【書籍化決定】蛇を君に捧ぐ
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「エリー、いやエスペランサ。もし僕が急にいなくなったら、ありったけの宝石やお金を持って逃げるか、あるいは……君を守ってくれる男と結婚するんだよ」
兄ノヴァクが言っていたことは冗談だと思っていた。
いつだって穏やかで真面目だった兄。裕福なラングトン伯爵家の跡取りとしては優しすぎたのだろう。病に倒れた父の代わりに執務を行い、親戚の金の無心をかわし続けるのは大変だったはず。
とどめは兄の婚約者の浮気だっただろうか。優しいと物足りないなんて言っていた兄の婚約者は浮気したくせに伯爵夫人には固執した。
多分、兄はほとほと疲れたのだ。
浮気をしたくせに婚約解消をごね続けた相手の家と関係を無事解消してから、いなくなることはなかったが兄は倒れてしまった。
そこからはずっと、父と同様に寝込んでいる。父はもう治ることのない病だが、兄は心の病とでも言うのだろうか。
日がな一日、窓の外をぼんやりと見つめている。
夜会用のドレスに身を包んだ私はそんな兄の後ろ姿を見て、そっと扉を閉めた。
「お嬢様、馬車の準備ができております」
「ご苦労様。今日で決めてくるから待っていてちょうだい」
「しかし、お嬢様……。そんな無茶をなさらずとも夜会はまだございます」
「いつ兄がこんな状態だと嗅ぎつけられるか分からないわ。親戚がラングトン伯爵位をめぐって騒ぎ出す前に私がさっさといい男を見つけて結婚してしまえば済む話よ。ちょうど良く、私には婚約者もいなかったことだし。あなたにも苦労をかけているわ」
業務量が著しく増えている家令は、緩く首を横に振りながらも疲れからか少し目を伏せた。
「今日は手広く商売をされているアクロイド伯爵家での夜会なのよ? 規模からいってもここで決めるのが一番いいの。私だって無理矢理に従弟と結婚させられるなんて嫌だもの」
金の無心によく来る叔父が兄の状態を知ったら、すぐにうちの財産を食いつぶすために喜び勇んでやって来るだろう。そのために一番手っ取り早いのは従弟と私を結婚させることだ。
父は病で倒れているし、兄は疲れ果てている。外堀を埋められる、あるいは既成事実を作られたらただの伯爵令嬢でしかなく婚約者もいない私が拒否し続けるのは難しい。
金が絡むと人は変わるのだ。
ラングトン伯爵家を守るために、父と兄のこれまでの努力を無駄にしないために。私は今日どうにかしていい男を捕まえないといけない。
初めての夜会でもないのに、体が震えた。
大丈夫。ここで、婿入りしてくれそうな優秀な人を見つけて、契約を持ち掛けて……兄が元気になるまで結婚を継続しておいてもらわないといけない。私も兄の補佐を少ししていたから、婿入りした人物に実権をすべて握られるわけではない。
顔見知りや仲の良い令嬢・ご夫人たちと談笑しながら婿入りしてくれそうで婚約者のいない男性をチェックする。最悪の場合は貴族家とつながりの欲しい商人と縁づいてもいいのだが、平民だと後ろ盾がなく叔父たちがうるさいし付け込まれるだろう。
会場を見回して顔と名前と条件を一致させながら、自分がとても打算的で嫌な女である気分になってきた。
せっかく侍女が頑張ってくれた髪型が崩れない程度に頭を振る。
いいじゃない、貴族なんて打算的なもの。私がしようとしていることなんて政略結婚のちょっと違うバージョンになっただけじゃない。
兄が元気になるまで婿入りして私と一緒にラングトン伯爵家を支えて欲しい。できれば、叔父に対抗できる人がいい。お金は十分に払うし、追い出すことはしない。誰か結婚したい人がいれば離婚後に世話するし、うちの跡継ぎ問題を起こさないなら愛人がいてもいい。
頭の中で反芻するとなんだか余計に自分が非道なことをしようとしているみたいだ。なんて上から目線で偉そうなのか。
平民の愛人がいて家の体裁のために契約結婚する貴族にでもなった気分である。
でも、家のためだ。叔父たちに好き勝手されるわけにはいかない。すでに返してもらっていない借金もかなりあちらにはあるのだし。
これ以上、あいつらに奪われてはいけない。
厳しいが真面目にやっている父は病に倒れて、穏やかで優しい兄は心を病む。どうして真面目に生きているのにこんな仕打ちを受けるのだろうか。
どうして、他人に金をたかるだけのあいつらの方が健康でピンピンして生きているのだろうか。
「よぉ」
そんなことを壁際で考えていたら従弟のロバートに声をかけられた。
気分はこれ以上ないほど悪くなった。
ロバートの見た目は爽やかだが、性格は見た目に比例しない。性格まで爽やかなら、親が借金している家の娘である私にこんなに馴れ馴れしく声をかけないだろう。
「あなたもいたの」
「取引があるからな。それより壁際で辛気臭いな。相手もいないんだろ? 踊ろう」
ダンスに誘うように手を差し出されて吐き気がした。
うちに金を無心しておいて悪びれもせずに着飾って夜会に出てくる。そして慈善事業のように私の相手をしてやるという顔をする。間違いなくこいつが病むべきだろう、兄ではなく。
身の丈に合った生活もできず、他人に尻を拭わせるような人間。
「結構よ、踊る人ならいるもの」
「どこにだよ。内々に婚約が決まっていた相手に逃げられてから婚約者いないくせに。兄妹ともどもな」
「あなただって婚約者はいないじゃない」
「そういえば、お前の兄に会いに行ったけど会わせてもらえないって父さんが騒いでた」
顔には出さないが、背中が冷たくなる。こいつにだけは悟られてはいけない。
「兄は仕事で忙しいのよ、金の無心ばっかりしてるあなたたちと違って」
「俺にはいくらでも相手はいる」
手首を強く握られてロバートが近付いて来た。
「放しなさいよ」
「お前の兄、寝込んでるのか? まさか病気とか?」
顔を近付けてこられてさらなる吐き気がする。
この従弟は何か知っているのだろうか。どこからか情報が洩れてる? それとも単に推測を口にしただけ?
「踊っていただけますか?」
吐き気のする空間に聞きなれない声が割って入った。
明らかに人が好んで近付かない状況の私たちの側にいたのは、襟足の長い黒髪と珍しい赤目の令息だった。
その令息は私に向かって手を差し出している。
素早く記憶を探って、目の前の令息がアンギヌス伯爵家の次男ルシフェールであることを導き出した。
「フレッチャー様、ルイーズ嬢のことはもう諦めて従姉殿に言い寄ることにされたのですか? あれほど足繁く通ってらしたのに」
ルシフェール・アンギヌスは口元に優雅に笑みを浮かべて、従弟にそう言いながら器用に素早く私と彼の手を外した。フレッチャーというのは従弟の家のことを示す。金の無心をしてくるフレッチャー子爵家である。
「ルイーズ嬢も言っていましたよ? 顔はいいのに自慢話は長い、そのくせ早いと」
「な、お前それをどこで……」
くつくつとルシフェールは笑う。従弟は何か言おうとしたが、衆目を集めていることに気付いてさっと逃げて行った。
ルシフェールはさっと私の手を握ると、ダンスホールに連れ出す。
「余計なお世話でしたか?」
「いいえ、助かりました。しかし、ルイーズ嬢とは?」
「彼が懇意にしている娼婦ですよ」
ルシフェール・アンギヌスは飄々としながら、私の手を取ってダンスに誘った。すでに連れ出されているのでホールドを張る。
「どうしてあなたがそんなことを知っているの?」
「私の双子の妹がブラッドフォード公爵令息と婚約しまして。それで色々文句を言いそうな家の情報を集めていたところで偶然の産物です」
「そういえば、そうでしたね。ご婚約おめでとうございます」
そうだった。アンギヌス伯爵令嬢が並み居る強力なライバルたちを押しのけて、見事ブラッドフォード公爵家の嫡男と婚約したのだった。意外な結果に社交界は一時ざわついていた。
彼は嬉しいのか面白いのか、赤い目を細める。蛇か何かにでも見つめられた気がした。
でも、彼はロバートの弱みを知っていて追い払ってくれた人だ。赤い目なんてどうでもいい。
私は彼から視線を外して頷いた。先ほどまで注目を集めていたが、私たちが踊り始めると徐々に視線は剥がれていった。
「助けていただいて大変ありがたいのですが、こうして踊っていたらアンギヌス様の婚約者に睨まれてしまいますね」
「それは私に婚約者がいるのか探っていると捉えていいですか?」
周囲からまた彼に視線を戻す。口元は笑っていたが、赤い目は全く笑っていない。
アンギヌス伯爵家は中堅どころだ。うちと頻繁に取引はなく、しかし競合もしていない。正直、子沢山でない有力な家の令息なら婚約しているかどうかは頭に入っている。ただ、アンギヌス伯爵家の次男は情報として入っていなかった。
でも、彼の妹はブラッドフォード公爵家に嫁ぐのだ。つまり、ブラッドフォード公爵家との縁もついてくるかもしれない。
私はなるべく早く頭の中を回転させる。
私は、美人でもなく大して賢くもない。家は裕福だが、面倒な親戚がいる。父と兄は病気。兄の件はまだ隠せているがそれも時間の問題。
赤い目をまっすぐ見ながら、私は虚勢を張って笑った。
「そうだと言ったら?」
「光栄ですね。私に興味が?」
「さっきから質問ばかりね」
「質問に質問で返しているのはあなたですよ」
きっと彼は頭がいいのだろう。先ほど双子の妹のために情報を集めていたとも言っていたし。親戚であるフレッチャー子爵家の弱みもいくつか握っているかもしれない。今のところいいこと尽くしだ。
それに、彼の顔はかなり整っている。美醜を言える立場ではないが、言っておく。
まだ序盤だが、彼に決めてしまおうか。優秀な伯爵家以上の次男以下なんてそんなにいないのだ。調べて絶望的なくらいに知っている。大体皆問題があるのだ。
「今、私はとても困っているの」
「先ほどではなく?」
「今度はあなたが質問したわね」
「興味の無い女性を助けるほど私はお人好しではないので」
頑張って彼に関する打算で頭を埋めようとするが、正直彼の言葉は嬉しかった。
私はどうやら疲れている様だ。こんなにポンポンと弾む会話を楽しいと感じるなんて。
今、ラングトン伯爵家には重苦しい空気がずっと漂っているから。お世辞でも嬉しかった。
「じゃあ、婚約者はいないのね」
「今からおさえられる婿入り先なんてありませんよ。ずっと兄の補佐ですね」
喉が渇いた。
多分、目の前のアンギヌス伯爵令息は一筋縄ではいかない男だろう。勘違いでなければ空気がずっとヒリヒリしている。もしかすると、このヒリヒリは私の焦りであるだけかもしれない。
従弟に絡まれていたせいで変に注目を集めてしまった。きっとその焦りだろう。そうに違いない。そうでなければ大したダンスでもないのに心臓の音がこれほど速いのも納得がいかないし、何より他の男性に目を向けられる気がしないのだ。
彼の赤い目はずっと私を舐めるかのように降り注いでいる。そんなに見るほど私は面白い女ではない。
「ラングトン嬢は何にお困りなんですか? 先ほどの親戚に付きまとわれていることとか?」
「そうね。それにも困ってるけどそれだけじゃないの」
「あぁ、婚約者がいないことですか?」
「頭が良くて、うちのうるさい親戚に負けなくて、結婚して期限がきたら離婚してもいいと言ってくれる相手がいないか探しているの」
「興味深いですね。詳しく聞きたいです。バルコニーに行きますか?」
耳元で囁かれる。従弟に近付かれたら吐き気がしたのに、彼に距離を詰められたら鳥肌が立つと同時に頭がクラクラした。悪い意味ではない、吐き気もしないし嫌な感じもしない。ただ、自分が追い詰められているような感覚もする。
いい年の令嬢・令息がバルコニーで二人きりになるのは、そういう仲だとウワサされるということだ。
想像して余計に喉が渇いた。夜会ですれ違ったことくらいしかないだろう彼になぜこんなにドキドキするのだろうか。多分、状況の力だろう。
私はただ将来のこととラングトン伯爵家を守れるかどうかという状況で過剰に緊張しているだけだ。空気がきちんと吸えていないだけかもしれない。
ダンスが終わって移動し、給仕から受け取った飲み物を渡してくれる。
喉が先ほどから緊張でカラカラなのですぐにグラスを受け取るが、手が小刻みに震えているのに気付いた。
伯爵家のためだ。
何を日和っているのか。
従弟と結婚させられるなんて絶対に嫌だし、他にいい令息がいるかというと怪しい。目の前の彼はかなりの好条件だ。
打算的になれ。日和らないで。結婚して暴力夫に豹変したとしても、彼はラングトン伯爵家に住むのだ。使用人たちは私の味方であるから、困ったら殺したらいい。それならむしろ公爵家の三男だったり、侯爵家の次男だったりしたら困る。
凡庸な伯爵家の次男である彼はちょうどいい。
そんな恐ろしいことを考えながら震える手でワインを受け取ると、口の中に流し込む。
さっきまくしたてた条件、特に最後の条件を呑んでくれる人などいないだろう。面白がってくれる彼以外には。
「行きましょうか」
ちゃんと覚悟はしてきたのだ。家のために、父と兄のために頑張るんだと。ダメだったら死ぬくらいには。
なぜかずっと目を細めて微笑んでいる彼にエスコートされて、バルコニーに向かった。
バルコニーに出ると、ワインで火照った頬に風が気持ち良かった。まっすぐ手すりまで歩いて彼に背を向けたまま話をする。顔を見ながら話すのは怖かった。自分が酷いことをしている気分になるし、何より彼の赤い目に吸い込まれそうになるから。
「ラングトン伯爵家についてどこまでご存じ?」
「うちとは交流が大してないですが……奥様を亡くされた先代ラングトン伯爵は仕事に打ち込まれそして病気になり、あなたのお兄様に家督を譲った、くらいですかね。堅実で真面目に領地運営をされている貴族だと認識しています」
頷きながら父と兄の努力は認められている気がして涙が出そうになる。
「しかし、親戚は制御できていないようですね。先代ラングトン伯爵の弟はフレッチャー子爵家に婿入りしていますが、そこからの金の無心が絶えないとか」
思わずバルコニーの手すりをぎゅっと握った。その通りだ、父はずっと叔父に甘い顔をし続けてきた。それで舐められている。
「しかし、あなたの並べた条件が大変気になりますね。まるで、自分が伯爵家を継ぐのかあるいは……離婚までして経歴に傷をつけて嫁ぎたい相手が平民にでもいるのか」
手すりを背にして振り返った。彼は意外にも近くに立っていて、見つめ合う形になる。
「離婚前提で私と契約結婚してくれる?」
「いいですよ、面白そうだ。それで、どちらなんですか?」
とんでもない言葉を言ったはずなのに、とんでもなく軽い了承が飛んできた。
なぜ、彼にこんなことを言ってしまったのか。自分の直感を信じたいという気持ちと、信じたくない気持ちが激しく戦っている。
「あなた、頭がおかしいわ」
「面白そうなことには飛びつかないと。それで、伯爵位でも取りにいくんですか?」
「違うわ。兄が心の病なの。治るまで私が伯爵として立とうかと」
「あぁ、婚約解消で揉めておられましたね。そして親戚にも伯爵家で好きにされたくないと。確かにあなたを無理矢理休憩室にでも引っ張り込んで目撃でもさせれば、親戚の方々はラングトン伯爵家の財産を好きにできるのでしょうね。それであとは子供でもできればあなたは毒殺でもされるでしょう」
話が早くて助かる。早すぎる気もするが。
「私の仕事は、お飾りの夫と面倒な親戚の相手と執務の補佐ですか?」
「そうね、親戚の相手は私もするけど……簡潔に言うとそうよ。衣食住は保証するしお金はきちんと払うし、要望があればできる限り叶えるわ」
「まぁ、契約書は追々取り交わすとしましょうか」
「え、えぇ」
なぜこうも相手がノリノリなのか。
私はほぼ初対面の男相手に困惑した。だって、私に都合が良すぎる。
彼は本当に私の条件を不快に思っていないようなのだ。
「おしゃべり好きな子爵夫人が見ていますが、キスでもしておきますか?」
「は……?」
急になんてことを言い出すのだろう、この人は。
「私も自分の貴重な十代二十代の人生を差し出すならあなたの覚悟を見せてほしいので。だって私はあなたにいつかポイ捨てされるかもしれないでしょう? 私を保険として取っておいて、この後でより条件のいい男を見つけるかもしれない」
「それなら、兄の病のことをバラせばいいじゃない」
「それでもあなたが他の男を選んだなら意味がないではないですか。私を選ぶ覚悟を見せてください」
「私は絶対にラングトン伯爵家も財産も親戚に渡したくないの。頑張った父と兄が報われる結果になってほしい。そのためになら命も懸けられる。きっとあなたと離婚するのに三年はかかるわよ」
「私の三年間を奪って、それでも爵位と財産は奪われたくないならば私に与えなければいけません。今すぐに」
この人はおかしい。私に都合がいいはずなのに、なぜか蛇にでも睨まれた気分だ。
ここでキスしたからってどうなるんだろう。兄のウワサが流れても打ち消すほどの力があるのだろうか。
「昔の聖人も言っていたではないですか。右の頬を打つ者に左の頬を向けよと。奪われる恐怖は与えることでしか消せないと思いませんか? 親戚には何も与えずに、私にだけはあなたから与えてください」
なるほど、本当に彼は一筋縄ではいかない人だ。
でも、兄のような穏やかで優しい性格では金の亡者の親戚に対抗できない。爵位と財産を守るには彼みたいな人でないといけない。
彼も私から何かを奪うのだろうか。
親戚を排除したら私から爵位と財産を奪うのか。そうなったら、彼のことは殺す覚悟でいよう。失敗したらどうせ死ぬつもりでいたのだし。
それなら、キスするくらいどうってことはない。
多分、私は重苦しい雰囲気に疲れている。正常な判断と思考ができていないかもしれない。
後から兄が最初に言った通り、逃げれば良かったと思うかも。
彼の首の後ろに手を回す。相変わらず私の手は震えていた。
その震えを知ってか知らずか、ルシフェールは笑う。
「普段の私は、絶対こんなことしないから」
こんな令嬢らしくない、婚約もしていない相手にバルコニーでキスするなんてありえない。それを言えば、初対面に近い相手に契約の結婚を持ち掛けるだけでもあり得ないのだが。
彼を正気ではないと思ったが、この赤い目の彼以外を考えようともしない私も恐らく正気ではない。
「それは光栄だ」
彼は私の腰に手を回して笑った。得体の知れない恐怖と同時にじわりとした期待も湧き上がってくる。
自分からキスしているはずなのに、彼に絡めとられている気がした。
***
双子を妊娠した母はきまぐれに占い師に占ってもらったらしい。
「蛇を宿したような双子が生まれるでしょう」
占い師はそんな訳の分からないことを言ったらしい。信じる方がどうかしている。幸い、見た目は蛇ではなかったので母は安堵していた。
「ルシフェールお兄様、どなたか良い方はいそう?」
隣で可憐に微笑む双子の妹アイリーンを見て、占い師はイカれていなかったのだと今更ながらに分かった。
私と同じ黒髪赤目の可憐な妹。虫も殺さないような可愛らしい容姿だが、腹の中には真っ黒な蛇を何匹も飼っていた。
意地悪してきた家庭教師、からかってきた令嬢・令息たちにネチネチと幼い頃からやり返す妹を見て、蛇のような女だなとは思っていた。
そして妹がブラッドフォード公爵家の嫡男を見た後から、それはさらに顕著になった。
「私、ブラッドフォード公爵夫人になるわ」
とうとう妹がイカれたと思ったものだ。相手は王太子妃を輩出する公爵家。大して旨味のないアンギヌス伯爵家と縁を結ぶ必要もない家なのだ。
そもそも選ばれるわけがない。
しかし、妹アイリーンの執念・執着は凄かった。一番大切にしていたクマのぬいぐるみを家庭教師に取り上げられた時以上の執念を感じた。
ブラッドフォード公爵令息の好みを調べ上げ、偶然を装って行く先々で出会って意識させる。さらに、現ブラッドフォード公爵夫人の好みのリサーチも忘れない。夫人の好きな詩のサロンに参加して近付きつつ、他のライバルたちを情報戦で蹴落としていた。しかも笑顔で。
ふたを開ければアイリーンの一人勝ちだ。妹ながら、なんと恐ろしい。
「だって、彼は私のものだもの。彼は私と結婚する運命だったの。他の女がでしゃばってくる時点であり得ないわ」
あの当時は妹の言っている意味が全く分からなかった。なんて上から目線で偉そうな、と思ったものだ。
正直運命だろうとなかろうと、通り過ぎていきそうになったものを無理矢理引っ掴んで牙で刺して麻痺させてぐるぐる巻きにして自分のものにしたようにも見えたからだ。
それを運命と言っていいのなら、おとぎ話も真っ青である。
だが、私にも妹の言っている意味が分かる瞬間が来た。
ブラッドフォード公爵家の嫡男が風邪をひいて出られなくなったため、妹をエスコートして参加したアクロイド伯爵家の夜会での出来事だ。ある令嬢から目が離せなくなった。酷いドレスを着ているとか娼婦のような格好だとか、そういう意味ではない。
ストロベリーブロンドの結い上げた髪に華美でも何でもない無難な紫のドレス。夜会を楽しむというよりは何か思いつめて戦争にでも行きそうな青い目と表情。
「あの方はエスペランサ・ラングトン伯爵令嬢よ、お兄様」
妹が私の視線に気づいてニヤニヤしながら教えてくれる。
「ラングトン伯爵家には嫡男がいらっしゃるわね。確かノヴァク・ラングトン様よ。でも、婚約解消されたの。相手の浮気で。それなのにあの侯爵令嬢はみっともなく縋ったのだそうよ、それで婚約解消まで長引いたの。エスペランサ嬢は茶会でも何ででもそんなお兄様をよく庇ってらしたそうよ。気が強くて家族思いなご令嬢」
どこから仕入れてきたのか、妹アイリーンは立て板に水のごとく情報を垂れ流す。
「あの方がお兄様の運命? あの方、婚約者はいらっしゃらないわよ。確か内々に決まっていた婚約があったけれど、お相手が駆け落ち未遂か何かしてダメになったんじゃないかしら」
妹の垂れ流してくれる情報は全て私に都合のいいものだった。
妹の言っていた意味がやっと分かった。なぜか、体の細胞で感じる。彼女は私のものだと。
「あ、お兄様。あの従弟には気を付けて。ずっとラングトン伯爵家に金の無心をしているフレッチャー子爵家よ。どうもラングトン伯爵は身内に甘いみたいね」
彼女から視線を外さない私を見て、くすりと妹が笑う気配がする。
「ねぇ、お兄様。私の気持ち分かったでしょ?」
「お前もこんな感覚だったのか」
「そうよ。体の血が熱くなって、体の細胞全部が相手に向いている感覚。ね、分かるでしょ? あの令嬢はもともとお兄様のものなの。他の令息が近付くなんて身の程知らずであり得ないんじゃなくって? お兄様のものに無遠慮に手を出しているのよ? ほら、あの腕くらい切り落としてしかるべきだわ。なんて図々しい」
「そうだな。その通りだな」
体の中の熱い感覚。妹に言語化されるとその通りである気がしてくる。
なぜ、彼女の隣にいるのが自分ではないのか。なぜあんな奴に馴れ馴れしくされているのか。そこは、私の席だ。
「きっと、これが占い師の言った蛇なんでしょうね。さぁさぁ、お兄様。今すぐ行って未来の素敵なお義姉さまを捕まえて来てくださいな」
妹の言葉が終わるか終わらないかの時点で、私はすでに歩き始めていた。
ロバート・フレッチャーの弱みをちらつかせて引き離してから、彼女をダンスホールに連れ出す。
妹は数多のライバル令嬢を執念で蹴散らしまくった。
自分もああなるのかと思ったが、契約の話を聞いてあまりの都合の良さに耳を疑った。
ノヴァク・ラングトン伯爵が婚約のことで揉めていたのは知っていたが、心を病んでいたとは。
婿入りしようと狙っていたわけではないし、神を信じているわけではないがもしいるのならこの方向で合っていると言われている気がする。
なぜ、これほどまでに障害物がないのか。都合が良すぎる。
心を病んだラングトン伯爵が回復する可能性は未知数。王都よりも自然の多い場所で療養する方がいいだろう。
別に爵位や金はどうでもいい。契約結婚でも何でも彼女が欲しい。彼女は契約で兄が回復したら爵位をまた譲って離婚するつもりだろうが、そんなことはどうとでもなる。
あの親戚を蹴散らすなんて簡単だ。妹だって幼い頃からやっていたのだから。というか、今回の妹の婚約でこき使われた分、こき使わないと。
これが私の中にいる蛇か。
妹にしか感じたことがなかったが、私は初めて自分の中に蛇を感じた。
エスペランサ・ラングトンだけは絶対に何をしてでも手に入れるという執念。見ていたのは妹じゃない、私の中の蛇を妹に映していたのだ。
バルコニーでキスしていれば、明日にはほとんどの家にウワサが回るだろう。そうすれば、彼女との婚約を考える家はなくなる。それでもうるさく言ってくる奴がいたら集めた弱みで潰せばいい。
妹はライバルが多かったから大変だった。私は最短距離を狙うことにする。
ライバルを蹴落とすのも結婚するのも簡単だった。
婚約期間をさほど置かずに結婚して一緒に住み始め、ラングトン伯爵家の使用人が親戚に情報を流していたので捕まえたが、それがエスペランサの乳母的存在の古参の使用人だったため彼女がさらに傷つく結果にはなった。エスペランサが父を亡くしたばかりだったということもある。
私にとっての義父は、エスペランサとの結婚を見届けて安心でもしたのかすぐに亡くなっていた。
傷ついてはいたが、それでも彼女はラングトン伯爵家のためだとまた立ち上がって執務をこなしていた。
結局、フレッチャー子爵家はラングトン伯爵の遺書を偽造しようとしたことで犯罪者にしておいた。印章を盗もうとしていたから同じことだ。腕は切り落とさなかった、労役ができないからだ。
ノヴァク・ラングトンは領地にて療養。
少しずつ良くはなっているものの、伯爵として立つのは無理だと本人が言ったため補佐として領地で緩やかに働いてもらっている。
ノヴァク・ラングトンは遅れに遅れた結婚の挨拶をした私を見て穏やかに笑った。
「エリーは、ちゃんと守ってくれる男を選んだんだね。本人が分かっていればいいけど」
私は穏やかに微笑むノヴァク・ラングトンに牙をむくことはないとこの瞬間に感じた。
しかし、結婚して親戚を排除しても爵位が盤石になっても私がエスペランサ・ラングトンの心を手に入れるのはかなり骨を折ることになる。
ブラッドフォード公爵夫人となった妹には「お兄様、いつもクールぶっているのに必死過ぎ。三年がタイムリミットだから?」なんてからかわれたほど必死だった。
家と家族のために命まで懸ける覚悟の彼女の心を手に入れるのは本当に大変だった。彼女からの愛のために私は命を懸けられるのに。
でも、私はずっと感覚で知っていた。彼女は私のものなのだと。
「奪われたくないなら、与えないといけませんよ」
三年が経つという日の前日に、私は彼女の手にキスをしながら勝負に出る羽目になった。彼女から「愛している」という言葉を結婚してから一度ももらっていない。
彼女の青い目には、最初に会った時とは違う感情が浮かんでいた。あの日の夜会の時は怯えと恐怖と覚悟。今は、一体何だろうか。
彼女の全てが欲しい。
だって、私の中の蛇は彼女にすべて捧げたのだから。
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