第五話
リウガルト陣営では、とある兵の話題が持ち上がっていた。
「それなる兵士が、グレンセラの隠し駒だというのか」
ブルグラーヴは苦虫を噛み潰したような顔で、側近の話を聞く。驚異的な存在が、グレンセラ軍に居るというのだ。それは、まるで――。
「戦闘能力が並外れており、我が軍は押されています」
「士気に関わるな……一体何処から湧いてきやがった」
「ある者は、その兵士が、アルスノ王子だと申していますが……」
「はっ、そんな訳があるか。王族が戦場で兵士と共に戦うわけがないだろうが、ましてやあんなガキの」
ブルグラーヴは豪快に鼻で嗤った。
「ですが、アゼルレッド王も戦場で先陣を切っていたではありませんか」
「奴の名を出すな! 忌々しい」
ブルグラーヴの怒気に縮こまる兵士。
「……申し訳ありません」
「王子はたったの十五歳だぞ? 起こしたとかいう叛乱も、ただ担ぎ上げられただけだろう。グレンセラの貴族共は昔から派閥争いが激しいからな」
「それは、そうですが……その兵士は、見たところかなり若く、少年に見えたと……」
「はあ……念の為、注意を払っておけ。念には念を。やっとグレンセラに一矢報いることが出来るのだ。卑劣なグレンセラの皮を剥いてやる……」
「……御意」
ブルグラーヴはじりじりと眼光を強める。
「閣下、中央から書状が届いたのですが……」
「寄越せ」
ブルグラーヴは強引に奪い取る。封書は二つあった。一つは議長達からの形式的な文書、もう一つは、デュールリンからの抗議書、否、馬鹿げた紙屑だった。
「デュールリン、議会の犬め……俺の邪魔をしたら許さんぞ……」
この期に及んで、この俺に面会を求めるだと? 奴は何様のつもりだ。
「陣営に籠っていろと伝えておけ。議長共は勝手に怒らせておけばいいのだ」
◇
戦場の空は黒雲に満ちていた。近頃、悪天候が多い。地面も状態が悪く、殆どがぬかるんでいる。戦況は、膠着状態だ。だが、
「進軍する」
アルスノはそう宣言した。
「皆を呼べ」
「はっ」
篠突く雨の中、将官達が集まり、アルスノを囲むように丸い陣形で着席する。
「リウガルトの戦意を削ぐ。それに一番有用であるのは、砲兵を壊滅させることだ。決着は、早い方が良い」
アルスノは夜襲を作戦として考えていた。間近まで迫り、動揺の中で多くの兵を引きつける。そして、一網打尽にするのだ。
「夜は長い。時間的な余裕があれば、辿り着くはずだ。安直な考えではあるが」
「夜襲、ですね。それが最善だと思います」
ケントが言った。他の者も頷いている。
「本当か?」
「ええ。殿下、この作戦、私に任せていただけませんか」
「ああ。卿に一任しよう」
アルスノは目線を皆と合わせた。
「卿らの話を聞き、リウガルト軍の動きを見てきた中で、段々と解ってきた。相手方の将ブルグラーヴは、執拗と言えるほど我が軍に攻撃を仕掛けてくる、防御よりも攻撃を優先する傾向が強い。執拗で性急。グレンセラに対する、憎悪と言うべきか。退くという考えが彼には欠如しているように思う。他の指揮官との連携も、危ういように見える。そして、オーアを攻めてきた指揮官。あの者はとても統率者としての器ではない。……突くべき所は、もう明らかだ」
「殿下の、御心のままに。我らは何処までも貴方に付き従います」
グウィネズの発言に、アルスノは静かな笑みを浮かべる。
「心強いことだ。頼んだぞ」
「御意!」
今宵は月夕。山々に、森林に、大地に、蒼白い光が差し込んでいる。闇中に足音が聞こえる。だが、耳の良い羊にも聞こえないほどの密やかな音だ。
そう、グレンセラは夜の狼。闇に紛れ、静かに、獲物に接近してゆくのだ。
◇
まだ完全には太陽の登りきらない、彼は誰時。
リウガルト軍に混乱の渦が巻き起こり始めていた。昏い穹に、砲煙が上がり、霧が立ち込める。敵側の一斉射撃の音が戦場を独占し、それに砲声も加わった所為で何もかもが不明瞭だ。
「どうなってる! 報告はまだか!」
そこに走り込む伝令兵。馬から勢いよく飛び降り、ブルグラーヴの前に跪く。
「も、申し上げます! 第三部隊が、全滅との報せがありました!」
「何!? 防御線は脆弱ではなかったのか!?」
「偵察隊は、そう、申しておりましたが⋯⋯」
「この能無しが! くそ、こんな早朝にグレンセラ軍が仕掛けてくるとは……。後方を取られるやもしれん、危ういな。穴を埋めねばならんが、前線に投入すべき戦力を削ぐのは……」
「申し上げます!」
「今度は何だ!」
怒声と共に振り返る。
「――ギノヴェア閣下が、重傷を負われたと!」
「何……っ?」
声の勢いが弱り、動揺が漏れた。
「その、デュールリン閣下が、突然少数の軍勢を率いて敵の陣地を無理に横断する形になり、それをギノヴェア閣下が助けようとなされて……重傷を負われたとのことです。何でも、腹部を撃ち抜かれたとか……。軍医が診ておりますが、到底戦場に戻れる状態ではないと……右翼も、いつまで持ち堪えられるか……」
そもそも! 何故デュールリンとギノヴェアが同じ場所にいる?
「くそ……デュールリン、余計なことを!」
奴のことだ。どうせ挑発に乗ったのだろう。いつもいつもデュールリンはそうだ! 全く、無能な味方ほど厄介なもの無いとはよく言ったものだ。ギノヴェアは優秀な数少ない指揮官だった。どうしようもなく大きな痛手だ。
指揮官を失ったが最後、軍隊は途端に機能しなくなる。
まるで、番犬と逸れた力無き羊の群れのように。
忘れていたのだ。
アルスノ王子は、あのアゼルレッド王の息子だということを。
そして、アルスノ王子は、そのアゼルレッド王を――打ち倒したのだということを。
その瞬間、ブルグラーヴの目に映ったものは。遠くから此方へと迫る、群狼のようなグレンセラ軍。そして、武器を携えた王子の姿。狼のような眼光。その風格、その威勢が、苛烈な戦闘狂のアゼルレッド王に重なった瞬間、どうしようもない絶望感に襲われた。
あの日の感覚と――同じだ。兄が、グレンセラ兵に殺されたあの日。
あの、遠き日を、俺は忘れたことはない。まだ少年だった兄を、無惨に殺したあのグレンセラ兵の眼。蔑みに満ちた、あの眼を。兄の死が、私を、戦いに駆り立てた。絶望と屈辱、そして、果てしない恐怖に取り憑れながら。
グレンセラは狼藉に塗れた、無慈悲で非道な国だ。グレンセラには散々苦杯を舐めさせられてきた。それ故、俺は。リウガルトは。屈してはならぬのだ。何があろうと、決して……。
「全隊前進せよ! 退くことは許さぬ。竜騎兵を増員せよ。側面を守れ!」
こうなればもう後には退けない。全てを前線に投入するまでだ。完全に攻撃態勢へと移行し、一撃で仕留める。
「何を立ち止まっている! 進め! 進むのだ!」
兵士はブルグラーヴの鋭い視線と、怒りに満ちた大音声に萎縮してしまう。
「ぐずぐずするな!」
ブルグラーヴは憎悪と屈辱を胸に、がなり立てた。懸命に兵を進めたものの、混乱の中、歩兵と騎兵の息も合わず、戦線が乱れに乱れていった。
「くそっ……何してる! 何としても追い払え!」
ブルグラーヴは喚き続けた。
勝敗が決した。グレンセラ軍は、瞬く間にリウガルト軍の主力隊を撃破。リウガルトは膨大な犠牲を出し、降伏に追い込まれた。開戦から僅か一ヶ月あまりのことだった。