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みち(上)

作者: ジョー

 四国の右下・徳島県‐旧阿波の国。鳴門の渦潮や祖谷のかずら橋などの観光名所、阿波踊りや藍染めといった伝統文化、徳島ラーメンや鳴門鯛、鳴門金時といった名物グルメなど、魅力的な要素は数多くある。しかし一方で、全国都道府県魅力度ランキングでは、毎年下位に低迷している。確かに、糖尿病罹患率は長年全国ワースト一位であり、全国で唯一、電車の走ってない都道府県(徳島では汽車と呼ばれる)であり、県外の人間には冷笑されることもある。東京の友人に「徳島に来るときは海を渡るからパスポートが要るよ」と言うと、十人に一人は「マジで?」と本気で驚き、更新時期の確認をする奴もいる。定番のボケをかました僕としては、ナイスなリアクションに感謝だが、日本の将来が思いやられる。

 僕の住む町の名は「応神町」。自宅から徒歩五分の距離に、JRの最寄り駅「吉成駅」がある。ターミナル駅である徳島駅を出た高徳線の列車が、次の佐古駅で徳島線と分岐し北へと方向を変え、吉野川を渡って最初に到着する駅だ。支流の今切川との間の沖積地に位置する。駅周辺は住宅地で、道路は入り組んでおり、駅前も駐車スペースの無い小さな駅だ。2019年には、簡易小型ユニット駅舎に変わってしまったが、近くに高校があるため、利用客は多い。肥沃な土地と豊かな地下水に恵まれ、かつては阿波藍産地の中心地帯だったが、現在は多くの工場が建ち並んでいる。県道二十九号徳島環状線を西へ向かうと大型ショッピングモール施設が集まる郊外型の商業地帯になり、県内では賑やかな地域と言える。

1989年7月3日、僕はこの世に誕生した。昭和が終わり、平成が始まった。バブルがはじけ、崩壊した。そんな時代の狭間に生まれた。尾田栄一郎先生風に格好良く言えば「最悪の世代」なのだが、僕たちは世間的に「ゆとり世代」と呼ばれている。現実の日本がいかに平和なのかが分かる。

名前は「太朗」。

お察しの通り、長男である。

 姓は「山田」。

もちろん芸名などではない。日本人のお手本のようなフルネームだ。唯一の救いは、記入例などでよく見られる「太郎」とは「ろう」の漢字が異なること。ちなみに、1年半後に産まれた弟の名は「次朗」・・・ではない。これも僕が持っている数少ないボケの1つだ。

後で聞いた話だが、どうやら父親が長男にはどうしても「タロウ」と名付けたかったらしい。桃太郎、浦島太郎、金太郎、ウルトラマンタロウ。正義のヒーローは皆「タロウ」だから、という非常にシンプルで分かりやすい、そして安易な由来である。

幼稚園の頃は、この名前のせいで随分と馬鹿にされたものだ。当然自分の名前が嫌いだったが、歳を重ねるごとにこの名前が好きになっていった。覚えてもらいやすいからだ。周囲の人間は大抵、僕のことを苗字ではなく名前で呼んでくれる。これはとても嬉しい事であり、誇りでもある。

ここで余談を1つ。僕がこの名前を手に入れるにあたって、母親が自らの名前を変えてくれたそうだ。結婚による姓の変更ではなく。どうやら、旧の名前だと画数的に相性が良くなかったらしい。法律的にそんな事が可能なのかどうかは不明だが、とにかく母親の偉大な愛情を受けて名付けられた。

 これは、そんな僕の物語だ。



「おまえ、だれな!」

それが、僕とリキの出会いだった。あれは、日差しの強い、夏の晴れた日だった。その日僕は隣町の柔道場にいた。6歳年上の従兄が通っており、当時身体の大きかった僕は、伯母(通称:ちーこおばちゃん)に誘われて見学に行ったのだ。最初は伯母と並んで練習を見ていたが、突然伯母が「買い物に行ってくる」と言い、去ってしまった。5歳の少年を一人残して、である。何とも酷い話ではあるが、伯母はそういう人なのだ。思い立ったらすぐ行動、そしてマイペース。父方の祖母もそういう人だったから、遺伝というか、そういう家系なのだろう。ということは、僕もそういう人間になるのか?

 とにかく、年上の怖そうな人ばかり(実際はそうではないが、当時の僕にはそう感じられた)の中に、僕はポツンと取り残されてしまった。完全アウェー、不安は最高潮。これでもかというぐらいの大きな声で、僕は泣き喚いた。見かねた師範の先生が優しく声を掛けてくれたが、何を言われても僕の耳には届かなかった。

先生が、「やれやれどうしたものか」と困り果てた頃、伯母が帰って来た。ピンチに駆けつけたヒーローの登場に、僕は安堵し、その安心感からさらに大きな泣き声を上げた。      

しかし、そもそもこのピンチを作り出したのは伯母である。獅子は我が子を育てるのに谷に突き落とすらしいが、伯母もそんな心境だったのか。いやいや、あの伯母に限ってそんな深い考えは持ち合わせてはいないだろう。とにかく僕は、あの時の伯母の満面の笑みを一生忘れない。(良い意味でも悪い意味でも)

 ようやく僕が泣き止んだ、そんな時にリキは僕に声を掛けてきた。僕よりもかなり小柄だが、色黒でいかにもヤンチャそうな少年だった。そんなリキが、ニヤニヤと笑いながら僕の所に近づいてきたのだ。

「おまえ、だれな!」

「・・・・・」

「何しにきたんな!」

「・・・柔道見に来た」

「柔道って知っとんか!」

「いや、初めて見た」

「歳なんぼな!」

「5歳」

「オレとおんなじでないか!」

同い年の割には、かなり上から物を言ってくる奴だ。だが、不思議と悪い感じはしなかった。

「さっき、なんで泣っきょったんな!」

「一人で怖かったけん」

恥ずかしかったが、正直に答えた。

「幼稚園生は他におらんけん、オレが教えたるわ!」

意外と良い奴だ。と、思った瞬間リキは踵を返して走り去ってしまった。そのせいでそれ以上話をすることはなかったが、その短時間でリキは僕に強烈な印象を与えていった。

 帰りの車中で伯母が

「柔道どうやった?」

と聞いてきたので、

「大きい人ばっかりで怖かった」

と答えた。それまでの僕の生活は自宅と幼稚園との往復だけで、自分より身体の大きい子供を見ることはほとんど無かった。免疫が無いのも当然である。

「でも、友達もできたみたいで良かったでぇ」

「うん、まぁ・・・」

「来週から通ってみる?」

「・・・もうちょっと考える」

口ではそう答えつつも、内心はワクワクしていた。柔道がしたい、と思ったわけではない。ここに来れば、またリキに会える。そんな考えが頭を埋め尽くしていた。そう言えば、ドカベンの大打者「山田太郎」も、野球に興じる前は中学で柔道をやっていたんだっけ。

「ほな、行く気になったらいつでも言うてな」

「分かった」

すると、横で話を聞いていた従兄が

「えー、ほなこれから毎日来るんか?泣きまわるけん、今日メッチャ恥ずかしかったわ!」

「ほなって、ちーこおばちゃんがどっか行ってしもうたけん」

僕の言い訳も間違ってはいないが、確かに従兄の意見も分かる。もし僕が従兄の立場なら、きっと同じ事を言うだろう。

「ごめんごめん。太朗と来とるん忘れとったんよ」

なんて酷い人だ。物忘れにも程がある。いや、この場合は人忘れ、とでも言うのだろうか。

「まぁでも、これから柔道習うようになったら強うなって泣かんでエエようになるわ」

「ちゃんと続けれたらエエけどな」

従兄はそう言いながら、僕に恥をかかされた仕返しに制裁を加えてきた。左右のこめかみに握りこぶしをグリグリ押し付ける―アイアンクローである。これが本当に痛いのだ。しかも従兄は力が強く、威力も倍増。その日二度目の大号泣。あんなに泣いたのに、まだ涙が残っていたのか。人体とは不思議なものだ。

 その翌日、僕は父親経由で、道場に通う旨を伯母に伝えてもらった。両親は、従兄が柔道している姿を知っているので、僕が柔道を習うことを喜んでくれた。その週の土曜日、父は早速、僕を連れて柔道着を買いにスポーツショップへ向かった。しかし、野球やサッカーとは違い、それほど競技人口が多くないので、置いてある関連商品が少ない。普通ならカタログを見て気に入ったものを取り寄せることになるのだが、僕の父はそんな事はしない。拘りが強く、派手な事が好きで、何よりも負けず嫌いな人だ。

「オーダーメイドって出来ますか?」

店員さんにそう聞いたのだ。そこから、首回り、肩幅、胴回り、脚長などの採寸が行われた。柔道着のランクもその当時最上級の「優勝」ブランドをチョイス。

「どうせだったら、一番エエ道着にしよう。ほの方が早よ強うなるわ」

理屈の筋道はまるで通っていないが、気持ちは分かる。もちろん5歳の僕に、プレッシャーや遠慮はあるはずもなく、ただ純粋に新しい道着を買ってもらえる事が嬉しかった。

 2日後の月曜日から、僕の柔道場通いが始まった。藍住真導スポーツ少年団。それが僕が所属するチームの名前だった。場所は藍住町立武道館。僕の住む応神町の隣町にある柔道場で、車で片道15分ほど。練習日は月曜日から土曜日までの週6日で、時間は午後6時から8時までの2時間。小学生でこれ程練習するスポーツチームも珍しいが、無理もない。実はこの藍住真導、県下トップの柔道チームだったのだ。団体戦では当然優勝、個人戦でも表彰台を藍住真導の選手が独占することが頻繁にあった。

さぞかし練習もハードなものが待ち受けているのかと思いきや、非常に和気藹々とした雰囲気だ。確かに道場内に掲げられている団旗にも「スポーツは、いつでも、どこでも、誰でも、楽しく」とある。

練習メニューは、基礎(打ち込みや投げ込み)から始まり徐々に実戦形式のもの(乱取りなど)に移っていくが、やはり小学生に基礎練習は退屈なのだろう、ほとんど遊びながらこなしていく。しかし、乱取り練習になると、皆の目の色が変わる。それもそのはず、一対一のガチンコ勝負なのだ。特に高学年のメンバーは、経験年数の積み重ねによって生まれたプライドが負けず嫌いに拍車を掛けるのだろう。

時には、激しい喧嘩に発展してしまうこともあるが、そこは師範の「やめんか!」の一声と、愛の鞭という名の拳骨によって収まる。(今では体罰として問題視されそうだが、当時はこれぐらいの指導は珍しくなかった)

 当初はその迫力に気圧されて、毎日ビクビクしながら通い、練習が終わるとホッとして、迎えに来てくれる母親の元へダッシュで駆け寄っていたものだ。しかし、徐々に雰囲気に慣れ、少しずつ柔道というものを体感していくうちに、楽しさが上回るようになっていた。

畳の感触も心地良かった。自宅の和室の畳よりも柔らかくて、少し弾力がある。礼儀作法も柔道から学んだ。初めて正座をしたときは、20秒ともたずに足が痺れてしまい、しばらく歩けなかった。初めて教わった投げ技は、確か「体落とし」だ。小学校に入学した頃に覚え、しばらくは僕の必殺技となったものだ。

 そして、僕が柔道を始めるきっかけとなったリキの存在が何よりも大きかった。最初の1ヶ月ぐらいは、練習そっちのけでとにかく二人で道場内を走り回っていた。気温と湿度の高い道場内の暑さも忘れ、外で鳴く蝉の声よりも大きな声で笑った。

 夏が過ぎ、残暑の厳しい9月も下旬を迎えた頃、僕は本格的に柔道を習うことになった。ただ、指導役は師範ではなく、リキだった。仲良しの同い年に教わった方が覚えやすいという師範の狙いがあったのかどうかは定かではないが、とにかくその日からリキのマンツーマン指導は始まった。

リキは意外と熱心に教えてくれた。ただ、その指導に僕の理解は追い付かなかった。

「ここで手をギュッとして、バーンってやるんじゃわ」、「首をクイッとして腹にバーンって力入れるんよ」「ここをこうやって、こうして伸ばす感じじゃ」「おい、ちゃんと見とけよ!ほなけん分からんのじゃわ」

無茶苦茶である。これを理解するのは大人でも難しいだろう。きっとリキの中で、伝えたい事はイメージ出来ているのだろう。ただ、何せまだ5歳の少年である。野性的と言うか感覚的と言うか。あるいは、すでに天才の片鱗を見せていたのだろうか。当然、僕もその説明だけで理解できてはいなかった。でも、不思議と反抗する気は起こらなかった。

「こいつに付いて行けば、きっと面白い事がある」

幼いながらに、僕はそんな気持ちになっていた。

 そんな日が続き、冬が訪れ、新たな年を迎えた。リキのマンツーマン指導から約3ヶ月が経った頃、師範から衝撃の告知を受ける。

「3月の試合にお前ら二人出すけんな。幼稚園の部は無いけん、一年生の部で登録しとくけん」

突っ込みどころが多すぎて、何の感情も湧いてこない。まとも指導をまだ一度も受けていないのに、試合は早過ぎないか。そして、歳上の人達と試合をするのか。

「良かったなぁ。頑張ろうぜ」

リキはやる気満々だったが、実はリキも僕より半年程早く始めたばかりで、僕と同様にまともな指導は受けていないはずだ。にも関わらず、試合に対する気持ちは正反対だった。

 とにもかくにも、僕のデビュー戦が決まってしまった。しかし、さすがに今のままでは試合にならないし、そもそも怪我をしてしまう可能性も高い。ということで、試合の日まで、師範の指導の下、本格的な練習がスタートした。怪我予防と柔軟性向上を目的としたマット運動、寝技での抑え込み方・返し方・逃げ方、立ち技の型の習得など、やる事は盛りだくさんである。リキとの練習は何だったのか、そもそもアレは練習だったのか、甚だ疑問ではある。そんなリキも一緒に指導を受けることになったのだが、リキはセンスがあるのか、何をしても僕より覚えが速い。

「ほんなんも出来んのか」

新しい事を習う度にからかわれたが、一緒に指導を受けられる事は嬉しかった。この頃には、僕の泣き虫も見られなくなっていた。知らないうちに、心も鍛えられていたようだ。

 そしてあっという間に2ヶ月が過ぎ、いよいよ試合当日を迎えた。場所は鳴門武道館。試合会場を取り囲むように二階に観客席が設けられた、県内最大級の武道館である。前日は、緊張であまり寝られなかった。幼稚園の遠足前夜とはまた違う種類の緊張、ワクワクというよりもソワソワして落ち着かない、そんな心境だった。

朝食もあまり喉を通らず、お気に入りのアンパンマンのテーマソングも耳を素通りの状態ではあったが、ウォーミングアップを済ませ、何とか試合に挑む準備が整った。

僕の初戦の相手は、近藤君という鳴門市の柔道教室所属の選手だった。開会式の時にチラッと見かけた顔はとても強そうに見えた。いや、近藤君だけでなく、試合場にいる全員が強そうに見えた。怖い怖い怖い、帰りたい帰りたい帰りたい。元々、臆病で争い事を好まない性格であることを思い出した。試合の結果など最早どうでもよくなり、とにかく早く終わってくれと願うばかりだった。

 そして、試合は始まった。僕の願いは見事に叶うことになる。

「一本!」

審判の大きな声とともに我に返り、気付いたら仰向けで天井を見つめていた。どうやら、見事に投げられたらしい。それも開始早々、電光石火、一撃必殺。まさに秒殺である。何が何だか分からないままに、僕のデビュー戦は終わった。

試合後、師範に

「ごっつい綺麗に投げられたなぁ。ほなけんど、上手に受け身とれたし、怪我せんで良かったわ。今度は勝てるわ」

と、声を掛けられた。

試合前は、あれほど早く帰りたいと思っていたのに、だんだん悔しくなってきた。何も出来なかった。せっかく毎日練習したのに。せっかく技も覚えたのに。

観客席の両親の所に戻って、

「よう頑張ったなぁ。無事に終わって良かった。また頑張ろうな」

と言われ、頭を撫でられた時、久しぶりに大泣きした。柔道を始めてからは鳴りを潜めていた僕の中の泣き虫が、それまでの鬱憤を晴らすかのように涙が止めどなく溢れた。でも、今までの「怖い」「悲しい」「寂しい」といった感情の涙ではなく、初めての「悔し涙」だった。嗚咽に混じらせながら

「次は勝つけん」

と、両親に宣言することもできた。

 こうして、短くも密度の濃い一日が幕を閉じた。ちなみにこの日の結果は、六学年すべて藍住真導が表彰台独占。改めて自分が凄いチームにいるんだと感じたし、普段はふざけながら練習している上級生達も格好良く見えた。僕もいつかこんな風になりたいと心の底から思えた。

そして一番の驚きは、一年生の部で優勝したのが、なんとリキだったのだ。持ち前の運動神経と柔道センスで歳上の選手を投げ飛ばしていった。もちろん試合の後は「一瞬で投げられとったな。ダサー」

と相変わらずの辛口コメントを貰ったのだが、普段と違い、

「緊張しとったんか?練習の時はもっと強いのに」

と、初めて僕をフォローしてくれた。少し僕の事を認めてくれたのだろうか。その一言で、僕は一層勝ちたい意欲が高まり、

「次は俺が優勝する」

と言い返すことができた。

「やれるもんなら、やってみぃ」

こうして僕とリキは、親友でありながらライバルとして柔道人生を歩んでいくことになる・・・はずだった。

 1週間後、リキは引っ越しで徳島を離れることになった。前々から決まっていた事らしい。父親の仕事の都合なので仕方ないが、僕は事実を受け止めきれなかった。リキが居たから柔道に出会えたし、リキと一緒だから柔道が楽しかった。

リキの藍住真導での最後の日。リキはいつもと変わらず楽しそうに、笑いながら練習していたが、僕は全然楽しめないし、笑えなかった。本当は話したい事はいくらでもあるのに、声を掛けることが出来ない。そのもどかしさから無性に腹立たしくさえ思えた。

そして、2時間の練習はあっという間に終了した。普段なら練習後も二人でじゃれ合い、

「早く帰るよ!」

と、お互い母親に叱られていた。でもこの日は当然そんな気分ではなく、一人でしょぼくれて帰ろうとした。その時、

「太朗!」

と、背後からリキの声が耳に届いた。振り返ると、リキがダッシュで近付いて来て、飛び蹴りの真似をした。そして、僕の首に右腕を回しながら、

「俺がおらんようになっても、ちゃんと練習せぇよ。お前弱いんやけん」

「・・・分かっとるわ」

「一緒には練習出来んようになったけど、大きい大会に出たら試合できるかもしれんしな」

「・・・約束ぞ」

「おぅ!何な、太朗、また泣っきょんか」

「泣いてないわ」

でも気付いたら泣いていた。やっぱり僕は泣き虫だ。

 翌日も、僕は練習に向かった。いつもと同じ道場、いつもと同じ時間、いつもと同じ練習メニュー、いつもと同じメンバー。しかし違うところが一つだけ。リキがいない。まるで、たった一片のピースが見つからずに完成しないジグソーパズルのように、中途半端でモヤモヤした気分だ。しかし、大人になった今思う事がある。仲間を残して旅立っていくのと、それを見送るのでは、どちらの方が寂しいのだろうか、と。

それでも、「リキといつか試合をする」という約束を果たすため、今まで以上に一生懸命練習に打ち込んだ。それにしても、道場ってこんなに静かだったっけ。あぁ、そうか。アレは僕とリキの騒ぎ声のせいだったのかもしれない。


 

2001年4月、僕は小学6年生になった。もちろん、まだ柔道は続けている。藍住真導という恵まれた環境のおかげで、これまでの小学生活5年間の県大会において全て「優勝」を収めてきた。リキとの別れの後、練習中にふざける相手を失った事が、幸いしたのかもしれない。そして、経験年数が長いという事もあって、チームの副キャプテンに任命された。あの泣き虫だった少年が、大出世である。チームの6年生が僕を含めて三人しかいないということは、この際忘れておこう。

 キャプテンを任されたのは、直人君。4年生から柔道を始めた、身体の小さな少年だ。しかし、真面目に黙々と練習に取り組む直人君は、めきめきと実力を付け、県大会でも上位入賞を果たす選手になった。まだまだ僕の方が強いけど。とは言え、直人君の成長のおかげで、団体戦でも副将に直人君、大将に僕という盤石の布陣を築き、20連覇中だった県大会の優勝記録を更新することが出来た。

 個人戦でも、当然無敗のまま小学校を卒業するつもりだった。しかし、6年生の一年間、僕は一度も優勝することが出来なかった。

原因は二つ。

一つは、成長期が訪れる早さの違い。同学年の中に、急に身長が伸びたり、骨格が一回り大きくなり隆々とした筋肉を身に付け、まるで「大人」のような選手が何人もいた。それに比べて、僕はポッチャリ体型のままで声変わりも全くしていない、正真正銘の「子供」だ。身体機能の差が、そのまま柔道の実力差に繋がってしまったのだ。

それに伴い、6年生になってから僕の練習態度は不真面目さを増していった。勝てないからヤル気を失くす、という典型的な落ちこぼれパターンだ。これまでは、5歳から始めたその経験値と、「藍住真導」というネームバリューのおかげで、勝利を収める事が出来ていたのだ。

 しかし、それではもう通用しない。基礎体力の向上、攻撃パターンの増加、技の切れ、身体の使い方など、レベルアップを図らなければ勝てない。フィジカル面だけではない。相手の研究やイメージトレーニングといった思考能力も問われてくる。「量」より「質」の練習が必要になる。

実際、日本柔道界全体が、近代化の流れに乗っていた。台頭してきた外国人選手の身体能力、柔道王国・日本を倒すための徹底的な研究など、日本の柔道そのものが危機を迎えていた。だが、そのピンチを乗り越え、日本は再び世界一の柔道強国となる。1996年アトランタ五輪では金メダル3個、続く2000年シドニー五輪では4個だったのに対し、2004年アテネ五輪では8個の金メダルを獲得した。まさに「努力の賜物」だろう。

 しかし、僕にはその「努力」が出来なかった。幼い頃から、「強い」だの「凄い」だのと褒められることしかなかった。何も考えずに組み合えば、簡単に相手を投げることが出来た。しかもまだ小学生なのだ、天狗になるのも無理はない。事実、低学年の頃から、僕が試合会場内の人込みの中を歩くと、自然と通り道ができる事もあった。

そして、僕が試合で勝てなくなったもう一つの原因、それは「好奇心」である。柔道に対する好奇心なら良いのだが、残念ながらそうではない。小学6年生の少年には、柔道以外にも好きな事や物がどんどん増えていく。特に僕の心を鷲掴みにしたものが「サッカー」と「りっちゃん」だ。

 実は3年生の時、学校のサッカークラブに入団した。チーム名は、「応神若虎FC」。元々は、サッカーが好きだったわけではなく、体力作りのためだった。サッカーの練習はいっぱい走る→スタミナが付く→柔道の試合で後半になっても全力で戦える、という見立てで、父親から提案を持ち掛けられた。練習は月曜日、水曜日、金曜日の週3日。午後5時から7時までの2時間。柔道の練習が半分削られてしまうが、クラスメートも数人所属していたので、二つ返事で快諾した。

しかし、始めてみると意外と難しい。ボールを蹴ってゴールに入れるだけと思っていたが、そう単純なものではなかった。走りながらボールを蹴る難しさ、仲間の足元にピタリと収まる正確なパス、相手をかわすフェイント。そして何より、団体競技において最も大切と言える「チームワーク」は柔道にはない要素だったので、最初はかなり戸惑った。ただ、普段から学校で仲良くしている同級生なので、練習を重ねるうちに連携をとることが出来るようになっていった。

 身体が大きかったということで、ポジションはディフェンダー、試合では右サイドバックに入る事が多かった。本当はフォワードで点を取るストライカーが良かったが、同じクラスの良平君と一学年下の隆介君が頭抜けて上手だったので、文句は言えない。試合に出られるだけ良しとしよう。だが、サイドバックというポジションは豊富な運動量が求められる。攻撃時には、オーバーラップしてサイドを駆け上がらなければならないし、守備の際は全速力で相手を追わなければならない。ただでさえ身体が大きくて、足の遅い僕には大変で、一試合終えると立ち上がれない程ヘトヘトになっていた。誰がどう見てもミスマッチで、適材適所の観念から外れている。僕のせいで失点したり、試合に負ける事も度々あった。さすがに凹んで、退団も考えて悩んでいた時に、監督に声を掛けられた。

「キーパーしてみんか」

「キーパー・・・ですか」

「身体も大きいけん守りやすいし、あんまり走らんでエエぞ」

とんでもない。そんな事になれば、点を取られる度に僕の責任になり、ますますチーム内での居心地が悪くなってしまう。

「他にキーパーできる子がおらんのよ。頼むわ」

実を言うと、僕は人の頼みや困っている人に弱い。良く言えば優しく、悪く言えばお人好し。どちらにしても将来、損をしてしまうタイプの人間なのかもしれない。そして何よりも「走らなくて良い」という言葉が、僕の心を打ち抜いた。

「・・・分かりました。やってみます」

「ほうか。ありがとうな」

本来の「いっぱい走って体力を付ける」という目的も忘れ、ゴールキーパーとしての特訓が始まった。

 キーパーの練習は、他のメンバーの練習とは別に行われる。ゴールキーパー専属コーチのマンツーマン指導を受けるのだ。コーチは厳しかったが、個別で特訓を受けているというのが、僕のモチベーションを高めてくれた。その他にも、色の違うユニフォーム、分厚い手袋、手も足も使える、というチームで「唯一の存在」であることが心地良かった。次第に、点を取る事よりもゴールを守る方が格好良いと感じるようになった。自分の後ろには誰もいない、チームの最後の砦となる自分の姿が、ピンチに現れるヒーローと重なり、「俺にピッタリ」と思えた。そして、コーチの特訓のおかげか、僕に才能があったのか、不動の守護神として僕は正ゴールキーパーの座を手にし、サッカーに熱中していくことになる。ちなみに、目立ちたがり屋の父が買ってくれたゴールキーパー用ユニフォームは、当時の日本代表正ゴールキーパーの川口能活モデルだった。

 僕の柔道熱を冷めさせたもう一つの正体は「りっちゃん」だ。小学校入学時から、僕にはずっと仲良しの女子がいた。鈴木梨沙子。皆からは「りっちゃん」と呼ばれていた。りっちゃんとは、6年間同じクラスだった。とは言っても、僕の住む応神町は規模の小さな町で、小学校も30人のクラスが2つだけ。6年間同じクラスになる確率は、64分の1。格段に珍しいわけではないが、それでも仲良しの女子と毎年同じクラスというのは、運命的なものを感じるし、毎日学校に通うのが楽しかった。

 りっちゃんは、学校のミニバスケットボール部に所属していた。バスケの上手・下手は分からないが、走るのは速かった。そしてお転婆な女の子でもあった。からかったり、ちょっかいを出してくる男子に、平気で肩パン(肩にパンチ)をお見舞いする。でもそれは、本気の制裁ではなく、愛嬌のあるツッコミなのだ。その時のりっちゃんの笑顔が、僕は好きだった。何を隠そう、僕もちょっかいを出して、わざと肩パンを喰らう事が何度もあった。決してM体質なわけではない、小学生男子の「あるある」だ。

 我ながらに、二人は結構良い雰囲気だったんじゃないかと思う。家も近かったので、よく一緒に登下校した。親同士も仲が良かったので、時々お互いの家に泊まりに行ったりもした。バレンタインチョコも毎年くれた。修学旅行でもツーショット写真を何枚も撮った。子供ながらに、将来はりっちゃんと結婚するんだろうなぁと思っていた。

 二学期が終わりに近づいた12月のある日の昼休み。僕とりっちゃんは放送室にいた。応神小学校には、生徒に勉強以外にも社会に出て役立つ経験やスキルを身に付けさせるための活動を行っていた。それが「委員会」である。4年生以上は、何かしらの委員会に必ず所属することになる。校内の美化活動を行う美化委員、生徒の体調ケアを行う保健委員などがあり、僕とりっちゃんは放送委員のメンバーだった。放送委員の仕事は、給食の時間と掃除の時間に校内にBGMを流す事と、昼休み終了5分前を知らせるアナウンスをする事。昼休みが少し短くなってしまうのがネックだが、流行りの歌からBGMを選ぶのは面白かった。僕は、浜崎あゆみやモーニング娘。をよく選んでいた。そして何より、りっちゃんと同じ委員会というだけで良かった。

そんな訳で、給食後の放送室にて二人でお喋りを楽しんでいたのだ。その中で、りっちゃんにこんな事を聞かれた。

「たろやんは中学でも柔道するん?」

たろやん―小学校での僕のあだ名。

「うーん、迷っとる。応中って柔道部無いし、今サッカーの方が楽しいし」

応中―地元の応神中学校の略称。

虚を突かれた質問にドキッとしたが、正直に答えたつもりだ。

「メッチャ強いのにもったいないけど、柔道強い学校に転校したりせんの?」

「・・・今のところ考えてない」

僕は気になる女子に素っ気なくしてしまうタイプだ。

「そっか。ほな中学でも一緒やな」

今度は、さっきと別の意味でドキッとした。

特に事情が無ければ、応神小学校の卒業生は、応神中学校に進学する。これまで進路の事はあまり考えてこなかった。いや、考える事から逃げていた。僕にとって、分かれ道が多すぎるからだ。柔道を続けるかどうか。続けるのだとしたら、転校するのかしないのか。

単純な僕なら、迷わず応中に進学するだろう。サッカー部で活躍し、りっちゃんと楽しい青春を謳歌する。明るい未来しかない。にも関わらず、決断できない。

迷っている―何に?

モヤモヤする―何で?

 その日は一人で下校した。一人でこれからの事を考えたかった。しかし、僕の家と小学校の距離は約百メートル。家から学校のチャイムが聞こえる程の近さで、歩いても5分とかからない。真剣な考え事をするには不向きである。

 帰宅後も、部屋に籠って考えを巡らせた。しかし、なかなか考えがまとまらない。何も考えずに済む同級生が羨ましい。両親に相談しても、

「自分の事は自分で決めなさい」

との返答。普段は優しく甘いところがあるのに、こういう時には厳しい。

 結局、結論の出ないまま冬休みに入ってしまった。毎年、年末には藍住真導の餅つき大会が行われる。武道館と同じ敷地内にある宿泊施設を貸し切る大々的なものだ。その隣には、大きなアスレチックや遊具がある「緑の広場」(通称:みどひろ)がある。土曜日の午前中に練習があり、午後から餅つきを行う。忘年会も兼ねているのだろう、大人たちは皆、昼からお酒を飲んで盛り上がる。子供たちも、出来立てのお餅をお腹一杯食べる。砂糖醤油、きな粉、あんこ、おろしポン酢など、バリエーションも豊富で、お腹いっぱいになるまで飽きずに食べられる。その後は、みどひろで鬼ごっこやドロケーをして遊ぶ。走り回って疲れるとお腹が空いてきて、またお餅を食べに行く。小学五年生や六年生というのは、若さと幼さの中間地点なのかもしれない。僕も、普段は小学校が違うので、練習以外で他のメンバーと関わる機会が少なかったので、新鮮で楽しかった。

 しかし、今回が最後の餅つき大会になるのに、僕は「風邪を引いた」と嘘を付いて欠席した。皆と楽しく騒ぐ気分にはどうしてもなれなかった。理由はただ一つ、進路の事だ。

 年が明けて2002年を迎えた。仕事始めの前日、1月3日に祖母の自宅で我が家と伯母一家が集まって新年会が開かれた。伯母には3人の息子がいて、全員柔道をしている。長男の靖将君やっちゃんは地元の徳島刑務所に勤めながら柔道を続けている。次男の章宏君あきちゃんは文武両道・早稲田大学の3年生で、柔道部の次期主将候補らしい。三男の得政君とっちゃんは強豪・中央大学の1年生で、入部当初から団体戦のレギュラーとして活躍している。それもそのはず、とっちゃんは高校三年生の時、インターハイの個人戦で、徳島柔道界初の優勝を果たしたのだ。徳島新聞の一面にも記事が掲載され、僕も結果を聞いた時は、自分の事のように嬉しかった。ちなみに、僕が初めて柔道を見学しに行った帰りの車中で、アイアンクローをかましてきたのは、このとっちゃんである。

 そんなメンバーで開かれる会の話題は、8割が柔道の事である。当然、今年小学校を卒業する僕の今後についても話題に上がった。

「太朗も藍中で柔道するんか」

藍中とは、藍住中学校の略称で、3人の従兄は全員、藍中柔道部のOBである。

「・・・どうしようか迷っとる」

素直に答えると、伯母が

「ウチの子も皆藍中で強くなったけん、太朗君も藍中行ったらもっと強ぉなるよ」

この手の説得は何回も聞いてきた。

「藍中に行けば強くなる」「インターハイチャンピオンの親戚だから才能がある」・・・

本当にそうなのだろうか。僕は素直に、これらの説得に首を縦に振る事が出来なかった。反抗期にはまだ早かったと思うが、これらの言葉を聞く度に、無性に反抗したくなった。性格が歪んでいる?天邪鬼?

 酔った親戚から、説教の一つや二つはあるだろうと覚悟していたが、そんな事態には陥らず、無事に会はお開きとなった。だが、僕の気持ちはまた少し、柔道から離れていた。

 自宅に帰ると、年賀状が届いていた。さすがに、昨日と一昨日に比べると枚数は少ないが、それでも30枚ぐらいはある。ほとんどは父宛てのものだ。父は、自宅で整骨院を営んでいる。柔道整復師会や鍼灸師会にも所属しており、研修や学会に参加することも時々ある。全国規模の組織なので、普段はそれほど付き合いは無いのだが、年に一度の挨拶として年賀状のやり取りは行っているようだ。

そんな父宛ての年賀状の中に、僕宛ての年賀状が紛れていた。きっと年末ギリギリにポストに入れたのだろう。いや、もしかすると元旦に出したかもしれない。差出人は、同じクラスの正志君。なるほど、確かに彼はいい加減な性格だ。そんな所が、僕は好きなんだけど。

 文面を読み終えると、僕宛ての年賀状がもう一枚ある事に気付いた。差出人を確認してみると、思いがけない、懐かしい人の名前が目に飛び込んできた。

―本郷力

僕が柔道を始めるきっかけとなった、あのリキだ。リキが引っ越して以来、母親同士は連絡を取り合っていたようだが、僕がそれを知ったのはずっと後になってからの事だ。引っ越し当時、僕はあまりに寂しくて、リキの話をする事を嫌がり、リキの名前を口にする事すらもなかった。そして、あんなに仲良しの親友だと思っていたのに、次第にその存在は薄まり、いつしか僕の心の中から消えてしまっていた。

 年賀状を手に、しばらくは身体も頭も動かなかった。何も考えられず、目の焦点も合わない。人が本当に驚いた時には、動けなくなるという事を、身を以って学んだ。

 ようやく我に返った僕は、一度深呼吸をし、気持ちを落ち着かせた。そして、改めて年賀状に目を遣る。差出人の住所は、愛媛県となっている。引っ越して行ったあの時も、確か愛媛県に行くと聞いていた。同じ四国の県なので、きっとすぐに会えるはずだと思っていた。だが、大会や遠征で愛媛県に行っても、リキには会えず、大会のプログラムには名前も載っていなかった。なので、もう柔道を辞めているんだと思っていた。しかし、年賀状の裏面は柔道着を着たリキの写真構成となっている。6年という月日の流れを差し引いても、見るからにリキは大人っぽくなり、どこか逞しく見えた。ただ、笑った時に目が細くなり、「ヘの字」のようになる所は変わっていない。

これも後から知った事だが、最初に愛媛県に引っ越した後、1年足らずで何と海を渡って遠いアメリカに引っ越したらしい。そこで、約5年過ごし、年末に再び愛媛県に帰って来たのだ。

あまりのスケールの大きさに、僕の思考は再び停止してしまった。日本の、四国の、徳島の、応神町という小さな町で育った僕には、アメリカという国は知っていても、そこでの暮らしについては想像すら出来なかった。言葉、文化、習慣などあらゆる物が日本とは違うだろう。なのに、これ程までに逞しく成長している。一緒に道場を走り回っていた頃のリキに対する憧れが蘇ってきた。しかも、更に驚く事に、リキは二年生で全米チャンピオンになり、日本に帰国するまでその地位を防衛し続けたのだと書いてある。アメリカの柔道だってレベルは低くないし、そもそも日本と人口が違い過ぎる。その中でチャンピオンになるのだから、僕の県大会5連覇など小さい話である。

 読み進めていくと、最後はこう締め括られていた。

「しばらくは愛媛で生活できそうです。まだ日本一にはなった事がないので、中学では全国制覇を目指します。中学で試合できるのを楽しみにしています。あの日の約束、俺は忘れてないぞ」

 あの日の約束―大きな試合で二人が戦う

忘れていたわけではない。頭の片隅、いや、胸の奥深くにそれは確かに存在した。ただ、小さな箱に入れ、上からそっと蓋をして見えないようにしていた。リキはもう柔道を辞めたんだと一方的に思い込み、諦めていた。

6年生になってからは大会で勝てなくなり、「自分の実力では無理だ」と自信も失った。でも、リキは違う。純粋に柔道が好きで、強くなることに貪欲で、自分の道を、信念を持って突き進んでいる。本当の事は分からない。ただ、そうだと信じている。そうであってほしいと願ってもいる。

 年賀状の最後の一文を読み終えた時、僕の目から涙がこぼれ落ちた。色んな感情が混じった涙だった。約束を覚えてくれていた嬉しさ、約束を諦めていた自分の情けなさ、試合で勝てなくなった悔しさ、自分を見失っていた不甲斐なさ。しかし、この涙のおかげで目が覚めた。気持ちは固まった。

「藍中に行って、柔道を続けよう」




 2002年4月、僕は藍住中学校に入学した。りっちゃんには、三学期の始業式の日に伝えた。怒らせて、ビンタの一発ぐらいは覚悟していたが、りっちゃんは終始穏やかに僕の話を聞いてくれた。そして、

「たろやんがオリンピックに出て活躍するん、楽しみにしとくけん。頑張ってよ」

と、エールを送ってくれた。りっちゃんは、僕が思っている以上に大人だった。急に、自分の小ささが恥ずかしくなった。でも、その直後に、

「中学は藍住でも、今の家から行くんだろ?ほな、どっかですれ違ったりするかもな」

と、無邪気に言うものだから、ホッとして、ちょっと嬉しくなった。

「卒業式まであと2ヶ月あるけん、ようけ思い出作ろうな」

とも言ってくれた。ただ、次の日から卒業式まで、りっちゃんから話し掛けてくる事はなく、当然僕からも以前のように話し掛ける事は出来なかった。

卒業式当日も、二人での記念撮影はせず、卒業アルバムの寄せ書きにもお互いメッセージは書かなかった。寂しさが全くなかったわけではないが、これで良かったと思える自分もいた。形に残るお別れは出来なかったが、始業式の日に貰ったあのエールは、今もまだ僕の胸に刻み込まれている。おそらく、あのエールには「さようなら」の意味も含まれていたのだろう。これからは、お互い別々の道を歩いていく。りっちゃんの、そんな決意表明でもあったのかもしれない。そして、その道は二度と交わらないのだろう。ただ、そのりっちゃんの強い気持ちのおかげで、僕は前を向いて中学生活を送る事が出来るだろう。やはり、この年頃の女子は、圧倒的に男子より大人なのだ。

中学では、予定通り柔道部に入部した。部員数は、3年生1人、2年生5人、1年生3人と少なかったが、県内でも一、二を争う実力校だった。少数精鋭である。しかも、先輩は全員、藍住真導出身で知っている人ばかりで、小学生時代には友達のように遊んだり話したりしていた。学区外から通う僕にも、知り合いがたくさんいて心強く思えた。

 しかし、先輩達は小学生の頃とは雰囲気が違う。部のルールで坊主頭になっただけでなく、気軽に声を掛けられないピリピリしたオーラを纏っている。正直に言うと、怖かった。これが中学生なのだろうか。これが「先輩」というものなのか。

 当然、僕も春休みのうちに、生まれて初めての坊主頭にしていた。五厘刈りのうちは、Tシャツを着る時首に力を入れておかないと毛に引っ掛かって頭を後ろに持っていかれてしまう。

 言葉遣いも変わった。先輩や先生と話す時は敬語。さすがに、野球の名門PL学園のように「1年生は『はい』と『いいえ』しか言えない」といったルールは無かったが、それでも入部当初は、先輩との会話には常に緊張感が漂っていた。

雑用も多かった。「ジュース買ってこい」「柔道着たたんどいて」「腰痛いけん揉んでくれ」・・・

「暇やけん、何かおもろい事やって」という、柔道とは関係のない指令もあった。

 1ヶ月前までは、最上級生として偉そうにできたのに、こんな扱いを受けるようになるなんて。まさに、「天国」から「地獄」である。これが社会の厳しさというヤツなんだろうか。

 競技においても、小学生と中学生では大きく違う。小学生は学年別で戦うのだが、中学生以降は体重別に分かれて戦う。ボクシングの階級分けのようなものだ。これは、体重差の不平等が解消されるというメリットもあるが、入部間もない1年生にとっては上級生と戦う恐怖心の方が勝ってしまう。しかも、中学3年生と1年生とでは、たとえ体重の数値的には同じでも、筋肉量や骨格の頑丈さなど、中身はまるで異なる。まさに大人と子供だ。

 そして、僕を最も恐怖に陥れたのが、中学生からルール適用される「絞め技」だ。

その名の通り、相手の首を絞めるという何ともシンプルで、かつ、恐ろしい技である。もちろん、気道を塞いで呼吸を奪う目的の「絞め」ではなく、頸動脈を圧迫して気絶させる(柔道界では「落とす」と言われている)目的の絞めである。それでも・・・だ。

練習では、絞め方も教わるが、絞められて苦しさが限界に達した時の対処法として、「まいった」の意思表示方法も教わる。自分の掌で相手をトントンと叩く(タップする)、もしくは畳をタップする。しかし、先輩達は鬼のような人ばかりで、練習でタップしようものなら「根性無し」と罵声を浴びせられる。「落ちるんも練習じゃ」と訳の分からない理屈を付けて、タップしても離してくれない事もあった。実際、僕は何度も練習中に落とされた。本当かどうかは分からないが、落ちやすい人と落ちにくい人がいるらしく、僕は運悪く前者のようだった。しかも、落ちる回数が増えていくほど、落ちるまでの時間が短くなってしまう。つまり、さらに落ちやすくなってしまうのだ。こんな残酷な負のスパイラルは無い。

ただ、絞められている最中は確かに苦しいのだが、落ちる瞬間にはフッと身体が軽くなり、力が抜けて気持ち良く感じるのだ。(決して僕にM気質があるわけではなく、経験者は皆そう語る)

コンプライアンスが厳しい令和時代なら、マスコミが取り上げる教育問題になりそうだが、当時はこれぐらいの理不尽さは当たり前だった。(他の中学の柔道部は知らないが)

 そんな厳しい環境で、僕の中学柔道生活は始まった。最初は本当に辛くて苦しくて、くじけそうになった。心は何度も折れかけた。でも、ここで辞めてしまったら、転校した意味が無くなってしまう。その思いを胸に、自分を奮い立たせた。帰る方向が一緒で、よく一緒に帰っていた藤田先輩に借りたモンパチの『小さな恋のうた』もよく聞いて力を貰った。大人になった今でもよく聞くし、カラオケでも十八番になっている。世間的には恋愛ソングらしいが、僕にとっては紛れもない応援ソングである。そして何より、中学ではリキとの約束を果たしてやる、その気持ちが僕を支えていた。

 学校生活でも、試練の連続だった。まず、転校生の僕には柔道部以外に知り合いがいない。藍住町には、4つの小学校がある。藍住北小学校、藍住東小学校、藍住西小学校、藍住南小学校。そのうちの2つ、西小学校と南小学校の生徒が藍住中学校に進学する。つまり、半分以上の同級生は顔見知りというわけだ。唯一、藍住真導で一緒だった直人君と同じクラスになる事を祈っていたが、別々になってしまった。

入学式から2週間ぐらいは、親しく話せる相手がおらず、孤独だった。だが、担任の吉岡先生は僕が転校生である事を気に掛けてくれ、優しく接してくれた。そして僕が柔道部だと知ると、ますます僕を応援してくれるようになった。何と、吉岡先生は従兄のとっちゃんの元担任で、当時の柔道部顧問でもあったのだ。僕ととっちゃんが親戚だと伝えると、更に距離が縮まった。授業中でも苗字ではなく「太朗」と呼んでくれ、僕の事をよく話題に挙げてくれた。そのおかげもあって、少しずつ僕に話し掛けてくれるクラスメイトが増えてきた。柔道部員という珍しい存在だった事も、皆の興味を惹く要因になったかもしれない。地獄の柔道部も、少しは役に立つ。

 勉強も大変だった。算数が数学に変わり、さらに英語が教科に加わった。レベルの高い学習塾に通っていた(正確には、親に通わされていた)ので、何とか授業の内容は理解出来ていたが、柔道との両立はハードだった。柔道の練習が午後3時から6時、月曜日、水曜日、金曜日は午後7時から10時まで塾で勉強。学校で行われるテストの点数や順位にもうるさくて、成績が悪いと厳しく指導された。とにかく怒られる事が嫌で、必死に勉強した。動機は情けないが、結果的には常に学年5位以内をキープする事が出来た。今振り返ると、よくあんなに体力があったなぁと思う。

 そんな山あり谷ありの学校生活に、楽しい事が無かったわけではない。

 厳しい柔道部の練習のおかげで、身体能力は小学校時代と比べて段違いに伸びた。ポッチャリ体型だった僕の身体が引き締まり、50メートル走のタイムは9秒台から7秒台まで縮まった。体力測定の握力とソフトボール投げもクラストップの記録をたたき出した。

「毎日どんなトレーニングしよん?」

「走っとる時の呼吸の仕方教えて」

といった感じで、運動が好きなクラスメイトが話し掛けてくれるようになった。次第に、他の運動部との交流が広がっていった。特に、サッカー部の連中はヤンチャな奴が多くて、彼らとの付き合いは僕の中学生活に刺激を与える事になるのだが、それはもう少し先の話。

 身体能力が上がると、体育の授業でも見せ場が増えてくる。ソフトボール、バスケットボール、サッカーなどの球技だけでなく、跳び箱や鉄棒も得意になっていた。

そして、スポーツが得意だと女子にモテる。これは、古今東西、変わらないのだろう。9月に行われた体育祭の後、人生で初めての出来事が起きた。

塾の帰り道、サッカー部の翔平君に声を掛けられた。

「太朗って彼女おるん?」

突然の話題に驚いたが、正直に

「おらんよ」

と答えた。

「好きな人は?」

りっちゃんの顔が一瞬、頭の中に浮かんだ。

別々の中学に進学したとは言え、ここから初恋の女子への想いが再燃するとドラマチックな展開になる。何より、「一途な男」として、僕の株が上がるところだが、現実は甘くない。と言うか、僕はそれほど出来た人間ではない。

「好きな人もおらんなぁ」

あっさりと、過去を振り切っていた。

「1組の村田って知っとる?」

「・・・名前は聞いた事あるけど」

少し嘘をついた。本当はもうチョット詳しく知っている。名前は美沙。西小学校の出身で、小学校では一番人気があった女子。同じ西小学校出身の直人君から聞いた情報だ。もちろん、この中学校でも一番可愛いと評判で、実は僕もそう思っていた。女子の中では背が高く、不良っぽいグループに入っているが大人しそうで、色白でロングヘア―がよく似合う女の子だ。

その村田さんがどうしたのだろうかと訝しんでいたら、翔平君は、

「太朗と付き合いたいらしいんやけど、メアド教えても良い?」

今では、DMとやらで、直接気になる異性にメッセージを送るという出会い方が増えているようだが、当時は共通の友人を介して連絡先を交換するという方法が珍しくなかった。  

同級生で、携帯電話を持っている子は少なかったが、僕は通学距離が長い事と、塾からの帰りが遅くなる事を理由に、両親が所持を許してくれた。そして、村田さんも携帯電話を持っているのはラッキーだった。最初は直接顔を見て話すより、メールの方が緊張せずに済むので有難い。

間接的ではあっても、僕にとってはまさに青天の霹靂だった。

学年で一番可愛いと噂の女子が僕に好意がある?

にわかには信じられなかったが、それでも嬉しさの方が上回り、翔平君に「OK」の返事をした。

 翌日、早速村田さんからメールが届いた。

<1組の村田です。翔平君にメアド教えてもらってメールしました。登録おねがいします。>

実際には、もっと可愛らしい絵文字や顔文字が使われていたが、もう忘れてしまった。

<登録しました。あんまり話した事ないけど、これからよろしくお願いします。>

僕も村田さんに合わせて、頑張って普段使わない絵文字や顔文字を多用して返信した。ぎこちないやり取りではあったものの、こうして僕の人生初の彼女・村田美沙さんとの男女の付き合いが始まった。

 最初の頃は、全てが新鮮で楽しかった。毎日がバラ色だった。シャイな僕は、顔を見合わせて話すよりも、メールでのやり取りの方が楽しかった。携帯電話を持ち始めて半年、尚更である。すぐに返信があると嬉しくなり、なかなか来ないと不安にある。分かりやすい性格なのだ。そんな時は、何度も何度もセンター問い合わせをする。空振りも多いが、稀に、センターに留まっていたメールが届けられる。「ヨシッ」と心の中でガッツポーズを作り、いざメールを開いてみる・・・

送信元:母

「おかんかよ」と、今度は声に出してつっこむ。間の悪い人だ。

美沙は優しい女の子でもある。僕が部活や塾のせいで二人の時間をなかなか作れないので、柔道部のマネージャーになる事を申し出てくれた。部内での実力はまだ下位で、練習中も投げられる事が多く恥ずかしかったが、それでも、「格好良いところを見せたい」という意欲が湧いてきて、キツい練習にも取り組めた。塾の無い日は、部活の後二人で一緒に帰った。ミートショップ・サカモトでフライドポテトを買って、二人で一本ずつ交互に食べた。ジェラート・ファーレで好きなフレーバーのアイスを買って半分ずつ食べた。男友達ともよく行くお店だが、美沙と行く時の味は格別美味しかった。

中学校を挟んで、僕と美沙の家は正反対の方向にあったので、美沙の家まで行くと、かなりの遠回りになるが、そんな事は気にならなかった。ヘルメット着用がルールだったが、美沙の前では不良ぶって被らなかった。時々、二人乗りもした。ミサは、結構スカートが短かったので、裾から覗かせる太ももが目に入る度に、ドキドキした。

生まれて初めてのデートもした。11月下旬、秋の過ごしやすさが薄れ、本格的な寒さが増してきた頃だった。隣町の北島町にあるショッピングモールに映画を観に行った。カップルがどんな映画を観るのか分からなかったので、当時社会現象を巻き起こす程の人気があった『ハリーポッターと賢者の石』を観た。自分のセンスの無さに呆れてしまう。オシャレな服装も分からず、休日の部活に着ていくウィンドブレーカーで出掛けた。ただ、僕にとっては映画のタイトルなど、どうでも良かった。ハリーポッターの内容もほとんど記憶に残っていない。ただ、美沙と同じ空間にいて、同じ時間を過ごせるだけで満足だった。

僕は本当に幸せ・・・だった。

年が明けて2003年。その頃から、僕と一緒にいる時の美沙の表情が気になり始めた。あまり楽しそうに見えない。元々、無口で大人しい女の子だったが、それでも僕の話にリアクションをとり、たくさん笑ってくれていたのだ。

 その笑顔が、あまり見られなくなった。

「どしたん?」

と聞いても、

「何でもない」

としか答えない。その言葉を百%信じていたわけではなかったが、僕にはそれ以上の事は出来なかった。

 そして、2月14日のバレンタインデーを目前に控えたある日、僕たちのキューピット役だった翔平君から、

「村田が別れたいんやって」

と告げられた。最近の様子から予感はあったし、覚悟もしていた。当然、柔道部のマネージャーも辞めてしまった。

「せっかくの女子マネが辞めてもうたでないか」

と、僕を責める先輩もいれば、

「お前には高嶺の花だったんじゃわ」

と、からかってくる先輩もいた。ただ、僕たちの関係は共通の友人の仲介で始まり、仲介で終わった。その事が、無性に切なかった。

 別れの原因ははっきりとは分からない。決定的な出来事があったわけではないが、その分、「これかもしれない」と思い当たる節はいくつもあった。

 僕はショックで高熱を出し、3日間寝込んだ。ドラマや漫画に登場する女性は、いつ連すると髪をバッサリ切ることで、気持ちを切り替えるみたいだが、僕はすでに坊主なので、同じ方法は通用しない。そもそも、まだ13歳の僕たちに一人前の恋愛など早過ぎる。少なくとも、僕は幼かった。相手の事を知ろうとせず、相手の事を慮る思いやりも持ち合わせていなかった。そこにあったのは己の欲と、恋愛に対する憧れだけだった。

 発熱から3日目の夜、ようやく食欲が湧いてきた僕は、自分の部屋から出てリビングに向かった。久しぶりに家族と一緒に晩御飯を食べながら、何気なくテレビを付けると、地方版NHKでドキュメンタリー番組をやっていた。取り上げられていたのは、リキだった。

リキは、1年生ながら愛媛県大会で優勝し、全国中学校体育大会(全中)でベスト8という成績を残していた。その結果に地元メディアが盛り上がって、「地方から世界へ羽ばたく期待の若者」という事で紹介されていた。

練習の様子だけでなく、自宅や学校での生活も放送されていたのだが、僕が一番印象に残っているのは、どの場面でも笑っているリキの姿だった。練習量は凄まじかった。走り込みや筋トレなどの朝練を2時間、基礎練習を中心とした放課後の部活を2時間。その後、地元の松山大学柔道部での学生や社会人選手が集まる合同練習会に参加して、実戦形式の練習を2時間。とても中学1年生の練習スケジュールとは思えない。

 そんなハードな生活を送っていても、リキの表情は明るかった。心の底から柔道が好きで、楽しんでいるのが分かる。僕は胸を打たれた。リキのような、センスも実力もある選手は、何もせずとも強いんだと思い込んでいた。だが、実際は違った。現状に満足する事なく、常に努力し続けていたのだ。

一方で僕はと言えば、小学生時代に県チャンピオンになって練習を怠けた結果、勝てなくなった。にも関わらず、中学生になった今でも、何となく毎日を過ごし、何となく練習をこなしていた。これでは、リキとの差は開く一方だ。

 番組の締め括り、今後の目標を聞かれたリキは、こう答えた。

「ライバルに勝って、オリンピックで金メダルを獲る事です」

インタビュアーは、それ以上話を広げなった。他の視聴者も、ごくありふれたコメントだと思っただろう。しかし、僕は違った。リキの言う「ライバル」とは僕の事だ。いや、実際にはそうではなく、全国の猛者たちを指しているのかもしれない。でも、僕は図々しくもこのコメントをリキからの挑戦状だと受け取った。リキから喝を入れられた気分になった。そして、まだ僕をライバルと認識してくれている事が嬉しかった。

 一緒に番組を観ていた母は

「リキ君も有名になったなぁ。太朗と一緒に走り回っとったんが嘘みたいやわ」

と懐かしそうに言った。父も、

「太朗とリキの本気の試合、一回見てみたかったなぁ」

と、亡き人を偲ぶようなしんみりとした口調で言った。

「いやいや、俺まだ諦めてないよ」

とわざと冗談っぽく言うと、母に、

「元気になって良かったわ。明日は学校行きなよ」

と言われた。

 またしてもリキの存在が、僕を奮い立たせてくれた。失恋のショックなど吹き飛んだ。ご飯を三杯おかわりした。強くなりたい、と思った。強くなってやる、と誓った。そして、まだ反抗期を迎えていない僕は、少しだけ親孝行したいなとも思った。

 翌日からいつも通り登校し、部活にも復帰した。友達からは、

「フラれた傷は治ったか」

とからかわれた。どうやら、僕の発熱の原因は読まれているようだ。

 3日間寝たきりだったので、久しぶりの練習はいつもよりきつく感じた。体力が低下していたのだろう。それでも、落ちた体力の分は気合と根性で補った。これまであまり真剣に取り組んでいなかった筋力トレーニングも始め、肉体強化に乗り出した。勉強の熱量も落とさなかった。勉強の成績は、僕がリキに勝っている唯一のものだろう、ここで負けるわけにはいかない。

 美沙とは、時々廊下ですれ違う程度に顔を合わせるが、話をする事はなかった。美沙にはあまり動揺した素振りは見られないが、僕はすれ違う瞬間、スッと視線を外し、俯いてしまう。結局、キスどころか、手を繋ぐ事も一度もなかった。付き合っていたとは言え、きっと僕が一方的に彼女の事を好きだっただけなのだろう。それでも、良い。人を好きになる事の幸福感を味わえた。それ以上に、人を愛する難しさやもどかしさを痛感した。

恋愛って何だろう?

きっとこの先も正解は容易に見つからないだろう。でも、確かな事が一つ。人生で初めての恋人が、美沙で良かった。今なら、言える。

「ありがとう」

いや、やっぱり・・・

「ごめん」

かな。

柔道着を着ていない僕は、本当に臆病な性格なのだ。


 4月、2年生に進級した。授業の内容は難しくなったが、部活では先輩になった。新入部員は5人。雑用も無くなり、負担が減った分練習に集中できる。「太朗先輩」と呼ばれる度に、自分が偉くなった気がして、嬉しい反面、背中がムズムズするような気恥ずかしさがあった。

 1年生の間は、結局1勝も挙げられなかったが、徐々に成績は上向いてきた。団体戦のレギュラーには入れなかったが、個人戦では、夏の県総体でベスト4入りを果たした。スランプからようやく抜け出せた手ごたえを感じた。小学6年生から数えると、2年半。本当に長かった。出口の見えない暗闇に、一筋の光を見たような心地になった。

 結果が出ると、厳しい練習も向き合い方が変わってくる。去年までは、「やらされている感」があったが、今は、「自らやる」という姿勢になった。欲も出てきた。もっと勝ちたい、もっと強くなりたい、もっとスタミナを付けたい、もっと筋力を強化したい、もっと技のキレを高めたい、もっと、もっと、もっと・・・そんな一心で、猛暑も厳しい夏休みのハードな練習を乗り切った。

 そして、夏休みが終わり、3年生が引退。とうとう部内最上級生となった。

 藍住真導時代と同様、キャプテンは直人君で副キャプテンが僕。2年生の男子メンバーは2人だけなので、レギュラーに1年生を3人加えて新チームとし、この体制で来年の夏まで戦っていかなければならない。その第一歩として、直近の目標は11月に行われる県の新人戦だ。

 中学の団体戦は、5人制で体重の軽い順に並んでいく。僕は70㎏で、後ろから二番目の副将の位置だった。先鋒は直人君で、切り込み隊長として最適の配置だ。二番手の次鋒、三番手の中堅、そして五番手の大将は1年生が務めるが、3人とも小学生の頃から県大会での実績があり、実力は申し分ない。少なくとも、僕の1年生の頃より遥かに強い。

 大会まで、追い込みの練習が始まった。外部コーチを招いて、練習の質も高くなった。暑さが過ぎ去った分、夏休みより体力的な余裕はあったが、それでも毎日ヘトヘトになるまで練習した。

そんなある日の練習後、不思議そうな顔をした後輩に声を掛けられた。

「太朗先輩、耳どしたんスか?」

最初は、何の事か分からなかったが、鏡で見てみると、耳が腫れ上がっていた。柔道着で耳が擦れ、血が溜まったのだ。柔道界では「耳が湧く」と言う。ラグビーやレスリングなどのコンタクトスポーツの選手によく見られる、特徴的な耳。なり始めは、側臥位で寝られない程の痛みを伴うが、時間が経ち、血が固まってくると痛みは無くなる。注射針で血を抜くという対処方法もあるが、これをすると、皮膚がシワシワになってしまい見栄えが良くないので、痛みが引くのを待つ人が多い。柔道選手の中には、この耳に憧れる、かなりクレージーな選手もいる。実際、後輩にも、

「カッコいいッスねぇ。強さの象徴ッスよ」と、羨望の眼差しを向けられた。取り替えられるなら、取り替えたい。メチャクチャ痛いんだぞ。言い返したい言葉はいくつもあったが、そのまま飲み込んで、愛想笑いとともに受け流した。その後しばらくは、これ以上耳が腫れないようにヘッドギアを装着して練習した。(暑いし、視界が狭くなってやりづらかった)

 放課後の部活動だけでなく、空いている時間は、全て柔道に費やした。登校時間前の朝練としてラントレ。週2回、主に社会人を対象とした夜間の練習会にも参加した。30分しかない昼休みにも、ウェイトトレーニングを行った。

だんだん学校の給食だけでは足りなくなり、母に弁当を作ってもらい、2時間目の後の休み時間に急いで食べた。そのおかげか、ネックだったフィジカル面が目に見えて強化された。身長は1学期と比べて15センチ伸び、体重は5キロ増加した。そして、数値以上に身体つきが変わった。プヨプヨした脂肪が削ぎ落とされ、替わりに筋肉が付いた。毎晩入浴前に、洗面所の鏡の前で自分の裸体を見る事が密かな楽しみになっていた。決してナルシストではない。

そして、この追い込み練習で得た最も大きなものは、「自信」だ。1学年上の先輩達は、本当に強かった。残念ながら、団体戦では県総体決勝で、宿敵・阿波中学校に惜敗を喫して準優勝に終わったが、個人戦では3年生5人全員が優勝し、全国大会への切符を手にしたのだ。

共に戦っていた時は心強い存在だったが、チームを任されてからは、プレッシャーの方が強くなった。

「先輩達がいなくても勝てるだろうか」

「名門・藍住の名を汚さない試合が出来るだろうか」

新チームになったばかりの頃は、そんな不安がいつも付き纏っていた。

 ライバル校も増えていた。前チーム時代は、「阿波と藍住の二強」と言われており、他に警戒すべき学校は見当たらなかった。ところが、僕らの代になり徐々に頭角を現す学校が出てきた。阿波中学校はもちろん、上板中学校、城西中学校、三加茂中学校など。中でも、県西部にある三加茂中学校は、中学から柔道を始めた選手ばかりだが、有名な指導者と厳しい練習により、わずか1年半で県大会上位に食い込む実力校にのし上がってきたのだ。まさに群雄割拠、合従連衡、である。

 そんな不安に苛まれ、チーム全体が弱気になりかけていたのだが、夏休みからの猛練習によって、少しずつ気持ちが強くなっていった。むしろ、これまでとは逆に、

「先輩達を超える成績を残してやろう」

という意欲が湧いてきた。そして、

「これだけしんどい練習をしたんやけん、負けるわけない」

と思えるようになっていた。まさに、自信、である。

これで、「心・技・体」の全てが揃った。

そして、いよいよ徳島県中学校新人柔道大会・団体戦の日を迎えた。場所は、徳島県立中央武道館。すぐ傍を新町川が流れ、近辺に市立体育館とテニスコートがある。一帯の自然も豊かな事から、近隣住民のジョギングコースにもなっている。武道館自体は、鳴門武道館に比べると規模は小さいが、試合場と観客席が通路一本を挟んだ距離にあるので、迫力や臨場感がある。声援もよく聞こえるので、二階から応援される鳴門武道館とはまた違う昂揚感、緊張感がある。

開場と同時に、各学校の1年生が勢いよく駆け込んでいく。ウォーミングアップの場所取りのためだ。僕も、去年一年間は必死に場所の確保に努めた。試合よりも力を入れていたかもしれない。バーゲンセール時のおば様方と同じだ。決してお行儀の良い行為ではないが、すでに戦いは始まっているのだ。他校に負けるわけにはいかない、ご容赦いただきたい。

後輩の活躍で、僕たちは十分なスペースを確保できた。軽く汗が出る程度に身体を動かし、川風に身体が冷えないように暖をとる。そして、開会式が終わり、いよいよ試合が始まる。

我が藍住中学校は、一回戦免除のシード権を獲得していたので、二回戦からの登場となる。相手は、鳴門第一中学校。5人全員2年生で固めてきていたが、練習の成果を発揮して5対0、それも全員が一本勝ちを収めての完勝だった。

まずは初戦を突破したことでホッとしたが、油断はできない。むしろ、勝負はここからだ。

徳島県は競技人口が少なく、参加校も少ないので、次の試合が準々決勝となる。相手は、上板中学校。5人の平均体重が80キロと、重量級チームだ。しかし、今大会での対戦がある事も視野に入れて、しっかり研究・対策は行ってきた。体格とパワーで勝てないなら、スピードとスタミナで勝負する。直人君が一本勝ちで流れを作り、次鋒戦は引き分け。中堅戦では敗れたものの、副将の僕が一本勝ちを収め、再びリード。大将戦は引き分けとなり、2対1。何とか接戦をものにする事が出来た。

これでベスト4進出。準決勝の相手は、宿敵・阿波中学校。先輩達のリベンジを果たすチャンスでもある。試合は、一進一退の攻防が続き、2対2のまま大将戦へ。引き分けでも、勝ち点数の差で敗れてしまう、まさに絶対絶命の崖っぷちだ。大将を務める1年生の翔太に、全てを託した。翔太は序盤から積極的に攻めるものの、相手も引き分けで良いという事で、守りの柔道に徹する。なかなか牙城を崩せない中、残り時間20秒というところで、翔太の放った大外刈りが見事に決まり「有効」ポイントをゲット。そのまま試合終了のブザーが鳴り、3対2の僅差で勝利した。普段は大人しく、あまり感情を表に出さない翔太だが、この時ばかりはガッツポーズまで作って、喜びを爆発させていた。

これでいよいよ決勝戦。相手は、新進気鋭の三加茂中学校。これまで対戦した事はなく、相手のデータも十分ではない。まさに、僕たちの地力が問われる試合になる。

先鋒戦。直人君が開始早々の背負い投げで一本を奪い、チームに勢いをもたらす。

次鋒戦。1年生の公平は、得意技の内股を仕掛けていくが、相手チームのエースに対してなかなか決まらない。そして、その内股を狙われたように返し技を喰らってしまい一本負け。これで振り出しに戻される。

中堅戦。同じく1年生の淳。技術面に粗さはみられるものの、人一倍ガッツのある戦いぶりを見せる。学年も上、体格も一回り大きい相手に引き分け。十分な役目を果たす。

副将戦。僕の相手は身長の差はないが、僕より体重が30キロ近く重い。上背がない分、担ぎ技が使えないので、苦手なタイプではあったが、そんな事は言ってられない。開始から自分のペースに持ち込み、どんどん技を仕掛けていく。そして、相手が少しバテてきた瞬間を逃さず、大内刈り。「技有り」ポイントを奪い、そのまま抑え込み。「合わせ技」一本でチームの勝利に王手を掛けた。

大将戦。準決勝で活躍した翔太は、決勝でも先の試合の勢いそのままに技を仕掛ける。しかし、後のない相手も負けじと攻めてくる。その気迫に徐々に押され始め、組み際に後ろに下がったところを相手に合わせられ、大外刈りで一本負け。勝ち点数も同じ、2対2となる。

勝負は代表戦にもつれ込んだ。お互いに、選手一名を選出する最終決戦。サッカーで言うところのPK戦だ。

相手は、エースの佐藤君。次鋒戦で、一本勝ちを収めた選手だ。こちらの代表は、僕。顧問の矢野先生に考える時間すら与えず、「僕が行きます」と申し出た。以前なら、こんな大舞台での大事な場面で、チームの代表として戦うなど考えられなかった。しかし、僕は変わった。パワーが付いた。スタミナも付いた。技の種類が増え、切れも増した。何より、誰にも負けないという自信と自負に満ち溢れていた。

矢野先生も、

「頼んだぞ。いつも通りな」

と、声を掛けて下さり、直人君も

「落ち着いて。自分の柔道したら勝てるけん」

と、送り出してくれた。

 そして運命の代表戦。近藤君とは初めての対戦だったが、意外と落ち着いて冷静に戦えた。チームメイトの声がよく聞こえる。コーチの指示もよく聞こえる。観客席からの応援もよく聞こえる。相手の技も、余裕をもって捌ける。身長は僕より高いが、体重はさほど変わらない。得意の背負い投げが、最も仕掛けやすい体型だ。案の定、開始一分を過ぎた頃、小内刈りで相手の体勢を崩し、重心が前に戻ってきたところを狙って背負い投げ。佐藤君の身体が綺麗に宙を舞い、背中から畳に落ちる。歓声が一段と大きくなる。審判の「一本」のコールを聞くまでもなく、僕は勝利を確信し、人差し指だけを伸ばした右手を高々と突き上げていた。お手本のような投げっぷりで見事に勝利を収め、チームを優勝へと導いた。長年、阿波中学校に苦杯を舐めさせられており、実に6年ぶりの優勝となった。これで、来夏の県総体での第一シードの権利を獲得した。真夏の試合になるので、試合数が減る事は大きなアドバンテージとなる。

そして、中学入学以来、初めての「優勝」となった。苦しい事の方が多かったが、全てが報われた気がした。小学生時代に何度も経験した「優勝」だが、嬉しさは桁違いだ。こんなに苦しい思いをして、こんなに必死に一つの目標を追いかけた事はなかったからだ。自分の選んだ道、やってきた練習が間違いではなかった事を証明できた気がした。

その夜、祝勝会が開かれた。焼肉食べ放題のチェーン店で行われたが、何せ食べ盛りの中学生と、お酒大好きな大人たちである。半日前の熱気を上回る勢いで飲食を進めていく。大皿で肉を注文しても、すぐに空になる。それもそのはず、一枚ずつ焼くのではなく、皿の上の肉をそのまま網の上に流し込むのだ。そして、多少の生焼けでも気にしない。胃袋に入ってしまえば同じ肉である。焼き加減で言えば、スーパーウルトラレア、となるのだろう。翌日、何人か腹痛を訴えていたっけ。

嬉しい事がもう一つ。翌日の徳島新聞朝刊のスポーツ面に、何と僕の試合中の写真がデカデカと掲載されたのだ。ちょうど、決勝戦の代表戦で背負い投げを仕掛けたところ。あいにく、顔はあまり見えなかったが、ゼッケンの「山田」の文字ははっきりと写っていた。 

記事を見た父は、

「太朗もついに新聞に載るようになったか」

と、何度も一人で頷きながら呟いた。母も、

「有名人になってしまうなぁ」

とはしゃいでいた。新聞に写真が載った事も嬉しかったが、それ以上に両親が自分の事のように喜んでくれた事が嬉しかった。朝から感動に浸っていると、弟が醒めた様子で

「整骨院の宣伝になって良かったんちゃう?」

と、卵かけご飯をかき混ぜながら言う。雰囲気台無しである。ちなみに、この写真と記事は、僕の柔道人生のアルバムに大切に保管されている。

しかし、まだ気は抜けない。1ヶ月後、今度は個人戦がある。肉体強化により体重が増えたので、県総体は六十六㎏級でエントリーしたが、今回は一階級上げて73㎏級での試合となる。階級が一つ変わるだけで、相手のパワーや技の切れも増してくるので、これまでと同じ戦い方ではいけない。そして、この73㎏級という階級は、全7階級ある内のちょうど真ん中にあたる。最も軽量の55㎏級は、スピード感溢れる戦い方が特徴的だ。反対に最重量級である90㎏超級は、パワフルな試合が多い。つまり、中間の73㎏ではスピードとパワーの両方を備えていないと勝負に勝てない。気持ちを切り替えて、残りの一ヶ月でまた「心・技・体」を高めていかなければならない。

体重の管理もコンディション調整も上手くいき、徳島県中学校新人柔道大会・個人戦の日を迎えた。場所は、団体戦と同じ中央武道館。縁起は良い。あとは、自分の実力を出し切るだけ。

一回戦シードで、二回戦からの登場。気温も低く、動きの悪い選手が多かったが、僕は安定した戦いぶりで、決勝戦まで勝ち上がる事が出来た。決勝の相手は、三加茂中学校の柊君。技のレパートリーは少ないが、パワーがあり力強い柔道が特徴的な選手だ。試合が始まる。思っていた以上に腕力があり、僕の得意の組み手に持ち込めない。仕掛ける技の数では圧倒しているが、なかなかポイントを奪うに至らない。作戦変更。柔道を始めて1年半という、相手の経験の浅さを突き、立ち技ではなく寝技での勝負に出た。すると、見事に狙いがはまり、抑え込み「一本」で勝利する事が出来た。

チームで戦う団体戦とは異なり、個人戦は孤独な戦いとなる。でもそれは、裏を返せば自分一人の力だけで勝敗が決まるという事でもある。つまり、勝ったら自分のおかげ、負けたら自分の責任、なのだ。これほどに遣り甲斐のある勝負は、他に無いだろう。

これで、個人戦でも県総体のシード権を獲得した。最高の形で1年を締め括る事が出来た。冬の間は大きな大会は開かれないので、しばらくは走り込みと筋力トレーニングによるフィジカル強化を中心とした練習になる。冬休みには、香川県や和歌山県に遠征に出掛け、練習試合を数多くこなし経験値を上げていく。

夏場の練習もキツいが、冬の練習もキツい。畳の冷たさが、素足を通って全身を襲う。さらに、冷えた畳は堅さが増して、受け身をとるといつもより痛いのだ。

しかし、そんなネガティブな発想も吹き飛ぶぐらい、今はこれからの練習が楽しみで仕方ない。練習すればするだけ、強くなる自分の姿がイメージ出来る。

そして、年が明けて2004年。勝負の1年が始まる。充実した時間は、過ぎるのが速い。日に日に強くなっていくのを感じながら、3学期も終盤に差し掛かり、間もなく春休みになろうとしていた。この時点では、後に訪れる悪夢のような出来事を、まだ僕には知る由もなかった。

昨日までの晴天が嘘のように、どんよりとした曇り空に覆われた3月のある日の昼休み。日課となった筋トレを終えた僕が、教室に戻っていると、後ろからサッカー部の卓也君に呼び止められた。

「太朗、1年の話聞いた?」

「いや、何も聞いてない。何かあったん?」

「アホ共が何人か万引きしよるらしいわ」

「マジで?1年のくせに生意気やな」

「しかも、結構色んな店でしよるらしいけん、そろそろパクられるかもしれんって」

卓也君は、学年でもトップクラスのイケメンだ。それなのに、なのか、だから、なのか分からないが、素行が悪い。いわゆる「不良」だ。だから、先輩でも後輩でも、不良学生の情報をたくさん持っている。今回のネタは、その情報の中で最新のものだった。

「卓也君と仲良い後輩もおるん?」

「おるおる。アイツら、捕まっても俺らにやり方教わった事言わんかったらエエけど」

 お前もやっとったんかい・・・というツッコミが出そうになったが、話の腰を折らないように飲み込んでおいた。

「卓也君も、あんまり派手な事せられんよ。まぁ、俺には関係ないけど」

他人事のように呟いて、話をそこで切り上げようとしたら、卓也君は

「ほうでもないぞ。もしかしたら太朗にも関係あるかもしれんのよ」

「・・・どういう事?」

「万引きしたグループの中に、柔道部の一年もおったらしい」

「はぁ?ホンマに?」

 卓也君は、結構なお調子者でもある。彼の話す内容を全て鵜呑みにしていたら、馬鹿をみることになる。

 でも、卓也君は一切表情を緩めずに

「ホンマらしい」

と、真っ直ぐに僕を見つめながら言った。

 午後の授業は、全然頭に入らなかった。一応、ノートは取っていたが、先生が何を話したか覚えてないし、そもそも何の科目だったのかすら、はっきりしない。

「柔道部の1年で、万引きなんかする奴おるか?」

僕の頭の中は、犯人捜しでいっぱいだった。

柔道部の1年生は全部で5人。レギュラーを務める公平、淳、翔太は、勉強はからっきしだが、その分柔道に懸ける想いは人一倍で、万引きという言葉自体、頭をよぎる事はないだろう。では、少しヤンチャなところがある健斗だろうか、とも思った。でも、健斗の家は柔道一家で祖父、父、そして兄と二人の姉も柔道に打ち込んできた。母親の教育も厳しいらしく、藍住町でも有名な一家だ。中でも、次女の早苗は健斗の1歳上で、恐ろしく気の強い、僕と同期の現役部員である。その姉が家だけでなく、学校や部活中にも監視の目を光らせているのだ。悪さなど出来るはずがないだろう。

 そうなると、可能性は残り1人。早苗と練習パートナーを組む、1年唯一の女子部員である彩だ。彩の練習中の態度は、非の打ちどころが無い。どんなメニューにも一切手を抜かず、体格では劣る男子部員とも積極的に組み合う。練習前の掃除や雑用も嫌な顔一つ見せずにこなしている。

そんな彩だが、道場を離れるとガラッと人が変わる。授業中に平気でお喋りをしたり、堂々とお菓子を食べたりする。時には途中で教室を抜け出す事もある。付き合っている友達も、髪を金色に染めていたり、ピアスを付けていたり、いわゆる「ギャル」だ。部活の後、帰宅せず夜遊びに耽っているという話も、いつか聞いた事がある。

 これまでは、彼女の家庭と彼女自身の問題なので、あまり気に留めていなかった。だが、もし今回の万引き事件の犯人の中に彩が加わっているならば、彼女一人の問題では済まされない。万引きは立派な犯罪で、授業中のおふざけとは訳が違う。

 その日の練習後、僕は直人君に万引き事件のあらましを伝えた。

「全然知らんかったわ。でも春休み入る前に、はっきりさせといた方がエエよな」

確かに、学校が休みになると、万引きの回数も増えてしまうような気がする。続けて直人君は、

「本人に聞いてみようか?」

と提案してきた。それが一番手っ取り早い、かつ確実な方法だとは、僕も思う。でも、何かモヤモヤしたものが胸の奥で蠢いている。本当にそれで良いのか?

僕は後輩を疑っている。実際に見たわけでもないのに。もし彩が犯人でなければ、彼女の尊厳を傷付ける事になる。むしろ、そうなればその反動で、更に非行に走ってしまいかねない。彩とその仲間達が逆ギレする事も少し怖かったのだけれど。僕は、良く言えばお人好し、身も蓋もない言い方をすれば、臆病な性格なのだ。

 結局、もう少し様子を見る事にした。と言っても、あまり時間は無い。部内で彩と一番距離が近い早苗にも頼んで、それらしき言動や行動がないか気に掛けてもらうようにした。

 1週間が過ぎても、彩に変わった様子は見られなかった。他の1年生部員も同様で、練習中の雰囲気も以前と変わらず、熱気に包まれている。いつも違うところは、3日前から翔太が体調を崩して学校を休んでいる事ぐらいだ。元々、軽い頭痛や微熱が頻発する体質だったので、少し休めばすぐに復活するだろうと思っていた。「やっぱりあの話はデマだったのか」と、少し安心感が生まれてきた。

そんな中、いよいよ終業式を明日に控えた3月25日の木曜日。いつも通り、放課後の練習を終えて、仕上げのストレッチに移った。ハードな練習を無事に終えた解放感もあり、和気藹々と談笑していると、翌日の式の準備のために練習の途中で職員室に戻った矢野先生が、血相を変えて道場に戻ってきた。

「先生、どしたんスか?忘れ物ッスか?」

と、直人君が笑いながら聞いた。いつもなら、ニコニコした表情を崩さずノリツッコミを入れてくれる先生だが、様子がおかしい。異様に汗を掻き、小刻みに膝が震えている。何より、いつもの仏様のような笑顔が消えている。僕達が怪訝に思っていると、先生はようやく口を開いた。

「・・・翔太が・・・翔太が・・・」

最初は、体調が悪化して入院でもしてしまったのだろうかと思った。だが、続く先生の言葉は、僕の予想を遥かに超えたものだった。

「さっき、警察から電話があって・・・翔太が補導されたらしい」

場の空気が凍り付いた。先生の言葉は、耳ではなく直接胸に突き刺さる衝撃だった。

「岡田文房具店で万引きしよんが店員さんに見つかって、警察呼ばれたらしい。まだ現場におるみたいやけん、先生ちょっと行ってくるわな。皆は心配せんでもエエけん、早よ帰って身体休めときよ」

そう言った先生の顔は、息を切らせて戻って来た時には赤く紅潮していたのに、すっかり血の気が引いて青白くさえなっていた。そして、踵を返して出口に向かう先生の背中は、大柄な体格が嘘みたいに小さく見えた。

 先生が車に乗り込んだところで、ようやく僕は我に返った。だが、冷静ではいられない。このまま帰るのは、何か違う。じっとしているのは、もっと違う。

岡田文房具店?ここから近いでないか。

「俺も行く!」

考えて発した言葉ではない。むしろ、身体が先に反応して出口に駆け出す、その後付けとして言葉が口から飛び出てきた、そんな感じだ。僕だけでなく、他の部員も後に続いた。皆、練習後の疲労など忘れて自転車のペダルを全力で踏み込み、我先にと現場へ向かった。

 岡田文房具店の前には、パトカーが1台停まっていた。テレビドラマのような野次馬はいなかった。警察官は2人。そして、私服姿の少年が3人。その中に、俯いた翔太の姿がある。他の2人は、言い訳なのか、謝罪なのか、何かを必死に訴えている。目の前の出来事なので、声は聞こえている。しかしそれは、意味のある言葉ではなく、ザーザーと降る雨やビュービューと吹く風のような「音」として、僕の耳に流れ込む。

 不意に、直人君が翔太に近寄り、胸倉を掴み上げた。

「何でこんな事したんな。もうすぐ学年も上がる大事な時期なんが分からんのか」

と、怒声を上げた。普段は無口でクールな直人君が、これ程感情を爆発させるのは初めてだ。すぐに警察官に引き剥がされたが、その間翔太はピクリとも動かなかった。

 直人君に近付き、声を掛けようとすると、両肩を震わせている事に気付いた。最初は

震える程の怒りが湧いているのだろうと思ったが、そうではなかった。嗚咽を堪えているのだ。怒りではなく、悲しんでいるのだと気付いた。何度も何度も、右手の甲を目元に押し当てていたから。そして、溢れる感情はやがて涙となって頬を滑り落ち、直人君の足元にポツリ、ポツリと落ちていった。

 警察から事情を聴いた矢野先生の話によると、万引きは3学期が始まった頃から行っていたらしい。その頃から、素行の悪い同級生と遊びだし、「一緒にやろう」と誘われた事がきっかけだっだ。しかし、何度も繰り返すうちに辞められなくなり、一人で犯行に及ぶ事もあったと言う。

「友達に言われて、一回だけ魔が差してしまった」という、せめてもの言い訳も通用しない状況だった。

 感情的になる直人君とは対照的に、僕は様々な思考を巡らせていた。

―どうして断れなかったんだろう。万引きが犯罪だという事は分かっているはずなのに。

―どうして悪い友達と付き合うようになったんだろう。2学期までは、いつも同じ大人しそうな友達と遊んでいたのに。

そして、その思考は僕自身に向けられる。

―どうして気付いてやれなかったんだろう。毎日同じ道場で練習している後輩なのに。

―どうして卓也君から話を聞いた時に、すぐに動かなかったのだろう。1年生部員全員に話を聞いていれば、特定の個人を傷付ける事なく、もしかしたら打ち明けてくれていたかもしれないのに。

 悲しみもある。もちろん、それ以上に怒りもある。ただ何故か、後悔の念に駆られてばかりいる。それは、僕の胸を締め付けるのではなく、僕の胸にあるものを全て奪い取り、ポッカリと穴を開けてしまった。

 翌日、終業式が終わると、矢野先生から部員全員が校長室に呼び出された。校長と教頭も同席し、昨日の事件における学校側の対応が告げられた。

「6か月間の活動停止および対外試合禁止」

終わった。全てが終わった。積み上げた積み木が、静かに崩れ落ちるように。

今日は、3月25日。

半年後は、9月25日。

中学柔道生活の集大成と言える夏の県総体には出場できない。

 長いスランプを乗り越えた。苦しい練習にも耐え抜いた。試合で結果を出せるようになってきた。最高学年になって、さぁラストスパート、という時に・・・

 戦って負けるなら、まだ良い。負けた悔しさをバネに、新たな目標に向かえば良い。敗北の涙もまた、良い思い出になるだろう。

 しかし僕たちは、勝負すらさせてもらえない。負ける事すら、実は幸せな事なんだと、初めて知った。感情が湧いてこない。仮に湧いてきたとしても、それは一体どこに、誰にぶつければ良い?唯一思い浮かぶのは、こんな残酷な仕打ちを用意した神様になるだろう。その日以来、僕は神頼みをしなくなった。

 矢野先生の話は続いているが、頭に入ってこない。右耳から左耳へと通り抜けるだけだ。直人君も、俯いたまま反応は示さない。昨日のように感情的にはなっていないが、それが逆に、落胆の度合いを強調させる。

 1年生は全員、泣いている。公平は昨日からずっと「すみません、すみません」と誰彼かまわず謝り続けている。責任感の強い奴だ。「お前が謝る必要はないぞ」と声を掛けてやりたい。しかし一方で、「お前に謝られても、何も変わらんよ」と冷たく突き放したい自分も、いる。どちらの思いも、声にはならなかった。ただ、素直に泣ける後輩が羨ましいと思ったのは、本音だ。

 ふと、窓の外に目をやると、いつの間にか雨が降っていた。しかも土砂降り。ゴロゴロと雷の音も聞こえる。きっと先生の話が聞こえなかったのは、雨と雷の音のせいだったのだろう。降りしきる雨を眺めながら、そう思うことにした。



 春休みが終わり新学期が始まると、少しは生気を取り戻したが、それでも一日一日は無情にも僕の前を虚しく流れていく。

 中学2年生最後のあの日以来、僕の心には大きな穴ぼこができてしまった。テレビを観ても笑えない。友達とお喋りをしても上の空、勉強にも身が入らず、成績は急降下。塾で叱られても、まったく堪えない。何を食べても美味しくない。と言うより、そもそも食欲すら湧いてこない。まさに「抜け殻」状態だ。

 ただ、中学3年生というのは本来、勝負の年、なのである。運動部の生徒は、最後の総体で一つでも多く勝てるように、汗と泥にまみれて練習に明け暮れる。文化部の生徒も同様に、コンクールで最高のパフォーマンスを発揮できるように、悔いの無い日々を送る。帰宅部の生徒は、いち早く受験勉強に打ち込む。学校の図書室だけでなく、町立図書館の自習コーナーも中学生で満席になる程だ。

 つまり、全員何かしらの目標に向かって毎日を過ごしている。教室内に漂う空気も、1ヶ月前とは比べものにならない程、緊張感に満ちている。いや、そんな生易しいものではなく、もはや「殺気」と言ってもよかった。

 そこに、僕の居場所は無かった。今まで仲の良かった運動部の連中にも、塾の勉強仲間にも、気軽に声を掛ける事が出来ない。いよいよ、学校に行く意味すら見失いかけていた。

 そんなある日の放課後、グラウンドで道具の用意をするサッカー部の1年生を横目に、一人で自転車置き場に向かっていると、後ろから声を掛けられた。

「太朗!何しよん?」

振り向くと、今年同じクラスになった博司君だった。博司君とは、1年生の頃から親しく話をする仲で、定期テストの時には100円でカンニングの手伝いをした事もある。ただ、友達かと問われれば、すぐに首を縦に振る事は出来ない。なんせ博司君は、その名前からは想像も出来ないが、学年一のヤンチャ少年なのだ。要するに、不良である。昔風に言えば、番長である。喧嘩も相当強いらしい。その上、気が短いため、機嫌の悪い時には、廊下ですれ違っただけの同級生の胸倉を掴み上げて、罵声を浴びせる事も珍しくなかった。何ともはた迷惑な話である。

 そんな博司君だが、実は僕と同じように学区外から藍住中学校に通っている。その事もあってか、僕には決して乱暴な事はしない。むしろ、僕といる時はいつもニコニコしていて、愉快な奴なのだ。だから僕も、嫌いにはなれないでいた。

「今から練習か?」

と聞かれたので、

「いや、もう帰る」

と答えた。すると、博司君は意外そうな顔をして、

「練習行かんの?県総体もうすぐだろ」

と言ってきた。どうやって誤魔化そうかと考えてみたが、良いアイディアが思い浮かばず、

「総体は出れんようになったんよ。ほなけん、もう部活は引退した」

と、大まかに事実を伝えた。細かい事をあれこれ聞かれたら嫌だなと思っていたら、博司君は

「ほうなんじゃ。ほな毎日遊べるでぇ。暇しとんだったらカラオケでも行こうや」

と満面の笑みで言ってきた。希望を奪われた僕を気遣ってくれたのか、それとも単純に能天気なだけなのか、彼の真意は分からないが、とりあえずホッとした。そして、ふと、そういう放課後の過ごし方も悪くないかも、と思えた。

「ホンマやな。あんまり遊んだ事なかったもんな。どうせ暇やし、行こうか」

不思議な奴だ。誰に、どんな励ましの言葉を掛けてもらっても、決して前向きにはなれなかったのに、こんな何気ない会話で、気分が少し晴れたような気がした。

そこから、僕の生活は一変した。博司君だけでなく、他にもガラの悪い連中と付き合うようになった。放課後は毎日遊び惚けた。カラオケ、ボーリング、ゲームセンター、賭けトランプ。世の中にこんなに娯楽がある事を初めて体感した。服装も変わった。制服とジャージしか着ていなかったが、ぶかぶかのバスケのゲームシャツ(レイカーズがお気に入りだった)に腰穿きしたヱビスのジーパン、イメージはラッパーである。学生服も、標準品ではつまらないので、臍が見え隠れする短ランに渡りの太いボンタン。短ランの裏ボタンは、キラキラと輝く「国士無双」の文字と、チェーン付きである。自転車で30分かけて、徳島駅前商店街・ポッポ街にある違反制服屋さんに行くのが楽しみになっていた。

一方で、週3回の学習塾には継続して通った。もちろん、塾へ行く際には、標準制服に着替えて。学校の授業も、きちんと受ける。つまり、中途半端な不良、なのである。子供が大人に憧れてビールを飲みたくなる、そんな心境に近いだろうか。正しくない事は分かっているし、生産的な時間の使い方でもないだろう。後々後悔する事もあるかもしれない。それでも、その時のビールの味は一生忘れないはずだ。そういう思い出を、中学3年生の僕は無性に作りたくなったのだ。どうせ柔道ができないなら、踏み入れた事のない世界を体験してみたい、そんな思いもあったかもしれない。

それでも、柔道への想いを断ち切ったわけではなかった。「柔道がしたい」という程の強さはなくても、「またいつか・・・」という淡くとも確かな願望は胸の内にしっかりと存在していた。だから、不良仲間との過ごし方にも、自分なりのルールを設けていた。

周りはほぼ全員が煙草を吸っていたが、僕はどんなに誘われても、頑なに拒み続けた。確かに、喫煙姿の同級生は格好良く見えたが、それ以上に、煙草を吸う事で心肺機能が低下し、スタミナが奪われる事を恐れた。もちろん、道徳的、倫理的な理由もあったことを付け加えておく。

そして、絶対に喧嘩はしない、とも心に決めていた。柔道で鍛え上げた僕の身体は、最早凶器とさえなっていただろう。そんな強靭な肉体を有するのだから、大概の中学生は僕にとって「弱者」になる。そんな相手と喧嘩をしてもフェアじゃない。それは喧嘩ではなく、弱い者いじめになってしまう。僕の性格なのか、はたまた柔道家としてのプライドなのか、とにかく僕は父の願い通り「正義のヒーロー」の心を捨て去っていなかった。

真面目な不良少年の夏休みも終わり、2学期が始まった。部活動に熱中していた同級生も、全員引退となり、教室は受験ムード一色になっていた。

だが、僕の周囲の連中にはどこ吹く風だ。受験に対する焦りなど微塵も感じられない。諦めているのか、それとも元々高校に進学するつもりがないのか、どちらにせよ、彼らだけは一学期と変わらず飄々と学校生活を送っていた。彼らの将来はどうなるんだろう、とその身を案じたが、その疑問はすぐさま自分自身にも向けられた。

「どこの高校に行こうか?」

当初の目論見では、最後の県総体で団体・個人とも優勝して、徳島高校柔道界のトップに君臨する阿波高校への推薦入学を狙っていた。しかし、県総体不参加の僕に、阿波高校への推薦入学の権利は無い。いや、阿波高校だけでなく、柔道強豪校は、どこも推薦での受け入れはしてくれないかもしれない。もしかして、どこの高校でも柔道ができなかったりして・・・などと、とんでもない想像まで働かせてしまう。見た目は短ランにボンタンでも、中身は変わらず臆病なのだ。

 小学校卒業時と同様に、また進路の事で悩まされた。しかも、最低限の勉強は続けていたとは言え、同級生は1学期から、部活仲間も夏休みから猛勉強してきた。僕の学年順位は200人中80位に落ちていた。一般入試での進学を考えるなら、ここから猛勉強する必要がある。

 勉強は嫌いではなかったが、本来の予定では「推薦」という甘い汁を吸うつもりだったので、なかなか受験勉強に気持ちが向かない。

ならばいっそ、全てを捨てて芸能人になってやろうか、という突拍子もない考えまで浮かんできた。「いやいや、俺のどこに芸能人になれる要素があるんだ」と冷静さを取り戻しつつ、具体的な方向は見つからずにいた。

 そんなある日の昼休み、携帯電話に母から一通のメールが届いた。

<授業終わったら、すぐ電話して>

何事だろうと訝しみながらも、文面通りに放課後に電話を掛けてみた。携帯電話を片手に持って待ちわびていたのだろう、母はワンコールで電話に出ると、

「もしもし?今日は放課後寄り道せんとすぐに帰って来なさいよ。太朗にお客さんが来てくれとるけん」

と、早口で言った。

随分慌てていたが、客とは一体誰だろう?

警察のお世話になるような事はしていないつもりだし、そもそも母も警察を「お客さん」とは言わないだろう。心当たりが無いまま、母の言いつけ通り、自転車を飛ばして自宅に向かった。

 帰宅すると、いつもなら律儀に「おかえり」と声を掛けてくる母が、ここでも慌てたように、

「ちゃんとした制服に着替えて、すぐに応接室に行きなさい」

と言ってきた。父は、僕の短ラン・ボンタン姿を「かっこええでないか」と褒めてくれていたが、母は反対に「恥ずかしいからやめなさい」と否定的だ。親の教育としては、母が正解なのだろう。でも、父の

「人の価値は見た目で決まるんとちゃう。太朗は勉強も部活も一生懸命頑張っとるけん、ほれぐらいかんまんわ」という考えを聞くと、「なるほどな」と納得してしまう。ただの派手好きという気がしないでもないが、とにかく僕の違反制服は親公認だったのだ。

 急いで標準制服に着替えた僕は、小走りで応接室に向かった。軽くノックをして、入室すると、父と、もう一人知らない男性が向かい合って座っている。誰だろう?と思いつつ、とりあえず

「こんにちは」

と会釈した。すると父が、

「こちら、城ノ内高校の堀田先生。今日は太朗に話があってわざわざおいでて下さったんよ。お父さんはもう話聞かせてもうたけん、後は太朗が先生と二人で話させてもらいなさい」

と、男性を紹介してくれた。堀田先生は、立ち上がって一礼した。がっしりとした体格で、髪型は角刈り。年齢は父よりもやや若い、40代前半ぐらいだろうか。ふと、柔道関係者かなという考えが頭をよぎった。

「ほな、先生、私はこれで失礼します」

と言って、父は退室してしまった。

非常に気まずい。幼少期は、明るい性格で知らない人にも平気で声を掛ける事ができたのだが、もう15歳である。お年頃であり、思春期真っ只中である。この状況でまともな会話を求めるのは酷だろう。父を恨みがましく思っていたら、堀田先生の方から

「座ろうか」

と声を掛けてくれた。

「ありがとうございます。失礼します」

と、僕も応え、ソファに身体を預けた。一呼吸置いて、堀田先生は居住まいを正して

「はじめまして。城ノ内高校の堀田と言います。担当は理科で、専門は化学です」

と簡単な自己紹介をしてくれた。僕の予想は外れた。柔道関係者が理科の先生なわけがない。柔道部顧問の相場は体育教師と決まっている。では、一体この人は何の目的で家にやって来たのだろう。謎は深まるばかりだが、

「はじめまして。藍住中学校3年の山田太朗です」

と、とりあえず自己紹介を返した。すると堀田先生は、

「得政の従弟なんやってな。県総体は出場できんで残念やったなぁ」

と言う。意外な人の名前が出てきて、僕は思わず、

「えっ?」

と聞き返してしまった。

すると堀田先生は、

「得政がインターハイ優勝した年、俺が柔道部の顧問一年目だったんよ」

と種明かしをしてくれた。柔道部顧問=体育教師という僕の提唱する方程式は脆くも崩れ去った。

確かに、とっちゃんが城ノ内高校柔道部に所属していた事は知っていた。そして柔道部自体も県内最強だった事も。だが、城ノ内高校は確か今年から中高一貫教育校になり、「目指せ!東大合格者10名」のスローガンの下に、進学校化へと舵を切ったはずだ。それに伴い、近年部員数が減少傾向にある柔道部は廃部の危機にあると聞いた事がある。

「得政が三年だった時がピークだったなぁ。今は部員も二人しかおらんけん、団体戦に出れんようになってしもうた」

なるほど、廃部の話が現実味を帯びてきた。とりあえず、

「そうですか」

と相槌を打ってみた。柔道が目的でないなら、「進学校へ来て東大目指してみんか」という勧誘だろうか。しかし、昨年までの僕なら、東大に合格できるかもしれない学力を備えていたが、残念ながら今の僕には夢のまた夢だ。

話が見えてこないので、思い切って聞いてみた。

「あのー、それで今日はどういう話なんでしょうか」

すると、堀田先生は咳払いを一つ挟んで、

「単刀直入に言うわな。城ノ内で一緒に柔道やらんか?得政の時代の強い柔道部をもう一回、一緒に作ろう」

と切り出した。真っ直ぐに、僕の目を見つめて。あまりに突然の話に、僕の思考は停止してしまった。これはスカウトになるのだろうか。でも、スカウトとは普通強豪チームが強豪選手を獲得するために行うものだ。廃部寸前のチームが行う場合は、「ボランティア」になるのだろうか。

「で、でもさっき部員二人しかいないって言ってましたけど・・・」

ようやく口を開く事が出来た僕に対して、堀田先生は、

「他にも何人か声掛けとんよ。まぁ、全員が来てくれる保証はないけど、太朗君が来てくれたら絶対に強いチームになると、俺は思っとる。去年の新人戦見させてもろうたけんど、初めて得政の試合見た時と同じぐらい感動した。強さもそうやけど、ほれよりもこんなに綺麗な柔道する子が中学生におるんやなってビックリした。柔道スタイルとか立ち居振る舞いとか、全部が俺の理想とする選手だったんよ。俺は大した指導者ではないけど、絶対後悔させんけん、是非、一緒に柔道しよう」

熱く語る堀田先生の額は汗でびっしょりと濡れていた。目はカッと見開き、ひと時も僕から視線を外さない。その迫力に気圧されて、僕は俯き加減に、

「・・・少し考えさせてください」

と呟いた。まるで叱られている子供のようだ。

堀田先生は、

「分かった。今日は話聞いてくれてありがとう。良い返事期待しとるけん」

と言ってくれた。

 堀田先生の見送りに、両親も戻って来た。帰り際、堀田先生に改めて

「今日はありがとう。返事はいつでも良いけんじっくり考えてな。高校決めるんも人生の大事な選択やけん」

と、声を掛けられた。先程の迫力ある物言いではなく、まるで柔らかい毛布で包み込むような優しい喋り方だった。

 その日の夕飯後、家族会議が開かれた。議題はもちろん僕の進路について。両親は二人とも、進学先が城ノ内高校である事に対して前向きだった。ただ、その理由は柔道の事ではなく、勉強面に関してだった。母は、

「城ノ内卒業したら、大学も良いとこ行けて就職も大手企業に入れるよ」

と、かなり先の話を持ち出し、父は、

「徳島で初めての中高一貫校なんだろ?何でも初めてっていうんはカッコいいでないか」

と論点がズレてしまっている。

一方で、弟だけは

「もっとまともな柔道部ある高校もあるだろ。3年間試合すら出れんかったらどうするんな」

と、猛反対した。普段は何事にも醒めている弟が珍しく熱を込めている。弟なりに、最後の中学総体に出られなかった僕を心配しているのだろう。しかし、ここまで反対されると、柔道で培った僕の負けん気の強さが顔を覗かせる。結果的に弟の熱意は、すでに堀田先生の誘いに乗る事に気持ちが揺らいでいた僕の背中を、皮肉にも後押しする形になったのだ。

 僕が城ノ内高校進学を決心した理由は、いくつかあるが、中でもその環境に惹かれてしまった。小学校・中学校ともに強豪チームに所属していた僕にとって、廃部寸前のチームを立て直して県大会優勝に導く、という目標は斬新で、かつ、刺激的だった。もちろん、ハードルは高いし、達成できないと考える人の方が多いだろう。不安もある。でもそれ以上に、楽しみでもある。達成した時には、柔道の強さ以外のものも得られるような気がする。

 そして何より、自宅にまで足を運んでくれた堀田先生の熱意に心を打たれた。僕の試合を見て、柔道選手として最上の評価をしてもらった。才能に期待もしてくれている。さらに、初対面に関わらず、僕を「太朗君」と名前で呼んでくれた。あの時、柔道だけでなく、僕の人間性すべてを認めてもらったような心地がした。誰かに期待される事が、こんなにワクワクするなんて知らなかった。初めて、誰かのために頑張ろう、と思えた。



 2005年4月、僕は城ノ内高等学校に入学した。北には吉野川が流れ、南には眉山を望む、徳島を象徴する自然に囲まれた学校である。吉野川の堤防沿いに立地しているため、空気の澄んだ晴れた日には校舎の3階から水面を跳ねる魚を見つける事も出来る。

1979年創立の高校なので、歴史はまだ浅い。それでも、陸上部や登山部、サッカー部などは県大会でも好成績を収めており、一時期は柔道部も全国大会に出場する程レベルも高かった。さらに、県内でもトップクラスの進学校として一目置かれ、昨年度からは中高一貫校として中等部を設立した。それに伴って、制服も学ランからブレザーに変わり、学校全体に「心機一転」の空気が漂っている・・・はずなのだが、登校初日、僕は面白い光景を目の当たりにした。

何と校舎内に学ラン姿の高校生が大勢いるではないか。他校の生徒か?と思っていたが、実際は拍子抜けするような事情だった。ブレザーが採用されたのは、中等部が設立された年からなので、高校では1年生と2年生にあたる。それなら3年生も、と思うのだが、なぜかそのまま学ランを制服としているらしい。そういうわけで、学ランとブレザーが混同する奇妙な学校になっているのだ。

そんな城ノ内高校に、僕は楽々と入学できたわけではない。堀田先生の誘いを受ける形になったので、てっきり推薦入学で試験免除だと思っていた。だが、さすがは進学校、そんなに甘くはなかった。しっかりと筆記試験が待ち構えていたのだ。しかも、各教科に分かれたテストではなく、一枚のテストの中に国語や数学の問題が散らばっているのだ。こんな形式の問題は初めてで、さすが城ノ内と、感心までしてしまった。事前に、堀田先生から筆記試験の存在を知らさせていたので、対策を取る事が出来たので良かったが、もし何も知らずに残りの中学生活を過ごしていたら、と思うとゾッとする。

合格通知を受け取った時は、本当に嬉しかった。何せ初めての受験なのだ。通知を受け取ったのは、土曜日の昼前だった。誰かに報告したくて、博司君に電話を掛けた。

「もしもし、博司君?今何しよん?」

「朝から元気やなぁ。家で寝よったわ」

少し機嫌が悪そうだが、構わず続けた。

「今から遊びに行っても良い?」

「俺ん家来ても何もする事ないぞ」

「かんまんよ。テレビ観よるだけでもエエし」

「変な奴やなぁ。ほんなん自分の家で観えるでないか」

「そうやけど・・・ツレと観たらもっとおもっしょいでぇ」

「まぁ、ほぉやな。ほな待っとるわ」

「15分ぐらいで着くと思うけん」

合格通知片手に、僕は自転車を飛ばした。桜の蕾がちらほら見える3月中旬、博司君の家に着いた時には、軽く汗を掻いていた。

 チャイムを鳴らして、博司君に迎えられると、家の中が賑やかな事に気付いた。

「誰か来とん?」

と聞いても、ニヤリと笑って何も答えてくれなかった。何なんだろう、と怪訝に思いながらも後に続いて博司君の部屋に入ると、そこには、この1年ずっと一緒に遊んだ同級生が勢揃いしていた。

「どしたん、これ。今日何かあるん?」

と聞くと、博司君も今度は答えてくれた。

「どうせ集まるんなら、ようけおった方が楽しいだろ。ほれに、皆も太朗の話聞きたいと思うし」

「えっ?話?」

「俺に話したい事があるけん家来たんちゃうん?話っていうか、報告・・・的な?そろそろ入試の結果出るんちゃうん」

鋭い。普段は能天気で明るく、迷惑なほど暴力的な博司君なのに、本当に鋭い。同一人物とは思えない。

するとコーラを飲み干した卓也君が

「俺らにも聞かせてくれよ」

と促してきた。すると、それまでの騒がしさが嘘のように、その場は静寂に包まれた。さすがに少し恥ずかしくなったが、胸を張って合格通知を掲げて、高らかに叫んだ。

「城ノ内高校、合格しました」

その瞬間、指笛や拍手が飛び交い、再び騒がしさが訪れた。いや、来た時以上かもしれない。

「さすが太朗やな。あんなに遊んびょったのに、いつ勉強したんな」

「何言よんな。太朗は夜ちゃんと塾行っきょたでないか。わざわざ短ラン着替えてまで」

「俺も太朗に勉強教えてもろとったら、高校行けとったかもしれんなぁ」

「アホか。お前の脳味噌では一生無理じゃ」

「高校行ったら、また柔道するんだろ。オリンピック出るかもしれんし、今のうちにサインしてくれや」

涙が止まらなかった。人前で泣くのはいつ以来だろう。しかも、こんな幼稚な連中に泣かされるとは。こいつら、やっぱり最高だ。

「これからはもうなかなか会えんし、遊んだり出来んようになるけど、俺らの事忘れんなよ」

博司君に言われたので、僕は、泣き笑いの顔で答えた。

「当たり前よ。お前らみたいなアホは一生忘れれんわ」

 思えば、中学生活最後の1年は不思議な時間だった。柔道を奪われ、暗闇の中で自分を見失いそうになった。なのに、博司君たちが光を与えてくれた。ただ楽しさだけを求めて毎日を過ごした。僕たちの存在を疎ましく思う人もいただろう。それでも、彼らのおかげで僕は歩みを止めずに済んだ。決して真っ直ぐな道ではなかったが、その分、蛇行しながら二度と通れない道を歩く事が出来た。心を充電する事が出来た。

もし、最後の県総体に出場していたら、と考える事は、たまにある。悔しさもある。それでも、中学生活に後悔が残っているかと問われれば、僕は全力で首を横に振るだろう。柔道から離れたおかげで、大切な仲間に出会えたのだから。

いつの間にか外は暗くなり、そろそろ解散しようかという雰囲気になったところで、博司君が口を開いた。

「太朗、高校もあの短ランで行けよ。藍中魂見せつけたれ」

周りの連中も

「ほれエエ考えやなぁ」

「入学していきなり頭張れるわ」

と乗っかってくる。

僕は苦笑いを浮かべて、

「残念やけど、城ノ内は制服ブレザーなんよ」

と答えた。一同が意気消沈する姿が見てとれたので、こう付け加えた。

「高校に着て行って、汚れたり傷んだりしたら嫌やけん、部屋に飾っとくわ。いつでも皆とおる気分にもなれるしな」

 こうして、僕は「期間限定プチ不良少年」を卒業した。高校では、再び柔道漬けの生活になる。勉強も頑張らなければ、これまでの義務教育とは違って、退学宣告を受ける事だってあるかもしれない。ちゃんと「真面目モード」に切り替えられたらいいのだけれど・・・

 こうして、目標だった城ノ内高校への進学を何とか果たしたが、これがゴールではない。むしろスタートだ。僕にはこの学校でやりたい事がある。いや、やらなければならない使命、と言った方が近いだろうか。

柔道部の再建、である。

 入学初日の放課後、僕は校内案内図に示された柔道場に向かった。体育館の横を伸びる外廊下を進むと、右手に「武道場」の看板が目に入った。扉を開けると右側に剣道場、左側に柔道場、という間取りになっている。靴を脱いで柔道場の方へ進むと、その狭さに驚いた。試合場一面分の広さしかない。中学時代は二面分あり、さらに筋力トレーニング用の機器やスペースまであった。何とか部室は併設されているようだが、そのあまりの汚さに、まるで物置のように見えてしまう。

 壁には、過去に全国大会出場を果たした時の記念パネルや歴代の部員の名札が掛かっている。どうやら、僕は24期生になるようだ。

とっちゃんのパネルと名札もある。とっちゃんはこの環境で日本一になったのか、と考えると、胸にあった不安と落胆は、翻って勇気とヤル気へと変わった。

名札の最後の列、23期生、つまり一つ上の先輩にあたる人たちだ。

―原岡大器

―東真澄

とある。中学時代には、聞いた事のない二人の名前だったが、一体どんな人たちなのだろう。そして、柔道の実力はどれ程のものなのだろうか。

そして、正面には部旗が掲げられている。旗には、「克己心」と描かれている。一つずつの漢字は見た事があるし、意味も分かる。ただ、三つの漢字が合わさった言葉になると、頭に「?」が浮かんでしまう。考えを巡らせていると、後ろに人の気配を感じた。振り返ると、入り口に堀田先生が立っていた。

「入学おめでとう。これから頑張ろうな」

と、声を掛けられたので、

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

と返答した。

堀田先生は、道場を見渡しながら

「最近はトレーニング中心で、あんまり道場使ってなかったけん、だいぶ汚れとるなぁ」

と呟いた。ちょっと言い訳のようにも聞こえたが、なるほど、一応練習はしているみたいだ。

 他に誰も来そうになかったので、気になる事をいくつか聞いてみた。

「先輩方二人は、どんな人たちなんですか?」

「原岡大器と東真澄。原岡は北島中学出身で、背は小さいんやけど100㎏級。東は八万中学出身で73㎏級。二人とも大人しいけど、真面目な奴らじゃ」

「去年、個人戦には出場したんですか?」

「新人戦で東がベスト8、原岡はベスト4に入った。普段はあちこち出稽古に行っきょるけん、地力はあると思うぞ」

なるほど、全くの素人というわけではなさそうだ。とりあえず安心した僕は、一番聞きたい質問を口にした。

「僕以外にも新入部員はいるんですか?」

すると堀田先生は、待ってましたと言わんばかりに胸を張り、右の手の平を大きく開いて

「太朗の他に、5人入ってくれた」

と答えた。しかし、僕が

「結構入るんですね。1年だけで団体戦出れるじゃないですか」

と喜ぶと、今度は申し訳なさそうに、

「まぁ、あんまり実績は残せてない子ばっかりやけどな」

と呟いた。

 それは仕方ない。有力な選手は、阿波高校や鳴門第一高校のようなスポーツ推薦がある高校へ進学するだろう。当初の僕がそのつもりだったように。

 そもそも、僕は部員が5人集まるかどうかを心配していた。それが、一気に6人加入で、合計8人。部員がギリギリだから誰でも試合に出られる、という状態を飛び越えて、しっかりレギュラーを選考する事が出来るのだ。

 表情から明るさが消えた堀田先生に、僕は

「中学の実績とか、関係ないですよ。8人おったらちゃんとした練習も出来るし、高校で伸びる子もおると思います」

と前向きに返した。強がりや見栄ではなく、本音でそう思っていた。堀田先生も、

「そうやな。成長期やし、なんぼでも伸び代はあるわな。どんなチームになるか楽しみじゃ」

と、少し元気を取り戻した。

 最後に、僕は部旗を指差し、

「あれはどういう意味なんですか?かっ・・・こしん?」

と訊いてみた。すると、堀田先生は、

「まだまだ勉強が足りんなぁ。ほんなんでは城ノ内でやっていけんぞ」

と、笑った。そして真剣な表情に戻り、教えてくれた。

「こっきしん。自分に打ち勝つ心っていう意味で、俺が一番好きな言葉よ。相手に勝つ事も大事やけど、その前に自分に勝つ、うちの部員にはそういう選手になって欲しい」

良い言葉だ。素直にそう思った。藍住真導の団旗も好きだったが、この部旗も好きになった。そして、何となくここでも自分の求める柔道が出来るんじゃないかと、ふと思った。

 その時、原岡先輩と東先輩が道場にやって来た。堀田先生は、

「ちょうどエエとこに来たなぁ。彼が中学で県チャンピオンになった山田太朗君」

と、僕を二人に紹介してくれた。すると原岡先輩は

「ホンマに入ってくれたんやなぁ。俺らの代でもメッチャ有名やけん、よお知っとるよ。頼りにならん先輩やけど、一緒に頑張ろうな」とフレンドリーに話し掛けてくれ、握手まで求めてきた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

と応えると、東先輩も

「俺らより技術も知識もあると思うけん、遠慮せんと色々教えてな」

と声を掛けてくれた。

 堀田先生の言っていた通り、2人とも真面目そうな人だ。さらに優しい人たちでもある。さらにさらに、柔道が大好きな人たちでもあるだろう。

 しばらくの間、4人で学校行事や授業の事を話していると、他の新入部員が続々と集まって来た。名前は知っているけど、顔は知らない。申し訳ないが、そういうレベルだった。メンバーは以下の通り。

西田孝弘。城西中学出身。100㎏級。昨年の中学県総体ではベスト4に入り、四国大会にも出場した実績もある。東先輩とは親戚関係にあるらしい。

 久米川仙一。同じく城西中学出身。66㎏級。昨年の県総体では残念ながら入賞は出来なかったが、軽量級とは思えない筋肉隆々の身体つきである。

 関本智。通称せっきゃん。同じく城西中学出身。81㎏級。中学時代、一度対戦した事がある。力が強くて、守備が堅い印象がある。

 石内裕司。鳴門第一中学出身。66㎏級。目立った実績は残せていないが、180㎝近くある長身と長い手足は武器になりそうだ。

 吉田篤。上板中学出身。66㎏級。個人戦での実績は無かったが、強豪・上板中学の厳しい練習で積み重ねたものが、高校で開花する事を期待したい。

 2年後に彼らがとんでもないチームを作る事になるとは、この時点では誰も予想していなかった。

 とにかく、これで部員は揃った。チームとしての形を成した。あとは、僕ら次第。

一通り自己紹介を終えたところで、堀田先生が全員に向けて言った。

「今日は道場と部室の大掃除して終わろう。明日から本格的な練習していくけん、綺麗にして気持ちも一新させよう」

「はい!」

まだ出会って数分しか経っていないが、不思議と全員の返事が一つにまとまった。

 こうして、新生・城ノ内高校柔道部がスタートした。と同時に、僕の高校柔道が始まった。やらなければいけない事は山ほどある。3年は短すぎる。それでも、胸の高鳴りは止まらない。こんなにワクワクするのは、初めてリキに出会った時以来かもしれない。

 翌日、部室に行くと、原岡先輩が本棚の前に佇んでいた。

「どしたんですか?」

と、背中に声を掛けても反応しない。何事だろうと思い、肩をトントンと叩いてみると、

「うわっ、ビックリした!いきなり焦るでないか」

と目を丸く見開いて言った。

「いやいや、声掛けましたよ。でも反応無かったんで。で、何しよんですか?」

と、原岡先輩の手元を覗き込むと、一冊の漫画本を持っていた。小林まこと先生の『柔道部物語』だ。僕も知っている。高校から柔道を始めた主人公が、日本一になるという、王道サクセスストーリーだ。柔道家なら誰もが読んだ事があるだろう、バイブル的存在だ。

「この本、どしたんですか?」

と聞くと、原岡先輩は

「堀田先生が持って来てくれたんよ。面白いけん読んでみなって。まだ1巻の途中やけど、すでにおもろいわ。ハマりそう」

高校教師が生徒に漫画を薦めるのはどうかと思うが、堀田先生のそういう子供っぽいところも、僕は好きだ。

「太朗も読んでみいよ」

と原岡先輩に薦められた。実は、中学時代に何度も読んだ事があり、そのストーリーのみならず、試合結果や細かい試合内容まで把握している。

 しかし、こんなに楽しそうに先輩が薦めてくれているのだ。無下にはできない。

「そんなに面白いんですか?じゃあ、原岡先輩が読み終わったら、僕も読ませてもらいます」

僕はいつからこんなに他人に気を遣えるようになったのだろう。少しずつ、大人になっているという事なのか。

 そして、部員も全員集まり、いよいよ練習が始まる。約1年ぶりの柔道着。ゴワゴワした生地の感触が懐かしい。上衣を羽織った瞬間、両肩にズシリとした重みを感じた。柔道着ってこんなに重かったっけ?

 練習メニューはオーソドックスなものだった。準備体操から始まり、立ち技と寝技の打ち込みをそれぞれ行い、その後、寝技の乱取り、立ち技の乱取り、と実戦形式の練習へと移行していく。最後にサーキットトレーニングとストレッチで終了。

中学時代の練習に比べたら楽勝・・・のはずなのだが、何かおかしい。身体が思うように動かない。技も綺麗に決まらない。乱取りの最中には、両手を膝について肩で息をする程苦しかった。東先輩にも、

「いけるか?調子悪かったら無理するなよ」

と心配された。1年ぶりの柔道なので、全盛期と同じようにはいかないだろうと、ある程度の覚悟はしていたのだが、それにしてもこれ程とは。

 何とか乱取りを終えて、サーキットトレーニングをこなしている時、ふと思った。

―1年間怠けていたせいか?

いやいや、いくら1年柔道から離れていたと言っても、5歳から続けてきたのだ。身体に染み込んでいるはずだ。1週間ぐらい練習を続ければ、また感覚が戻ってくるだろうと、高を括っていた。

 しかし、現実は甘くない。と言うより柔道は甘くない。1年という時間は、僕が思っていたよりも長かった。柔道の感覚以前に、身体機能自体が大きく低下していたのだ。確かに、僅かな距離を走ってもすぐに呼吸が乱れてしまう。筋力、スピード、スタミナ、全てが衰えてしまった今、柔道の実力を発揮できるわけがない。

 あれ程胸躍らせていた高校柔道生活が一転、僕の胸は不安と絶望で埋め尽くされてしまった。こんな事になるなら、筋トレと走り込みぐらいやっておくんだったなと、ほんの少しだけ、1年前の自分を恨んだ。

 しかし、今更嘆いても仕方がない。これが今の現状なのだ。僕の実力なのだ。

 まずは体力を取り戻そうと、両親に頼んで高校の近くにあるスポーツジムに入会した。残念ながら、城ノ内高校には十分なトレーニング器具や施設が整っていなかったのだ。僕一人では、どういうトレーニングが必要なのか詳しく分からないので、個別トレーナーに指導してもらう事になった。阪堂さんという、オジサンだったが、トレーナーをやっているだけあって、体格に貫禄がある。

 翌日から、放課後の練習の後、ジムでトレーニングする日々が始まった。当面の目標は、ゴールデンウィークまでに体力を全盛期のレベルに戻す事。

 ジムでのトレーニングはハードだった。ただでさえ練習で疲労困憊なのに、そこから更に身体に負荷を掛けていくのだ。当然である。月曜日、水曜日、土曜日は上半身、火曜日、金曜日、日曜日は下半身及び体幹、というスケジュールが立てられた。木曜日は休館日という事で、身体も休められると思ったが、阪堂さんに笑いながら、

「木曜はこれを家でやるように」

と、自宅でのトレーニングメニューが記載された紙を渡された。鬼だ。人の皮を被った悪魔だ。本気でそう思った。

 しかし、阪堂さんの指導はただ厳しいだけではなかった。たしかに、メニューはキツいものばかりだったが、気分良くトレーニングに取り組めた。人を乗せるのが上手いのかもしれない。実際、トレーニング中も、

「まだいけるよ!もっと上がるよ!」

「はいはいはい、もう終わり?ポテンシャルそんなもんか?」

「今の良い感じ!メッチャ良かった!忘れんうちにもう一回やってみよう!」

と、ハイテンションで声を掛けてくれる。時には、挑発するかのように煽ってくるのだが、負けず嫌いの僕には、それもまた励ましになる。まるで、グラビア撮影をするカメラマンである。

 そんなわけで、苦しいトレーニングも何とかギブアップせずに続ける事が出来た。そして、ゴールデンウィーク前には体力も以前と変わらないレベルにまで達し、柔道の感覚も取り戻しつつあった。

 そんな中、ゴールデンウィークに二泊三日の合宿が組まれた。場所は、お隣の香川県。香川県内の高校が集まる合同稽古に参加させてもらう。もちろん、県外の選手と練習する機会も貴重だが、この合宿のメインは練習試合になる。いくら実戦形式の乱取りを数多くこなしても、試合は別物なのだ。試合で勝つためには、試合を重ねて経験を積む、これが一番の練習方法だ。僕以外のメンバーは、県外での合宿は初めてだったので、良い経験になるはずだ。そして、僕自身も、練習試合とは言え、久しぶりの試合になる。ましてや相手が県外の選手となると、否が応にも、ヤル気が湧いてくる。

 5月3日、午前9時からの練習に間に合わせるため六時半に学校を出発。マイクロバスのドライバーは、堀田先生自らが務めてくれた。

 武道館に到着して着替えていると、続々と他校の選手が集まってきた。思っていた以上に参加者は多い。しかも、1ヶ月後の県総体を見据えているため、異様な殺気が満ちている。徳島県からは、城ノ内高校の他に県内二強を誇る阿波高校と鳴門第一高校も参加していた。

 高校柔道は、中学柔道と少しルールが変わる。まず、団体戦は体重順ではなく無差別で行われる。つまり、120㎏の選手と60㎏の選手が戦う事も有り得るわけだ。だから、こういう合同練習の場では、重量級の選手とも積極的に組み合っておく必要があるのだ。また、関節技の使用が認められるようになる。しっかり防御法をマスターしないと、骨折や靱帯断裂などの怪我に繋がってしまうので、慣れるまでは気が抜けない。

 中でも、僕にとって一番の変化は、試合時間である。中学生までは3分だった試合時間が、高校では4分に伸びる。たった1分ぐらい・・・と思うのだが、この1分が意外に長い。中学時代と同じようなペース配分で戦っていると、後半で体力が尽きてしまうだろう。たかが1分、されど1分、なのだ。

さらに、個人戦ではゴールデンスコア方式が採用される。サッカーや野球で言うところの延長戦だ。中学柔道では、決着が付かない場合は旗判定で勝敗が決まった。主審と二人の副審が、どちらの選手が試合を優勢に進めていたかを紅白の旗を揚げて示す、多数決の原理だ。しかし、ゴールデンスコア方式では、最初の4分間で決着が付かなかった場合、延長戦に突入する。もちろん、間で休憩など挟まない。どちらかがポイントを奪えば、その時点で終了となるのだが、延長戦も最大で4分行われる。それでも勝負が決まらなければ、旗判定となる。

 という事は、最大8分試合をする事も想定して、普段の練習に取り組まなければいけない。スタミナの強化は当然だが、駆け引きやペース配分など頭脳も必要になってくる。できるだけ場数を踏んで、試合に慣れておきたい。

 午前は合同練習、午後は練習試合というスケジュールで合宿は行われた。知らない選手ばかりなので、慎重になり過ぎてなかなか技が決まらない。午後の練習試合でも中学時代のような攻撃ができず、全試合引き分け。他のメンバーも勝てず、初日、城ノ内高校は未勝利に終わった。朝からの疲れもあり、チーム全体にどんよりした空気が漂っていたのだが、その夜さらに追い打ちを掛ける出来事が起こる。

 それは夕食の時間に起きた。学校ごとに席が決められていて、テーブルには大きな鍋と野菜とお肉。今夜の献立は「しゃぶしゃぶ」のようだ。豚肉は、ビタミンBを豊富に含み、疲労回復に効果がある。「明日も早いし、腹八分目にしとこう」と思っていたら、鳴門第一高校の監督が近付いて来て

「徳島の高校生は、ご飯も肉も野菜も全部食べ切るように!参加させてもろとるのに、食事残すとか失礼な事はするなよ!食べ切るまで部屋には帰れんぞ!」

ふとテーブルに視線を移すと、お肉は牛肉と豚肉を合わせて10㎏以上、ご飯は一升炊きのジャー5つ分ある。これを8人で完食するのか?身体はヘトヘトで、食欲も無い。

 唯一の癒しだと思っていた食事の時間が一転、苦痛の時間へと変わってしまった。僧侶の修行に絶食があると聞いた事があるが、これはこれで十分修行になりそうだ。

 とにかく、僕たちは言われた通りに完食するしかない。肉と野菜は何とか食べ切ったが、ご飯がまだジャー一つ分残っている。ふりかけ、海苔の佃煮、梅干しなど色々なご飯のお供で味変を試みたが、全員胃袋の限界をとうに超えている。それ以上食べる事は出来なかった。堀田先生の提案で、残った白米はおにぎりにしてもらい、夜食にする事で「完食」としてもらった。ちなみに、阿波高校と鳴門第一高校の選手は、余裕で完食していた。鳴門第一高校の選手に、

「いつもこんなに食べるんですか?」

と聞くと、

「合宿とか遠征の時はいつもこんな感じ。俺らは『食い練』って呼んどる」

食い練―大食い練習の略だろうか。

でも、一体こんな事をして何になるのだろう。たくさん食べる事が練習になるのか。無理矢理食べるなんて、それこそ提供してくれる人達に失礼にならないのか。おそらく、メンバー全員が、同じ事を思っていただろう。無性にムカムカしてきた。大量の肉の脂が胃で蠢いているせいなのか。それとも、理不尽な課題に対して仕方なく呑み込んだ反論の言葉が、今になって胸の奥で暴れているせいなのか。きっと、その両方だろう。

 重い足取りで部屋に戻り、身体を休めていると、堀田先生がやって来た。

「初日から大変だったな。ご苦労さん」

苦しすぎて、誰も言葉を返せない。

「身体も疲れとったし、余計にしんどかったと思うわ。まぁでも、強い身体作るには、飯しっかり食う事も大事やけん」

「でも、限度があると思います」

僕は、思わず口を開いてしまった。本来なら、食堂で言うべき言葉を、堀田先生にぶつけてしまった。

「食べる事は疲労回復に繋がります。なのに、吐く直前まで食べたら、逆に消化器官に負担が掛かって、疲れが溜まってしまいます。タンパク質は筋肉の元になるし、白米はエネルギー源になるけど、食べ過ぎたら、どっちも余分な脂肪に変わって、強い身体作りからはかけ離れてしまいます。そもそも、あんなに食べたら、明日の練習でまともに動けません。もしかしたら腹痛が起きるかもしれません。そしたら元も子もないじゃないですか。ここまで何しに来たんですか」

 トレーナーの阪堂さんから、簡単な栄養学の知識も得ていたので、理路整然と反論する事が出来た。

 堀田先生は、一瞬気圧された様子を見せたが、フーッと一息ついて穏やかな表情で答えた。

「確かにな。理屈で言うたら、太朗の言う通りじゃ。限界まで飯食う事に大した意味は無いし、むしろマイナス作用の方が多いかもしれん」

他のメンバーも、我が意を得たりとばかりに大きく頷く。

「でもな。世の中には理屈で語れん事もあるんよ。特に、部活しよる高校生にはな。大人の身勝手な考えかもしれんし、思いっきり間違うとる事も、ようけある。精神論になってしまうんかもしれんけど、『ひたすら』とか『とにかく』っていう姿勢は、俺は好きやし、皆にもそういう姿勢で柔道と向き合ってほしい。柔道だけじゃなく、高校生活全部に。逆に聞くけど、明日の練習の事考えて、疲れ残さんように今日の練習で手ぇ抜くか?筋肉痛が残らんように、腕立て伏せの回数減らすか?違うだろ?」

少しずつ、メンバーの表情が変わっていく。僕も含めて。

「明日も大事やけど、今が一番大事なんよ。今と全力で向き合った先に、明日がある。今を手加減するような奴の明日は、大した明日にはならん、と俺は思う。理屈も大事やけど、『がむしゃら』はもっと大事やと思うぞ。がむしゃらにやって後悔する事は絶対に無いけん、あれこれ考える前にまず動いてみよう」

ハッとした。と、同時に思い出した。僕は今まで、理屈で柔道をしていたんだろうか。いや、決してそんな事はない。その日の練習に全てを懸けて、必死になっていたはずだ。翌日の練習など頭にはない。帰り路の自転車を邪魔する向かい風も眼中にない。ただ、強くなりたい、相手に勝ちたい、その一心で柔道と向き合っていたはずだ。柔道を始めた頃からずっと・・・

中学時代に県チャンピオンになって、余計なプライドが芽生えてしまったのかもしれない。泥臭さを忘れ、楽に結果を手に入れる方法を探していたのかもしれない。

食い練の事もそうだ。苦しい事、出来そうにない事から逃げていただけだ。僕が口にした理屈とは、結局のところ「屁理屈」に過ぎなかったのだ。

急に自分が恥ずかしくなってきた。自然と俯いてしまう。誰かが動く気配がした。俯いたまま、視線だけ横に滑らせると、原岡先輩が夜食用のおにぎりを食べていた。夕食を終えて、まだ30分も経ってない。決して美味しそうに食べているわけではない。でも、仕方なく食べている風でもない。おにぎりを食べている、のではなく、おにぎりと戦っているのかもしれない。なるほど、食い練とはそういう事なのか。

他のメンバーも、次々におにぎりを頬張ってく。僕も負けじとかぶりつく。

10分も経たないうちに、全員がおにぎりを食べ切った。堀田先生も満足そうに

「がむしゃらも悪くないだろ?考え過ぎたら、出来る事も出来んようになってしまうわ。気持ち切り替えて、残り2日も全力でぶつかろう」

と締め括った。

 それにしても、どうしてこの人の言葉にはこうも説得力があるのだろう。威圧感があるわけではない。筋道がきっちり通った理論ばかりでもない。これまでに出会った事のないタイプの大人だった。他人の意見にはほとんど聞く耳を持たない僕が、初めて素直に従おうと思えた人でもあった。

 翌日と翌々日も、練習試合の結果は振るわなかった。僕個人としても、いくつか白星を挙げる事は出来たが、本来の動きには程遠く、同じ1年生に投げられる試合もあった。

 それでも、チームの雰囲気は悪くなかった。試合経験を積み、各々の弱点を発見する事が出来た。何よりも、堀田先生の熱い話を聞く事が出来た。おかげで目が覚めて、1ヶ月後の県総体に向けて突き進む事が出来そうだ。

 ただ、合宿での一番の思い出は、と問われたら、全員が声を揃えて「食い練」と即答するだろう。これもチームワーク・・・と言って良いのかどうかは分からないが。

 怪我人もなく、無事に合宿を終え、大会前の追い込み練習、そして調整練習を経て、僕にとって初めての高校総体を迎えた。

 公式戦は中学2年生の新人戦以来、約1年半ぶりである。ようやく、この舞台に戻ってくる事が出来た。楽しみ半分、不安半分、といったところだ。やるだけの事はやってきた。ブランクを言い訳には出来ない、いや、したくない。練習時間が足りないのなら、気持ちで補う。僕以外のメンバーも、きっと同じ気持ちで畳に上がるだろう。

 団体戦は、先鋒に僕、次鋒に東先輩、中堅に石内、副将に原岡先輩、大将に西田というオーダーで決まった。中学時代は中堅や副将で出場する事が多かった僕は、先鋒という配置に憧れていた。自分の試合がチームの流れを作る。勝敗だけでなく、その内容や勢いも求められる。野球で例えるなら、先発ピッチャーのような存在だ。プレッシャーも大きいが、それ以上に遣り甲斐があり、僕の性格には最適なのである。

 初戦の相手は、徳島商業高校。15年程前には、県大会で何度も優勝し、全国大会でも上位入賞を果たす選手を輩出する高校だったが、現在は当時の勢いは陰りを見せている。我が城ノ内高校と、どこか似ている。それはつまり、「また強いチームを作ろう」という高い志を持っている、という事でもある。当然油断はできない。試合前には、円陣を組んで、原岡先輩の「いくぞーっ」の掛け声に続いてメンバー全員で「おーっ」と応えて気合を入れた。

 そして試合が始まった。僕の相手は、同じ階級の2年生で、上背のある選手だ。序盤は動きが固くなり、思うように技が決まらなかったが、試合時間が半分を過ぎたあたり、相手が前に出てくるところに背負い投げを合わせて「一本」。まずは自分の役割を果たす事が出来てホッとした。

 この流れで一気に勝負を決めたいところだが、相手も巻き返しを図って怒涛の反撃に出てくる。

続く東先輩は、100㎏近い選手を相手に粘りを見せるも、終盤に力尽き、抑え込みで「一本」を奪われてしまう。

中堅の石内は、再び流れをこちらに呼び戻すべく、積極的に技を仕掛けていくが、相手の軽量級選手に上手く捌かれてしまう。徐々に焦りが見え始め、不十分な態勢から大外刈りを繰り出したところを返され「一本」。連敗を喫してしまう。

副将の原岡先輩で、タイに戻したいところだが、相手は向こうのキャプテンで、試合運びも上手かった。決して危険を侵さない、かと言って審判から「指導」を貰うような逃げも見せない。最後まで、相手の動きに翻弄されてしまい「引き分け」。

後がない城ノ内は大将の西田に全てを託す。しかし、相手は徳島商業のエース。実力も経験も相手が上回っており、必死に食らいつくも、内股が決まって「一本」。  

終わってみれば1対3、完敗だった。さすがに、いきなり優勝できるとは思っていなかった。それでも、初戦敗退は想像していなかった。

何が足りなかったのか。

何が必要だったのか。

もちろん悔しさはあるが、頭が混乱して感情が追い付いてこない。

 全員、うなだれたまま控室に戻ると、堀田先生が口を開いた。

「お疲れさん。チームは負けてしもうたけど、一人一人の試合は悪くなかったぞ。」

誰も頭を上げない。

「それぞれ反省点も見つかったと思うけど、チームにとって一番大事なモンが見えた。原岡、何か分かるか?」

突然話を振られて、一瞬焦りの表情を浮かべたものの、すぐに暗い表情に戻り、首を曖昧にひねるだけだった。

「俺らの現在地が分かったでないか。今の実力、県内での位置づけ、追うべき相手との距離。今までは、漠然と『勝つ』事を目指してきたけど、これからはもっと明確に、具体的に目標と向き合える」

現在地、という言葉を耳にして、僕はふと思った。僕が試合前に胸に抱いていた不安の正体は、これだったのかもしれない。相手の実力や試合に勝てるかどうか、ではなく、今の自分はどこまで戦えるのだろう、どんな柔道が出来るのだろう、という不安だったのだ。

「ゴールのあるモンにはスタート地点が要る。スタートっていうんは現在地の事じゃ。短距離走でもマラソンでも、スタートをちゃんと決めとかなゴールまでの距離測れんだろ?試合には負けたかもしれんけど、ほれ以上に意義ある収穫があったでないか。これはもう、勝ったんと一緒じゃ」

最後はハッハッハ、と笑いながら話していた。

堀田先生の話が終わった時、混乱していた僕の思考回路は正常に戻った。すると、悔しさと同時に、嬉しさが込み上げてきた。

堀田先生は今の話を「俺ら」の話として語ってくれた。「お前ら」ではなく。一方的に言葉をぶつけてくる大人を、何人も見てきた。その度に反抗心が生まれ、大人を嫌いになっていった。

でも、この人はそうじゃない。いつも僕たちの目線に立ってくれている。一緒に戦ってくれている。そう思うと心強くなり、嬉しくなったのだ。

原岡先輩の「礼!」の合図でメンバー全員が「ありがとうございました」とお辞儀をした時、涙が出てきた。すると、堀田先生に

「どしたんな、太朗。今頃悔しくなってきたんか。明日は個人戦があるんやけん、シャンとせぇよ」

と嘲笑された。

これは悔し涙じゃなくて、たぶん嬉し涙なんやけどなぁ。

堀田先生にも分からない事はたくさんあるのだろう。そう思うと、余計に嬉しくなり、しばらく涙を止める事が出来なかった。

 翌日の個人戦。僕は中学時代と同じ、73㎏級で出場した。阪堂さんとのトレーニング効果もあり、組み手で負ける事もなく、技も面白いように決まった。順調に勝ち上がり、ついに決勝戦。決勝戦の相手は、同じ藍住中学出身の藤田先輩。モンパチのアルバムを貸してくれたり、一緒に下校したりと、何かと良く面倒をみてくれた先輩である。

 中学時代は全く歯が立たなかった。試合で対戦した事は無いが、練習では投げられてばかりで、僕の技が決まった事は一度もない。しかも、現在は県内トップの実力校・阿波高校のレギュラーメンバーとして、団体戦でも活躍している。勝てるイメージが全く湧いてこない。負けて元々、胸を借りるつもりで、今の自分の全力をぶつければ良い、というのは頭では分かっていても、心がついてこない。勝てば全国大会、観客全員が注目する決勝戦という最高の舞台なのに、気持ちが昂らない。こんなに弱気になるのは、いつ以来だろう。

 冴えない表情のまま、試合前のウォーミングアップを行っていると、堀田先生がやって来た。

「中学の先輩で、やりづらいかもしれんけど、相手はもっとやりづらいと思っとる。後輩には負けれんっちゅう余計なプレッシャーも感じとる。太朗の方が立場的には優位なんぞ」

堀田先生の励ましを聞くと、不思議と前向きになれる。

「中学の練習では勝てんかったかもしれんけど、試合はした事ないんだろ?練習と試合は別やけん、気にせんでエエ。ほれに、俺が見る限りでは太朗の方が良い柔道しよるぞ」

僕の方が強い、とは言っていない。試合の結果に柔道の良い悪いはあまり関係ない。それでも、さっきまでのヤル気の無さが嘘のように闘争心が湧いてきた。俯き気味だった顔をパッと上げて堀田先生の目を見て、

「はい、絶対に勝ちます」

と宣言し、同時に僕自身に対して喝を入れた。

 大歓声が降り注ぐ中、試合が始まった。僕は右組手、藤田先輩は左組手、いわゆる「けんか四つ」になる。相手に技を掛けさせないように、僕は序盤から積極的に攻撃を仕掛けた。しかし、上手く捌かれて決定的な技には至らない。それでも、作戦が功を奏し、藤田先輩は技らしい技を仕掛けることなく、4分間の試合が終わった。

ここからはゴールデンスコアの延長戦。練習試合でも経験していない、未知の領域だ。4分間攻めっぱなしだった僕のスタミナは、ほとんど尽きている。それでも、気合で足を前に運び、攻めの姿勢を貫き続ける。ポイントを奪う事は難しいかもしれないが、試合の流れは僕にある。このまま旗判定に持ち込めば、勝てる。そんな展開を思い描いた、その時だった。僕が前に出した右足をタイミング良く払われ、たまらず尻もちをついてしまった。それが「効果」ポイントとなり、試合終了。全国大会への切符を手に入れる事は出来なかった。

試合の後、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。膝がガクガクして立っていられない。スポーツドリンクを飲もうにも、腕がプルプル震えてペットボトルが掴めない。乱れた呼吸がなかなか元に戻らない。これが、延長戦を戦った代償なのだろうか。

ようやく深呼吸できるまで落ち着いた頃、堀田先生が近付いて来て、僕の肩にポンッと手を乗せて、

「結果は負けやけど、内容は勝っとったぞ。自分でもほんな手応えないか?」

と聞いてきた。確かに、あの尻もちまでは僕の狙い通りに試合を進める事が出来た。堀田先生の言葉に流されたのではなく、僕自身の意思で、こくん、と頷いた。まだ声が出せる程体力が回復していない。

「一瞬油断したなぁ。このままいったら勝てる、とか思たんちゃうんか」

と、笑いながら言われた。全て見透かされている。急に恥ずかしくなり、思わず、

「すみません」

と呟いた。すると堀田先生は、

「中学の時に勝てんかった先輩に、あんだけの柔道が出来たっちゅう事は、太朗の方が成長しとるって事じゃ。しかも、まだまだ強くなる。ほなけん、焦らんと自分のやり方を信じて、これからも頑張っていこう」

と、僕の肩に乗せていた手を、今度は頭に移して、ポンポンと軽く叩いてくれた。

 ありがたい言葉に胸を震わせていたら、

「いきなり優勝しても面白くないもんなぁ。売れるスポーツ漫画の最初は負けから始まるんじゃ」

とオチを付けて、豪快に笑いながら控室を後にした。せっかく感動していたのに、と思ったが、これが堀田先生なんだなと思い直した。その瞬間、自然と微笑みがこぼれ、疲弊し切った筈の全身の筋肉が一気に緩んでいった・・・ような気がした。

 翌日の練習は、ミーティングと軽めの基礎練習だけだった。試合で溜まった疲労を回復させるため、という理由もあるのだが、最大の理由は別にある。来週の月曜日から中間テストが始まるのだ。入学以来、柔道の事ばかり考えていたので忘れていたが、僕は県内有数の進学校の生徒でもある。

中学とは異なり、「赤点」や「留年」という制度が存在する。塾にも通っていないので、普段の授業だけが僕の勉強時間だった。幸いにもノートは不備なくとっていたが、肝心の内容は頭に残っていない。

しばしの間、柔道の事を忘れ勉強に集中しよう。しかし、県総体が終わるのを待っていたかのように、天気予報では徳島県が梅雨入りした事が発表された。ジメジメと蒸し暑い日が続き、雨音が僕の集中力を容赦なく奪っていく。高温多湿の中での練習もキツイものだが、じっと座って勉強するのも、これはこれでツライ。

1週間は、あっという間に過ぎた。土日は8時間机に向かった。受験の時も含めて、こんなに勉強したのは初めてだった。とにかく知識を頭に詰め込んで、試験に臨んだ。金曜日の練習後に堀田先生が放った「赤点取った奴は試合に出さんけんな」の言葉が重くのしかかり、試合前よりも緊張した。

3日かけて、5教科8科目の試験が行われた。半分以上は問題集から出題されているのだが、1科目終える度に、ドッと疲れが押し寄せてくる。特に、文系の僕にとっては数学と理科が関門だったが、何とか乗り切り、無事に3日間の日程を終えた。若干の手応えがあったからだろうか、何とも言えない心地良さに包まれた。

翌週、続々と答案が返却された。思っていたよりも出来の良かった科目、予想通り出来の悪かった科目など様々だったが、「赤点」は一枚も無かった。8科目の平均点は82点。悪くはない。それでも、中学時代と比べるとどの科目も点数は下がっていた。案の定、学年順位は240人中73番。さすがに進学校とあって、周りのレベルも高い。欲を言えばキリは無いが、とりあえずは最低限の目標は達成できたので、良しとしよう。

さらに1ヶ月後、夏休み前に今度は期末試験が行われた。音楽や保健体育などの副教科が加わるので、勉強期間も時間も量も増やさなければならなかった。試験範囲が発表された日の朝刊に、徳島の梅雨が明けた記事が掲載されたが、今度は夏本番の暑さが襲ってくる。特に、土の中での長い幼虫期間を経て地上に姿を現した蝉たちの鳴き声が、勉強の邪魔をする。

中間試験よりも苦戦したが、期末試験も無事に乗り切った。主要5教科は中間試験よりも点数が上がったが、副教科が足を引っ張り、学年順位はまたも73番。僕は7月3日生まれ、身長173センチ、体重73キロ。73は僕のラッキーナンバーなのかもしれない。幸いにも、今回も「赤点」は無く、1学期が終わった。

夏休みの練習は、合宿や遠征が中心だった。県外まで出向く事も少なくなかった。当面の目標は、10月の新人団体戦、11月の新人個人戦。もちろん、休みなど無い。徳島の夏と言えば、お盆に開催される阿波踊りだ。小学生の頃は家族で毎年踊りを観に行った。阿波踊りよりも、屋台の食べ物やくじ引きが目当てだったが、それでも笛や太鼓が奏でるぞめきを聞くと、子供ながらに胸を躍らせた事は今でもよく覚えている。

ただ、その思い出を懐かしむ事はあっても、引きずる事はない。何人かのクラスメートに、

「阿波踊り観に行こう」

「吉野川の花火大会一緒に行こう」

と誘ってもらったが、断った。

 部活を強制されているわけではない。当然遊びたい気持ちも、あるにはある。それでも、柔道には勝てない。僕の頭にあったのは、「誰にも負けたくない」という強烈な欲だけだった。ひたすら柔道に打ち込む。そんな青春も悪くないだろう。中学3年の1年間、柔道ができなかった時期が、逆に僕の柔道愛を深めてくれたのかもしれない。

 充実した夏休みが終わり、学校では文化祭と体育祭が行われた。1年生にはそれほど役割が無いので、客として純粋に、そして本気でお祭り気分を味わった。束の間の休息、というやつだ。次第に暑さも和らき、季節は秋へと移っていく。

 そして迎えた新人団体戦。各校、3年生が抜けて戦力は低下している。夏休みに試合経験を豊富に積み、勢いのある我が城ノ内高校にとっては上位を狙うチャンスである。レギュラーメンバーは、県総体と変わらず。

 結果は、見事にベスト4。団体戦での記念すべき高校初勝利を挙げるとともに、来年の県総体でのシード権を獲得する事も出来た。

 準決勝では、鳴門第一高校と対戦。ゴールデンウイークの合宿で威張っていた監督のいる高校だ。勝ってその鼻を明かしたかったが、接戦の末、敗北を喫した。それでも、入賞できた事は全員の自信になった。チームが強くなっている事も実感できた。僕個人としても全試合一本勝ちで、役割を果たした。

 翌月の新人個人戦では、僕は頂点に立った。決勝戦では、藤田先輩との再戦となった。今回もゴールデンスコアの延長戦までもつれ込んだが、相手の技を捌いた後の返し技で「有効」ポイントを奪い、リベンジに成功した。他の部員も健闘し、66㎏級では久米川が準優勝、73㎏級で東先輩が第三位、100㎏級では原岡先輩が準優勝、西田が第3位と、8人中5人が表彰台に上がる事が出来た。

 これで、今年の公式戦は終了となる。冬休みには、再び遠征や合宿が予定されている。さらに、冬場は土台となる身体作りのシーズンでもあるため、筋力トレーニングや走り込みに割く時間も増やす必要がある。たった2週間の冬休みだが、やるべき事は山のようにある。

年明けの1月中旬には、全国高校柔道選手権大会の徳島県予選が行われる。勝ち抜き方式の団体戦で、全国大会はあの日本武道館で開催される。柔道家なら誰もが憧れる聖地で試合が出来るのだ。高校球児で言うところの「甲子園」だ。俄然ヤル気が湧いてくる。さすがに大晦日と元旦は練習も休みになったが、それでも僕はトレーニングを怠らなかった。

2005年最後の夜には、家族で紅白歌合戦を観ながら、豪華な海老天が乗った年越しそばを啜り、1年が無事に終わった事に感謝した。数時間ほど眠り、夜明け前に起きた。強風が吹く中、自宅近くの四国三郎橋までランニングし、その欄干から初日の出を拝んだ。空は分厚い雲に覆われていたので、真っ赤に燃えるような朝日ではなかったが、僕の心は晴れやかだった。

「団体戦でも個人戦でも全国大会出場」

心の中で呟いた。嫌いだった神様を許したわけではない。これは神頼みではなく、決意表明だ。それでも、あの頃より少しは、神様の事を好きになっているのかもしれない。

 2006年1月15日、全国高校柔道選手権大会徳島県予選当日。今年最初の試合にして、日本武道館を懸けた重要な大会。堀田先生も日本武道館には足を踏み入れた事がないらしく、なんとしても優勝して、先生を聖地へ連れて行きたい。メンバー全員をプレッシャーと緊張が襲う。

 そんな中、僕には少し余裕があった。この大会は勝ち抜き方式なので、「チーム力」に対して「個の力」で戦う事が出来る。極端に言えば、一人の選手が相手チームの5人を倒すと、チームの勝利になるのだ。

 さすがに僕も、自分の実力がそこまであるとは思っていないが、それでも二人ないし三人に勝てば、他のメンバーが楽に戦える状況を作る事が出来る。まさに「エース」としての実力が問われる事になる。

 初戦、二回戦、準々決勝と、順調に勝ち進み、迎えた準決勝。相手は、新人団体戦で苦杯を喫した鳴門第一高校。チームの作戦としては、先行逃げ切りがベスト、という事で、先鋒は僕が務める事になった。図らずも、試合前に僕が想像していた展開になった。「とにかく、いけるところまでいこう」と、自分の頬を両手で三度叩き気合を入れ、試合に臨んだ。

 堀田先生の狙いは的中した。僕が、相手の先鋒と次鋒から勝ちを収め、中堅の選手と引き分け。これで、相手は残り二人に対して、こちらは四人で戦える。焦る相手の気迫にも怯む事なく、次鋒の西田、中堅の石内がそれぞれ引き分けに持ち込み、二人残しで決勝進出を決めた。

1年生だけの力で準決勝を制した事、そしてここまでの4試合全てを無失点で勝利している事が、チームの勢いを更に後押ししてくれる。「決勝戦もこのまま・・・」という期待が膨らんでくる。

決勝戦の相手は、徳島柔道界の絶対王者・阿波高校だ。メンバー全員が2年生で、体格も僕たちより一回りがっしりしている。それでも、ここまできたのだ。負けるわけにはいかない。

決勝戦の作戦は、序盤は粘って守備重視、副将に配置された僕が逆転の起爆剤になる。準決勝とは真逆のものになった。メンバーに異論は無い。円陣を組んで士気を最高潮に高め、決勝戦の畳に上がった。

先鋒の西田が引き分け、次鋒の東先輩は相手の主将に粘りを見せつつも一本負け、中堅の原岡先輩が何とか引き分けに持ち込んだ。これで、城ノ内高校は残り二人、阿波高校は残り三人。ここまでは作戦通りの展開で進んでいる。

いよいよ、僕の出番だ。相手の中堅は、100㎏級の県チャンピオン。まともに組み合うと、パワーで負けてしまう。フットワークを駆使して相手の組み手を許さず、隙を伺う。試合時間半分が経過した頃、相手が不用意に前に出てきた。そこを見逃さず、タイミング良く背負い投げを合わせて「一本」。一瞬のチャンスをものにする事が出来た。続く相手の副将は81㎏級の県チャンピオン。次から次に強豪選手が登場する。それでも、僕だって73㎏級のチャンピオンなのだ。チームの勝利も懸かっている試合で負けるわけにはいかない。一進一退の攻防が続く中、終了間際、僕の仕掛けた大内刈りに相手は身体を捻じりながら防ごうとするも、右脇腹から畳に落ち「技あり」ポイント。優勝に王手を掛ける一勝を挙げた。

後がなくなった阿波高校は、キャプテンでありチームのエースでもある大将に全てを託す。先に二試合戦った分、僕に疲労はあったが、引き分けでもチームの勝利が決まるので、気分的には楽だった。

相手はどんどん技を仕掛けてくるものの、焦っているのか、思っていたような強さは感じられない。落ち着いて捌く事ができる。僕の中で、優勝へのカウントダウンが始まる。

残り時間が1分を切ったところで、攻め続ける相手に疲れが見えてきた。組み合った時の圧力も感じられない。むしろ、僕の技が決まりそうな予感すらする。勝てる相手なら、無理に引き分けに徹する必要はない。僕の実力を認めてもらうためには、引き分けよりも勝つ方が良い。

堀田先生の作戦を忘れ、いや、正直に言おう。作戦を無視して、攻撃的な柔道に切り替えた。得意の組み手になった一瞬を見逃さず、得意の背負い投げを繰り出した。相手は勢いよく背中から落ち「一本」・・・となるはずだったが、しっかりと受け止められ、逆にバックドロップのような裏投げを喰らってしまった。掴みかけていた日本武道館への切符が掌からするりと逃げていった。

結局、大将の石内も逆転ムード漂う相手の勢いを止める事が出来ずに一本負け。他のメンバーが最後の礼に向かう中、僕は一人立ち上がる事が出来ずに、その場に座り込んだままだった。原因は、連続で3試合戦った疲労だけではない。いや、きっとそれ以上の重い何かが僕にのしかかっていた。見かねた原岡先輩が、

「挨拶行こう。礼だけは、いつも通りしっかりやろう」

と、声を掛けてくれなければ、そのまま畳に沈み込んでしまったかもしれない。それぐらいのショックを受けた。

―もっと僕に実力があれば・・・

―返し技にも耐えられる体重があれば・・・

―もっとリスクの少ない技を選択していれば・・・

でも、何か違う。いつもと違う。こんな居心地の悪さに胸を苛まれる事は、今までなかった。

 閉会式の後、メンバーから離れた所で柔道着を畳んでいたら、堀田先生が近付いて来た。

怒鳴られる事も覚悟していたが、堀田先生の口調は意外に静かで、いつもの目力も消えていた。ただ、発する言葉はとても冷たく、僕を突き放すものだった。

「皆よう頑張った。負けたんは俺の責任じゃ。太朗に頼った俺の作戦が間違いだった」

言葉は棘を剥き出しにして、真っ直ぐに僕の心に突き刺さる。

「他の4人はそれぞれに出来る事は全部出し切って役割を果たしてくれた。お前の勝手な判断が、最後の最後で試合を壊してしもうた」

試合後に抱いた違和感の正体が、少し分かってきた。

「チームでは一番強いかもしれんけど、独りよがりな奴を、俺はエースとは認めんぞ。自分の力でチームを勝たせたかったんかもしれんけど、ほれは責任感とは違う。責任感が強いんと、チームを信用せんのは別物ぞ」

そう言って、堀田先生は他のメンバーの元に戻って行った。

 何も言えなかった。堀田先生の言葉にショックを受けた僕は、人目から逃げるように、玄関横の通路に向かった。一人になりたかった。すると、そこに原岡先輩がいた。一人で、泣いていた。いつも明るく、笑顔でチームを引っ張ってくれる原岡先輩が。その時、ようやく気付いた。これは、そういう試合だったんだ。僕の試合ではなく、僕たちの試合だったんだ。チームで戦うべき団体戦なのに、僕の頭の中は自分の事しか無かった。

「僕が勝てばチームも勝てる」「僕が勝てばチームに勢いがつく」「僕が勝てば観客も盛り上がる」僕が勝てば、僕が勝てば、僕が勝てば、僕が、僕が、僕が・・・・

 挙句の果てに、大事な一戦で一本負けを喫しチームに負けをもたらした。堀田先生の期待に応えられなかっただけでなく、信頼を裏切る形になってしまった。しかも、原岡先輩と東先輩にとっては、日本武道館で試合が出来る最後のチャンスだったのだ。そのチャンスを、僕が奪ってしまった。

 柔道を始めてから、試合で負けて悔しい思いをした事は何度もある。でも、こんなに後味の悪さを感じたのは初めてだった。僕にとって、初めての「悔い」が残る試合となった。

そして、この悔いは僕の人生においても唯一の「後悔」となった。

 翌日、朝のホームルームが始まる前に、僕は2年生のフロアを訪れた。原岡先輩と東先輩に謝りたかった。昨晩なかなか寝付けなかった布団の中で、色々と考えた。僕のせいで試合に負けた事を謝るのではない。先輩を含め仲間を信頼できなかった事を詫びたかった。

 僕が2年生のフロアに到着すると、ちょうど廊下の反対側から2人が並んで歩いて来た。2人は、僕の姿を見つけると足を止め、驚いた表情になった。僕は気まずさを振り払い、小走りで2人の元に駆け寄って、深々と頭を下げた。

「昨日はすみませんでした」

2人は、きょとんとしていた。

「せっかく皆が繋いでくれたのに、俺の身勝手で台無しにしてしまいました。他のメンバーの事、信用してないまま試合してました。次からはこんな事が無いように気を付けます」

2人が顔を見合わせるのが、気配で伝わってきた。これでは足りないと思い、土下座しようとした、その時、2人の笑い声が耳に飛び込んできた。僕は思わず顔を上げた。今度は僕がきょとんとする番だった。

「俺らは昨日の結果に満足しとるよ。あとちょっとで勝てたけん悔しさはあるけど、鳴門第一に勝つとか、1年前には想像すらしてなかったしな。太朗が城ノ内に来てくれたおかげぞ。謝る必要ないわ」

原岡先輩が言う。

「ほれに、ホンマに信用してなかったら、ここまで一緒に頑張ってきてないだろ。こんな弱いチーム、途中で見限るって。そうじゃないって事は、太朗は俺らに期待してくれとったんよ。信頼してくれとったんよ」

東先輩が続けて言う。

「まだ最後の総体が残っとるんやけん、落ち込んどる暇ないぞ。あと半年しかないし、今度はチーム勝たせてくれよ」

「俺らにはもう叶わん夢になったけど、手ぇ届くとこまで来たんやけん、思いっきり手伸ばして自分たちの力で日本武道館行って来いよ」

原岡先輩は僕の両腕を掴み揺さぶりながら、東先輩は僕の頭をガシガシと揺すりながら言ってくれた。

 まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった。強い言葉で責められるよりも、慰めの言葉を掛けられる方が、キツイ。2人の優しさが、じわじわと胸に染み渡っていく。昨日の堀田先生の言葉が、蘇ってくる。認めさせるんじゃない。この人達に認めてもらってこその、エースなのだ。

 昨日流す事が出来なかった涙が、今頃になて流れてきた。それも、悔し涙から感慨の涙に成分を変えて。それを見た東先輩が、

「朝から泣っきょったら、授業中困るぞ」

と笑ってくれた。そのせいで、涙は余計に溢れるのだった。

 

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