新生活のはじまりはじまり(1/2)
マルグリット・ドゥ・コペルが、マルグリット・ドゥ・ロワイヤルになって一番変わったのは、夫ができたことだろう。
「服はどれにするんだ、マルグリット」
衣裳部屋に着くと、フローランさんは楽しそうに色々なドレスを手に取った。
「この青いのはどうだ? 先月作らせたばかりのものだ。こっちのグリーンもいいな。裾の刺繍がとても綺麗だと思う。君の瞳や髪と同じ、深い茶色の糸を選んであるんだ」
フローランさんはあれでもない、これでもないとドレスをわたしの体に宛がう。そして、ふっと笑みを漏らした。
「全部似合うな。さすがは僕の美しいマルグリットだ」
フローランさんはわたしの髪を一房取って口付ける。唇にキスされた時と同じくらい心臓が高鳴るのを感じた。
「えっと……じゃあ、あっちの赤いのにします」
ネイルを施した指先を見ながら、モジモジと返事する。フローランさんは「分かった」と言って、ドレスだけではなく、それに合う靴とアクセサリーまで持ってきてくれた。
妻の身支度を侍女に任せたりせずに手ずから行うなんて、フローランさんはまめまめしい人だ。それだけわたしを深く想ってくれているってことかしら?
思いもかけず享受することになった豊かな愛情に、うっとりとなってしまう。
わたしが適当に指示したドレスは、胸と背中が大胆に開き、スカート部分にも大きくスリットが入った扇情的なシロモノだった。
でも、それ以上に恐ろしいのは、わたしがこの服を完璧に着こなしていることだった。白い肌に赤い布地が映え、ますます美貌の悪女に相応しい外見になっている。鏡に写った自分の姿に、わたしは見惚れた。
「さあ、ここに座って」
差し出されたスツールに腰掛けると、フローランさんが足元に屈む。そして、恭しくわたしの足を持ち上げ、つま先にキスしてから靴を履かせてくれた。
高いヒールのついた、ドレスと同じ色の靴。ピカピカに磨き上げられていて、珍しい宝石もついている。オシャレさんは足元まで気が抜けないってことね!
ドレスアップしたわたしは、すっかり心を浮き立たせていた。着飾るのがこんなに楽しいなんて! 美人になると、世界って変わるのね!
ワクワクしながらスツールから立ち上がったけど、その瞬間、バランスを崩して転びそうになった。
「マルグリット!」
でも、夫が抱きかかえてくれたのでみっともなく床に転がったりはしない。そう、美しい人妻は、尻もちをつくなんていう滑稽なイベントとは無縁なのだ!
フローランさんが「大丈夫か?」と尋ねてくる。
「は、はい。ちょっとヒールが高すぎたみたいで……」
「ヒールが高すぎ? 何を言ってるんだ。今の靴は、君が持っているものの中ではまだ踵が低い方だぞ」
こ、これで!?
なるほど。五年の後わたしは、ピンヒールで全力疾走できるタイプの女性ってわけね。
「どうやら少し慣れが必要みたいだな。きちんと歩けるようになるまでの間は、僕が君を横抱きにして運んでやろう」
「け、結構です!」
わたしを抱きかかえようとするフローランさんを慌てて押しとどめる。
まったくこの人は! 隙あらばわたしとイチャつこうとするんだから! 二十二歳のわたしは喜んでそれに応じてたのかもしれないけど、十七歳のウブな乙女にはそんなの無理よ!
「自分で歩けます。できれば手を貸していただけると助かりますが……」
「お安いご用だ」
フローランさんは貴婦人をダンスに誘うように、優雅に一礼してわたしの手を取る。そのまま食堂までエスコートしてくれた。
不思議だったのは、十歩も歩く内にすっかりこのヒールに慣れてしまったことだ。記憶はなくなっちゃったけど、体はいつもの所作を覚えてるってことなのかしら。
でも、素敵な男性にエスコートされるなんて貴重な経験を簡単には終わらせたくない。せめて目的地に着くまでは、きちんと歩けるようになったことは黙っておこう。
……変なの。まだ彼の妻になってから半日も経たないのに、わたし、フローランさんのことがすごく好きになり始めてる。
フローランさんはわたしたちは仲のいい夫婦だって言ってたけど、それは多分本当なんだろう。わたしの心のどこかには、夫に対する愛情が消えずに残っているんだ。
わたしたちが食堂に到着すると、先客としてナデジュちゃんが席に着いていた。
でも、お義父様とお義母様の姿が見えない。
「二人なら王城へ戻ったよ」
わたしの疑問を察してか、ナデジュちゃんが教えてくれた。
「まだお仕事が残ってるんだってさ。さっきはちょっと抜け出してきたの。目覚めたばかりの義姉様の様子が気になったから、って」
そうか。お義父様は宰相としてのお勤めがあるし、お義母様も上級文官だもんね。
二人とも忙しい身の上なのに、わざわざわたしのために時間を作ってくれたんだ。本当にいい両親だわ!
給仕係が料理を運んでくる。メニューはカツレツだ。やったぁ! 大好物! 添えられてる山盛りのマッシュポテトもとっても美味しそう!
でも、わたしの前に置かれたのは、小鉢に入ったサラダだけだった。
「いただきま~す!」
ナデジュちゃんは豪快にカツを頬張り始めた。フローランさんがバターがたっぷり使われていそうなサクサクのクロワッサンを一口大に千切り、口へ運ぶ。
一方のわたしは、あんぐりと口を開けていた。
「……わたしのカツレツは? クロワッサンは……?」
泣きそうになりながら尋ねる。
何で二人には豪華な肉料理が出されてるのに、わたしはウサギのエサみたいなものしかもらえないの? このサラダ、ドレッシングすらかかってないじゃない!
……もしかしてわたし、虐待されてる?
ロワイヤル家の人たちを優しいなんて思うんじゃなかった! 皆して、わたしを餓死させる気なんだ!
けれど、兄妹が意外そうな顔をしていたものだから、被害妄想はすぐに引っ込んだ。
「何言ってるの。義姉様は揚げ物なんて食べないでしょう」
「それにパンもな」
「え、何で!?」
まさかの発言に狼狽える。
「わたし、揚げ物大好きなのよ! 鳥でも魚でも何でもいけるわ! それにパンだって! 焼いたのとか蒸したのとか……」
お腹がぐうぅと鳴る。お皿にちょっぴりしか入っていないサラダに視線を落とし、惨めな気持ちになった。
「義姉様、別に嫌いだから食べてなかったわけじゃないと思うけど」
ナデジュちゃんが気の毒そうな顔になる。
「揚げ物なんか食べたらニキビができる! って言ってたし。それに、パンは太る、って」
……ああ、そういうことか。
わたしの類い希な美貌は、血の滲むような節制の上に成り立っていたのね。確かにこのスベスベのお肌やシュッとした手足は、揚げ物やパンを犠牲にしないと手に入らなさそうだわ。
「でも、これからはもっとちゃんと食べた方がいいかもね。義姉様はもう一人だけの体じゃないんだから……」
「え?」
一人だけの体じゃない?
まさかと思い、腹部を押さえる。
嘘でしょう!? この平らなお腹に新しい命が宿ってるの!? ど、どうしよう!? わたし、やっぱりママなの!?
はわはわしながら助けを求めるように夫に視線を遣った。
すると、フローランさんは飲み物を吹きこぼさないように必死になっているではないか。
「……ナデジュちゃん!」
またからかわれたのだと分かり、ほっとするやら腹立たしいやらで思わず声を荒げる。ナデジュちゃんは「ごめんって」と謝りつつも悪びれた様子もない。
「ほら、アタシのクロワッサンあげるから機嫌直して」
「いいの!?」
どん底まで落ちていた気分が一気に浮上する。なんていい子なの! わたしの義妹は天使だわ!
「僕のカツも半分食べるか?」
「わあ……! ありがとうございます!」
給仕係に新しいお皿を持ってきてもらい、そこに二人から恵んでもらったものをいそいそと盛り付けた。
……美味しい! ロワイヤル家の料理人は素晴らしい腕前だわ!
もちろん、サラダも完食した。食べ物を残すのはわたしの流儀に反するもの。好き嫌いがないお陰で、何だって綺麗に食べられるのはわたしの数少ない自慢の一つだった。
「マルグリット……。君、何だかいつもと違うな」
「へ?」
デザートはないのかしら? なんて考えていると、フローランさんが神妙な顔で呟く。
「そんなに楽しそうに食事をする君は初めて見たよ」
「そうなんですか?」
わたし、読書と同じくらい食べるのも好きなのに。でも、ロワイヤル家ではつまらなさそうに食事をしてたってこと? まあ、出てくるのがウサギのエサじゃ、無理もないだろうけど……。
「今の義姉様はこれまでの義姉様とは違うのよ」
ナデジュちゃんが訳知り顔で言った。
「ねえ?」
「う、うん……?」
同意を求められても、曖昧な返事しかできなかった。
だって、よく分からなかったし。ロワイヤル家で過ごした記憶をわたしは全部なくしてしまっているんだから。
「アタシは今の義姉様の方が好きかな。……兄様は?」
「どっちでもいい。僕が好きなのは『マルグリット』なんだから」
と言いつつも、フローランさんの口調はどこか本心を隠しているようにも感じられる。
「どんな君でも魅力的だ。今の自分がどうとか、昔はどうだったとか、そんなの気にすることはない。好きに振る舞えばいいと思うよ」
妙な気持ちになる。
だってフローランさんの言葉は、「記憶なんて取り戻さなくても構わない」と言っているように聞こえたから。
「でも、全部忘れたままだと困りませんか?」
「困らない。また一から僕が教えてあげよう。僕たちがどれだけ愛し合っていたかを」
フローランさんがわたしの手をきゅっと握る。うっかり恍惚となりかけたけれど、ナデジュちゃんも傍にいると思い出して慌てて首をブルブルと振った。
「仲良しねえ」
ナデジュちゃんが軽く笑う。
「アタシ、やっぱり今の義姉様の方がいいな」
ナデジュちゃんはやたらと二十二歳のマルグリットと十七歳のマルグリットを区別したがる。わたし、五年後にはそんなに別人みたいになっちゃってるのかしら?




