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焚火  作者: 夢追人
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御神籤

今から二十年ほど前の時代背景です。テニスしか能がなく恋愛経験も少ない幸一が、修学旅行先の上高地で恋心ぽい憧れをいだく。学年でも指折りの美少女に憧れたところで何の接点もない彼には高嶺の花でしかない。ところが、旅行中に奇跡的な偶然で会話することができた。だが、他人を愛することがどう言うことなのか、恋しい気持ちと、理想の女性像を求める自我、現実の女性を否定する気持ちと誘われる欲情、自分が見たい風景画だけを記憶して憧れている高校生男子の身勝手で不器用な物語。

 流れ星が描いたほんの一瞬の軌跡。そのせわしい軌跡が消えた後、漸く二人の白い息が同じ方向に向かって広がっていった。

「もう、これで三回目よ」

 真理はやや不満気味に零しながら、登山道から少し離れた所にある、腰の高さほどの台形型の岩石に向かって歩いて行く。星たちの瞬きには音がないことを証明して飽き足らない静けさの中に、ふと、闊達な足音が近づいて来たかと思うと、数人の若い男性が足早に二人を追い抜いてゆく。

「君が叫んだ時にはもう遅い。二人一緒に流れ星を見るなんて無理な話や」

 懐中電灯と薄い月明かりを頼りにしながら、幸一も彼女の真後ろに付いて歩を進める。

「少し休みましょう。幸一さんは運動部やさかい、私と歩いているとイライラしはるでしょ?」

 軽く笑んだ真理は、岩の天辺に腰を下ろす。正直なところ、幸一は普段の半分程の歩幅でゆっくりと歩いていた。しかも、真理が時々つまずきそうになるので、いつも彼女の足元に気を取られている。だから、彼女のように折節星空を見上げては流れ星に遭遇する幸運には恵まれなかった。

 一方の幸運な真理は、発見の都度幼い子のような歓喜の声とともに指さすが、元より幸一には見えるはずもない。

「そんなことあらへん。ゆっくり歩くのも楽しいもんや。普段見えへんものまで見えてくる」

 幸一は明るく答え、彼女に気を遣わせないように笑みを浮かべる。

「こんなに暗い道で何を見はったの?」

 真理の白い息が星空に広がる。

「小さな娘と歩くお父さんの気持ちかな」

 彼女の横に並んで岩石の天辺に腰掛ける。

「三浦君は優しいお父さんにならはるわ」

 からかい気味に言葉を放った真理が星空を見上げて、

「星がたくさん!」

 と、今夜何回も聞いた感嘆の言葉を再び口にしながら白い息を吐く。ゆっくりと夜空を眺める機会を漸く得ることが出来た幸一も、彼女と同じように白い息を星空に向けた。自宅のベランダから見る星空よりも遥かに多くの星が視界に入って来る。街灯りの影響を受けないためか、宇宙に繋がる深い闇と、そこに浮かぶ数多な星光とのコントラストによって星たちが空間的に迫って来る。ぼんやり眺めていると、そのまま星空に吸い込まれてしまいそうだ。

 そして、今こうして零れるように輝く星空の下で、穂積真理(ほづみまり)と一緒に大晦日の時を過ごしている事実が未だに信じられないのが正直な心持だ。三浦幸一(みうらこういち)は、姫路市にある第二高校に通う二年生。穂積真理も同じく二年生で、幸一とは隣のクラスだ。

 穂積真理は、学内で有名な美少女で、人柄も良く幅広い人気がある。当然のように彼女に憧れる男子は多い。だが、真理は男子と一定の距離を置き、それ以上は寄せ付けない雰囲気を漂わせている。決して男子生徒に対して無愛想な訳でもなく、俗にいうお高く止まっている訳でもない。むしろ愛想は良いし面倒見も良い。いつも女友達と一緒に遊んでいて、彼氏がいるという噂も一切聞こえて来ない。  

 幾人かの男子が彼女に交際を申し込んだと言う噂は聞こえてきたが、いずれも実らなかったらしい。いつしか、真理は恋愛に奥手であまり興味を持っていないと言った憶測が噂話となって聞かれるようになっていた。

 幸一が真理に興味を持ったのは二年生の初夏の頃だ。一年生の頃から真理の噂はよく耳にしていたが、部活動に没頭していた彼は女子にはほとんど関心がなかった。


「ほんま綺麗やわ!」

 真理が再び感嘆の息を吐く。

「俺は毎晩のようにベランダで星を眺めているけど、少し街から離れるだけでこんなに違うんやなあ」

「毎晩星を見てはるの?夢見る少女みたいやね」

 真理は月明かりの中でも輝いて見える清々しい笑顔のまま幸一の瞳を優しく覗く。幸一が初めて真理に惹かれたのは、この清々しい笑顔が引金だった。

 修学旅行で訪れた初夏の上高地。早朝まで降り続いた雨で周囲の森林は一層鮮やかな緑を輝かせていた。緑が輝いて見えたのは、木の葉に乗った滴たちの反射かも知れない。そして雨後の流れとも思えない澄んだ梓川の川面にも朝陽が忙しく乱反射していた。

 雨上がりの空は一気に青く澄み渡り、木の葉たちの鮮やかな活気と若者たちの生気をどこまでも高く吸い上げてしまいそうなほど深く澄んでいた。

 そんなさわさわとした透明な空気に溶け込んだ真理が、光り輝く梓川の川面を背景にして清々しい笑顔を浮かべ、その白い笑みが朝陽に照らされている風景に出会った瞬間、幸一の脳裏に一枚の風景画として記憶され、その感動とともに彼の心でいつまでも生き続けている。

「夢見る少女は、星を眺めながらウイスキーを飲んだりしない」

 幸一の口から白い息が漏れる。

「へえ、背伸び好きの夢見る少年ね」

「夢見てる訳やない」

 毎晩夜空を見上げては、星空の中に真理の幻影を思い描いていたことを思わず口にしそうになる。

「じゃあ、何見てはるの?まさか幻覚?お酒や煙草くらいにしておいてね」

 少し笑いを零した真理は、星を取り込むかのように両手を星空に伸ばして深く息を吸った後、

「ハアー」

 と、ゴジラのように白い息を吐いた。


 修学旅行の朝、緑輝く新鮮な空気に包まれた河童橋辺りで真理の笑顔に出会ったものの、その後は見掛ける機会がなかった。そもそもクラスが違う彼女の姿を遠目に見ることができたのも、そこが集合場所だったからだ。

 宿を出て河童橋付近に集合し、そこからクラス単位で上高地を散策する。真理は幸一のひとつ前のクラスだったから、先に出発してしまった。幸一は、もう一度あの笑顔を見たい、彼女に近づきたいと言った熱い欲望を胸に秘めながらも、団体行動の中で規律正しい行動を求められた。

 森林が吐き出す心地良いイオンを全身に浴びながら梓川沿いに歩き、明神池まで進むと今度は反対側の岸を歩く。どこを歩いても緑と透明な川面に包まれて、真理に対して抱いた純白に輝く印象もいつしか自然の中に溶け込んでゆき、梓川の清流のような透明色に薄れつつあった。

 やがて大正池に到着すると、しばらくの間はそこで自由行動となった。先着組は既にあちらこちらに散らばっている。幸一も到着してしばらくはクラスの仲間たちと行動を共にしていたが、彼らが鬼ごっこのようなゲームを始めたので彼は外れた。

 何が楽しくて鬼ごっこなどするのか不思議でならない。幸一はしばらく周囲をぶらぶらと歩いてみたが、ふと目に留まった自然の倒木が腰を掛けるのにちょうど良かったので、そこに腰を下ろして、小波ひとつ立っていない静かな池をぼんやりと眺めていた。

 その静かな面に映る山々は焼岳、穂高連峰。青空までが逆さまに映し出されてまるで鏡のようだ。昔の女性は水鏡で化粧をしたとか言う話を思い出したりした。

 幸一の周りでは色々な人間関係を軸にして、写真撮影大会の賑わいが広がっていた。美しい風景を背景にして、好きな仲間と一緒に写りたいと言う思いはみんな同じだ。

 真理と一緒の写真を撮れたら幸福だろうなと、幸一の甘い想像が膨らみ、彼らは希望の相手と写ることが出来ているのだろうかと、大はしゃぎをしている男女のグループを遠目に見ていた。

 彼らと距離を置いている幸一は、少し大人びた気分で彼らを見つめていたが、彼らから見ると、朽ち果てた倒木の上で友人の少なそうな男が寂しそうに座っている様が哀れに見えていたかも知れない。

 焼岳の噴火で梓川の流れが堰き止められてできたのが大正池だ。そんなことが原因なのかどうかわからないが、周囲はとにかく静寂だ。若者たちの喧騒や鳥の鳴声など、全ての音が穂高連峰の山肌に吸収されてしまうのか、まるで防音壁に囲まれた空間にいるかのような響きがない世界だ。そして風景を映し出す水鏡を見つめていると、魂ごと池の中に吸い寄せられてしまいそうな錯覚に陥った。そんな静寂の中で虚無の境地に足を踏み入れかけた幸一に、遥か遠方から女性の声が届いて来た。

「三浦君」

 穂高丘から届いたのかと思った声がすぐ後ろからのものだと感づいた瞬間、幸一は夢から覚めたような感覚でぼんやりと後ろを振り返った。きっと眠気眼をしていただろう。声の主は同じテニス部の女子生徒で、一年生の時に同じクラスで仲良くしていた女子だ。

「ひとりで何してはるの?」

 彼女が悪戯っぽく笑っている。だが、幸一の視線が自然ともうひとりの女子に移ると彼の血圧が急上昇し、夢見心地から一気に目覚めて全身に血流が行き渡った。幸一の視線は微笑みを浮かべた真理に釘付けになっている。そう言えば、テニス部の彼女と真理は二年生で同じクラスになり、仲が良いのか時々一緒に下校しているところを見掛けたことがある。

「水鏡に映った山を見てた」

「へえ……。ひとりで?」

 見渡す限りひとりで過ごしている変わり者は他にいない。

「団体行動は苦手やからな」

 幸一は、まだ口も利いたことのない真理にも笑顔を送ってみた。すると真理もまた微笑んでくれて、彼は胸が熱くなった。

「団体戦よりも個人戦が得意やものね」

 テニス部の友人も笑みを浮かべた。

「三浦君、テニス上手やね。この前の練習試合見てたんよ」

 真理から驚く言葉が吐かれた瞬間、幸一は目眩を覚えた。自然に名前を呼ばれたこともさることながら、自分のことを知っていてくれたこと、しかも試合まで見ていてくれたことが、現実とは思えないほど嬉しかった。

 学校で行われた練習試合だったので、通りすがりに少し見てくれただけなのかも知れないが、それでも嬉しくて堪らない。幸一の心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動してゆく。初めて聞く真理の声は、愛らしい顔の印象よりもやや大人びて感じた。わずかに鼻に掛かった響きが微かな憂いと湿りを漂わせている。

 それから数分の間、三人は会話を続けた。幸一と真理は初めての会話なのに、特に自己紹介など行わずに、まるで既知の間柄であるかのように自然に話している自分がとても不思議だった。

「夏の大会頑張ってね」

 話の成り行きで真理から応援の言葉をもらった。幸一の特徴と言えばテニスしかないので、会話がそちらに進むのは自然だ。彼にしても、中学時代からテニスのために学校へ行っているような生徒だったから、テニスの話題は嬉しい。

 高校一年生で個人戦県内ベスト8に入り、学内でも結構目立っていた。だから真理が知っていたとしても不思議ではない。今年はベスト4以上と言うのが周囲の期待であり、自分の目標でもあった。

「テニスだけは真面目に練習してはるからね」 

 テニス部女子がからかった。もしかしたら、二人の会話にたまには自分の話題が出ているのかも、と自分勝手な想像をしてみた。そして更に、真理が応援している前で目標を達成して、

「おめでとう!」

 と笑顔で迎えてくれる場面を妄想してみた。


「星を見ていたら悲しくならへん?」

 過去の記憶を手繰るような視線でカシオペア座を探しながら幸一が尋ねる。

「センチメンタルな高校男子ね」

 からかうように幸一の瞳を覗いたが、彼は真理に視線を返さずに星空を見上げたままで深く息を吸った。


 修学旅行の後、夏休みまでの期間はまるで夢のように楽しく充実していた。幸一と真理は、廊下などですれ違うと自然に挨拶を交わし、時には立話もする仲になっていた。幸一は真理のことで心が一杯になり、昼も夜も彼女のことが自然と脳裏に浮かんできた。そうして、必ず目標を達成して真理に喜んでもらおうと、更に集中力を高めて練習を積み重ねた。

 その頃から、ベランダで星を見つめて真理のことを思い浮かべては、胸を絞られるような心細い切なさを覚えるようになっていた。その切なさは、単に恋心からくるものなのか、恋の行方に対する不安からくるものなのか。

 幸い、真理に嫌われている様子はなさそうだし、良い友だち関係を築けていると感じる。どうすれば彼女が自分のことを好きになってくれるのか良くわからない。だが、テニスで努力して目標を達成することが出来れば大きな自信になって、真理の心に一歩近づけるような気がしていた。

 やがて夏休みに入りすぐにテニスの大会が始まった。団体戦は早々に敗れたが、個人戦は順調に勝ち進んだ。試合の合間には真理のことを思い起こしながら、個人戦二日目で、最低ラインと位置付けていたベスト16まで進むことが出来た。

 個人戦三日目、昨年と同じベスト8を掛けた試合が始まった。幸一の優位に試合は進み勝利が見え始めた頃、突然膝に激痛が走りそのまま倒れ込んでしまった。歩くことすら出来なかった。

 病院で診察した結果靭帯が損傷していた。簡単に言えば過度な練習が原因だった。全く皮肉なものだ。何事も一生懸命に努力すれば必ず実ると教わってきたし、自分でもそう信じていた。

 しかし、その努力があだとなり、結局は自分の目標にも、真理の笑顔にも届かなかった。幸一は、悔しさと脱力感、虚無感の渦巻く泥沼にどっぷり浸かり、運の無さを嘆いていた。せめて後二試合、膝が持ってくれれば諦めもついたはずだ。たとえ試合に負けたとしても次への闘志が湧いたはずだ。だが、目標を賭けた勝負すら、させてもらえなかった。

 中学、高校と部活に没頭してきた幸一だが、親はあまり良い顔をしなかった。部活よりも勉強をしろと言う世間に溢れる言葉をげんなりするほど聞かされたが、それでも我を通して来た。しかし、その結果がこの様で、怪我をしたために親にもかなり迷惑を掛けてしまった。

 夏休み中もほとんど家から出られなかった。試合後の彼は悔しさに支配されていたが、次第に虚無感が大きくなり、やがてすべてがどうでも良いと言った自堕落な感情に支配されていった。

 新学期に入っても松葉杖を使う生活が続いた。クラスの友人やテニス部のメンバーと出会う毎に彼らは労わってくれる。その気持ちは嬉しいものの、なぜか惨めな気持ちになってしまう。だから真理には決して会いたくなかった。こんな惨めな姿を見せたくはなかった。勿論、真理がわざわざ慰めに来るような仲でもないので、教室にじっとしている限り出会う確率は低い。 

 しかし、真理に見られたくはないが、彼女を遠くから見ていたいと言う気持ちは強かった。だからと言って、そんな都合の良いシチュエーションにはなかなか巡り合えず、幸一が入り浸る教室の横を真理が通り過ぎる姿を目にすることしか出来なかった。


「やっぱり悲しくなる」

 星を見上げたままの幸一がもう一度口走る。さっきとは少しだけ語気が異なる。白い息に溜息が混じっているような、そんな語気だ。

「悲しいほどに美しい?」

 からかう様子はなく、真理は幸一の真顔を横から見つめている。


 あの頃に見上げた星空は、悲しさや切なさは元より、虚しさと自己嫌悪までもが混ざり合った重い心に悶えている彼を冷たく見下ろしているようだった。全てがどうでも良いと言う自堕落的な感覚に包まれながらも、運命や環境と言った周囲の何かに責任を押し付けたい気持ちと、どんなに理屈を並べてみても結局は自分の責任だと言う自己を責める気持ちの葛藤に彼は苛まれていた。

 馬鹿のようにひたすらトレーニングを重ねて、身体のメンテナンスや負荷のバランスを考えなかったのは自分の責任だ。しかし、周囲にはそのような助言をしてくれる人も指導者もいない。ただ、一生懸命に練習すれば報われると言った精神論しか流通していなかった。だが、それはどの生徒も同じような環境であり自分だけが特別不遇な訳ではない……。このような終焉のない問答を幾度となく繰り返していた。

 いくら真理に姿を見られたくないと願ってはいても、毎日学校に通い隣の教室に彼女がいるからには偶然の遭遇は避けられない。ある朝、とうとう廊下で彼女と出会ってしまった。

「おはよう。元気そうやね、脚以外は」

 明るく微笑む真理。彼女と出会ってしまった衝撃の隙間に清々しく透き通った笑顔が広がってゆく。久しぶりに見た真理の笑顔は真白に輝いていて、あの上高地の青空に吸い込まれてしまいそうな快活な興奮に幸一を導いた。

 真直ぐな瞳に見つめられた幸一は、それまで重苦しく悩んでいた責任論など一瞬で消滅してしまい、過ぎたことをいくら後悔しても仕方ないと言う前向きなエネルギーが腹の底から湧き上がり、

「おはよう。しばらく見ないうちに益々可愛くなったね」

 と、自分でも驚くほどの軽口が飛び出した。

「口が一番元気みたいやね」

 少しはにかみながら応える真理とのほんの短い会話を契機に、幸一の後悔や虚無感と言った負の蓄積が次第に融解してゆき、彼女に惨めな姿を見られることにも抵抗はなくなった。

 そして、耳にたこが出来るほど自分を罵倒し続けた成果なのか、廊下で出会う度に優しい笑顔を湛えてくれる真理のお陰なのか、一度でも良いから上高地のような自然の恵みの中を真理と肩を寄せ合って歩きたいと言った健全な願望が芽生えてきた。

 心が回復した分だけ教室からも出歩くようになり、真理との接触が増えてゆくと、怪我をする前と同様の感覚で立話が出来るようになっていった。だが、真理との楽しい会話の中でもテニスの話題を持ち出されることは恐れていたし、彼女もその話題には触れないでいてくれた。

 やがて松葉杖がとれリハビリも終わり、日常生活に支障無く歩けるようになった頃、秋はとっくに過ぎ去り枯葉の舞う冬に入っていた。

 少しずつ元の生活に戻り、真理の魅力に再び心を乱され始めた頃、思い切ってデートにでも誘ってみようかと言った野心が頭をもたげて来た。だが、目標に向かって真直ぐに突き進み、痛い目に遭ったテニスの後遺症は重く、今までのように単純に直進するような行動はできなくなっていた。

 更に、試合中の最悪のタイミングで怪我をしたためか、自分の運命を悲観的に見る癖がついてしまい、デートに誘ったところでどうせ断られるに決まっていると、何の根拠もなく結論づけてしまうのが常だった。

 そんな逡巡をしているうちに冬休みとなり、膝の状態も完全に回復してランニングなども出来るようになったが、テニス部に戻る気にはなれなかった。

 休み期間じっと家にこもり、運動も勉強もせずにだらだらと時間を無為に過ごし、真理への思いから生じる切なさに耐えるだけの毎日を過ごしていた。そんな自堕落な生活を続けている幸一に対して、なぜか小学五年生の妹がキレた。そして意味不明の理屈を並べられた後、彼女をカフェに連れてゆきスイーツをご馳走すると言う不思議な結末となった。

 外は寒かったがとても天気が良くて風も弱かった。久しぶりに妹と手をつないで河川敷の散策道を歩いた。カフェでお茶を飲むなどと言う行為は何年ぶりだろうか。思い起こせば休みの日も部活ばかりをしていた。

 そんなことを考えながら妹のお喋りを聞き流して歩いていると、なぜだが急に心が躍動を始め、いつまでも部屋に閉じこもってウジウジとしている自分に腹が立ち、思い切って勝負したいと言う衝動を抑え切れず、家に戻るなり真理に電話を掛けてみた。幸い彼女も自宅にいて電話を取ってくれた。幸一は口から心臓が飛び出しそうなほど緊張して足が震えていた。

「あら、三浦君。久しぶりやね、どうしたの?」

 腹立たしいほどに落ち着いた声が幸一の全身に沁み込んでくる。実際の声よりも更に大人びて聞こえた。そしてその柔らかい音色に全身が包まれると、この数日間悶々としていた心の重荷が一気に蒸発してゆく。そうして重荷が溶けた幸一は本能の成すがまま、挨拶と言う手順も忘れて、

「デートしよう」

 と震える声で叫んだ。さすがにクリスマスに誘うのは図々しいと思い、年末か年始と言う条件を付けた。

「ありがとう。でもごめんなさい、年末年始は……」

 先ほどよりも優しい声色が予想どおりの答えを包んで運んで来た。重荷から解放されて天にも昇りそうな勢いで勝負を挑んだ彼は、一瞬で奈落の底に転落してゆく。その衝撃のあまりの激しさに半ば気を失ったような幸一は、その後何を話したのか良く覚えていない。宿題のことなどを少し話しただけで逃げるようにして電話を終えた。

 幸一はかつて体験したことのない絶望に全身が麻痺していた。試合で怪我をしてからの数ヶ月間、自己嫌悪と後悔を繰り返しながら陰鬱な生活を送って来たが、何とか前を向いていられたのは真理のお陰だ。真理からすれば幸一など単なる友人のひとりに過ぎないだろうが、彼にとっては希望の光であり、そばにいるだけで、否、遠くから眺めているだけで幸せな存在だ。

 そんな貴重な存在を一瞬で失った彼は、再び後悔の思考に入った。確かに、本音ではもっと仲良くなりたいと願っている。だからと言って、闇雲に自分の気持ちをぶつければ良いと言うものではない。相手の気持ちや二人の距離感を考えて行動するべきだった。

 いきなりデートを申し込んだ自分の単純さに呆れ果てる。せめて、買い物につき合って欲しいとか言って婉曲的に誘っていれば、断られたとしても友人関係は保つことができる。  

 だが、あんなにストレートな言葉を吐いてしまっては、断った側の真理も意識してしまい今までの友人関係にひびが入ってしまう。一時の感情に任せて突っ走り、大切な友人を、希望を失ってしまった。

 ベッドに仰向けになった幸一は大きく溜息を吐いた。上高地の若々しい風景の中で初めて真理に魅了されてからの出来事が色々と思い起こされては悲しく消えてゆく。

 これで自分にはもう何もない。テニスも真理も失った。虚無感だけが胸一杯に拡がったが、同時に不思議な安堵感も覚えていた。もうこれ以上落ちることはないだろう。そう考えると奈落の底も案外居心地が良かったりもする。

 幸一が単に生きているだけの空虚な毎日を繰り返しているうちに年の瀬となり、世間も家の中も何かと騒がしくなってきた。掃除だの買物だの、母親から依頼されても絶対に請け負わなかった。ピンポイントで指示された力仕事だけは手伝った。

 最近では妹が母親の手伝いをするので、幸一に苦役が回ってくることは年々少なくなっている。幸一は掃除の邪魔にならないよう気を遣って部屋にこもっていたが、突然妹が飛び込んで来た。また小学生にキレられるのかと不安になったが、

「お兄ちゃんに電話!女の人から!」

 と、親の危篤を知らせるような緊張を漂わせて叫んだ。

「そんなに驚くことか?」

 どうせクラスの連絡事項だろう。休み中に連絡網が使われることはたまにある。幸一はベッドから起き上がって、頬が強張っている妹の横を通り過ぎた。

「穂積さんて言う人やけど……」

 衝撃的な名前を背中で聞いた幸一は一瞬足が止まったが、妹に動揺を気づかれないように平然として進んだ。全身の筋肉が緊張し鼓動が激しく音を立てる。動揺で階段を踏み外しそうになった。

 電話に出た幸一は、真理から信じられない言葉を受けた。年末の手伝いも終わったし、大晦日の夜に書写山(しょしゃざん)に登って除夜の鐘を聞き、初詣をしようと言う誘いだった。 

「何で?」

 嬉しいはずなのに、あまりに突然で思わず疑問を漏らした。

「何で……?三浦君が誘ってくれはったさかい」

 真理も幸一の反応に驚いている。

「年末年始は忙しいから無理、て断られたはず……」

「そうよ。毎年、年末年始は母の実家がある京都で過ごすけど、今年は父の仕事の都合でどうなるか未定やて言うたでしょ?」

「え?」

「聞いてはらへんかったの?」

「ごめん、ショックで……」

 真理は小さく噴き出した後、

「父の出張が決まって、年末年始はこっちにいるの。祖母の所へは別の日に行くことになったわ。そやさかい、三浦君とデート出来るわよ」

 と、明るいひと筋の声で、奈落の底に沈んだ幸一を天国まで引き上げてくれた。


「ごめんな」

 幸一は一度手元を見つめた後、再び星空を見上げた。流れ星を見たような気がしたが自信はない。真理は唐突な言葉に小首を傾げ、妙に深刻な彼の横顔を見つめる。

「夏の大会で負けてしもて……」

 幸一は、胸の奥深くにずっと沈んでいた敗北の後始末を始めた。手の平に刺さった細い棘のようにずっと心に掛かっていて決して忘れられない痛み。好きな女性に期待されて、応援されて、それに応えられなかった不甲斐なさ。直接謝るしか棘を取る方法がないのに、テニスの話題すらずっと避け続けてきた。そんな心の棘を星空に向かってやっと吐き出すことが出来た。

 真理は幸一の横顔から視線を外し、彼と同じように星空に心を埋没させた。そしてしばらくの間、北斗七星を見つめてから大きく息を吸込む。

「何で私なんかに謝らはるの?」

 冷たく張り詰めた冬の空気が静かに揺れた。薄暗い闇に浮かぶ真理の横顔に幸一が視線を移すと、あの初夏の上高地で朝陽に眩く輝いていた新鮮な笑顔が重なる。

「君が応援してくれたのに、期待に応えられなかったさかい謝りたかった。本当はベスト8に入って君の前でガッツポーズを見せたかった」

「ベスト16やったわね?」

「うん」

「2で割ったらベスト8やないの」

「え?」

 幸一は思わず耳を疑って彼女を見つめる。

「確か大正池やったわね」

 真理も星空から視線を戻したが、心の視界には大正池の静かな水鏡が映っているようだ。幸一は彼女が同じ記憶を呼び戻してくれたことに胸が熱くなり黙って頷く。

「あの時、三浦君に大会頑張ってね、って言ったけど、ベスト8に入ってねとは言ってないでしょ?」

「それはそうやけど」

「私が三浦君に期待したのは、目標に向かって最後まで努力してもらうことよ。勿論、目標を達成出来たら最高やと思うけど、正直私にはベスト16と8の差なんてよくわからへんの」

「でも、2で割らなくても……」

 真理がクスッと笑いを零してから、

「私なんか得意なものあらへんし、毎日続けられ程好きなものもあらへんから、テニスに没頭できるってほんまに凄いと思う。三浦君は十分期待に応えてくれはったわ。そやからガッツポーズして見せて、ね」

 と、胸の前で両手に拳をつくり、ガッツポーズをして見せる。

「ほら、こうやって!」

 幸一は真理の愛らしい仕草に惹かれるようにして小さくガッツポーズをした。

「お疲れさまでした。よく頑張りました」

 山の頂きから除夜の鐘の音が降りてきた。真理は怪我のことには一切触れなかった。怪我をしたことも含めて、彼が愚直に進んだことを褒めてくれた。この数ヶ月間心の奥底に沈殿していた不快な塊が、彼女のたったひと言であっさりと流れ去り、鐘の音の美しさが素直に心に沁みる。そしてやっとわかった。真理に怪我のことに触れられることを恐れていた理由……。

 怪我をしたのだから仕方がないと、周囲の人たちは一様に慰めてくれる。その度に、怪我をしたことも自分の敗北だと自身に言い聞かせるが、心のどこかで周囲の優しさに甘えてしまう弱さもあった。そしてそんな自分を発見した瞬間には益々自己嫌悪に陥ってしまう。そんなことの繰り返しが嫌で怪我に触れられることを恐れていた。言わば同情される煩わしさからの逃避とでも言ったところか。

「ありがとう」

 真理に褒められたことが心底嬉しくて素直にお礼を言うと、更に本音が流れてしまう。

「次こそは結果を出して見せる。そう言いたいとこやけど、正直、自信はない」

 大正池での真理との対面を思い起こしたためか、あのまったりとした雰囲気に浸っている。

「自信がないのが普通よ」

 真理が大正池の畔で微笑んだような気がする。

「試合に勝つ自信やなくて、テニスを続ける自信がない」

 一瞬驚いたように幸一を見つめた真理が俯く。新緑に囲まれた大正池の暖かな想い出を共有しながら、真冬の氷水を浴びせ掛けてしまったような罪悪感に彼は身を縮めた。

「そう……」

 すぐに顔を起こした真理が視線を送った山裾の街灯りに彼も視線を落としてみる。そこへ降り注いできた鐘の音が街灯りに佇む人々の生業を暖かく包み込んでいくように感じて不思議な安堵を覚えた。

「それなら、他に熱中出来るものを見つけはったら良いやないの」

 街の人々を暖かく包んだ音色が奥深い星空に吸い込まれてゆく。その星空を瞳に映した真理の笑みは、再び幸一を上高地の清廉な空気の中に引き戻したが、彼は梓川の冷たい流れに放り込まれたように身震いをした。

 真理の言葉が胸の内で大きく木霊して自分の弱さに辟易した。試合に負け、周囲の助言に向き合えず、優しさに対して甘えることもできず、いろんな理屈を並べては偏狭なプライドを守るのに必死だった。

 だが、それは単に前へ進むことを恐れていただけなのだ。前進して再び失敗することが恐いだけだ。前に進まない理屈を繰り出して自分を誤魔化していたに過ぎない。真理のたったひと言で自分の完全敗北を自覚した幸一は、

「さあ、もうひと踏ん張りや。頑張って歩こうか」

 と、自分に言い聞かせるように元気よく言い放ち、星空を見上げながらさっと立上った。

「あっ」

 今度は幸一が流れ星を発見したが、案の定真理は見逃した。


 二人は登山道になっている六角坂参道(ろっかくざかさんどう)を登り切り湯屋橋(ゆやばし)を渡った。多くの参拝者がダウンジャケットや厚手のコートに身を包み、家族や恋人、友人たちと日常とは異なる時間を楽しんでいる。

 ここまで来ると、所々に電灯が燈り懐中電灯は不要になった。二人は、“はづき茶屋”で温かい甘酒を飲むことにした。正直なところ、幸一は寒くもないし疲れてもいない。むしろ山道を歩いたので軽く汗ばむくらいだ。しかし真理が寒そうなので温かい物を取ることにした。

 もっと速く歩けば身体も温まるのにと、内心で真理に意見しながら甘い飲み物を口にする。甘い飲み物を好まない幸一にはちょっとした刺激だ。

「鐘の音。いくつくらい鳴ったかな?」

 突然の質問に驚いた幸一は甘酒の不思議な暖かさに興味を残しながら、

「さあ、心地良い音やけど、数える気にはならんなあ」

 と言いつつ腕時計で鐘の音の間隔を測ってみる。

「鳴り始めたのが二十三時四十分頃やから、間隔から考えて五十六くらいかな。今の鐘が五十七や」

「ほんまに?数学得意なの?」

 真理が柔らかい上目使いでからかう。

「最近、妹が何かと鋭い質問をしてくる」

「え?」

「そやから、その場を誤魔化す技が随分上達した」

 二人は小さく笑って甘酒を口にする。大人が多いためか、店の中は静かで落ち着いている。またひとつ鐘の音が寒空に響いた。ここは鐘楼に近いためか、山道で聞いたような星空に吸い込まれていく響きとは違って幸一の煩悩に直接響いてくる。

 二人は店を出て『魔尼堂(まにどう)』に向かった。元禄元年に建立された魔尼堂は、参道よりも一段高い所に位置しており、長くて急な石段が伸びている。

 下から見上げると、壮麗な舞台造りの木造の肌に照明が部分的に反射して優美で幽玄的な雰囲気を漂わせている。新年になると魔尼堂で護摩供が行われ、多くの人々が新年の祈願を掛けるらしい。

「あっ」

 石段の真中辺りで真理が小さく叫んだ。

「また流れ星?」

「違うわよ。あと、五秒」

 彼女は歩みを止めて腕時計を凝視している。

「明けましておめでとう」

 時計から離した澄んだ瞳で幸一に微笑み掛ける。彼はその愛らしい表情にどきりとする。そして至福の感に満たされた。百八つ目の鐘の響きが、新年を迎えた参拝者全員の胸に希望の音色として響き渡った。

 魔尼堂に着いた二人は手水所で手を洗い、口をすすいでから参列に加わる。参拝前に手を洗うなど幸一には初めての体験だが全て真理の指示に従った。線香の香りに満たされている境内で、大勢の参拝客に揉まれながらゆっくりと二人は列に従った。絵馬や御守り、線香や蝋燭など神事に関わる物が諸々売られている。

 ようやく参拝の順番が近づいてきた。人込みの中で真理が白いコートの内側に隠れたウエストポーチを探っている。財布を出そうとして手間取っているようだ。幸一がジーンズの左ポケットから小銭をひと掴みして彼女の前に差し出した。真理は、幸一の手の平にある何種類かの硬貨を見て躊躇(ちゅうちょ)したが、五百円硬貨をつまんでから幸一の瞳を覗きこみ、

「嘘よ」

 と笑った。そして今度は十円硬貨をつまんで再び幸一を覗く。

「百円にしたら?」

「ありがとう」

 真理は両手で硬貨を包み込む。

「幸一さんは何をお祈りしはるの?」

 幸一は唐突に名前を呼ばれた驚きで胸が熱くなったが、表情に出ないよう精一杯気を配り、

「俺は参拝なんかせえへんよ」

 平然と言い放った。今度は真理が素直に驚いて、

「ほな、何しに来はったの?」

 と、不思議な生き物でも見つめるようにして彼の答えを待っている。

「真理ちゃんに会いにきた。話しをしにきた。それだけ」

 幸一も初めて彼女の名前を呼んでみた。一瞬、二人のはにかんだ時間が横たわる。その気まずさに耐えられない幸一は、

「神様にお願いしたところで運命なんて変るものやないし、自分がろくに努力もせずにお願いするなんて神様に失礼や」

 と、やや狼狽気味に答えた。真理は軽く笑ってから、彼女の右側に立っている幸一の左腕にそっと自分の右手を添えて、

「幸一さんは強くて頼もしいわ」

 と囁いた。ほんのわずかの間、二人を包む空間に線香の香りが漂い、周囲の雑音が静寂に溶け込んでゆくような平穏な心持ちに浸ることができた。

「幸一さんは自分の運命は自分で切り開く頼もしい人やけど、ちょっとひねくれ者」

 真理はクスッと笑いを零して、

「でも私は……。家族を守ったり幸せにしたりする力はないし、神様にお祈りすることしかできひんの。そやさかい、私がお祈りする間待っててね」

 と、優しく言った。

 幸一は、真理の言葉に全身が凍りつくほどの衝撃を覚えた。彼は家族の幸せなど一切無関心だ。自分のことばかりを考えている。確かに家族に対する愛情はあるが、この家族を大事にしようとか、家族の幸福など特段に考えたこともない。

 自己のことにしか興味がない小さな自分と、家族の幸福を願う真理とを自然に比較してしまい、彼女が全く別世界の人間のようにも感じられる。そして同時にちっぽけな自分を目の当たりにして、夜風がなお更冷たく感じた。

 二人の順番が来て真理はそのまま拝殿に進む。灯篭の灯りと提灯、そして蝋燭が放つ橙色の光が交差し、真理の白い肌を艶美に照らしている。線香の煙が白く漂い、煩悩を断ち切ろうとする世俗的な気と神聖な神の気が複雑に交わる空間に、子供のように無垢で純粋な真理がポカリと浮いているようだ。

 彼女は周囲の誰よりも若々しくて美しい。そんな彼女が拝礼する姿を、列から外れた幸一は可愛いと思って見惚れている。家族を思って真剣に祈願する彼女の姿は美しくもあるが、他力本願を嫌う彼にとっては違和感もあった。

「お待たせ」

 清々しい笑顔で小走りに近寄って来る。

御神籤(おみくじ)引きましょ」

 明るく語尾を上げて可愛く笑いながら、幸一には全く興味のない提案をする。だが真理は、彼の気持ちなど聞く耳も持たない勢いで彼の腕を強引に引いてゆく。ここでも短い列が出来ている。順番に木の筒を振っては中から番号の書かれた棒を引き出し、巫女さんに番号を告げて御神籤を受け取っている。

 真理の順番が来た。彼女は無邪気な笑顔を浮かべて、小さな手に余る木の筒をからからと何度も振ってから棒を引き抜いて、不安そうに番号を告げた。幸一は、筒を受け取るや否やあっさりと棒を取り出す。

「もっと集中しないと……」

「案外、あっさりとした方が結果は良かったりするもんや」

 早速、二人は灯篭の灯りへ歩み寄る。

「ほらな」

 幸一は大吉だ。

「うそ。何で?私は末吉やわ」

「でも、確率的には大吉よりも末吉の方が少ないらしいで」

「そういう問題やないの」

 真理は、御神籤の内容をじっくりと読みながら淡白に答える。

「これ、どうしたらええの?」

「大吉やし、持って帰らはっても枝に結ばはっても構へんわ」

 幸一は、言われたとおりに白い御神籤の花がいっぱい咲いた冬枯れの枝にもうひとつ花を添えた。

「ちゃんと読まないと意味無いやないの。大吉とか凶とか、総合運だけで判断したらあかんのよ。中に書いてある事柄毎に良く読んで、普段の生活の参考にするの」

 真理はちらりと幸一を見やったが、すぐに自分の御神籤を読むことに集中する。

「読んでも意味がわからん。漢字が多すぎる」

「代わりに読んであげよか?」

 片手間に答えた真理は実際に読む素振りも無く、自分の御神籤を丁寧に折り畳んでポシェットに仕舞い込んだ。

「持って帰るの?」

 不思議そうに彼女の手先を見つめる。

「本当は、凶が出た時にだけ結ぶものなんよ。悪運は持って帰りたくないさかい、神様や仏様にお願いするの。そやけど、結ぶ行為は縁起がええさかい、凶以外の御神籤でも結んでいかはる人は多いの」

「えらい詳しいなあ」

「小さい頃から祖母に連れられて初詣に来ていたさかい、色々教えてもろたの。みんな祖母の受け売りよ」

 真理は照れ臭そうに笑う。

「へえ、お祖母さんは物知りなんやな。で、なんて書いてあった?」

 幸一は自分の御籤にも興味が無いくらいなので、他人の物など更に興味は無いが会話の種に聞いてみた。

「内緒」

 仕方なく、幸一は他の話題を見つけようと周囲を見渡す。

「ひとつだけ教えてあげる」

 真理の勿体ぶった言葉に、反射的に面倒くささを感じたが微笑みは絶やさない。

「恋愛運はね、障害が多いけどそれを乗り越えたら実るって書いてあったわ。幸一さんにもわかるように現代語訳してあげたのよ」

 にこりとした彼女の笑顔は、灯篭の灯りに艶美に揺らいでいる。

「障害を乗り越えたら実るなんて当たり前のことで、わざわざ御神籤に教えてもらわなくてもね」

 優艶な真理が妙に大人びて見えて、幸一はなぜか茶化すように醒めた言葉を吐いてみる。

「神様のお言葉は素直に受け取るものよ」

 真理は彼を優しく睨んでから柔らかく笑むと、すらりと身体の向きを変えて歩み始める。この後どうするのか、幸一には計画は無い。行く先を告げてくれない笑みに不安を覚えながらも彼は黙って彼女に従って歩いた。

 二人は魔尼堂(まにどう)の石段を下りてから三つの(みつのどう)の方へ歩み始めた。大方の人々は、魔尼堂で初詣を終えるとロープウェイ駅がある展望台の方へ向かうか、茶屋で休憩をするか、山道を引き返して帰宅していった。

 二人の様に三つの堂へ行く人は少ないが、幸一は彼女の計画に従うしか選択肢はない。三つの堂は山奥の方へ進んで行くので次第に明かりが少なくなり、再び懐中電灯が必要になる。

「幸一さんの兄妹は妹さんだけ?」

「うん、妹だけ。まだ小学五年生やけど」

「へえ、優しいお兄ちゃんやろうね、幸一さんは。私もひとつ違いの妹がいるの」

 真理は、襟元についている白いファーに首を埋めるように肩をすぼめて歩いている。

「ひとつ違いなら友だちみたいなもんやな」

 幸一はジャケットのポケットに両手を突っ込んで、足を擦りながらだらだらと歩く。

「そやさかい、細かなことでよく喧嘩するわ。親にはいつも私が叱られるの。お姉ちゃんやからって。ひとつしか違わへんのに不公平やわ」

 心持ち口を尖らせて拗ねた表情の真理は、同意を求めるように彼を見つめるが、幸一にとっては言葉を返すよりも彼女の表情を観察している方が楽しい。

 二人は三つの(みつのどう)の境内に足を踏み入れた。大講堂(だいこうどう)常行堂(じょうぎょうどう)そして食堂(じきどう)がコの字型に配置されていて、その昔、武蔵の坊弁慶が若い頃に修行をしていた場所だ。いくら大晦日とは言え、三つの堂はすべて閉ざされていて特別な催しは無い。いつもと変わらぬ夜のようで、どこにも人影は見当たらない。

「誰もおらへんわね。なんか怖いわ」

「君が連れて来た……」

「誰もおらへんとは思わなかったの」

「でも他人がいる方がかえって怖いやろう」

「へえ。幸一さん、幽霊とかは大丈夫なの?古い建物やしね、たくさんの霊魂が溜まっていそうよ」

 真理は幸一を怖がらせて喜んでいる。そして、怖いと言った割にはすたすたと歩んで、大講堂の石段を数段上がってゆく。幸一も周囲を警戒しながらゆっくりと近づいていった。

 くるりと振り向いた真理は、黙ったまま星空を見上げる。この境内には灯りがほとんど無く、月明かりと懐中電灯の灯りだけがすべての光源だ。二人の持つ電灯が、まるで蛍の光のようにこの広い境内の中でぼんやりと浮かんでいる。

「お父さんはどんな仕事したはるの?」

 若い娘に深夜の外出を許す父親がどんな人間なのか知りたくて質問してみた。

「税理士の仕事。中小企業の税金に関わる仕事みたい。去年の夏から単身赴任で東京に行ったはるわ。東京に本社がある企業の仕事が忙しいらしいの。詳しいことはわからへんけど……」

「十分詳しいと思うけど……」

 父親が不在だから外出できたのだろうと幸一は考えた。父親がいたら絶対許されないような気がする。妹が高校生になって、同じような行動を取るとしたら自分は絶対に許さない。そんなことを考えていると、

「幸一さんとこのお父さんは?」

 と、真理の声がやや上から下りて来た。幸一は石段には上がっていない。

「ごくありきたりの会社員で営業してるわ。いつも遅くまで頑張ってる」

「へえ、感謝してはるんや、お父さんに」

 真理は星空を見上げたままで言葉と共に白い息を吐いた。

「感謝はしてるけどな……」

 真暗な足元を見ながら呟く。

「あんな風にはなりたくない?」

 相変わらず星を追いながら真理が問い掛ける。幸一は本音を言い当てられてどきりとしたが、足元を見続けながら腕組みをした。

「男の子はそれで良いのよ。無意識のうちに父親を超えたいと思っている。だから、感謝や尊敬の気持ちとは別に、どこかでその大きさを認めたくない気持ちもある。自分はもっと大きくなれると思っているのに現実の父親を認めてしまうと自分の限界を見てしまうような気がするから……。そんな感じかな?可愛い少年くん」

 真理は、幸一をからかうように微笑みながら彼に視線を落とす。

「真理ちゃんは歳を誤魔化しているやろ」

 足元を見ていた幸一が真理を見上げる。

「失礼ね。心理学の本に書いてあっただけよ。ただの受け売り」

「なんや、またお祖母さんの受け売りかと思った」

「若い男の心理なんかに興味ないわよ、もうお婆ちゃんよ」

 二人は視線を合わせて笑い声を上げた。笑いが消える前に今度は幸一が視線の方向を変えて夜空を隅々まで見渡してみる。周囲が暗い分星空が深く見えてこのまま吸い込まれてしまいそうだ。

「あっ!」

 唐突に幸一が叫ぶ。

「何、流れ星?」

 真理も慌てて星空を目で走査する。

「年賀状を投函するのを忘れた」

 真理はくすっと零してから、

「明日、自分で配らはったら?」

 と、今度は大きな笑い声を星空に響かせた。

 幸一と真理は、暗闇に佇む三つの堂を後にしてロープウェイ乗場の方へと引き返した。途中で小さな池があって二人は足を止める。五メートル四方くらいの小さな池だ。表面が凍りついていて、氷の下には、数匹の錦鯉が寒さに堪えるかのようにじっと身を寄せ合っている。

「寒いなら、もっと動かはったら温まるのに」

 茶屋で甘酒を飲みながら、幸一が真理に対して秘かに思ったことを彼女が錦鯉に言っている様子が可笑しくて、心の端で静かに笑った。

 ロープウェイ駅の前に芝生の広場があり、そこに直径十メートルくらいの浅い穴が掘られてあり、その中心では焚火が温かそうな炎を上げていた。

 他にも、ドラム缶で焚かれた三つ四つの焚火がある。それぞれの炎の周囲では、初日の出を待つ人々が暖を取っていた。地面に穴を掘ったメインの焚火の周囲には、普段は広場の周辺に設置されているベンチが集められている。  

 二人はそのベンチに腰を下ろして、メラメラと赤外線の熱を発散している焚火の高揚を眺めた。炎から二、三メートル離れてはいるが十分に暖かい。幸一はさり気なく真理の横顔を盗み見て、真直ぐに炎を見つめる瞳を覗いてみる。瞳の中で焚火の炎が揺れ動いている幽玄な美しさに彼は思わずため息を吐いた。

 そんな彼の挙動など目に入らない様子で、真理はじっと炎を見続けている。さきほど魔尼堂で彼女の白い肌に反射した灯りよりもより原始的で力強い炎の灯りが、真理の肌を更に妖艶な輝きに染めている。

 炎の灯りを正面に受けているために光陰の差がくっきりと映し出され、彫りの深い彼女の顔立ちがより深く強調されている。温かく力強い灯りに作られた濃い影は艶美にうごめいて、真理の肌から滲んでいる艶の気を背面で妖しく振りまいていた。

 人々は一様に静かだ。じっと炎を見つめ、在る者は酒を飲み、在る者は煙草を吸い、コーヒーをすすり、人工の灯りがほとんど無いこの広場で、人間としての、動物としての本能に触れているかのようだ。

 真理も同様に、まるで催眠術にでも掛かった者のように炎に魅入られている。

「人間は火を使うようになってから文明が進歩したらしい」

 幸一が何かで得た情報を披露してみた。その言葉を聞いて、催眠術に掛かっていたかも知れない真理が、

「他の動物は火を恐れるのに人間は恐れなかった。こうやって、じっと炎を見つめていると心が安らぐのはどうしてやろうね?人間も動物なら、本能的に恐れても良さそうなものやのに」

 と、実に全うな意見を述べた。幸一は少しの間真剣に考えてみたが答えが見つからないので、

「狩をしていた頃から、炎が家族団欒の中心やったんやろう。恐れていた頃の記憶を掻き消すほど、家族の中心は温かいものなのかも知れへんな」

 と、答えになっていない憶測を述べてみた。

「なるほどね」

 意外な彼女の賛同に幸一が驚いた時、不意に炎が弾けて大きな音を発した。一瞬人々を覚醒させたその音は山肌の奥深くに吸い込まれてしまって、誰にも気づかれず静かに消滅してゆく。

「失礼ですが、三浦先輩じゃないですか?」

 幸一の遺伝子に刻まれた自然に対する野生の記憶ではなく、実生活の中で働く脳の記憶を刺激する、甘みを帯びた繊細な声が彼の背後から届いてきた。

 脳の刺激に驚いた幸一が振り向くのと同時に、真理もまた幻想から目覚めて現実の唐突な変化を把握出来ない様子で周囲をひとつずつ認識している。

「み、美紀か?久しぶり!どうしてたんや?」

 遺伝子が記憶する太古から、ほんの少し昔の光景にワープした幸一は、目の前の情報を整理出来ずに、目に映る劇的な事実を架空の映像のようにただぼんやりと見つめている。

「やっぱり、三浦さんでしたか!本当、お久しぶりです。お元気でしたか?あ、彼女さんですか?」

 幸一が美紀と呼んだ少女は、彼の横で事態の行方を見守ることしか出来ない真理のことを確認した。彼女という言葉に幸一が躊躇した瞬間に、

「ええ、穂積真理と申します」

 と、驚くべき挨拶をした。真理が自ら自分の彼女であると公言してくれたことに驚きと感動が交差したが、今はその混乱に巻き込まれている余裕はない。

「中学時代のテニス部の後輩で、早川(はやかわ)美紀(みき)さんです」

 美紀を真理に紹介する。ここでおどおどしてはいけない。平然としていなくてはいけない。混乱する脳裏でその意思だけは強く鳴り響く。

「すみません、お二人の時間を邪魔してしまって」

「いえ、良いのよ。縄文時代の話しをしていただけやさかい。こっちに来て座ってちょうだい。現代の話をしましょ」

 真理はベンチの端にずれ、幸一との間に間隔を空ける。

「じゃあ、少しだけお邪魔します」

 美紀はハイネックの白っぽいセーターの上に革風の紅いジャンパーを着ている。二人の間に腰掛ける時に黒いジーンズが幸一の目に入る。暗いから黒く見えただけで実は濃紺かも知れない。心が動揺している割には、どうでも良いことが気に止まった。

「ひとりで来たの?」

 美紀に尋ねたいことが洪水のように涌き出るが、まず現状を確認する。

「いいえ、兄と一緒です。正確に言えば、兄と兄の彼女との三人です。毎年大晦日は兄とここへ初詣に来る習慣になっていて。今年は彼女と二人で来るように勧めたけど二人が許さなくて……。で、一応気を遣って、時々は二人だけの時間を作ってあげている訳です」

「彼女が一緒だと気を遣うよね。でもひとりでうろつくと危ないよ」

「幸一さんみたいな人がいるから?」

 真理がいきなり口を挟む。美紀はクスリと笑ってから、

「大丈夫ですよ、三浦さんは女嫌いですから。それに兄たちはあそこの焚火にいますしね」

 と、真理に笑顔を送る。

「へえ、幸一さんが女嫌いやとはね……。男が好きなの?」

 真理が美紀に笑顔を返す。幸一は、二人の女が仲良くしていることはとても嬉しいが、早く美紀に質問がしたくて真理の冗談を流してしまった。

「学校はどこ?」

 美紀は幸一よりひとつ年下だ。

「第三高校です」

「何年生?」

 真理が再び口を挟んでくる。

「俺たちは高校二年生。美紀は俺の後輩で高校生ということは?」

 幸一は、少々小馬鹿にした口調で真理に問う。

「一年生。妹と同じやわ」

 クイズに正解したかのような明るい口調で答える。

「え、そうなんですか?」

 美紀も真理に調子を合わせて明るい語気で話している。この手の女子会話のリズムが幸一は苦手で決して混じることは出来ない。出会ったばかりの女子と自分の妹が同じ年だというだけでこんなに共鳴する感覚が男には理解不能だ。

 幸一は中学時代、姫路の中心街から西に外れた田舎町に住んでいたが高校一年の春に隣の市に引越した。引越しした後も、テニス部の後輩指導で何度か中学を訪問したが、美紀もまた幸一が引越しした頃に転校していた。

 美紀が三年生になって早々に転校をした事実は男子部員が教えてくれたが転居先の住所まで知る者はいなかったし、わざわざ女子部員に尋ねるのも不自然だ。

 真理と美紀が並んで座っている姿はまるで姉妹のようだ。炎の橙色が二人の表情を神秘的で妖艶な美しさに仕立てている。光陰の境目がくっきりとしたエキゾチックな雰囲気を壊すのがもったいなくて話し掛けることを躊躇していたが、美紀の今を知りたいという欲望は抑えられない。

「まだテニスは続けてるの?」

 幸一が美紀の横顔に尋ねる。

「はい。相変わらず下手ですけど。三浦さんは怪我をされたんですね、残念でした。去年はベスト8まで進まれたのでしょ?すごいですね」

 離れていた美紀が自分の情報を知っていることに感動を覚えて、幸一は熱い思いが胸の中で膨張してゆくのを感じる。

「でも、もう続けるのは無理かな」

 幸一が真面目顔で静かに吐いた言葉に美紀が驚く。そんな美紀の向こうでは、心配そうな真理の面が炎に揺れている。

「そうですか……」

 返す言葉を見つけられなかった美紀はあっさりと受け止めて表情を戻したが、真理は本心を探るように幸一の瞳を見つめている。話題が重くなり掛けたためか、美紀は少しだけ深く息を吸って、

「私、そろそろ失礼します。兄が心配するので」

 明るい口調で雰囲気を変えた。

「ちょっと待って」

 幸一はポケットから何かのレシートを取り出すと、ペンを求めてポケットを何度も探った。真理がポシェットからペンを取り出して手渡す。幸一は電話番号を走り書きしたレシートを真中で千切り、残った白紙に美紀の番号をメモして番号を交換した。

「一度ゆっくり話そうよ」

 美紀は微笑んでから真理に視線を移す。

「構いませんか?」

「ええ、どうぞ。話相手になってあげて」

 真理の返答ににっこり笑った美紀は、二人に挨拶をしてから小走りに去って行った。美紀が去った後の心の空虚に真理の温かい笑みが入ってきて、やや興奮し過ぎた自分が恥ずかしくなった。

「可愛い人ね」

 真理の普段どおりの声色に平静を取り戻した幸一は、

「ごめんな。久しぶりに会ったから、つい興奮してしまって」

 と照れ臭そうに謝った。

「良いわよ、気にせんといて。幸一さんは美紀さんのこと好きやったんでしょ?」

 突然の追求に窮して固まっていると、真理はくすっと笑って、

「ほんま、わかりやすいわ」

 優しい口調で彼の緊張をほぐした。彼女の横顔に炎の灯りが艶めかしく揺れている。

「ねえ、美紀ちゃんとのこともっと聞かせて」

 座る位置を幸一の方にずらせて真理が身体を寄せて来る。

「もう昔の話しや」

「ほんなら余計かまわへんやないの。ねえねえ」

 真理は幸一の腕を掴んで揺すりながら催促する。そんなに他人の恋愛話を聞きたいものなのか、彼には不思議でならないが時間もたっぷりあるし、縄文時代の話題も発展しそうにないのでぽつりぽつりと語り始める。

 二人が出会ったのは、幸一が中学三年生に、美紀が二年生になる前の春休みだった。春休み中のある日、部活の後で幸一は野球部のグラウンド縁にあるベンチに腰掛け、練習試合を観戦していた。暖かい春の正午過ぎで、部活の疲れと春の陽気でうとうとと眠気を覚えていた。

「野球がお好きなんですか?」

 眠り掛けた幸一がどきりとして声の持ち主を探すと、白いテニスウェアを着た美紀が眩しく立っていた。白いウェアが眩しいのか、美紀の笑顔が眩しいのか、突然の出会いに当惑したがすぐさま平静を取り戻して、

「今投げているエースが友人なんや、どの程度の実力か観てやろうと思って」

 と言いながら、目の前にいるテニス部らしい女子の名前を思い出そうとしたが無理だった。

 そもそも最初から知らない。女子のテニス部は大人数なので一年生などは名前どころか顔も覚えられない。二年生になる頃には大半は辞めてしまうから、何となく見覚えのある顔が出来始めるのが実情だ。

「早川美紀、新二年生です」

 幸一の困惑を悟ったのか、自己紹介した彼女は幸一の横に腰掛けた。まだ練習をする積りなのかラケットを持っている。

「三浦幸一です。新三年生です」

「知ってますよ。三浦先輩は有名ですから」

「男子は人数が少ないからな」

 幸一が美紀の可憐さに少々動揺を覚え始めた時、わっと歓声が起きて打球がレフト前に勢い良く転がっていった。

「打たれましたね、お友だち」

「まだストレートしか投げられへんそうや」

「へえ、そうなんですか。変化球は難しいんでしょうね?」

 美紀はエースの方をじっと見ているが、野球には余り興味が無いような目をしていた。

「野球はのんびり観戦出来るから良いですね。テニスは集中して見ていないとプレーを見逃すので疲れます」

 その言葉を聞いて、美紀がテニスを始めて間が無いことを直感した。まだ本気でテニスを好きになっていないから疲れるのだと思ったが口にはしなかった。

 ほとんどの部員が中学からテニスを始めており、幸一のように小学の低学年から始めた者は少ない。だから、男子部員の中で幸一が一番上手くて注目されるのも当然だ。

 幸一が愛らしい美紀の横顔をもう一度見つめた時、金属バットの音が鈍く響いた。

「また打たれましたね、お友だち」

「スピードはあるけどな。ストレートだけじゃ辛いな。いくらコントロールが良くてもタイミングが同じやから合わせやすい。カーブも練習はしているみたいやけど」

「三浦さん、プロ野球の解説者みたいですね」 

 白い笑顔が春の陽気に照らされて、満開の桜のような華やかさを放っている。そんな彼女の可愛さに心を奪われた時、審判の大きな声がしてバッターが三振となった。

「今のボール落ちませんでした?」

 二人は一塁側から見ていたので縦の変化はよく見える。

「彼のカーブはまだ曲がらないけど落ちるって自慢していた」

「落ちれば十分じゃないですか」

「毎回落ちるとは限らないとも言っていた」

「落ちなかったらどうなるんですか?」

「キャッチャーが大変だ。さっきから何度も身体で受けている」

「女房役は大変ですね」

 そんな他愛もない会話から二人の関係は始まった。幸一は春の陽気のためか今までに経験したことのない、発情気味に鼓動が大きく響く熱い躍動感を覚えた。

 今までにも同級生の女子と二人きりで会話することはあったが、こんなにも心が熱く興奮したのは初めてだ。そしてまた、美紀が練習に戻ってからの寂しさと、幸一が自宅に帰ってからの悶々とした切なさも初めての体験だった。

 その日から次第に美紀との距離は縮まっていった。放課後や部活の後などによく会話した。時間が合うと家路の途中まで一緒に帰ったり、休みの日には買い物に出掛けたり、公園で弁当を広げてランチをしたりした。

 幸一は美紀のことを好きなのかも知れないという自覚はあったが、元来がスポーツ馬鹿で、女子とどのように付き合うかなどの情報については興味も無く無知であったために、二人の距離感は仲の良い友だち以上には縮まらなかった。

 そんな距離感でも幸一にとってはとても新鮮で楽しい毎日を過ごしていたが、秋も深まって冬の香りが近づいてきた頃から、なぜか美紀と話す機会が減っていった。三年生である幸一の部活は夏で終了したので練習で会う機会も失っている。

 図書室で勉強しながら美紀が部活を終えるのを待って一緒に帰ることもあったが、次第に美紀が彼と会うことを避けるようになってきた。理由は良くわからないが、そのうちにゆっくりと話す機会を設けて理由を聞き出そうと考えていた。

 しかし、落ち葉が枯れ始めた頃から幸一が誘っても断られるようになり、何が悪かったのか、ついには学校で出会っても時々無視されるようになった。

 当然、幸一は深い悲しみと、嫌われる理由がわからないもどかしさに苦悩したが、どう行動すれば良いのかもわからず、また、こんなことに苦悩している自分が許せない上に恋愛と言うものを拒絶する気持ちも強く、結局は嫌われた原因さえわからないまま中学を卒業し、間もなく故郷を離れた。

「ちゃんと告白したの?」

 幸一の話しを聞き終えた真理が質問する。

「そんなことする訳がない」

「何で?」

「あの頃は、愛だの恋だのと言うことが嫌いやった。正直、自分の気持ちも良くわからんから面倒くさかった。それに男がそんな浮ついた言葉を口にするのは恥ずかしいことやと本気で考えていた。硬派な男に憧れてたんや」

「可愛い中学生」

 幸一を茶化した真理が彼の頬を人差し指で突つく。

「まして、自分を慕ってくれる後輩に恋心を抱くなんて不謹慎やと思っていたし実際に抵抗があった」

「はあ?いったい何時の時代の人?縄文時代?最早理解不能やわ」

 真理は笑いを通り越えて呆れ顔になっている。幸一も炎から視線を外して彼女の瞳に炎が映っている様を見つめながら苦笑いを浮かべた。

「自分でもそう思う。多分女子にあまり興味が無かったんや。もう少し相手のことを知りたいと思ったこともあるし、ドキドキしたこともあるけど、そんな気持ちをどうしたら良いのかわからんかった」

「なるほどね。そやから美紀ちゃんは幸一さんのことを女嫌いやって言わはったんやわ」

 幸一の頬を軽くつねりながら、まるで小学生でもあやすかのような柔和な笑顔で語り掛ける。

「でも、その割にはちゃっかりデートしたはるやないの」

 今度は幸一の鼻を摘みながら指摘する。

「美紀に誘われるままに従っていただけや」

「なるほどね」

 真理は幸一の顔で遊ぶのをやめて寒空に立ち上る煙を目で追ってから、

「美紀ちゃんはまだ幸一さんのこと好いたはるわ」

 幸一に横顔を向けたままで言った。幸一も今夜何度も見上げた星空に視線を移してから、

「俺の話しを聞いてたんか?秋頃から相手にされんようになったんやで」

 顎を突き出して星を仰いだ姿勢のままで言った。

「好きやから、一時的に嫌いになることもあるんよ」

「それこそ理解不能や」

 女心の不思議さや身勝手さを正当化する意見には一切興味がない。どんなに真剣に聞いても理解出来ないし、結局は我侭を正当化する抗弁にしか聞こえず腹立ちさえ覚えるからだ。

「そうやね、幸一さんにはまだ難しいわ。もう少し大人にならはったらわかるわ」

 優しく笑んだ真理は幸一の手を握る。

「温かいわ」

「君の手が冷たいんや」

 幸一は真理に手を握られて少々動揺した。彼女の手はとても小さいと感じた。こんなに小さな手だと生活が不便じゃないかと、今の状況とは全く無縁な疑問が頭の片隅に浮かんできたりする。

「理解する必要はないけど、女の私が感じるからきっと間違いないわ。美紀ちゃんは、幸一さんのことを今でも好いてはる。どう、嬉しい?」

 幸一の表情を優しく覗き込むようにして反応を待っている。

「そりゃあ、人に好かれることは嬉しいことや」

「あほ。こういう時は、もう昔のことやとか、どうでも良いことやって言うものよ」

 にらめっこをしているような表情を作った真理が幸一の手の甲を強くつねる。

「いた」

 唐突に強風が走り寄って焚火の炎を大きく沸き上げる。バチバチという薪のはじける音が大きく響き、小さな火の子が花火のように舞い上がった。

「真理ちゃんのことが一番好きや」

 ひと際熱い風を正面から受けながら幸一は真理の手を強く握り締める。舞い上がった火の子が自然に消えて再び穏やかな炎に戻るまでの数秒間、二人の呼吸は止まっていた。星の瞬きも、人々の挙動も、すべてが止まっていた。

「うちも好きよ」

 真理は炎の波をじっと凝視して、両手で幸一の右手を包み込んだまま彼の肩に頭を預けた。大きく揺れる炎の灯りが真理の色白い肌を橙色に染め、鼻の陰影が頬の上で大きく揺れている。

 この原始的で神秘的な雰囲気の中で、二人は無言のまま心を確かめ合った。二人は身体が触れ合っていることで、そこから互いの愛情が交わるような錯覚を覚えた。

 しかし、それは二人にとっては錯覚でも幻想でもなく、焚火の炎が身体の表面を温めてくれるように、触れ合った二人の肉体を通じて互いの愛情が混じりあり、心の芯まで温めてくれた。


 二人は足音を忍ばせて階段をゆっくりと上った。真理が前を歩いている。初日の出を拝もうという真理の計画だったが、どうにも寒さが厳しく、幸一はまだ我慢出来るが、真理が余りに辛そうだったので諦めて帰ることにした。

 再び参道を下って、麓に置いてあった自転車に乗って戻って来た。まだ朝の四時頃だ。静かに玄関の鍵を開けて、まるで空き巣のような心境で歩を進めた。

「二階には他に誰かいたはるの?」

「うん、妹だけ。覗いたらあかんよ」

 幸一は苦笑いを浮かべて真理に従う。階段を踏むごとに発する木材のきしむ音に肝を冷やしながら、誰にも気づかれずに真理の部屋に辿り着くことが出来た。真理は部屋の灯りを点けると、

「飲み物持ってくるさかい、どこでも座っててちょうだい」

 そう言い残して、再び忍び足で階段を下っていった。

 真理の部屋には、ポカリと気の抜けたような静けさが鎮座している。幸一は電気ストーブのスイッチを入れて床に転がった。少々疲労感を感じる。淡いピンク色のカーペットは柔らかいが、熱を失った寂しさは彼の背筋に冷たく沁み込んでくる。

 幸一は急に煙草を吸いたくなったが、今夜は持ち合わせていないので、両方の掌を頭の下に敷いて天井を眺めた。

 幸一の心は揺れている。真理と心を通わせ互いの思いを告白しあった喜びは、心の底から湧き上がってくる熱いエネルギーで身体ごと天に持ち上げられるような感覚だ。

 だが、それと同時に生じている空虚な空間がある。真理が不在のこの部屋のように、熱い情熱が侵入出来ない心の空洞が存在している。

 それは、幸一が昔から感じる得体の知れない空洞だ。美紀と仲良くしていた頃にも自覚していた空洞で、時には恐怖感さえ覚えてしまう虚無の空間だ。更に、その空洞に美紀の可憐な思い出が吹き込んできて安堵する瞬間がある。幸一は寝転んだまま深呼吸をして、今日一日でいろんな幸福が一度に起きたので戸惑っているだけだと、自分に言い聞かせてみた。

「そんなとこに寝はったら風邪ひくわよ」

 戸口に立ったままの真理が囁く。彼女は両手でお盆を持って立っている。そのお盆からはいく筋かの湯気が揺れて、寒々とした部屋に暖かな光景を演出している。しかし、その湯気の光景よりも、真理が現れたことによる気の活性の方が心を温めてくれた。

「あのテーブルを広げてくれはる?」

 真理は、上体を起こしたままで座り込んでいる幸一に視線で仕事を示す。真理は両膝を床について盆を卓上に載せた。きな粉餅が乗っている。他には、煮しめと暖かそうなお茶、それからお銚子が乗っていた。

「お酒なんか持ってきて大丈夫?」

「お正月やもの。幸一さんはいっぱい飲まはるんでしょ?いろいろ噂は聞いてます」

「どんな噂?まあ、酒が好きなのは間違いないけど」

 真理は柔らかい笑みを浮かべて、お銚子やらお餅やらをしなやかな手つきで卓に並べる。その流れるような仕草から漏れてくる色気を脳裏に焼き付けながら、幸一は早く酒を飲みたいと感じた。

「お餅は好き?」

「うん、大好き」

 餅より酒が好きと心の中で唱えながら、温かな湯気を上げている餅に手を伸ばす。

「いただきます」

 幸一はすぐさま手で餅をつかんで口に運ぶ。神経が空腹に慣れて麻痺していたのか、食物が口に入ると急に空腹感が蘇ってくる。彼は無言で次々と餅を流し込んだ。時折お茶で潤滑を良くしながら、まるで作業のように食していく。

「もっとゆっくり食べはったら?お餅は逃げへんよ」

 ゴクリと、餅を飲み込む音が夜明け前の静かな部屋に響く。

「これも食べはる?」

 真理は、可笑しさに堪えながら自分の餅を差し出す。

「ありがとう」

 真理が差し出した皿からひとつ摘まんで頬張る。結局、真理がひとつ食べる間に彼は五つの餅を食べた。

「旨かった。ご馳走様」

 幸一は両腕を後ろにして身体を支える。彼の満足で幸せそうな表情を見て真理は再び笑いを零した。

「なに?」

「口の周りに髭が生えてるわ」

 真理はティッシュを手渡しす。

「御屠蘇祝おうか?」

 髭を拭った幸一がお銚子の首を持って真理に掲げる。彼女は、小振りの杯とのバランスが絶妙な小さな手で杯を包み込んだ。

「飲める?」

「少しなら」

 幸一が注いだ後に静かに杯を置いて、今度は彼女がお銚子を手にする。

「明けましておめでとう」

 若い二人は小さな杯をぎこちなく合わせた。

「おめでとう」

 真理も清らかな声を控え目に流した。彼女が杯に唇を付けた瞬間を美しいと感じた後、自分の杯を一気に飲み干して自ら二杯目を注ぐ。そして真理が呆気に取られている間に杯を空にする。その所作を三回繰り返してから、漸く彼は杯を置いた。

「もう、せわしいわあ。いくらでもあるさかいゆっくり飲んで。煮しめもあるさかい、つまんでちょうだい」

 そんな言葉にも関わらず、数分後には一本目を空けてしまった。ストーブの熱も漸次部屋中に行き渡り、次第に身体も温まってきた。真理も数回杯を重ねたせいか、頬が艶やかに火照っている。

「熱い。酔うたかしら」

 真理は両方の掌で頬を軽く叩いてにこりと微笑む。

 幸一は、ふと数週間前の忘年会のことを思い浮かべた。クラスの男子連中と十数人で鍋を囲んだ。酔って笑って歌って話し込んだ。それぞれの喜びや悲しみや憂鬱を発散しあった。

 幸一も大いに笑い、酒を流し込み、自暴自棄に飲み荒れた。当時は真理に誘いを断られたばかりの頃で、何もかもが嫌になっていて絶望と言う感覚が全身を重く沈めていた。

 幸一は呂律が回らないほど酒を煽って飲んでいた。それでもグラスに酒を注いだ。女に振られた悲しみを酒で誤魔化している自分が惨めだった。

 グラスから視線を外すと陽気にはしゃいでいる友人たちがいる。すると彼もつられて陽気に振舞った。そして再びグラスを見つめると、失恋の痛みに情けなく溺れてしまう。

 幸一は、視界の明度が次第に低くなるのを感じた。まるで闇の中に友人たちが浮かんでいるかのようだ。やがて、友人たちも闇に消えてゆくと真理がぼんやりと現れた。そうして、彼女を見つめたまま幸一は意識を失っていた……。

「何かお酒の肴持ってくるわ」

 真理はさっと立上ったものの、ふらついて柱で身体を支えた。

「あかんわ。ほんまに酔うたみたい」

 とは言ったものの、次の瞬間には凛として部屋を出て行った。幸一も立上って、部屋に入った時から気になっていた物を確認する。それは真理の机の端に立ててある彼女の写真だ。 

 どこかの橋の欄干にもたれて、真理の清爽な笑みを捉えた感じの良い写真だ。しばらくの間幸一が写真に見入っていると、真理の忍び足が階段を上がってきた。

「ああ、その写真はね、去年の秋に祖母の所へ秋子と遊びに行った時の物よ。祖母も母も京都生まれの京都育ち。そやから京都へはちょくちょく行くんよ」

「良い写真やな。どこで撮ったの?」

「嵐山。渡月橋で撮ったの」

 真理は持って来た数の子をテーブルに置いてから、机の引き出しを開けて何やら取り出した。

「これ、幸一さんにあげるわ。お気に入りの写真やさかい、たくさん焼増しして余ってるの。幸一さんに持っていて欲しいわ」

 そうして彼女は、ピンクの封筒に入れた写真をはにかみながら幸一に手渡した。

「ありがとう」

「いつか幸一さんのもちょうだいね」

「俺なんかの写真で良かったらあげるよ」

 幸一も照れくさそうに笑って、再び酒の続きを飲み始める。瞬く間に銚子が空になる。

「やっぱり強いやないの」

「お代わり頂いても良いかな?」

「良いわよ。でも、お酒がぎょうさん減ってたら、母が驚かはるわ」

 真理は、母親が驚く様を想像して喜んでいる。

「じゃあ、わからんように水でも足しておいたら?」

 酔払いの幸一は無責任な冗談を零す。

「そうするわ」

 真理は片目でウインクすると、流れるように階段を下りていった。希望と温かみを伴った新年の陽の明かりが、徐々に真理の部屋に差し込んできた。幸一は快い眠気に誘われていった。

社会人になってからも数回上高地を訪れました。いつ訪れても、さわさわとした清涼感は真理の眩しい笑顔の記憶を梓川の川面に映し出してくれます。

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