白い花とドール
遠く汽笛の音が響いている。
港の近い場所で青年は一人歩いていた。
もう随分と疲れてしまって、ただ何もかも忘れてしまいたいと願い、歩き続けている。海沿いを彩る柵を左手に、ネオンの灯る港のほうへ向かっている。
行く宛てなどない。そんなものはないのだ。
彼は足音を響かせて、ふと視線を上げた。少し先の開けた場所には海を眺めるために置かれたベンチがある。もう辺りは薄暗く、居るのならカップルくらいだろうが、そこには海をまっすぐに眺めている女性がいた。
うっすら月が空から顔を出した時、彼女の姿が光輝いて見えて、彼は足を止めた。
なんだこれ?そういえばこの間読んだ本に同じような……。
彼はごくりと唾を飲み込んでゆっくりと彼女の元へ歩き出した。
足音は彼女の視線を揺らすことは無かったが、海からの風を呼んで彼女の髪を揺らした。
綺麗だ……とても。声が痞えて一つ咳払いをする。彼は息を吐く。
「こんばんは」
少し震えた声は彼女の耳に届いたらしく、美しい顔はこちらを見た。
「こんばんは」
小さな会釈に彼は彼女の傍に近づいた。
「座っても?」
その問いに不自然な間を置いて彼女はもう一度頷く。
「ええ」
隣に座って見てわかった。この女性はドール。ドールとはアンドロイドのことだ。
美しく完璧なドール。この街では普通に暮らしているが殆どは誰かの物だ。このように独りきりなのはありえない。それに、と彼は彼女を横目に見る。
先ほどから、数回会話をしているが、何かおかしい。どうやらどこか壊れているようだった。不自然さの中にある危うさ、どこか儚く見えて彼は目が合うと微笑んだ。
「名乗っていなかった。僕は遥と言います。君の名前は?」
遥が首を傾げるとドールは一瞬固まって、首を少し持ち上げると微笑む。
「名前はありません」
「ないの?」
「はい」
うん、と遥は少し唸って「君では不便だから、リナと呼んでも?」そう言った。
遥はただ何気ない言葉を選んだつもりだった。けれど彼女の瞳は暖かく輝き、優しい微笑みを浮かべたのだ。
「あなたがつけてくれたのなら」
ドールの瞳から零れた涙が確かに遥の胸に火を燈した。
行く宛のないリナを遥は自宅へと誘った。家族も誰もいない寂しい家だ。もう二度と戻ると思っていなかった家だ。
「どうぞ、寛いで」
遥はキッチンへ向かい、焜炉で湯を沸かす。二人分のお茶を入れて彼女の前にカップを出してから気が付いた。ドールはお茶を飲むんだろうか?しかしリナは両手でそれを包むと、口に運んだ。
「ありがとうございます」
「いいえ」
明るい部屋だとよく分かる。彼女は少し汚れていた。随分と外にいたのかもしれないと。
遥は彼女をバスルームへと促し、彼女のために開いている部屋をセットする。以前は母が使っていた部屋だ。もうずっと誰も使っていない部屋の窓を開けた。
「母さん」
遥は熱くなった目を閉じて天井を見上げる。深く呼吸をして、飲み込むとぱちりと目を開いた。
バスルームから出てきた彼女はとても綺麗だった。母の遺したドレスを着て、遥が用意したベットを見ると嬉しそうに微笑んだ。
「今日はもう遅いから」
部屋にリナを残して遥は自分の部屋へと戻る。寂しさばかりが募る家の中なのに、どうしてだが胸が温かい。リナがいるからだろうか?
翌朝、遥は悪夢も見ずに目を覚ました。そして一目散にリナのいる部屋のドアを開けた。
彼女はまだ眠りについたままで、遥はベットに近づくと彼女の頬に指を触れさせた。暖かな柔らかい頬。ホッとしたのも束の間、遥はハッとして部屋を飛び出した。ドアを閉めて廊下でへたり込む。ガタガタと震える指先が滲んでいた。
朝食はリナが作った。パンとコーヒー、少しのスクランブルエッグ。料理が出来るのだと彼女は語ったが、少し言語野に支障が出ているらしく、時々小さく首を動かしている。ただ不思議と初めて会ったころよりも、瞳の輝きは増していた。遥の話をよく聞き、遥が知識として知っていたドールの特性そのものだった。
しかしドールは高価なもので持ち主が必ずいる。その証拠にリナの腕にはIDがあった。検索システムにかければ彼女の持ち主は分かるだろう……けれど遥はリナの話を聞こうと彼女の前に座った。
「リナ、君のご主人はどこに?」
リナは一瞬固まって、少し間を置いて首を横に振る。何度繰り返しても同じだった。
高価なドールをここへ置いておいてもいいのだろうか?そんなことを考えながら顔を上げると、リナが遥の手を取り微笑んだ。
「リナ?」
手は暖かく瞳は優しい。懐かしさを思い出させるそれは遥の涙腺を緩ませた。
昨日まで誰もいなかったこの家に今はリナがいる。僕は独りじゃない。あふれ出る涙をリナは指ですくい、優しく頷く。
「……おかしいな、ごめん……なんでかな」
情けなく声にすると余計に涙が溢れて遥はリナの腕に縋りついた。
「……ああ」
この匂いは母さんのドレスだ。どうして僕を置いて逝った?
ぎゅっと握った遥の手にリナは微笑むと、彼の頭を優しく撫でた。
泣き疲れたのか遥はベットに寝転がり、すぐ傍でリナが見守っている。ようやく落ち着いた遥は起き上がるとリナに頭を下げた。
「ごめん、ありがとう。落ち着いた」
何も語らずにリナはただ首を振る。
「僕の母は少し前に亡くなって……もう肉親と呼べる人はいないんだ。誰もいなくなって、この家も空っぽで、僕はどうしたらいいのかわからなくなった。そこらじゅうに母さんがいるのに、見えなくて、思い出ばかりがぶり返す。それで港へ行ったんだ。海なら……死ねると思った。でも君と会えた……」
リナは頷き両手で胸を抑える。小さくかすかな音が聞こえて、リナの唇が動いた。
「私はドール。あなたに会うために生まれました。あなたは愛を与えてくれた、心を与えてくれた」
「え?……愛って?」
「あなたが名前をくれました。私の名はリナ。あなたが愛をくれたことで、私の中のプログラムが動き始めました。……しかし、わ、私はもう随分と、と、壊れています、す。あ、愛の、プログラムは、愛に反応、し、し、して、起動する。わ、わた、私は何度も、き、き、き、起動するたびに、こ、こわ、こわれていきました」
遥はリナの手を掴んだが揺らさないように握り締めた。
「治らないのか?」
「ディ、ディ、ディスク破損、は、破損しています」
リナは口を閉ざすといつものように微笑を浮かべた。
どれくらいの猶予があるのだろうか?どれくらいの時間を過ごせるんだろうか?また……失ってしまうんだろうか?
遥は拳を握り、何かしようと立ち上がろうとするもまたその場に座り込んだ。
ドールは高価だ。もし治せたとして遥にそれを払うだけの金はない。また盗んだと誤解されてしまえば死ぬよりも酷い仕打ちが待っている。ううっと頭を抱え込んで蹲る。僕に何が出来る?何が?
「リナ、少し頭を冷やしてくる」
遥はリナに断って家を出た。けれどこれは帰るための約束だ。ここに戻るための。
人ごみを歩いても何も浮かびはしない。誰かに頼れるわけでもない。自分は無力だと、ただ何も出来ない馬鹿な男なのだと思い知らされるだけだった。それでも小さな花屋で白い花を一輪買った。母にもよく買って帰ったが、母が好きな色はピンク。リナは白は好きだろうか?もうずっと彼女の考えているのに、彼女の事を何一つ知りもしない。
遥が家にたどり着く頃にはもう夜は深く、家には暖かな灯りがついていた。
「これを君に、白い花は好きだろうか?」
リナは微笑んでそれを受け取ると花びらにキスをする。
「あとどれくらい、君といられる?一年?一週間?」
言葉が震えていたが、おそるおそる覗き込んだ瞳や優しかった。
リナはただ首を横に振る。
「一日?」
遥の言葉はリナの微笑みに消えて、彼女の口は小さく動いた。
「もう少しだけ」
彼女の手にある花を見て遥は拳を握った。なんで……僕は外へ出てしまったんだろう、僕は何で、一緒にいなかったんだ。
「花なんて……必要なかったじゃないか……」
あの日、母さんが倒れた日、遥は母の頼みで花屋へ行ったのだ。彼女の好きな花を買って、家にたどり着いた時にはもう、息をしていなかった。
押し寄せる後悔に遥は俯くと、リナは遥の頬に触れてキスをした。
「ハルカ、間違えないで。あなたはここに。私は嬉しい」
「リナ?」
「私はあなたのくれたこの白い花が好き。あなたの愛は純粋でかけがえの無いもの」
リナは両手で胸を抑えて片手をすっと遥の胸に触れさせた。
「愛は永遠、消えることはない。あなたの胸に永遠に刻まれる。世界が滅んでも、あなたの愛は永遠。そして私の胸にも刻まれる」
リナの睫毛がゆっくりと揺れて重たげに瞼が持ち上がる。
「ま、待って」
まだ何も始まってもいない。僕は君に愛を貰ったのに……与えられるばかりで何も。遥がリナの目を覗き込むと彼女はただ微笑む。
そしてリナは止まってしまった。
リナが止まってしまい、夜遅くに誰も使わない教会の隅に彼女を連れて行った。
そこは街の人々がいらなくなった人形などを置いている場所で、まるで棄てるかのような気分になったが、家にドールがあることがどれだけ危険か理解していた遥はそうするしかなかった。せめてとベールのようにレースのハンカチをかけて、まだ暖かな頬に触れる。
「リナ、ごめん。何もしてやれなかった」
家路につく遥はあの日のように堕ちていない自分に気付く。まだリナの遺した愛の言葉が胸に残っているからだろうか。母がいなくなり、リナも消えてしまった。
僕は独り、けれど愛は胸に、永遠に刻まれる。
二年の年月が流れて、遥は穏やかな暮らしの中で知人からドールを譲り受けた。愛らしいドールはよく気がつき面倒を良く見てくれる。
ある日、ドールは部屋の掃除をしながら遥を見た。
「ご主人様はどうしてお独りなのですか?」
「さあてね」
遥はいつもどおりの返事をしたが、今日は珍しくドールが頬を膨らした。
「恋は良いそうですよ?ご主人様にも幸せになっていただきたいわ」
「はいはい」
と家の事は任せて外へ逃げ出した。ああなるとドールはうるさい。しかし……と遥は思う。いつか世界が滅んでも愛を残せる人がいたら、その人を愛してみたいと。
遥は花屋で白い花を買い、誰も使わない教会へと足を運んだ。相変わらず人形は増え続け、片隅にはドールが座っている。遥はドールの埃を払ってやり、彼女の膝に白い花を置いた。
「リナ……僕は頑張っているよ」
冷たい頬に触れて微笑むと、立ち上がり教会を後にした。
バタンと閉まったドアに教会の中で埃がキラキラ舞っている。
ベールを被ったドールの瞼が少し持ち上がり、瞳がキラリと輝いた。ほんの少し顔を上げて窓の向こうに消えていく遥の背中を目で追った。そして膝の上の白い花に指で触れると、嬉しそうに微笑んだ。




