第9話「花瓶を割ってすみませんでした」
勇者は、ある町にやってきていた。
人々が行き交う、楽し気な空気の町。
勇者はそよ風に吹かれながら、目立たぬよう、静かに街道を歩いていたが――
突然、人々が勇者の姿を見て、アッと声を上げてきた。
「ゆ、勇者殿! なぜここに!?」
「……?」
勇者は首を傾げた。
何かこの町にいると、おかしいのだろうか?
「どうしたんだ、みんな」
「だって、魔王が……土下座をしてきた勇者殿を執事にしたと、国王に伝えてきたらしくて……」
「……なんだと?」
勇者は耳を疑った。
人々の間では、俺が土下座したなどという噂が広まっているのか? というか……執事って、どういうことだ?
「……しかし現に今、俺はここにいる。魔王が流した誤報だろう」
「でも、そんな意味の分からない嘘をついて、魔王は何をしたかったのかねぇ……」
人々は腕を組んで考え込み始めた。
勇者も、これは只事ではないと察する。もし仮に、魔王が嘘をついていないとすれば……
ある住民が、声を上げる。
「まさか魔王の奴、ただの一般人を勇者と勘違いしたりして、捕らえたのではないか?」
「……!」
勇者は絶句した。
もしそうだとすれば……そのような事態を防げなかった自分は、なんて未熟なのだ。
彼の内側に罪悪感が募る。
「……すまない、魔王の執事……」
「勇者殿のせいじゃねぇよ!」
「あなたは悪いことはしていないわ」
勇者を励ます人々の声。
やがて勇者は覚悟を決め、顔を上げた。
「……魔王の執事、あなたを必ず助けに行く。どうかそれまで待っていてくれ」
胸に手を当て、勇者は遥か遠く――魔王城の方角を、睨みつけたのだった。
「うわあああああああああああああああ!!!」
俺は今、魔王城の中を必死に逃げ回っている。
そう、執事の俺は間違えて、フューレの花瓶を落としてしまったのだ。
無言で俺を見つめ、殺意マシマシのロリっ子魔王から、俺は延々と逃げ惑っていた。
謝るタイミング逃したから、とにかく生き延びるしかねぇ!!
「花瓶割った執事燃やす」
フューレはそう言いながら、炎のオオカミを召喚している。前にも俺の追跡に使っていた方法だな。
――何度も同じ手が通用すると思うなよ!!
俺は学習能力というものを身に着けているんだ。
「うりゃああっ!!」
俺は隠れていた場所から飛び出し、水がたっぷりと入ったポンプとホースを取り出す。
これは、前にプールがあった中庭から無断で持ってきたものだ。
匂いをたどって俺のもとまできたオオカミに向かい、水を噴射した。当然、炎でできたオオカミたちは悲鳴を上げ、消滅したり、逃げたりする。
「よっしゃ! このまましばらく耐えるぞ!」
幸い、ポンプの水は大量にある。フューレが諦めるのを待ってます。
そのまま俺は、次々とやってくるオオカミを消化していく。
「18……19……20……」
しかし、20匹目にやってきたのは、炎のオオカミではなかった。
――水の塊でできた、巨大なクジラである。
「……あ?」
俺は思わず変な声を上げてしまった。
クジラ……? え、炎以外でも生き物を作れるの?
試しにポンプで水を当ててみるが、効果があるはずもない。それどころか、クジラの体が一段階大きくなったようにも見えた。
クジラは巨大な口を開け、呆然としている俺の体を飲み込んでしまった。
「☆%@*6#‼0あ+※!?」
水のクジラに飲み込まれた俺は、息ができなくなり、身体が何度も回転してパニックになる。
待って死ぬ! 俺はどういう体勢をしているんだっ!? 苦しい……溺れる……! 誰か助けて!!
次の瞬間、突然クジラの姿が消えた。
俺はドサッと床に落ちる。ゲホッ、ゲホッ……助かったのか?
するとフューレが淡々とした足取りで歩いてきた。俺は思わず身をすくめてしまう。
フューレは静かに俺の姿を見つめ、腕を組んだ。
「人間は溺れると苦しくなる。魔王は水に溺れない。なるほど」
「……」
「前にできなかったやつ。人間が溺れるとどうなるか。試せてよかった。今度はもっと長くやる」
「やめてください!! 死んでしまいます!!」
「なら花瓶今すぐ直せ」
フューレ様、人間の生死の境界線を理解してください!
溺れさせたら、数分で死んじゃうんだからー!!!
その後俺は、無茶ぶりで花瓶を作らされることになるのだった。
執事が出した叫び声は、その階の廊下に響き渡っていた。
廊下には、不自然な位置に現れた扉があった。倉庫の扉とトイレの間に、それは出現したのだ。
扉が音もなく、僅かに開く。
中から出てきたのは、赤いマニキュアを塗ったしなやかな指先だった。
それと同時に、舌打ちの音が響く。
「……うるさい男ね……。新人で、しかも人間の男だっていうから、見逃してあげていたけど。もうそろそろ我慢ならないわ」
不気味で低い声だった。
彼女は鋭い眼光を放ちながら、唇を舐めた。
「次に彼が何かしたら、容赦しないわ。私の『調教室』をとことん味わってもらおうかしら……」
彼女が微笑んだ瞬間――扉は閉まった。




