36話「クヴェルの不安と緊張。クヴェルの本当の姿」
「さてと、日が高くなる前に出発しようか?」
「出発って、ここ屋上だよ。
どうやって北の湿原に向かうの?」
クヴェルが目を細め、ゆっくりと口の端を上げた。
「その前に姿を消そう。
ステルス!」
クヴェルたんが呪文を唱えると、クヴェルたんの体が半透明になった。
自分の手に視線を向けると、同じように半透明になっていた。
「これで、他の人達からは僕たちの姿は見えない」
クヴェルたんはそんな呪文も使えたのね。私は彼の偉大さにただただ感動していた。
「これから見せるのは僕の本来の姿なんだ。
アデリナ以外には見せたくなくてね」
クヴェルたんの本来の姿……?
彼のアイスブルーの瞳が私を捉える。彼の目は真剣で温かさの中に不安の色が見えた。
口角は僅かに弧を描いているが、眉は少しだけ下がっていた。
私を落ち着かせようと握った手は僅かに震えていた。
彼は自分の本来の姿を私に見せるのが怖いんだわ。
私は握っていた手を離し、彼の背中に腕を回した。
彼の心臓がトクントクンと音を立てているのを感じる。
「大丈夫だよ、クヴェルたん。
私はクヴェルたんがどんな姿になっても大好きだから」
少し体を離し、彼に微笑みかける。
彼は一瞬目を見開き、その後穏やかに笑った。
「うん、そうだね。
アデリナならそう言ってくれると思った」
彼の瞳は強い意志と私への信頼に満ちていた。
彼の手に触れると、もう震えてはいなかった。
「少し下がってて、僕の本来の姿は君が思っているよりも大きいんだ」
「うん」
私は彼に言われたとおりに、屋上の端まで移動した。
私が距離を取ったことを確認し、彼は私を見つめ大きく頷いた。
彼の姿が光を放ち、徐々に形が変化していく。
穏やかな光を湛えていたアイスブルーの瞳は、刃のように鋭くなっていく。
皮膚が徐々に水浅葱色の鱗に覆われていく。
口は大きく裂け、鋭い牙が覗く。爪は鳥のように鋭く変化していく。
体は徐々にその大きさを増していく。
背中からは美しい翼が生え、翼が動くと風が吹き私の髪とマントを大きく揺らした。あまりの強風に私は目を瞑った。
しばらくすると風が止み、私はゆっくりと目を開いた。
そこには、朝日に輝く水浅葱の神々しいまでに見目麗しい竜神の姿があった。
体長十五メートル、しっぽの長さも同じくらいだと思う。
「アデリナ……」
私を呼ぶその声は、優しさと少しの戸惑いを含んでいた。
さっきはああ言ってたけど、クヴェルの本来の姿を見た私が怯えているんじゃないか、彼は不安なのだ。
早く彼を安心させてあげなくちゃ!
私は彼に駆け寄り、彼の顔をなで、頬擦りをする。
「これがクヴェルたんの本来の姿なんだね?
凄くかっこいいよ!
惚れ直しちゃった!」
私はにっこりと微笑み、彼の鼻先に口付けを落とした。彼の水色の鱗が少しだけ紅潮したように見えた。
「怖くない……?」
「全然怖くないよ。
だってクヴェルたんの瞳は、人間の時と変わらずに優しい色を宿しているから」
姿は変わっても、私を映す彼のアイスブルーの瞳は変わらず慈愛に満ちていた。
「そっか……よかった」
竜の姿だとクヴェルたんの表情はよく分からない。でも今彼ははにかんだ気がした。
「竜の姿でミドガルズオルムのところまで飛んで行くんだね。
それなら馬車やカヌーより断然早いね」
「国王はミドガルズオルムのいる場所まで、カヌーで三日から六日かかるって言ってた。
空から行けば三時間から四時間で着くんじゃないかな」
それなら午前中にはミドガルズオルムの元まで辿り着けるわ。
上手く行けば、ミドガルズオルムを浄化して、テオドリック様を救出して、日付が変わる前に帰ってこられるかもしれないわ。
「アデリナ、僕の背に乗って」
クヴェルが足を曲げ、首を下げた。私は彼の首づたいに登り、背中に跨り、太くしっかりとした首に抱きついた。
「飛ぶよ!
しっかり掴まって」
「うん!」
彼が翼を羽ばたかせると強風が巻き起こった。私はとっさにぎゅっと目を瞑る。
浮遊する感覚があり、目を開けると先ほどまでいたお城がはるか下にあり、マッチ箱のような大きさに見えた。
「ふぁ…………!」
飛んでる!
「城下町があんなに小さい……!」
大きく見えたお城も、街も、今は豆粒のように小さい。
「風の影響を受けないように、結界を張ったから」
「うん、ありがとう」
クヴェルがぴゅーんと飛んでも、風の影響はさほど受けず、そよ風が私の髪を揺らす程度で済んでいる。
街道に点在する建物や、村や、池や川の上をどんどん通り過ぎていく。
「アデリナは高いところ平気?
怖くない?」
「大丈夫だよ!
すっごく気持ちいいよ!」
街道が途切れ、下に見えるのは湿地だけになった。
目を凝らすとずっと北の方に黒い靄がかかっていた。
あの霧の中心にミドガルズオルムがいるんだわ。
これから魔物と対峙するのだと思うと、心臓がドキドキと音を立てる。
その時、首飾りとブレスレットがカチャリと音を立てた。
私にはクヴェルから貰ったお守りが二つもある。だからきっと大丈夫。
竜型のクヴェルは私を乗せたまま、ぐんぐんと霧に向かって近づいて行った。