ep3
神奈川県にある普通の居酒屋でアルバイトをしている男、市井羽駒
清潔感のある短い黒髪で愛想も良く仕事もでき、客はもちろん、店員からの信頼も厚い。
この日も市井はいつも通りに仕事を終えすぐに帰宅する
「お疲れ様でした!」
「あ、市井くん!これ!今日のあまり持っていっていいよ!」
「マジすか!ありがとうございます!」
市井が帰る時、店長と書かれた名札をつけた男性が出口で市井に余った料理を渡していた。
市井は嬉しそうにそれを受け取り笑顔で帰っていく、その様子を見た若い女性の店員が店長に話しかける
「市井さん、帰っちゃいました?残念、飲みにでも誘おうと思ったのに」
「あー、市井くん彼女いるよ?しかも同棲中で婚約者だって」
「えー!だからいつもすぐ帰るんだ。ラブラブって感じじゃないですか」
市井を狙っていた若い女性の店員は彼女の存在を聞き残念そうな顔をして去って行った。
店長はまたかとため息を吐く。店長と市井は付き合いが長く、ある程度市井の事情も知っていた。
「あ、まあ、明日でいいか」
店長はそう呟き、事務所に戻った。
市井が店から出て30分ほど歩き、古びたアパートの前に着き、アパートの一部屋の鍵を開け静かに中へ入る。電気は消えており人がいる気配はなかった
「ただいまー」
市井は小声で言い、音を立てないように部屋に入る。内装はワンルームでかなり狭く、一歩進むだけで部屋の真ん中へ辿り着く。すると突如背後から声をかけられた
「おかえりー」
「びっ、くりしたー」
市井は驚いたが声を出すのを我慢し、電気をつけながら振り返ると、イタズラを成功させて笑顔を浮かべている、赤毛で長い髪の女性が立っていた
「羽駒くん、ビビリだなぁ」
「また変な力使って気配消してたでしょ。そりゃビビるよ」
「変な力じゃなくて異能力!」
「はいはい、ただいま。真里」
市井の恋人八乙女真里は市井に雑に流されて不服そうにしていた。
八乙女は気配を限りなく薄くするという異能力を持っている。しかし幻想省に所属しているわけではない
「今度さ、集会があるんだけど羽駒くんも来ない?」
「……俺はいいかな、真里も行かない方がいいんじゃない?なんか嫌な感じがするんだよあの変な宗教団体」
「別にお金取られてるわけじゃないんだしいいじゃん。それに宗教じゃなくて人工神の教会!しっかりとした理念があるんだから!」
人工神の教会、その名前を聞き市井の顔が引き攣る。
八乙女が人工神の教会に所属してから心配して市井も人工神の教会に足を運んだことがあり、自分なりに見極め特に八乙女が危ないことや怪しげなことをやらされていたりなんてことはなく、2人が金に困っているということを話すと割のいい治験のバイトを紹介してもらえたりもした。その治験が終わってからも体に不調はなく、金銭的にもかなり助かった。しかしちょうどその治験が終わってしばらくしたタイミングで八乙女が言う、異能力という力が突如2人に現れた。そのことを人工神の教会に報告すると、特別な人間のみ与えられる力と教えられ、治験との関わりなどは聞き出せなかった。それ以来市井は人工神の教会を怪しみ、逆に八乙女は盲信するようになった
「理念はいいけど、危ないと思ったらすぐに逃げるんだよ」
「大丈夫よ!私たちは特別な存在なんだから!」
「根拠になってないけど」
市井は八乙女に何度も注意するように言っているが、特別な存在。その言葉で八乙女は盲目的に人工神の教会を疑わなくなり、生活が厳しく、余裕が少ない市井は八乙女が楽しそうにしているならと、無理に辞めされることもできないままでいた。
話しているうちに市井の腹が鳴り、八乙女は笑いながら立ち上がる
「お腹空いた?ご飯あるよ」
「俺も賄いもらってきた。真里も食べてないの?」
「うん、待ってた」
人工神の教会の話はとりあえず保留となり、2人は食事の準備を進める。
人工神の教会については意見が合わない2人だが決して不仲になっているわけではない。
2人ともバイト先や至る所でお互いの自慢をし、休日が合う時は共に過ごし、2人を知る人からは仲の良い恋人同士と思われている。
2人とも満更でもなく、生活が安定したら結婚すると約束もしていた
「今日さ、俺が開発手伝った新メニューの初日だったんだけど、みんなに頼んでおすすめしてもらってさ、すっごい売れたよ」
「この前持ってきてくれた美味しいやつ?よかったじゃん!うちでも作ってよ。出来立て食べたいなー」
「はは、もちろん。今度の給料日に作ってあげる。せっかくだしちょっと豪勢な晩御飯にしようか」
「いいねー」
今日あったことを報告し合いながら晩御飯を食べ終え、寝る準備を済ませ、先ほど晩御飯を食べたテーブルをしまい、布団を二つ並べる。
狭い部屋でプライベートもない貧乏な生活だが市井に不満はなかった。寝る直前まで話し続けいつの間にか眠っていた八乙女の寝顔を見ながら市井は優しく微笑む
「おやすみ」
八乙女は朝から夕方までスーパーでアルバイトをしていて、市井は昼から夜に居酒屋でアルバイトをしている。八乙女は朝から起きているためすぐに寝たが、市井はまだ眠れる気がしなく軽く散歩をするために音を立てないように外へ出る
「寒っ」
白い息を吐きながら、公園にでも行こうと歩き始める。
駅から外れた住宅街の夜中は静かで、たまにタクシーが走るぐらいしか音がない、市井はそんな夜に散歩するのが好きだった。
(あ、三日月だ。これは下弦?もうそろそろ新月ってことか)
最近、八乙女が月について話してたのを思い出したり、なんでもないようなことを考えながら歩く。そんななんでもない出来事には必ず八乙女が出てくる。目を閉じると八乙女の笑顔が思い浮かぶ。側から見れば貧乏で可哀想な生活かもしれないが市井は八乙女がいてくれれば自信を持って幸せだと断言できた。
市井は誰もいない公園に着き月を見ながらベンチに腰を下ろし呟く
「結婚したいなぁ」
生活が安定するまでと約束しているが市井は自分が正社員になれれば直ぐに結婚する気でいた。
八乙女は両親から虐待を受けており、市井はそれを救うために自身の両親に頼ったところ、八乙女と一緒になるなら勘当すると言われ市井と八乙女は高校卒業の前に互いに両親との関係を断ち、神奈川まで2人で逃げてきた。
今まで色々と苦労をしてきたが、市井は自分の選択を後悔はしたことがない。
市井が月を見ていると突然背後から声が聞こえてきた
「こんばんは、今夜は冷えますね」
声をかけられるまで人の存在に気が付かなかったため、市井はびっくりしながら振り向くと、フードを深く被り目元が見えない男が立っていた。驚きながらも市井は返事をする
「こんばんは、そうですね」
人のことは言えないが夜中に1人で公園にいる男は怪しいので市井は最低限の会話だけして帰ろうと立ち上がる。
すると男から声をかけられる
「あの、これ落としましたよ?」
男の手には見覚えのある鍵が握られていて、市井がポケットを探ると家の鍵が消えていた
「ありがとうございます」
「いえ、夜道にお気をつけください」
「どうも?」
鍵を受け取り男を警戒しながら市井は帰路についた。
1人公園に残った男はメモ帳を取り出す。
そのメモ帳にはびっしりと人の名前が書かれており、そこには市井と八乙女の名前もあり八乙女の名前はまるで囲んであり、市井の名前はペンで塗りつぶした
「後、10人…ふう、雑用も楽じゃないですね」
男はいつの間にか公園から姿を消していた




