5.これが私の真実の愛
夏用の薄いグレーのシスター服に身を包んだ私は、レモングラスのハーブティーが入ったポットと、空のカップ。スポンジケーキの載ったお皿を載せたお盆を持って、面談室に急いで歩いていた。
「ナターシャ!」
扉を開けて思わず親友の名を叫ぶ。制服姿のナターシャは、苦笑いを浮かべて椅子から立ち上がった。
「久しぶり、エヴェリーナ」
私はお盆をテーブルの上に置いて、ナターシャに近づくとそっと抱きしめる。ナターシャも優しく抱き返してくれた。花の甘い香りが私の鼻腔をくすぐる。
「エヴェリーナが元気そうで良かったわ」
体を離して、ナターシャが泣きそうな顔でそう言った。私は微笑みながら口を開く。
「心配してくれてありがとう、ナターシャ。さ、座って」
ナターシャは頷くと、貴族令嬢らしい所作で席に座った。ナターシャの前にハーブティーとスポンジケーキを置いて、対面に座った。
「エヴェリーナが急に修道院に入ったから、学園内も大騒ぎだったのよ」
苦笑いしながらハーブティーを口に運ぶナターシャに、私は首を傾げる。
「そうなの?悪女がいなくなって清々してる人ばかりだと思ったわ」
本心からの言葉に、ナターシャは複雑そうな顔をした。
「誰だって、婚約者が結婚前から堂々と浮気していたら腹が立つわよ。エヴェリーナが悪女なら、あの女は大罪人よ」
この国は一夫一妻制だが、婚姻後に跡取りが生まれるとお互い愛人を持つ夫婦も少なくない。その為、婚約中から秘密の恋人を持つ者もいるが、あくまでも「秘密」の関係なのだ。
フレデリック殿下とリリアーナは余りにも目立ち過ぎていた。学園内では、まるで本当の恋人─婚約者同士のように振る舞っていた。
その上、二人は美男美女。
私たちはまだ子どもで、演劇や物語の登場人物のように二人を錯覚する生徒も少なくない。だから禁断の愛、いや、真実の愛を応援していた生徒が多かったのだと、修道院の生活の中で私は気付いた。彼らは、自分たちは火の粉のかからない安全な場所から、物語を眺めているのだ。
私という二人の真実の愛を邪魔する悪女の存在も、そんな物語のスパイスになっていたのだろうか。
そんな事を考えていると、ナターシャが怒りながらスポンジケーキをフォークで切り分けて口に運んでいた。ぱぁとナターシャの顔が綻ぶ。
「このスポンジケーキ、とっても美味しいわ」
「ありがとう。私が作ったのよ。今までで最高の出来なの」
ふふふと私が笑うと、ナターシャはパチクリと目を丸くした。
「え!それなら味わって食べなくちゃ!」
ナターシャはスポンジケーキを小さく小さく切り分けて、大事そうに口に運んだ。私は嬉しくて胸がいっぱいになる。
「そんなに気に入ってくれたなら、お土産に残りを包んで上げるわ。ショーン様と食べてね」
婚約者のショーン様とナターシャはとても仲が良い。きっと二人でお茶を飲みながら、食べてくれるはずだ。
「ありがとう!帰りに寄付金を追加しておくわね」
いたずらっぽく笑ってナターシャが言ったので、私はクスクスと口に手を当てて笑う。
「あぁ、そうそう。学園のことだけど……」
ナターシャは少し声のトーンを落として話し始めた。
「エヴェリーナが学園に登校せず、そのまま修道院に入っちゃったから。あの二人を温かな目で見ていた人たちは、夢から覚めたみたいな顔をしてたわ」
正しくは、学園の登校途中でシスターに会った後、私はタウンハウスに帰っていた。
父と兄は仕事があるので不在。母もお茶会に参加するためタウンハウスには居なかった。
これ幸いと、私は急いで制服から一人で着られるシンプルなワンピースに着替える。それから自分の誕生日に貰ったアクセサリーやドレスなど、トランクに詰めるだけ詰め込んで、それを修道院に入るための持参金代わりにしたのだった。
フレデリック殿下からの贈り物は持ち出さなかった。
『王家にお返しください』とメモを残して、トランクを引きずりながら屋敷を後にする。
いつもと様子の違う私を、使用人たちはオロオロと見守っていたが、誰も止める者は居なかった。
少し離れた所に、シスターとその使いが待機していて、ホロ付きの荷馬車にトランクと一緒に乗り込むと、そのまま修道院に入ったのだ。
シスター長は持参金の心配はしなくて構わなかったのにと言ってくれたが、持参金のない娘は下働きをさせられると聞いたことがあったので、私はアクセサリーやドレスをトランクごと渡した。
結果、他の元貴族令嬢と同じく下働きはなく、写本などの軽作業を行っている。
ナターシャのため息に、私の意識は現実に戻った。
「やっと自分の身に置き換えて考え始めたみたい。二人を応援していた人たちって、同じ穴の狢というか、類は友を呼ぶというか、自分の婚約者を蔑ろにしてたから……」
その言葉に、私以外にも同じように心を痛めていた人たちが居たことに気付く。自分のことに必死で、周りが見えていなかったのは、私も同じだったのね。
「エヴェリーナみたいに修道院に逃げ込まれたら大変!って、婚約者にりんご磨きしてるわよ。中には婚約を破棄したり、白紙に戻す人たちも居たけどね。親たちもエヴェリーナの行動を見て、子どもたちの訴えを真剣に受け止める人も増えたわよ」
自己保身に走っただけなんだけど、蔑ろにされていた人たちが救われるなら良かったわと私は微笑んだ。ナターシャは小さく切ったスポンジケーキを口に運ぶ。リスみたいで可愛いわと、私はナターシャを眺めた。
「そうそう。エヴェリーナがフレデリック殿下からの贈り物を全部置いていったでしょう?」
私はコクリと頷く。
「それが、フレデリック殿下には効いたみたいよ」
「効いた?何のこと?王子の婚約者への贈り物は、国費から支払われているから、流石に持ち出すのは気が引けたから、置いて行ったんだけど?」
私の返答に、ナターシャはクスクスと体を震わせて笑った。何がおかしいのかしら?
「ふふ!確かに、国のお金で買った物を寄付金代わりにするのは気が引けるわね!」
笑いが収まらない様子のナターシャを、私は不思議に思いながら首を傾げる。ナターシャは目尻の涙を指先で拭いながら話し出した。
「フレデリック殿下は、エヴェリーナが自分のことを大好きだって思ってたから。贈り物を突き返されてショックを受けたのよ」
確かに、あの悪夢を見るまでは、私はフレデリック殿下を慕っていた。いや、慕っていると自己暗示をかけていたのだと思う。現王と王妃のように、互いに愛し合う関係でありたいという願望が無意識にあったのだろう。
「そうだったの。私からの贈り物を、二年生の頃には身に着けてくれなくなっていたし……」
リリアーナから貰った物ばかりを身に着けていたわという言葉を、私は呑み込む。
すっかりフレデリック殿下への気持ちが無くなってしまった私には、リリアーナのことなんて、どうでもいい事のように思い始めていた。
「そうだったの。結局、二人は別れたわよ」
「え?」
ナターシャの言葉に、私はポカンと口を開ける。
「ど、どうして?」
予想外の結末に、私の声は震える。
フレデリック殿下の新しい婚約者は、リリアーナじゃないの?私がリリアーナを卒業するまで虐げなかったから、隣国の姫だと明かされなかったから?
混乱している私に、ナターシャは答える。
「持参金がエヴェリーナより少ないからよ」
思わず間の抜けた声を出しそうになった。
そんな事でと呆気にとられていると、ナターシャはスポンジケーキを口に運んで、ハーブティーを飲んだ。
「それに、婚約者が修道院に逃げ込むほどの男に、娘を嫁がせたい親がいるかしら?しかも、その片棒を自分の子どもが担いでいたなんて、ヘイグ伯爵が認めるわけないでしょう?」
ヘイグ伯爵は、私が修道院に入ったことに、リリアーナは関係ない。あくまでフレデリック殿下の行いのせいだと、しらを切ることにしたのかと呆れた。
そのフレデリック殿下の行い─浮気には、相手がいないことには始まらないのですがと頭が痛くなる。
秘匿されているが、一応ジェフサ国の姫だから、純潔を守っている姿勢を崩せないってことかしら?
「まぁ、エヴェリーナのご実家、バーグ公爵家が猛抗議してるから。でも、エヴェリーナへの慰謝料を払ってしまったら、王家からも抗議が来ることになるわね。ヘイグ伯爵家は財政難確実だわ」
そう言ってナターシャはハーブティーを一口飲んだ。我が家が抗議しているのは、世間体と金のためだろうなと、ぼんやりと考える。
私が王妃になった際に手に入る権力や恩恵を考えると、慰謝料ははした金だが、婚約者の浮気に悩んだ娘を放置した家族という世間体はどうにか回復したいだろう。
家族への愛も薄れてしまった私は、勝手にやってくれと少々投げやりな気持ちになってしまう。
修道院に入ってから、ここに両親や兄が訪ねてきたことはない。もっとも、シスター長を含め、シスターたち全員に家族が来ても面会はしたくないと伝えてある。
「王家もあちこちにフレデリック殿下の縁談を持ちかけてるけど、婚約を結んでいない令嬢のいる高位貴族のほとんどに『我が家にはもったいないお話です』って断られてるわ」
「そう……」
私はそう呟いて、窓の外を眺めた。
少し曇った夏の空。
フレデリック殿下は、自分がしたことをどう考えているのだろう。少しは悪いことをしたと反省していたなら良いなと思いつつ、ナターシャに話しかけた。
「ナターシャは何時までお話しできるの?」
「後一時間は居られるわ」
その返事に、私は「沢山話したいことがあるの」と、ナターシャの空になったカップにハーブティーのおかわりを注いだ。
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ナターシャに渡すために、スポンジケーキを包んでかごの中に入れる。そのかごを持って、修道院の入口へ向かった。
「ナターシャ、おまたせ」
私が声をかけると、ナターシャはいつものように笑う。
「はい。約束したスポンジケーキ」
私がかごを差し出すと、ナターシャは嫌な顔を一切見せず受け取った。
「ありがとう、エヴェリーナ」
ナターシャの笑顔を見ると、心が晴れやかな気持ちになる。
「あ……」
「どうしたの?」
私が声を漏らすと、ナターシャは首を傾げた。
「きっと、これが真実の愛だわ」
「えぇ?」
私の言葉に、ナターシャは何のことだか分からないといった様子で片眉を上げる。
「私も、もしナターシャがミネルバ侯爵家のご令嬢じゃなくなっても、きっと会いに行くわ」
少し興奮していて、上手く伝えられているか心配だけど、ナターシャは笑顔で頷いてくれた。
「私、ナターシャのことが好き。ただのナターシャになったとしても、あなたが好きだわ」
そう。私は、ナターシャ自身が好き。地位や権力がなくっても、ナターシャのことはきっと好きなままだ。損得勘定のない、見返りを求めない関係。これが真実の愛な気がした。
「ありがとう、エヴェリーナ。生きる世界が変わっても、私もエヴェリーナのことが大好きよ」
涙ぐんで私の両手を握るナターシャに、鼻の奥がツンと痛くなる。同じ気持ちで思い合える関係ってなんて素敵なんだろう。
「また来るわ、エヴェリーナ」
「うん。ありがとう、ナターシャ」
泣き笑いの顔で私たちは別れの挨拶をする。門の外に、ミネルバ侯爵家の馬車が見えた。
ナターシャは何度も振り返って、私に手を振ってくれた。私もナターシャが馬車に乗って、その馬車が見えなくなるまで、大きく手を振った。
次にナターシャに会える時は、もっと美味しいお菓子を作れるようになろう。それと、ハーブを使った化粧品も渡せるようになろうと、私は目標を立てる。
見上げた空はいつの間にか晴れ渡り、太陽の日差しが修道院を照らしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
この章で完結です。