。真理はまだ寝てるんよ。ちょっと呼んでくるさかい待っててね」

 まだ朝の八時過ぎであることに気付いた。

「いえ、後で結構です。起きてこられたらお電話して頂けるようにお伝えください」

「構わへんのよ。あの子が起きて来るの待ってたら、お昼過ぎてしまうさかい」

 彼女は間髪入れずに立ち去った。保留音が続く数分間、今、真理はベッドで寝ているのだろうかと想像したり、母親に起こされて眠そうに目を擦っている様子を想像したりしていると、保留音のメロディーが中途半端なところで途絶えた。

「もしもし」

 高い声で語尾を長く伸ばした真理の声は、寝起きと言う感じからはほど遠い。

「おはよう。ごめんな、まだ寝ていたんやろ?」

「いいえ、もう起きようて思っていたところやし。それで、どうしはったの?」

 何となく、白々しい質問に聞こえる。

「急に君の顔が見たくなって。今日は何か用事ある?」

「いいえ、特にないわ」

「昼飯でも食べよか?」

「うん、どこで会う?」

 白々しい会話だと感じながらも、期待どおりの結末に彼は満足した。


 五分ばかり遅れて真理がやって来た。幸一は雑誌を立ち読みしながら、頭の中では真理のことを考えていた。もうすぐ会えるのだと思うと喜びは勿論だが、不安に近く心細い緊張感をも同時に覚えている。彼はそんな小さな葛藤を繰り返していたが、実際に真理を目の当たりにすると、それまでの不安などは一気に払拭されてしまった。

「ごめんね、遅くなって」

 十一時を五分ほど過ぎている。ここは幸一が学校帰りによく立ち寄る書店。真理の宅からは自転車で二十分ほどの距離だ。

「何で来たの?」

「バスよ」

「自転車の方が健康に良いのに」

「自転車は置き場所に困るでしょ、街中のデートでは」

「なるほど」

 幸一はデートという言葉に少々羞恥を覚えた。街はまだまだ正月気分で、姫路の目抜き通りには至る所で琴の音が響いている。大きな凧や羽子板、笹などの飾りがアーケード街の所々に吊り下げられている。

「お母さんにお酒のことばれた?」

 二人は書店を出て、賀正ムードの街を肩を並べて歩き始める。真理は淡い色彩のデニムのミニスカートにブルーのカットソー、濃紺のブレザースーツを着て、やや踵の高いブーツを履いている。彼女はいつもよりも大人びたファッションで、薄い化粧までしていた。

「すごく驚いてはったわ。幸一さんが挨拶して帰らはった後に気づかはったんやけど。幸一さんに酔った素振りが全然なかったさかい、余計に驚いてはった」

 真理は思い出し笑いをしながら、横を歩く幸一を斜めに見上げる。幼さが残る若い肌に化粧は却って不似合いだと感じながら、幸一は彼女のアイラインをさりげなく見つめた。自分のために美しく飾ってくれた気持ちはありがたいが、僅かながら哀れさに似た感情が湧いてきた。

 幸一が好きなのは、彼女の素朴で清純な素顔と明るい笑顔だ。今日の真理は至極平凡な女に見えて、失望感のようなものが彼の心にじわりと広がった。大晦日の夜、焚火の炎に照らされた幻影のような彼女の表情が脳裏をかすめてゆく。

「父もお昼頃には帰って来て、家族でお祝いしたの。私も秋子も酔うてしもてね。そしたら父も嬉しかったのか、飲み過ぎて母が呆れてはったわ」

 彼女の話しに微笑みながら彼も相槌を打っているが、この前の真理と、否、いつも学校で接している真理と比べて、どこか違和感を覚えている。

「あ、秋子て言うのよ私の妹。夏に生まれたのに秋子なの。可笑しいでしょ?」

 別に可笑しくもないので、軽く笑っただけで特に取り合わなかった。第一、妹の名前は大晦日の夜に聞いている。

「幸一さんところはどんな正月やったの?」

「同じようなもんかな。一日、酒飲んでは寝て、起きては酒飲んで。たまに妹の相手をして遊んでやるくらいかな」

「遊んでもらってるんでしょう?」

「確かに、そういう時もあるな」

 真理とこうやって一緒にいることに幸福を感じつつも、何となく落ち着かない自分が不思議だ。大晦日の夜は、信じられないような幸福的現実を受け入れるのに必死だったように思う。今日は少し心に余裕が出来たのか、現実を現実として自然に受け入れている。だが、現実の真理があまりに現実過ぎて、いつも想像の世界で会話しているような自然な言葉が出てこない。

 二人はCDショップへ立ち寄り、真理の買物を済ませた。どんなミュージシャンが好きだとか、どんな曲が好きだとか言った話題になったが、幸一はあまり音楽に興味がないので、次第に話題がしぼんでいった。そうして、何とか楽しい雰囲気を作ろうとして焦れば焦るほど、中途半端な会話になってしまい、余計に気まずくなっていった。

「そろそろ昼飯にしようか。何が食べたい?」

「何でも良い」

 真理の声が冷たく響いて、意外な響きに本人も驚いたのか、慌てて笑顔を作って空気を繕いだ。それまでは、色々と話題を提供してはよく話しをしていた真理だが、この瞬間からの彼女は、目も伏せがちになり、自ら進んで言葉を発しようとしなくなった。

「あそこにするか?」

 真理の答えは聞こえなかったが、幸一はお構いなしに店に入ってゆく。小さな洋食屋だ。二人は店の隅にある二人用の席に案内された。

 真理は妙に沈み込んで、目を伏したままで彼を見ようともしない。肩がしぼんで急に小さくなったようだ。席について、ブーツの踵の高さの分だけ低くなったからかも知れない。

 真理が機嫌を悪くしたのではないかと、幸一は心配でならない。自分の言葉や態度がつまらなくて、彼女が失望したのではないだろうか。そんな不安を覚え始める。そしてまた、真理の美しさも色あせたような感じがしてならない。書写山での、炎に浮かんだあの幻想的な美しさはどこへ消えてしまったのか……。果たして自分は本当に真理に惚れているのだろうかと、そんな勘繰りまで沸き上がってきた。

 夏のテニス大会で怪我をして以来、真理のことをずっと遠目に見ながら、彼女に恋をしている自分の気持ちを疑うことはなかったが、今はそんな疑念を生じる瞬間がある。そんな疑問を感じる都度、色んなことが急に変化して、その変化に自分の心が対応出来ていないのだと彼は結論づけていた。現に、今日真理に会うまでは、恋しくて、会いたくて堪らなかったのだから。

「何食べる?」

 幸一は出来るだけ優しい声色で尋ねる。その刹那、真理のはっとした瞳には輝きがあった。彼女は力なく沈黙してはいたものの、優しい言葉を心待ちにしていたのだろうか。

「ごめんなさい。余り食べたくないの」

 どうすれば真理が機嫌を直してくれるのか、全くなす術を持っていない。彼は深く深く吸い込んだ大きな溜息をゆっくりと吐き出してから、

「じゃあ、ピザをひとつ頼むから、真理ちゃんも一緒に食べよう」

 と言った。真理はゆっくりと幸一の瞳を見上げて小さく頷いた。

「ごめんな」

 真理の寂しそうな瞳を見た瞬間に、口から勝手に出てしまった言葉に自分でも驚いた。彼女は小首を傾げて不思議そうに幸一を見つめている。

「俺は口下手で……。この前はデートとか思ってなかったから自然でいられたけど。俺、デートなんてしたことがないから……。改めてデートやと身構えたら、何を話したら良いのか良くわからんようになってしもた。俺といても楽しくないやろ?」

 真理は激しく首を振ってから、

「そんなことない。私かて面白くない話しばかりして、幸一さんが退屈してはるんやないかと心配してたの。幸一さんが余り楽しそうにしてはらへんさかい、不安でしょうがなかったの」

 と、一心に彼を見つめて訴えた。幸一の心に安堵の気持ちが広がる。

「何や、二人とも気を遣って心配し合っていただけなんか」

 自然に笑顔が浮かんでくると、真理も釣られるようにくすくすと笑い出した。しかし、その笑顔は幸一の愛している真理の笑顔ではないような気がした。

「今日の真理ちゃんが、オシャレで化粧までしてるから、なんやえらい大人に見えて、気持ちが上ずってしもたのかも知れへん」

 彼は素直に本心の一部を口にしてみる。真理は急に母親のような優しい瞳に変って、

「私は何も変ってへんわよ。普通の女子高生はね、休みの日はオシャレも楽しむし、お化粧くらいはするものよ」

 と、余りにも無知な幸一に、諭すような口調で教えた。

 幸一は自分の感覚が時代に遅れていることを実感する。化粧は大人の女性がするものだと思い込んでいた。今までテニスばかりやってきて、他のことにはほとんど興味がなかったから、女子高生の普通の生活など知る由もない。

「へえ、でも他にやるべきことがたくさんあるやろ」

 幸一は時代遅れな自分を感じつつも、素直な違和感を言葉にしてみる。

「父と同じこと言わはるわ」

 そう言って真理は大笑いしてから、

「幸一さんがエッチな雑誌を見はるのと同じよ。女にとってオシャレは自然な欲求なの」

 と、再びお姉さん顔で彼を諭した。二人の間に自然に出来上がった気遣いの壁は漸く崩れ始めてきた。少しずつ和んできて、真理は二切れ分のピザを食べてミックスジュースを飲んだ。

 幸一も、彼女が機嫌を悪くしていないという事実で安堵はしたものの、自分が愛していると実感できる幻想的な真理と、愛しているはずだと思う現実の真理とのギャップが、心の中で不安な葛藤を始めていることに気づいていた。


 幸一は、ひとりで先ほどの書店に戻ってきた。大きな店であるからたくさんの種類の本が置いてある。当てもなくぶらりと歩きながら、時折目に付いた本を手にしてページを繰ってみた。

 彼のそばに真理はいない。結局、洋食屋で二時間ほど話し込んでから真理の手袋を買うのに付き合わされた。店を三軒くらい回って、結局は最初の店で気に入っていた物を買った。幸一なら三分ほどで決めてしまう買物を約一時間掛けて購入した。

 女と言うものは、実は迷うことが楽しいのではないかと仮説を立ててみた。真理に仮説をぶつけてみたが、彼女は選ぶことを楽しんでいると主張した。だが、そもそも彼女の選ぶ基準がわからない。可愛いとか、合わないとか言うだけで、選択の基準を明確にしてくれない。その癖、どちらが良いかと突然意見を求めてくる。そして、幸一が選んだ物はほとんど却下される。

 ここでも幸一はひとつの仮説を立ててみた。二つの品を選んでどちらが良いのか意見を求められた時には、彼女が右手で持っている方を選ぶと、大概は同感だと言ってくれる。恐らく利き手で先に手にする方に、より興味を抱いているのではないか……。一時間の苦役の中で彼なりに学習した結果だ。

 買物の後真理は帰宅した。家族で出掛けることになったので夕方は早めに戻るよう言われたらしい。幸一はバス停まで真理を送ってからまた書店に戻ってきた。

 今夜、幸一の家族は出掛けているので夕食もひとりの予定だ。外食する積りだが、まだ時間があるので街をぶらり歩きしようと考えている。幸一は学習書の棚の前に来て、何とはなしに、参考書を手にして立っている女子学生に目をやった。そしてその瞬間、彼は軽い目眩を覚える。両手で本を開いて一心に文字を追っている女性は紛れもなく美紀だ。

「テニスの練習帰り?」

 周囲は他に人気がないので、美紀は怪訝そうにゆっくりと彼を見上げる。

「わあ、驚いた。誰かと思ったら……こんにちは」

「練習熱心やなあ、この寒い時に」

「いいえ、それほど熱心でもないですけど」

 幸一は美紀の隣に立ったままで、棚に並んでいる参考書の背表紙を左から右へと目で追った。そして、彼女が持っている本にふと視線を落とす。

「英語の参考書?」

「数学です」

 美紀はちらりと表紙を見せてから元の棚へ戻した。

「数学が得意なの?」

「数学が苦手だから参考書を探していると考えませんか?」

「君は数学が得意だっていう印象があったから」

「そんなに計算高い女じゃないですよ」

 美紀は愛らしく喜色を浮かべると、

「三浦さんはおひとりですか?」

 と、冷やかし気味に彼の瞳を覗き込む。

「さっきまで一緒にいたけど、もう帰ったよ」

「寂しいですね」

 美紀はいたずらぽく笑う。

「寂しいからお茶でも付き合ってくれる?」

「穂積さんの代わりですか?まあ私は良いですけど、後で叱られませんか?」

 美紀は幸一を茶化すように再び彼の瞳を覗き込む。

「お茶したくらいで怒らないよ、ふつう」

「自信なさそうですね」

 更にいたずらな瞳で幸一を茶化してから続ける。

「まあ、大丈夫でしょう。三浦さんのことを信じていますって感じでしたもの」

 美紀は、大晦日の夜を思い出すように、遠くを見つめる表情を浮かべた。

 二人は商店街に出た。正月気分に誘われてたくさんの人々が街に出ている。振袖を着た女性も散見される。今日は暖かいので、コートを着た人は前を開けて歩いている。商店街は福袋商戦真只中で各店の店頭には必ずと言って良いほど福袋が並んでいる。

「久しぶりですね、この通りを歩くのも」

 美紀は歩きながらそう言った後、少し悲しい目をした。

 中学時代には、ラケットのガットを張るだの、シューズを買うだのと言ってはテニス部の連中とこの街までやって来た。大抵は男女が入り混じっていて、いつも幸一には美紀がくっついていた。

 何度か二人きりで来たこともあった。いつだったか、幸一がある女子にプレゼントをするから一緒に選んで欲しいと誘ったら、一週間後に、ある男子にプレゼントをするから一緒に選んでくれと誘われた。そんなことを繰り返してはいても、二人は仲の良い先輩と後輩以上の関係にはならなかった。

 そんなことを思い出していると、中学生らしい男女が前方からやって来て、幼い笑顔を浮かべながら楽しそうに二人の横を過ぎてゆく。

「三年も前になるのか、最初に話しをしてから」

「そうですね、春先でしたね。なんか年ばっかり取っていくみたいですね」

「君は全然変らない。相変わらず可愛い」

「そうですか、ありがとうございます。でも少しは大人になった積りなんですけど」

 美紀は胸を前に反り出して膨らみを強調する。そんなお茶目な愛嬌も一向に変っていない。

「三浦さんは少し老けたみたいですよ」

 美紀は片目を閉じて笑った。

 二人は信号で立ち止まる。幸一は過去を見透かすように向かいの通りをぼんやりと見つめていたが、何となく美紀の横顔に視線を置いた瞬間、美しいと感じた。三年前、こうやって何度か彼女の横顔を見つめたことはあったが、その頃は可愛いと感じていた。今は美しいという表現が似つかわしい。どこがどう変わったかは明言出来ないが、確かに美しくなっている。やはり確実に大人になっていると実感した。

「あの店に行きませんか?」

 軽く弾んだ美紀の声はまだ幼さを含んでいる。彼は俄かに喜びを感じた。彼も同じことを考えていたからだ。二人がこの街へ来た時にいつも寄っていた茶房がある。目抜き通りからひと筋東側に入った通りにある、小さくてやや薄暗い店だ。何時行っても静かで落ち着いている。時々ジャズなどが流れていて大人の雰囲気がある。

 幸一は今でも訪れている。高校生になった当初は、この店に入ると回顧の念に陥ったものだが、最近は中学時代のことなど思い出すことさえ少なくなっている。

「中学生でお金が無いのに、大人ぶってよく行ったよな」

 幸一は懐かしい記憶を思い起こした。今でも時々入っている店なのに、随分久しぶりのような感覚に見舞われた。

「今でもお金は無いですけど」

 美紀が笑う。

「仰る通り」

 幸一も軽い財布を振りながら笑う。

「三浦さんは、お昼時に入っても食事を注文するお金が無いから、パンを買って入ってコーヒーだけ注文して食べてましたね。マスターはそれを見ていつも笑ってた」

「君だって俺のパンを千切って食べてたよ」

「味見ですよ。しかもマスターに悪いからこっそりと食べてました。三浦さんみたいに堂々と食べていませんよ」

 美紀は、やや弁解気味に昔を思い起こしている。

「そんなことで怒るマスターじゃないよ」

「でもまあ、あれは中学生の頃の……。まさか、三浦さん今でもしてるんですか?」

「だからマスターは怒らないて、自信を持って言っている」

 一瞬、信じられないと言った表情で幸一を見つめていた彼女は、やがて納得したように微笑んだ。

 日焼けでくすんだ濃い茶色の木製ドアを引くと、チリンチリンと鈴の音が響く。コーヒーと紅茶の芳香が混じった空気の中を潜り抜け、カウンターにいるマスターの前を笑顔で通り過ぎてから、観葉植物に隠れた二人用のテーブルに席を取った。

 そこがいつもの二人の席だ。明かり窓が少ない店内は、橙色の暖かい灯りに照らされてバーのような雰囲気だ。その柔らかな灯りの元で、美紀の素顔は、大晦日の焚火に照らされていた時のように妖しい輝きと静かな影を湛えている。

「君もこの店に来てるの?今でも」

「ええ。通学路から外れているので、たまにしか来ないですけど」

 幸一は、とっさに書写山で尋ねた情報を確認したくなった。

「第三高校だったよな?」

「はい」

 幸一が通っているのが第二高校で姫路城の東隣に位置している。第三高校は中心街から南西方向にある。

「今、どこに住んでいるの?」

「広畑です。中学三年の春に移りました」

 海に近い町だ。第三高校もその辺りにあるから自転車で通学しているのだろう。

 幸一は高校一年の夏休みに、ふと美紀のことが懐かしくなり、彼女の自宅近くまで足を運んだことがある。美紀が引越ししたことは既に知っていた。そこに居ないことはわかっていても、そこに美紀がいた頃の雰囲気をもう一度体感したかった。

 しかし、美紀の元自宅には他の家族が入居していた。もうそこは美紀の家族が暮らしていた頃の空気とは全く違うものが漂っていた。至極当然のことで、十分予見出来ることだ。幸一は背中から血を抜き取られたような冷酷な寂しさを全身で感じた。しかしそのことで、美紀と永遠に別れたことを実感することも出来た。

「中学校に遊びに行ったりはしないのですか?もう」

「不思議なもので、時間が経つと懐かしささえも薄らいでしまう」

「何か寂しいですね」

 美紀が口元に笑みを浮かべた後、しばらくの沈黙があった。だが、そんな沈黙は全く苦にはならず、むしろ自然で心地良かった。真理といる時は無言の時間に焦燥を感じていたのに、美紀といると自然に振舞うことが出来る。

「久しぶりに君とテニスしてみたいな。少しは上手くなったやろ」

「勝負になりませんよ」

「心配ないよ。俺はこの数ヶ月練習していないから」

「もしかして勝つ積りですか?」

 いたずらぽく笑った美紀が肩をすぼめる。

「なるほど」

 確かにそうかも知れないと心の中で呟いた。そこへマスターがミートスパゲティとホットコーヒー、ピラフとレモンスカッシュを運んできた。

「久しぶりやね」

 マスターが二人に笑顔で話し掛けてきた。美紀がマスターに笑顔を返しながら、

「食べ物を注文したのが?」

 と、幸一をチラリと見やりながら尋ねた。

「確かにそれも久しぶりやな」

 マスターは大きく笑いながら去っていった。

 こうして美紀と自然に時間を過ごしている今が、虚構の時空にでもいるような感覚を覚えている。中学時代に彼がテニス部を引退した後、彼女の態度は幸一を嫌っているようだった。なのに、今はまるで何事も無かったかのように平然と向き合っている。二人にとっての空白の期間については、互いに語ることを暗に避けている。

 本当に自分のことを嫌っていたのか、なぜ疎遠になってしまったのか、幸一は理由を知りたかったが焦る必要もないと考えた。そのうちに機会があればそんな話題にも触れるだろう。幸一はピラフを口に運んだ。

「でも……」

 美紀が右手にフォークを持ったままで幸一に不安げな瞳を向ける。

「今日は突然だったので、つい私も調子に乗ってしまいましたけど、本当に穂積さんに叱られませんか?」

 幸一は、一分の疑いも無く真理は怒らないと確信している。

「真理もこの前、二人で会っても構わないて言ってたやろ」

「三浦さんは本気にしてるんですか?」

 美紀はフォークを置いてナプキンで口の周囲を拭った。

「本気も何も、そんなことで嘘を言ってどうするの?」

 幸一には美紀の言葉の意味が理解し得ない。

「社交辞令という言葉を御存じないのですか?」

「一応高校生なんで知ってるけど」

 またしても、本心とか、本音と建前とか言った彼の苦手な会話になりそうで、このまま会話が進むことに嫌気がさしてきた。

「嫌なら嫌だって言えば良いのに」

 いくら考えても憶測の域を出ない、本心がどうかなどという思考に入ることはやめて、半ば自棄的に言葉を吐いた。

「三浦さんなら思ったとおりに仰るでしょうね。高校生にもなって喫茶店にパンを持ち込むくらいですから。ほんと素直な少年ですね」

「青年と言ってくれたまえ」

 美紀から笑みが零れ落ちた。そうしてストローでレモンを突きながら、炭酸の泡の中に過去の二人の姿を投影しているかのようだ。美紀から零れ落ちた笑顔は瞬く間に蒸発して、炎を見つめていた時のような、やや憂いのある瞳で彼女は氷を見つめている。幸一には、真理と美紀が姉妹のように並んで炎に照らし出されていた風景が、熱い血流と共に込み上げて来た。

 するとつい先刻、現実の姿に戸惑いと失望感を抱いたはずの真理への思いが、再び熱い塊となって、記憶に生きる真理の柔らかな肌の感覚が全身に広がってきた。


 白いトレーニングウェアに包まれた美紀に、春の陽射しのように柔らかな光が反射して眩しい。ここ数日間、毎日晴天続きで青空も見飽きた感じだ。まだ一月なので気温は左程上がらないが、北風も無くて少し運動しただけで汗ばんだ。二人は花壇脇にあるベンチに腰掛けている。

「さすがにお上手でしたね」

「君こそ、すごく上達しているよ」

「本当ですか?ありがとうございます」

 二人は美紀の通う第三高校でテニスをした。冬休み中の日曜日のためかどこの部も練習はしていなかった。男子テニス部員が数人で個人練習をしていたが、女子部員は見当たらない。幸一はまだ膝が不安だったので三十分ほどで切り上げた。隣で練習している男子部員が、時々幸一のプレーを見ているような気がした。

 テニスの後、美紀の自転車に二人乗りをして、海辺にある海浜公園にやって来た。この辺りは製鉄所や造船所などの大きな工業施設が立ち並ぶ沿岸なので、景色は人工的なものだが、それでも海の風は心地良い。瀬戸内の穏やかな小波に小春日和が乱反射して、眠気を誘う風景がある。

「このまま春になると良いのに」

 美紀は青空を見上げる。

「お腹空きませんか?」

 青空から何かを思い出したかのように彼女は幸一に振り返った。

「そりゃあ、もう昼を過ぎてるからなあ」

「ほら、お弁当作ってきたんですよ。気が利く女でしょう」

 美紀はスポーツバッグからブルーの包みを取り出す。

「わあ、豪華」

 彼女が作った少々形の悪いサンドウィッチを、幸一は嬉しそうに目で味わった。

「どうぞ食べてください」

 明るく言って携帯用のおしぼりを幸一に手渡す。

「ありがとう。頂きます」

 美紀は更にバッグから缶コーヒーを取り出した。

「美味い」

 幸一は次々に頬張って食していく。

「もっとゆっくり食べてください」

 いつかも真理に同じ言葉で諭されたことを思い出しながら、差し出された缶コーヒーを流し込む。

「美味い、美味い」

 幸一は黙々と食べ続ける。美紀は、微笑みながら幸一の食べる様をじっと見つめている。

「中学の花壇脇のベンチでよく話しをしましたね」

 美紀の言葉に幸一は頷く。口が一杯で話せない。

「練習の後に話し込んで、早く帰れって、先生に良く注意されましたね。懐かしいわ」

 春の潮の香を含んだ風が、美紀の短い髪をすり抜けてゆく。初めて美紀と話しをした時の春の陽射しを、幸一も肌で思い出している。

「あの別れ道に辿り着くのが嫌で……。なるだけゆっくり歩いたもんだ」

 先生に促されて、二人で下校していた時の心持を振り返っていると、自然にそんな言葉が口から出てしまい、彼は冷やりとした。まるで昔の愛を告白したように誤解されたのではないか。

「私も」

 美紀は存外真面目な顔つきで呟いた後、彼を見ずに小波を見つめている。貨物船の汽笛が、穏やかな空気を乱さないように遠慮がちに届いて来た。

 昔の話しなら何でも言えてしまうのに、今の話しを切出せない二人の関係を不思議に感じながら、幸一は最後のひと切れを食べ尽した。美紀は二切れを食べただけだ。

「ご馳走様。ほんと美味かった。良いお母さんになれる」

「いい奥さんになるのが先でしょう?」

 美紀は褒められて照れ臭いのか、やや紅く染まった頬を彼に向けてニコリと微笑む。そんな美紀の笑顔は時を経ても変わらない。陽の明りをそのまま反射しているような明るさと若々しさを放っている。満腹となった幸一は、ぼんやりと海を眺めながら過去を早送りして思い出している。

「何も変わってないのになあ」

 沈黙の回想を十分間ほど手繰った頃、過去から戻った幸一が溜息混じりに漏らした。

「三浦さんも全然変りませんね。でも、三浦さんはもっと変られた方が良いですよ」

 美紀が海風を味わうように目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。幸一は、不意に背後からナイフで刺されたような鋭い痛みを覚えた。やはり、美紀は昔の自分を嫌っていたのだろう。何が悪かったのか全くわからないが、それをここで聞きだすことにも抵抗がある。

「ふう」

 美紀は深く吸い込んだ息を吐き出してから立ち上がる。

「そろそろ帰りましょうか?お腹空いてしまいました」

「もっと食べれば良かったのに」

「そう言うところが変っていないんですよ」

 美紀はニコリと笑ってランチボックスを仕舞い込んだ。

 幸一は理解に苦しみながらも、たくさん食べる仕草を彼に見られたくないのかと推察してみた。それにしては、先日、ミートスパゲティを目の前で鱈腹食べていた。全く理解出来ない。

 彼は理解することを諦め、立上って背伸びをする。そして美紀と同じように大きく深呼吸をして春の潮風を満喫した。


 幸一の歩みが知らず知らず速まっている。久しぶりに真理と会うことが出来る。自分でも解せないほど真理のことが恋しくなっている。今日は三学期の始業式だ。美紀と二人でテニスをした日の夜辺りから毎晩のように真理の夢を見た。そしてその都度、真理に惹かれてゆく自分を感じている。

 幸一はポケットに両手を突っ込んで、背を丸めたままだらしなく歩いている。今朝はどんよりと曇って一段と寒さが厳しい。美紀と海浜公園で過ごした時の温かみを恋しく思い出す。

 真理とは正月明けに不器用なデートをして以来、会うのは初めてだ。何度か電話をしたが誰も出なかった。確か、家族で出掛けると言っていたことを思い出して、話すことも諦めた。

 学校に着いた幸一が靴を履き替えようとしている時、誰かが肩を軽く叩いた。

「おはよう。久しぶりやね」

 さっきまで彼の頭上に鬱陶しく覆い被さっていた灰色の雲を、きれいに払い除けてしまう真理の爽やかな笑顔が輝いてる。

「よお。元気やった?」

 靴を履き替えた幸一は彼女に振り返る。真理は冷たい風に頬を真赤に染めて、幸一に桃を連想させた。彼女は左手で髪を整えながら、

「ええ。幸一さんも元気そうやね」

 と、はにかみ気味に幸一を見上げる。階段を上りながら、真理が鞄から何かを取り出した。手のひらに収まるほどの紙袋だ。

「何?」

「お土産よ。私、昨日まで京都の祖母の所にいたの。幸一さんとお食事した日の夜からずっと。上賀茂神社が近くにあるさかい、お参りして御守もらってきたんよ」

「お参りが好きやなあ」

 真理は少しにらむように彼を斜めに見上げているが、その唇が真赤で可愛い。

「そやけど行かへん方が良かったわ」

 やや拗ねた風に彼女が言葉を続ける。

「何で?」

「御神籤引いたら今度は凶が出てしもたの」

 幸一はくすっと笑いを零す。

「またしつこく籤を選んだんやろう。あっさりと引かなあかんよ。欲を出したらあかん」

 彼は自説を繰り返した。

「あっさりと引いたわよ、二回目は……」

「で?」

「凶と凶が合わさって大吉になるわ、きっと」

 幸一は大笑いをした。真理は大笑いする幸一の腕をつねる。今朝の真理はこの上もなく可愛い。しばらく会っていないためか、彼が胸の中で育んできた真理そのものだ。

 下足置き場で声を掛けられた時には、いつになく激しい鼓動に見舞われた。そう、真理と話など出来なかった頃に、偶然彼女に出くわした時のような動揺を覚えた。たまには距離を置いた方が良い関係を続けられるとか言った言葉がどこからともなく思い浮かんでくる。

 幸一は、教室に入ると皆に色々と問われた。街で真理と一緒にいるところを見られたらしい。そしてそれが驚異的な速さで噂として広まっていた。しかも、二人で京都まで初詣に行ったと言う尾ひれまで付いている。

 幸一が余り面倒な顔をするので、クラスの連中はすぐに追及を止めた。彼は他人の目と噂の怖さを身に沁みて感じている。この分では、美紀と一緒にいるところも誰かに見られたかも知れない。真理に知られて困ることはないが、余計な嘘の尾ひれが付くことは面倒だ。

「ねえ、色んなこと聞かれたでしょ?」

 自転車を押している真理が、前髪を振り上げるようにして話し掛ける。妙に楽しそうだ。

学校は午前中で終わった。真理のいる教室を覗いて軽く別れの合図をして帰路についた。すると後から真理が自転車で追いついて、駅まで一緒に歩きながら話している。

「うん。誰が見てたんやろう。しかも二人で京都まで行ったらしいよ」

 幸一は苦笑いする。

「でも、行ってみたいわあ、幸一さんと京都に」

「そうやなあ、春休みにバイトしてから行こか?」

「うん、行こ行こ」

 真理は小躍りして喜んだ。

「あ、噂と言えば、幸一さんが美紀ちゃんとテニスしてたことももう噂になってるわよ」

 いきなりの展開に一瞬度を失ったが、ニッコリ笑っている真理を見て少し落ち着いた。

「へえ、噂のスピードって時速何キロくらいあるんやろ」

 幸一は動揺を見透かされないように平然と応える。

「楽しかった?」

 真理も自然体だ。

「久しぶりにラケット振ったからな。まだまだ俺も動けるって感じたよ」

「まだ高校生なんよ、幸一さん。何かスポーツしたら?」

「スポーツか……」

 県大会でベスト4を目指して必死に練習を重ねていた頃のことを思い浮かべた。もう怪我も治って軽い運動は出来るようになっているが、あれほど熱烈に打ち込む気力は幸一からは消えている。

 怪我をするまでは、テニスのことばかりを考えて熱中していたし、毎日激しい練習を続けてきた。そのために膝に過度の負担を強いて、大事な勝負の場面で疲労断絶を起こしてしまった。

 それからと言うもの、スポーツだけでなく、何に対しても情熱を傾けて努力することを無意識のうちに避けるようになっている。

「ごめんね。出過ぎたこと言うてしもうて」

 怪我で挫折した心の痛みを彼が隠していることを忘れて、軽率な言葉を吐いてしまったことを真理は後悔したようだ。

「良いよ。何も気にしてへん。俺もそろそろ動き出さなあかんと思っているし」

 真理は少し安堵した風に微笑んで、俯き加減で歩を進める。

「でも、誰が見てたんやろ?」

 よせば良いのに、幸一がまた美紀の話題を持ち出した。

「第三高校のコートでテニスしてはったんでしょ?そこにテニス部の人がいたはったんよ。幸一さんは上手やさかい目立つのに決まってるやないの。テニスプレーヤーの中では結構有名なんよ、幸一さん」

「あいつらか」

 時々彼のプレーに見入っていた男子テニス部員のことを思い起こした。

「幸一さんが怪我から回復してテニスをしていたって噂になっていたわよ。しかも可愛い女の子と。その噂を聞いた時に、美紀ちゃんとテニスしてはったんやってピンときたわ」

 幸一は真理の勘の良さに驚愕している。

「もしかして、それは噂やなくてチクリやないの?第三高校のテニス部員とつき合っている女子が君の回りにいるとか……」

 今度は真理が驚いたように目を丸めた。

「名探偵みたい。でも付き合ってるんやなくて兄妹なの。知人の弟が第三高校のテニス部にいて、お二人がテニスしてるところを見てはったの。彼は幸一さんの顔を覚えていたみたいよ、うまい選手と言うことで……」

「うまかった選手や」

 幸一は街路樹の葉の無い枝振りを見上げて、この美しさを理解出来るのは日本人だけなのかなと、素朴な疑問を樹木に投げ掛けてみた。真理はちらりと彼の横顔を盗み見ると、真直ぐに正面を向いたまま澄んだ声を幸一に届ける。

「正確に言うと、うまかった選手やね。でも、未来のことは自分の力で変えられるけど、過去はどうにも変えられへん。そのどうにも出来ない過去にすばらしい実績があることは幸せなことやし、自慢してもええことやと思うわ」

 唐突で真摯な彼女の言葉に少々狼狽しながらも、確かに正論であると幸一は納得した。だが、こんな真面目な話しを続けるのが照れ臭くて、

「男の前で食事をするとして、パスタとサンドウィッチのどちらがいい?食べている様子を見られたくないとして」

 と、海浜公園での疑問を真理に投げてみた。

「別に見られても平気やけどパスタの方が食べにくいわ。でも何で?」

 幸一は、海浜公園で美紀がサンドウィッチを二切れしか食べなかったことと、その後のやり取りを話して、なぜ空腹にも関わらず美紀が二切れしか食べなかったのか、真理に理由を問うてみた。

「美紀ちゃんの手作りでしょ?」

「ああ」

「幸一さんが美味しそうに、幸せ顔で食べてはったんでしょ?」

「お腹空いてたしな」

「美紀ちゃんは、食べているところを幸一さんに見られても平気やと思うわ」

「ほんなら何で?」

「そんなん決まってるやないの。幸一さんの幸せそうな顔をたくさん見ていたいからよ」

「なるほど」

 こう言った他人の気持ちを理解できない彼に対して、幸一は変っていないと美紀が言ったのなら、昔から、美紀は幸一が他人の気持ちがわからない人間だと思っていたことになる。

「確かに」

 感心したように幸一は呟いた。真理は少々複雑な表情で、何でも正直に話す無神経な幸一を見つめている。

「一度二人でテニスしようか?」

 唐突に話題を変えた幸一が、曇天と寒さで心まで萎縮している雰囲気を打ち破る明るい語気で誘った。

「私と?」

 一瞬、真理の瞳が硬直する。

「テニスくらいしたことあるやろ?」

「少しくらいは出来るけど。幸一さんの相手を出来るほど上手くないわよ」

「左腕だけで相手するから大丈夫や」

「まあ、ひどい」

 真理は冗談だと思ったのか大げさに怒って見せたが、幸一は真面目に話していた。彼は左右のバランスを保つために、左腕でも時々練習していた。

「でも、嬉しいわ。幸一さんにテニス教えてもらうなんて」

 真理はややはにかんで伏し目になる。幸一も真理とテニスをすることが楽しみになってきた。美紀とテニスをしたことを真理に知られたからではなく、本心で彼女と遊びたかった。 

 互いに心を揺らす会話をしたためか、二人はしばらく沈黙を守ってぽつぽつと歩いた。真理はやや上目遣いで前を見つめたまま、自転車を押しながら歩んでいる。彼女がゆっくりと瞬きをする時の、瞼にやや遅れて開く長い睫毛がぴたりと止まる瞬間を、幸一はとても美しいと感じた。ふと周囲に目を配ると、辛うじて枝にくらい付いていた枯葉が、疾風にあおられて旅立って行った。


 幸一の自室にある椅子に腰掛けた美紀が足を組み変えた時、ベッドに寝そべっていた幸一は、視線を天井に向けて心を冷静に保とうとした。 

 三学期早々の日曜日に、美紀が幸一の自宅へ遊びに来ている。家族は外出中なので、二人きりで彼の部屋に篭っている。

 彼女は厚手のライトグリーンのセーターを着ているくせに下は紅と黒のチェック柄のミニスカートを穿いて、しかも素足だ。その割には、外では薄手のダウンジャケットを着ているから、いったい寒いのか暑いのか美紀の感覚が理解出来ない。しかも、真理が穿くミニスカートよりも更に丈が短いので、正面に座られると視線のやり場に困惑する。

「それから?」

 幸一は天井を見つめたままで、美紀の話しの続きを促した。

「それから色々と言ってやりました。胸につかえていた物を全部彼にぶつけたら、彼が感情を爆発させて手元にあった本を壁に投げつけたので、私は呆れ果てて帰りました。それで終わりです」

 美紀は軽く微笑んではいたが、気のせいか瞳は湿っている。幸一はベッドに仰向けに横たわって彼女の失恋話を聞いていた。別に慰めの言葉を吐く訳でもなく、同情の言葉を吐く訳でもない。ただ、冷淡な心持で、彼女にとっては重大な大事件を冷静に聞き留めていた。彼女の話が終わった時にちょっと吐息を吐いただけだ。

 美紀は中学三年の春に他校へ転入したのだが、同じクラスの男子生徒と極意になった。その男子は女子生徒に人気のある、いわゆる女好きの軽いタイプで、女友達がやたら多くいるような男だ。美紀は転校したばかりで不安な心理状態で彼のペースに乗ってしまった。ただ、彼の美紀に対する扱いは特別なようでもあった。だが、それも美紀の感覚を通しての言葉だから、特別だと感じるのは当たり前だ。それが証拠に、その男はやはり複数人と交際していた。

 美紀は、彼が他の女とも付き合っていることを耳にして、何度か本人に確認してみたが、いつもはぐらかされていた。彼女にしても信じたくない心理から、彼の誤魔化しを疑いながらも信じようとしていた。

 高校受験も、成績の良い彼と同じ高校に入るために必死で勉強した。それはそれで結果的には良かったのだが、同じ高校に入学した後も交際は続くものと考えて疑わなかった。だが環境が変わると、彼は美紀に対しては愛情どころか時間も割かなくなった。美紀も覚悟を決めて彼の部屋に押しかけて詰問し、結局はそこで破局を迎えた。

「いつ頃喧嘩別れしたの?」

「十一月頃でした」

「そう。寒い冬を過ごした訳だ」

 幸一は、その男が美紀のことをどの程度好きだったのかは想像出来ないが、複数の女を好きになってしまうことは仕方ないと理解している。これは正直な心理であるし、まだ高校生なのだから色々な人に興味を持つのは当たり前で、程度の問題はあるが、男も女ももっと自由に付き合えば良いと思っている。

 一時的に重なる時期があることも仕方がないし、結果的に元の鞘に収まることも良いことだと思う。

 だが、それを女性に話すとほとんどの人が反対する。裏切りは許せないと言う。結婚でもしているのなら理解もするが、まだ学生なのだから、何もそんなに拘束する必要は無いだろう。しかし、女子とこんな議論をしても無駄なので、女子の前ではこの意見は絶対に発言しない。

 もしかしたら、美紀はその男にとって一番大事な女であったかも知れない。もう少し美紀が男の癖を理解し、寛容であれば二人の仲は続いたのかも知れないが、長く付き合うことが必ずしも良いことだとは限らないので、美紀には気の毒だが良い経験をしたと思えば良い。だから今日は、何も意見は言わずにただ聞いているだけで良いと思った。

「それで今は?」

「誰もいませんよ。好きな人も興味をそそる人も……」

 美紀は努めて居直った風に振舞っているが、それが怒りの形であっても、彼への未練が自然とにじんでいる。幸一は、美紀が寂しさを紛らわせるために自分に接しているという現状を認識した。幸一が卒業する前の、半年間に渡る美紀の冷たい態度を鑑みると、何か目的があるとしなければ、この前からの彼女の行動は説明がつかない。

 そもそも、焚火の前で幸一を発見した時に声を掛けて来ないだろうし、お茶に誘った時点でも断っていたであろう。まして、今日のように部屋にまで訪れて来るなど、昔の彼女からは想像すら出来ない行動だ。自分がうまく利用されているように感じるが、それはそれで良いと思った。

「どうして男の人は気が多いのですか?」

 美紀が冗談気味に軽く語尾を上げて尋ねる。

「ま、基本的に雄は狩人だからね」

 幸一は上体を起こし、ベッドの上に座ったまま半回転して美紀の方へ向き直った。

「三浦さんも狩人ですね。こうして私なんかを部屋に連れ込んでいるんだから」

 美紀は幸一に笑みを送った後、再びゆっくりと脚を組み変えて背もたれに大きくもたれ掛かる。彼は出来るだけ彼女の腰回りに視線を向けないように気を付けていたのだが、脚を動かされると自然に視線が向いてしまい、脚の交差が完了するまでのわずかな時間、姿を覗かせていた愛らしい下着に再度動揺してしまった。 

「ここは落とし穴じゃないよ」

 幸一は平然を装いながらにこりと笑い、

「それに第一、遊びに来たいと言い出したのは君だと思うけど?」

 と、ベッドを離れてドアに近づいた。

「紅茶で良い?」

「はい、お願いします」

 美紀の答えを聞き終わる前に部屋を出た。彼は台所で飲み物の準備をしながら真理のことを考える。何となく後ろめたい気持ちもあるが、自分が本当に好きなのは真理であるから別に問題はないと自分に言い聞かせた。

 美紀が遊びに来たいと言った時も、何の後ろめたさも無く自然に了承した。ただ今しがた、美紀の全身から発せられる色気のようなものを感じて、今までの彼女に対する感情とは違ったものが芽生えてきたので、慌ててあの場を抜け出した。

 当然のことながら、中学時代の幸一も世間の男子並みに、想像の中で美紀を思い浮かべて欲情したことは何度もあるが、それはあくまでも想像の世界のことであり、目の前の美紀に高揚することとは全く意味が違う。 そのために、真理に対する後ろめたさを感じたのかも知れない。幸一は、固く昂った色情を落ち着かせるために何度も顔を洗った。

「わあ、美味しそうなクッキー」

 美紀は幸一が運んできた紅茶とクッキーに早速手を伸ばす。

「でも、何だか穂積さんに申し訳ないですね。ここへも何度か遊びに来てらっしゃるんでしょう?」

「いや、来ていないよ」

 美紀はクッキーを口にくわえたまま、意外だといった風に目を大きく見開いておどけた表情を浮かべている。彼女が時々お茶目な仕草をすると、そこに後輩としての美紀を感じる。どこか妹と遊んでいる時のような、男女の関係にない空気を感じる。

「それに前にも言ったけど、可愛い後輩と昔話をしただけで怒るような真理じゃない。君は社交辞令だと言ったけど俺にはそうは思えない」

 幸一はコーヒーカップを手にして真面目顔で言った。

「へえ、信じ合っているんですね」

「どうだろう?俺はすべてを信じている訳ではない。きっと彼女も同じだと思う」

「好き合っているのに、信じ合っていないのですか?」

 美紀はティーカップを静かに口に運ぶ。紅茶の香りが部屋に広まってゆく。

「お互いが相手のことを想い合う、好きになる、興味を持つ。そういった姿勢に関しては信用している。でもその結果、相手のことが色々見えてきて、益々好き合えるかも知れないし嫌いになるかも知れない。要は向き合った結果の行動までは期待できないと言うことだよ」

 美紀はゆっくりとカップをソーサーに戻した。

「何となくわかったような気がします。でも、穂積さんに嫌われても良いんですか?」

 悪戯な視線で幸一をからかう。

「そりゃあ寂しいけど仕方がない。でも、俺が惚れていることに変りはないから……」

「そんなの辛いだけでしょう?」

 からかった積りが、幸一が真面目に答えたので彼女は少々面食らっている。

「俺は彼女の幸福を考えている。俺を嫌いになって遠ざかることが彼女の幸福なら仕方がない。喜んでとはいかないけど我慢するよ」

 そう言った端から自分は全く口先だけの男だと実感した。自分勝手に、心の動くままに行動しているだけで、真理の幸福など本気で考えたことがあるのだろうか。

「強いですね」

 彼は、後輩の前で見栄を張っているだけの自分に向かって、

「俺は弱い男だよ」

 と、嘲笑気味に呟いた。

 こうして美紀と過ごしていると、自分がまだ中学生であるかのような錯覚に陥ってしまう。それは彼女に対する未練が原因ではない。当時は、美紀に恋をしているかも知れないという疑いは抱いたが、確信はなく告白したこともない。あくまでも仲の良い先輩と後輩の間柄だった。

 彼にとって良い距離感を保っていた頃の思い出は、とても美しい風景として心に刻まれている。そしてそれを思い起こす度、その美しい風景の洗練度は向上し、理想的に完成した形で脳裏に焼きついていた。

 真理と二人でいる時に、現実の真理と、幸一の中で生きる真理とのギャップに困惑することがあるが、美紀は違った。美紀との場合は、現実と思い出の中を自由に往来出来る。現実の美紀とも何の違和感もなく自然に接することが出来るし、思い出の美紀も理想のまま輝いていてくれる。

 美紀とこうしていると、思い出の中の哀切に満ちた空気に心が包まれたり、急に現実の彼女の色香を感じたりすることを思うと、実のところ、幸一は美紀と一緒に現実と思い出を往来しているのかも知れない。

「本当に昔と変りませんね、三浦さん」

 またこの言葉を投げ掛けられた。前回言われた時は、昔から幸一が他人の気持ちを理解得ないと言う意味だったと思うが、今回はどう言う意味なのか?真理の気持ちがわかっていないと言うことを美紀は言いたいのか?幸一はそんな思考を巡らしたが、

「あれ?この話しの流れだと、三浦さんも大人になりましたね、じゃないの?」

 と、茶化し気味に言って面倒な思考から抜け出した。

「いいえ、昔のままです。優しいと言うか、お人好しと言うか……。不器用と言うのが正しいかも」

 美紀は、ティーカップに浮かぶレモンスライスの断片をスプーンで突きながら、カップに語りかけるように小声で答えた。自分は不器用な人間だと思われていたのか?幸一はまた面倒な思考に引き戻された。


 二月も下旬に入った。この頃、寒さは絶頂に達しているようだ。そして今日も真理と一緒に歩いている。

「明日もあかんの?」

 土曜日の午後の帰り道。真理が遠慮がちに幸一の横顔に尋ねた。

「ごめんな」

 実際のところ、明日の予定は空いている。しかし今日の二時から美紀に会う約束をしているので、明日は美紀と遊びに行くことになるかも知れない。そう思って予定を入れないでいる。

「また美紀ちゃんと遊ばはるの?」

 幸一はどきりとした。

「ごめんな。今、彼女は色々あってな、話を聞いてあげたいんや。もう少しだけ待ってくれ」

「わかった。ごめんなさい」

 真理は自分が放った愚痴を取り戻すかのように明るく微笑んだ。

 先週の日曜に真理とテニスをする約束をしていたが、その前日に美紀から誘いがあった。幸一はとても迷ったが、真理とは毎日のように会っているし話もしている。しかし、美紀とは、一度断ったらそのまま会えなくなってしまいそうな予感がした。

 それに美紀には何か隠し事がありそうで、それが気になるのも確かだ。この前失恋話しを聞いたが、それはほんの序章に過ぎないようで、本当に話したいことを言い出せずにいるような気がしている。彼は自分でも論理的に説明出来ないが、美紀とはもう少しだけ二人の時間が必要な気がしている。そのために真理との約束を一方的に反故にしてしまった。

 幸一は真理に理解して欲しいとは思わない。ただ、もう少しだけ時間が欲しい。美紀とは、思い出の世界を一緒に旅することはあっても、美紀に惚れてゆくとか、恋に落ちてしまうと言った感覚は無い。

「じゃあ」

 いつもの別れ道で、いつものように片手で挨拶をしようとした。

「まだ時間あるんでしょう?」

「いや、ちょっと用事があるから」

 この後美紀と会うことを言うべきかどうか迷った。

「私も買いたい物があるの。もし良かったら付き合ってくれる?」

「悪いけど今日は無理や。ごめんな」

 そう言い残したままその場を立ち去った。真理にはとても申し訳ないと思うが、今は美紀との時間も大切にしたい。ふと後ろが気になって振り向いてみたが、真理の姿はもう無かった。


 幸一は、美紀と向き合ったままで真理のことを考えている。真理の美しさと美紀の可憐さは、どこか存在感が違った。美紀とは過去の思い出があり、しばらくの空虚な空間があり、突然の再会があった。

 ただ懐かしいだけなのかも知れない。だから思い出と現実の世界を一緒に旅をして楽しんでいる。幸一は自分にそう言い聞かせて複雑な感情を整理しようとしている。

 思い切って、本当は真理のことを好きではないと想定してみた。だが、その仮定は一瞬にして掻き消される。一日たりと真理に会わない日があるのは辛い。都合が合わなくてひとりで帰る下校路は憂鬱だし、日曜の夜は、翌日には会えると言う喜びで学校へ行くことが待ち遠しくなったりする。

 だが、いないと寂しいのに目の前にいてもそれほど感動が無いのも事実だ。そして、たまには疎ましくなる瞬間や、逆に思わず抱き締めたくなるような熱い激情に見舞われることもある。幸一は自分自身の感情が整理できず、考えることを放棄することがしばしばあった。

「どうかされました?」

 美紀が幸一の悩ましげな瞳を覗いて尋ねる。卒然、美紀の眼差しを視野に捉えた幸一は、記憶の中の真理の眼差しと対比させて、美紀の方が曇っていると感じた。

「そろそろ行こうか?」

 二人の飲み物はすっかり無くなっており、カップの温かみも失われている。幸一が腰を上げかけたとき、美紀が硬貨をレシートの上に置いて、

「たまには出させてください」

 と言って、いつもの静かな茶房の出口へと向かった。幸一は魂がここにいなかったために全く反応出来ず、彼女の言われるままに勘定を済ませた。

 二人はどちらからともなく書店に入った。人の出入りで混雑する入口付近で、幸一は美紀の肩が触れたと同時に視界に入った光景に驚いて、反射的に美紀から身体を離した。

 店から真理が出てくる。真理もほぼ同時に幸一と美紀に気付いた。真理の表情には、驚愕と疑問と失望が同時に表れた後、すかさずいつもの笑顔が表れた。

「こんにちは」

 真理は明るい調子で美紀に挨拶をする。

「あ、こんにちは。お久しぶりです」

 美紀も一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに親しみのある笑みで応えた。二人ともスリムで、真理の方が少しだけ背が高い。こうやって二人が並ぶと、やはり真理の方が大人びて見える。

「どうもすみません。三浦さんをお誘いしたりして……」

「いいえ構わへんのよ。こんな人で良かったらいつでも誘うてあげて。こう見えても、後輩思いの優しい人やさかい」

 真理は幸一の顔を一瞬見上げたが、すぐに美紀へ視線を戻した。

「ありがとうございます」

「じゃあ私は帰るさかい。幸一さん、また来週ね。あ、良かったらまた電話頂戴ね」

 真理は美紀に軽く微笑んでから店を出て行った。美紀は、真理の後姿を少しの間見送ってから、悪戯な笑顔を浮かべて幸一の表情を覗く。気のせいか、それからの美紀の立ち位置が幸一の身体に近くなったような気がする。いつも以上によく話し、よく笑い、幸一の腕によくしがみついた。彼は、美紀と自然に楽しく接していた頃の、心地良い雰囲気が戻ってきたように感じ始めた。

「明日、三宮まで買い物に行くつもりですけど、付き合って頂けますか?」

 美紀の無邪気な笑顔に、幸一は何の躊躇もなく頷いた。


 三月を迎えたものの、二人に吹く風はまだ冷たい。今日は久しぶりに真理と一緒だ。先だって美紀と三宮に買い物に出掛けてからは、美紀から幸一を誘うことは無かった。幸一が誘っても何かと用事を理由に会ってくれない。三宮に出掛けた時は、二人とも仲良く楽しめたし喧嘩をした訳でもない。このまま良い友達でいられるような雰囲気だったから、彼女が自分を避けているとは思えなかった。

 今日の真理は、淡いピンク色の薄手のセーターにカーキー色のブルゾンをまとっている。そしてフリルのついた淡い水色のミニスカートを穿いている。ヒールが高めのパンプスを履いているので、普段より背が高くなっている。会う度に視線の角度や肩の高さが変ることには少々困惑してしまう。

 しおらしく公園のベンチに座っている真理の横に並んで幸一も腰を掛ける。そうしてさりげなく彼女の横顔を見つめた。今日も薄化粧をしている。もう最初の時のような違和感は無い。化粧が上手くなったのか、幸一が見慣れてきたのか……。

「嫌な思いさせてごめん」

 幸一はずっと気になっていたことを口にした。例え中学時代の後輩とは言え、何度も二人きりで会うことは真理にとって面白くない。まして、約二ヶ月の間、日曜日に真理とは一度も会わず、ずっと美紀と会っていたのだから、余程のお人好しでも怒って当然だ。

「良いのよ、何も気にしてへんさかい。幸一さんは会いたい人と会わはったらええのよ」

 真理は幸一の方を向いてとても自然に笑うと、すぐに梅林の方へ目線を戻した。

 今日は姫路の西隣にある御津町の梅林公園に来ている。海岸縁に面した小高い丘にある公園で、梅林の向こうには瀬戸内海の静かな波が遠望できる。

「そうか」

 ポツリと呟くと、梅林とその背景に広がる瀬戸内海を真理と一緒にぼんやり眺めた。そして彼は、真理の親しい女友だちに説教をされたことを思い出した。

 真理は平気な態度でいるけれど、本当は幸一の気持ちが揺らいでいるのではないかと不安で仕方がないと、その女友だちは言った。この手の女友だちのお節介情報は、多分に大げさで間違いが多く、いわゆる親友の私見がかなり織り込まれているもので、すべてを信用する訳にはいかないが、真理が幸一の心を信用しきれなくなるのは当然のことだと思う。

 だから、幸一が謝ってもなお、愚痴ひとつ言わず平気そうに可憐な笑顔を浮かべる真理が意地らしくもあり、いわゆる親友の情報に混ざり物が多かったのではないかと疑ってしまうほど自然な笑顔だ。

「泣いたらしいな」

 いわゆる親友の情報だが、真理は不安に堪りかねて親友の前で涙したらしい。

「嫌やわ、あの子。そんなこと話さはったの?」

 幸一は梅を眺めたままで軽く微笑む。しかし、真理は幸一の反応など気にも留めずにふいと立ち上がった。

 二人は梅林公園の中の休憩所で雨宿りをしている。休憩所といっても、ベンチとテーブルが二組設置されて、茅葺をあしらった軽量サッシの屋根があるだけで、雨や厳しい陽射しを避けるだけの簡易な休憩所だ。天気が良ければここでお弁当を広げて楽しめる、自然の中の団欒場所でもあった。

 今日一日、何とか持つかも知れないと期待していた天気が崩れて、昼過ぎからは霧のような春雨が辺りを湿らせている。観光客もまばらで、周囲のすべての音を霧の春雨が吸い尽くしているかのように静寂だ。風はまだ冷たいものの、既に春の匂いをその中に含んでいる。

 霧の春雨の幕を前にして真理が立ち尽くしている。あと一歩踏み出せば霧を浴びてしまう位置に立ち、潮の香と芳しい梅の香りが混ざった肌寒い風に髪を流されて、ブルゾンの前をゆっくりと閉じた。

「女の涙なんかに動揺しはったらあかんわよ。女の涙なんて、理由が有って無いようなもの。これからの男の人生の参考にして頂戴」

 そう言って、大人びた笑みを湛えた真理が幸一に振向いた。そしてすぐにまた海に向き直ると柔らかな後姿で立ち尽くした。

 梅の花は八分くらい開花している。瀬戸内海は濃いグレー色に染まっていて、海らしい青さはどこにも無い。空の曇った色彩が海に映えているような憂鬱な風景が広がり、波の音は霧に吸収されてしまったのか、ここまで届いては来ない。 

 真理が霧雨の境界線に立つことで、霧に包まれた広大な自然を背景にする構図となった。しんしんと降り続ける雪の優しさに似た霧の春雨の、紅梅白梅に柔らかく覆いかぶさる風景が幸一の視界一杯に展開し、その奥には静かに舞う瀬戸内の波がある。そんな、静寂の中で綿々と営みを続ける雄大な自然を背景に、真理がしなやかに立ち尽くしている。

「そやけど嬉しいわ。今日は幸一さんと一緒にいられて」

 唐突に振り返った真理が、霧が木の葉をゆっくりと濡らしていく風景のような柔らかな声で心根を表した。自然の背景に映る真理の華奢な身体は、冷たい春雨をただじっと受入れている梅が枝の如く、健気で可憐な香りを放っている。                     

「俺のことを信用出来なかった?」

 彼女が涙したことがどうしても気になってしまう。女の涙に騙されるなと言われたところで、そんな大人の言葉を理解する能力も無く、色々なわだかまりが全て一掃される訳でもない。

「信用はしてるわ。不安なだけよ、幸一さんの結論が……」

 いつの日か美紀に吐いた言葉と同じ主旨の言葉が真理から漏れて、幸一から自然な笑いが零れた。

「何が可笑しいの?」

「俺と同じような不安を抱えているから、何となく可笑しくて」

 彼はもう一度自然な笑みを浮かべた。と、その時、雨水と一緒に強風が横から流れ込んで来ると、悪戯ついでに真理のミニスカートをヒラヒラと舞い上げてから逃げ去った。

「見たらあかん」

 見るなと言われても、一瞬の出来事だったので目に入ってしまった。しかし、美紀が部屋に来て何度も下着を覗かせた時のような高揚はなく、慌ててスカートを押さえる彼女の仕草を可愛く感じるだけだった。更に、そんな愛らしい振る舞いを醒めて見ている自分がいる。その冷淡な心の一片が何なのかはわからないが、彼の心にいつも同居している空虚な塊だ。

「俺の結論て何?」

「いけずやわあ」

 真理は目元に笑みを浮かべて幸一に歩み寄る。同時に彼は立ち上がってぐいっと伸びをした。このままでは真理を抱き締めてしまいそうだ。静寂な自然に囲まれた可憐な真理と久しぶりに正面から向き合ったためか、美紀との過去を巡る旅も潮時と考え始めたためか、自分でも説明のつかない熱い激情が腹の底から込み上げて、彼女を抱擁することでしかこの思いを満足させることが出来ないような気がする。

 幸一はさりげなく真理をかわしてから霧のカーテンの手前まで歩む。人は少ないとは言え、昼間からカップルが抱き合うような場所でもない。そしてそれにも増して、彼には激情に流される勇気が無い。

 幸一と入替わるようにしてしばらくは椅子に腰掛けていた真理だが、どこからともなく鶯の声が響いてくると再び立上り、瀬戸内海を見つめて腕組みをしている幸一の横に並んだ。

 今日の真理は、幸一のそばにいても腕や肩に肌を寄せるようなことはしなかった。幸一も、今ここで彼女の肌に触れたいとは思わないが、肩が触れ合うほどの微妙な距離感に、焚火の前で手を握り合った時の心と身体が熱く高まった動物的な感覚が懐かしく蘇ってきた。

「ごめんな、他人の気持ちがわからない不器用な男で」

 美紀との会話で自分を省みた幸一は、自虐的な言葉を吐いて中央のテーブルに飛乗って腰掛けた。真理は幸一には従わずにそのまま海を見つめている。真理の後姿はハイヒールのために腰の高さがやや高くなっている。ミニスカートのためか普段よりも大人の色気を感じる。だが、なぜか女性の後姿に哀れさを感じてしまう自分が不思議で仕方がない。

「美紀とは君が心配するような仲やないよ。可愛い後輩でしかない。高校一年の時に俺は今の家に引越した。その後美紀も引越して、その後ずっと連絡が途絶えていた。そやから色々と積もる話があっただけや。あ、こんなこと、もう何度も話したな」

 真理は背中で聞いている。

「でも、もう美紀と二人きりでは会わへんよ」

 最近、美紀が自分を避け始めていることを幸一は感づいている。美紀が真理のことを本気で意識し始めたのか、二人の過去の隙間をひと通り埋めることが出来たためか、彼女の失恋の傷を癒すことが出来たためか、それともいつもの気まぐれか……。中学三年生の時のように、突然冷たくなって彼のことを避け始めるかも知れない。

 幸一自身も、ぽかりと空いた美紀との空間を埋めることが出来たような気がしている。逆に、これ以上彼女と会い続けると、半ば中学時代に戻ったような錯覚状態で冒険に踏みこんでしまいそうな予感があるのも事実だ。

 彼もいつかは切りをつけようと考えていた。いつ、どんな形でその時が来るのかはわからなかったが、今がその時のような気がした。真理と二人きりのこの環境で、多分に感情的になっていることは自覚しているが、決断なんてそんなものだと自分に言い聞かせた。

「何で?何でもう会わはらへんの?」

 そう言いながら静かに振向いた真理は、怪訝そうな瞳で幸一を見つめているが、霧雨のためか睫毛から瞳まで薄く濡れているように見える。

「お互いに昔の話は話し尽くしたし。美紀も話したいことはすべて出し切ったみたいやし。これからはクラブのOB会とか、イベントの時に会って話が出来たら十分や」

「ほんまに?」

 思わず真理が近づいてきて幸一の横に腰掛ける。そして幸一の瞳をじっと見つめて、

「ほんまに、ほんま?」

 と、切羽詰ったような声で幸一の心を揺さぶった。真理の睫毛に水滴が乗っている。

「ほんまや」

 幸一もじっと真理の瞳を見つめて心から誓った。

「じゃあ、信じます。絶対よ。今度二人きりで会わはったら……うち……うち死んでしまうから」

 と、物騒な言葉を吐いて、やや涙目になった目尻を小指でさっと拭った。そんなに嫌だったのならそう言えば良いのにと、身勝手とわかりつつも心の中で呟いた。しかし、真理の健気さがこの上なく可愛いくて、抱きしめたい欲望を抑えるために大きく呼吸をしてから、

「死ぬなんて物騒なこと言うなよ」

 と、真理の頭を軽く撫でた。

「ごめん」

 真理はそう呟いて俯いたが、彼女の頭を撫でている幸一の手を取って膝の上に置き、両手で彼の手を握った。そうしてそのまま、霧の向こうに浮かぶ瀬戸内の島影に視線を合わせた。

 幸一も同じように黙したままで、ゆっくり移動する船影を見つめた。湿った梅花のかぐわしい香りが、心を握り合った若い二人を優しく包み込んだ。

我侭で身勝手な幸一をどうか見守ってやってください。自分に正直な単純な男ですので……。

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