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火星の亡霊

 雪が溶けたら何処へ行こうかいつも考えていた。

 京都でもいい。鳥取でもいい。屋久島でもいい。静かで、時間の積み重ねのある場所へ行きたかった。重層的に折り重なった、時間の連鎖を解きほぐしたかった。


 程なくして、月が地球に近くなったという連絡を受けた。不思議な高揚感があった。人間の血液の循環も多少なりとも変化したのかもしれない。潮の満ち引きも変化したようだ。月へも行きたかったが、月へ行くのは危険だ。事故によって有害物質が漂っているので、いまは立入禁止区域に指定されている。しかし、無性に何処かへ行きたかった。日本や海外もいいが、今回はやはり地球の外がいい。そういった方向で、僕は、付き合いのある旅行会社の担当と打ち合わせをした。


 四月十一日、午前三時半頃、僕は火星に到着した。

 火星には針葉樹が生い茂り、よく手入れされた立派な松の木もあった。長く続く砂利道の脇には、無数の露草が植えられていた。シーズンではないためか、人は疎らで、カップルや家族連れは一組も見つけられなかった。2200年代、火星は各国共同でのテラフォーミング計画が成功し、月とならぶ観光惑星となったが、日本人の僕が立ち入ることができるのは、日本管理区域だけだ。


 火星年代記博物館、火星テーマパークで遊び、定番のルートで初日はホテルへ帰って眠った。一人で旅行しているのが少し、不思議な感じがしたが、じきに慣れると思い、暗闇に意識が吸い込まれるのをただ見守った。

 


 四月十二日。二日目は特に当てもなく見物しようと思った。

 虹のよく出るといわれている観光名所に着くと、虹は出ておらず、妙に寂れた案内看板の塗装は剥げ、烏の止まり木と化していた。

「火星もこんなものか」

 僕は、もう一つ丘を越えれば虹が見られるのではないかと思い立ち、なだらかな緑の丘を歩いて越えた。やはり虹は見られなかったが、其処には一軒の喫茶店があった。看板には『喫茶ぷりしら』と、黒の明朝体で書かれている。平屋を改築したような古風な店だ。わざとノスタルジックな雰囲気にしているのだ。

 地味な着物姿の女性が一人、店先に立っている。

「どうぞ、どうぞ」

 僕が近づくと、明るい声でそう言った。三十代位の化粧の薄い女性だ。

「こんな所に喫茶店があったんだ」

「ええ。皆さんそうおっしゃいますよ」

 

 店内は、海外にある日本料理店のような妙な、違和感があった。言語表記も出鱈目のものが多かったし、インチキみたいな演歌が流れている。それでも、障子や、畳、座布団なんかは上等なものだった。他に客はいないようだった。

「お客さん、何処からきたんです?」

「地球からだよ」

「地球ですか。それは長旅でしたね」

「いや、それほどでもないよ」

 お腹はあまり空いていなかった。テーブルの上にあるドリンクメニューを見ると、コーヒーと、メロンソーダしかなかった。

「何にします?」

「コーヒーにするよ」

「アイスですか、ホットですか」

「じゃあ、ホットにするよ」

「少々、お待ちくださいね」

 僕が意識を分散させ、思い耽っているうちに、店員は白いカップをテーブルに出してくれた。

「ごゆっくり」

「ありがとう」


 店員は玄関を箒で掃いている。丹念に同じ場所を掃いたりもしている。綺麗好きなのかもしれないが、その過剰な動作は少し神経質そうにも見えた。ふと、じっと見ている僕に気がついたのか、掃くのをやめて顔を上げた。

「お客さん、外の風は冷たかったでしょう」

「うん。冷たかったよ。きっと海からの風だね」

「海はありませんよ」

「嘘だ。まったく?」

「ええ、まったくありません」

「確かに、東の方角から潮の匂いがしてきたような気がしたんだけど、気のせいだったのかな」

「東の土地には亡霊がいますわ」

「へぇ。恐ろしいのかい?」

「どうでしょう。よくわかりませんわ。幻を見せるのですよ。匂いや音なんかも。お客さんが仰っている潮の匂いも、亡霊の仕業ですよ」

「何のために?」

「さぁ。一人、一人、違った幻を見せるのです。きっと、何かその人の気に留めているものを見せるのですよ」店員は、箒を壁に立てかけ、前掛けで手を払う。「海に何か思いあたる事がおありですか?」

「何もないよ」僕は、一瞬言葉に詰まったが、店員に悟られまいと言葉を無理矢理続けた。「・・・・・・亡霊は口を聞くかい?」

「ええ。話もするし、きちんと聞く事もできます。生きた人間と、殆ど何も変わらないらしいです。これは他の観光客に聞いた話ですが・・・・・・。でも、・・・・・・お客さん、亡霊に話を聞きに行こうなんて思わない方がいいですよ」

「どうして」

「何せ、何十年、何百年も同じ場所にいる霊なんですから、深い怨みや妬みみたいなものがあって、それが彼女を其処に留まらせているに違いないわ」

「女の霊か・・・・・・。君は一度も会ったことはないの?」

「ええ。ないですよ、一度も」


 喫茶店を出ると、やはり潮の匂いがした。先程よりも、匂いは強くなったような気もする。店員に言われたとおり、店から東へひたすら歩いた。日差しはよく、気温もほどよく心地よかった。なにより、風が気持ちよかった。

 二十分ばかり歩くと、大きな柳の木の下に、女が佇んでいるのが見えた。これが、あの亡霊かと思い、恐る恐る近づいた。黄緑色の着物を着て、真っ赤な帯をしていたが、なぜか裸足だった。

「お久しぶりね」

 女の亡霊が言った。

「君とは初めて会ったように思うけど」

 実際、初めて見る顔だった。色白で、髪は黒く、瞳は爛々とし、華奢でいて、それでも豊潤な感じがした。

「すべての死者を代表して言っているのですよ」

 亡霊は言う。

「君が、噂の亡霊かい?」

「まぁ。そんなに噂が広がっていたの。誰も私なんかに興味はないと思っていたけれど」

 亡霊は艶やかな髪を右手で掻き揚げて、遠くを見つめる。心地良い、不思議なそよ風が吹く。

「火星では二十億年前から三十億年前まで水が存在していたのよ」

「ふぅん。君には、わかるの?」

「ええ。細胞や原子は、それ自体の記憶があるのよ。人間も死ねば、その記憶にアクセスできるようになるわ。せっかく、来たのだから、色々とお話ししたいところだけれど、私は人間とあまり長い時間、会話しちゃいけないのよ」

「何か起こるのかい?」

「正確にはわからないわ。良くないってことは確かよ。お互いにね」

「そうか。なら、残念だけど、そろそろ戻ろうかな」

 僕がそう言うと、亡霊はいくらか残念そうな顔をしたが、すぐに何かを思いついたように晴れやかな表情を見せた。

「そうだ。良いものをあげるわ」

 亡霊は、金色のかんざしを取り出し、僕の方へ差し出した。輪にピンクの桜の花びらが散りばめられ、朱色の金魚が二匹、垂れ下がっている。

「くれるの?」

「ええ。お守りよ」

「ありがとう。大事にするよ」

 僕は不思議と嬉しかった。

「いつまでも元気でいてね」

亡霊はそう言い、なかば僕の言葉を遮るように手を振り、別れを促した。その瞳は、死の影はなく、生身の人間と同じようだった。亡霊の背後には、とてつもなく大きな海が広がっていた。それは、きっと何処までも、何処までも広がっているのだろう。


 地球に戻ると、地球ならではの喧騒に頭がくらくらした。

 季節は夏になり、秋になり、そして冬になった。

 その頃になると、亡霊から貰った金色のかんざしは、まるで植物が枯れるように色褪せ、脆く崩れ、やがてバラバラに砕け散った。

 それに伴って、自分のなかで固執していた時間や愛しい人の思い出、記録の重層的な鎖みたいなものも、同時に砕け散ったように感じ、いくらか楽になったように思う。




  
















2012年 執筆

2025年 加筆修正

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