婚約破棄された令嬢は、美貌の悪女の夢を見るか?(2/2)
トランクに入っていたのは、着替えとか路銀とかの旅に必要な品々。他には、海水に浸かってダメになってしまった書類みたいなものもあった。
わたしが目的の品を見つけたのは、細々したものをしまってあるポーチの中だった。見た目は「382」のカギに似ている。でも、番号は「299」だった。
ゴクリと喉を動かした。
このカギだ。このカギが、わたしがどうしても隠したかった秘密を握っているんだ。
これで、顔も知らない愛人を……これから別れを告げることになる相手を見つけられる。
トランクを抱え、わたしは馬車に戻った。御者にはドルレアン銀行へ行くように伝える。
頭取さんにカギを見せると、すんなりと「299」の貸金庫に案内された。
震える手でカギを回す。扉から歯車の音がした。
「さあ、何でもかかって来なさい!」
深呼吸し、入室した。
真っ先に視界に飛び込んで来たのは、見知らぬ恋人の肖像画。そして、逢瀬の度に愛を交わしたであろうベッド。
そんなものが部屋の中央に堂々と鎮座して……いなかった。
「……へ?」
気の抜けたような声が出る。金庫の中には恋人の肖像画もベッドもなかった。壁際にズラッと並んでいたのは、本がぎっしり詰まった棚だ。
これ、コペル家の書庫にあったわたしのコレクションじゃない!
……うん、間違いない。
近くにあった一冊を手に取り、ページをめくって確信する。この十五ページについた染みは、わたしがうっかり紅茶をこぼしちゃった時のものだ。
「……えっ?」
本を戻そうとした拍子に棚の一角に目を留めたわたしは、悲鳴のような声を上げた。
「あ、あなた! どうして……!?」
慌てて彼の元に駆け寄る。
ふわふわした布地で作られたピンクの体。耳元に巻かれたリボン。上半身を覆う青い服。
年季の入った見た目のクマのぬいぐるみ、わたしの大親友のラングドシャ卿だった。
「ラングドシャ卿! ラングドシャ卿! 会いたかったわ!」
クッションが敷かれた棚の一角に大事に置かれたぬいぐるみを半狂乱になりながら取り上げ、親友の柔らかな体を抱きしめた。目元が潤んでくる。綿が詰まった頭にぐりぐりと顔をこすりつけた。
「もう二度と、あなたの顔は見られないと思ってたのに……」
わたしはまなじりを拭った。感激のあまり立っていられなくなって、その場に座り込んでしまう。
「ラングドシャ卿……」
親友のお腹に顔を埋める。
ああ! やっぱりこれよ! この感触! 今じゃマダム・ミルフィーユともお友だちにはなれたけど、やっぱり彼女ではラングドシャ卿には敵わない。わたしの大親友は、今も昔も彼一人だけだ。
「あなた、何でこんなところにいるの?」
ラングドシャ卿を膝に乗せ、問いかける。
「捨てられたんじゃなかったの?」
ラングドシャ卿だけじゃない。この部屋にある本もそうだ。サブリナの話では、全部わたしが処分したはずだったのに……。
『捨てられてなんかいませんよ』
ラングドシャ卿がそう教えてくれた。
『思い出しなさい、マルグリット姫。今こそ自分を取り戻す時です』
ラングドシャ卿のボタンでできた瞳と目があった瞬間、まるで暗闇に火が灯ったように、今まで見えて来なかったものが鮮明な記憶となって頭の中に浮かび上がってきた。
「……そうね」
わたしはラングドシャ卿の頭を撫でた。手足の先から熱くなっていくような感覚。静かな興奮が体を駆け巡っていくのが分かった。
「わたし、あなたを捨てたりなんかしなかった」
捨てられるわけがなかったのだ。たとえどれほど見た目が変わってしまったとしても、わたしはマルグリットなのだから。
五年前のわたしはすっかり絶望していた。婚約は解消になり、父親は投獄され、もう王都にもいられない。それだけではなく、妹が自分を庇ってケガをしてしまった。
その絶望から這い上がるために、わたしは自分を変えようと思ったのだ。
ダイエットをして美しく装い、様々な悪知恵も身につけた。とにかく夢中だった。今までと違う自分になれればきっと希望を取り戻せる。そう思っていたんだ。
ロワイヤル家の悲劇を知ったのは、そんな折のことだった。わたしの元婚約者がまた誰かを不幸にした。許せないと思った。そして、わたしは復讐計画を考え付いた。
でも、それには協力者が必要だった。だからフローランさんに近づいたんだ。
彼もかつてのわたしと同じように、突然訪れた逆境にすっかり打ちのめされていた。それでも、彼はロワイヤル家を救うことを完全には諦めていなかった。そんな彼がわたしと手を結ぶと決めたのは、おかしな話じゃないだろう。
こうして無事に共犯者を手に入れることができたけど、一方では不安を覚えずにはいられなかった。元婚約者に裏切られた経験が、わたしを用心深くしていたのだ。
この人もいつかは自分を見限るかもしれない。常にそんな心配が頭の片隅にこびりついて離れなくなってしまったのである。
――ねえ、フローランさん。わたしたち、結婚しない?
わたしは彼に縁組みを持ちかけた。ロワイヤル家の一員となれば、簡単には切り捨てられないだろうと思ったから。
皆まで説明されずとも、フローランさんにはわたしの意図することが理解できたに違いない。彼はわたしの申し出を受け入れた。フローランさんもまた、わたしが寝返ってしまうことを心のどこかでは恐れていたんだろう。
これは互いを裏切らないための契約だ。愛ではなく、保身がわたしたちを結びつけた。
かくして強固な関係を築いたわたしたちは、全ての元凶を牢獄送りにして、囚われの身の家族も取り戻すことができた。一件落着だ。
本来なら、ここで昔のマルグリットに戻るべきだったのかもしれない。でも、それは無理だった。せっかく強くなれたのに、もう一度昔のわたしに戻る? 冗談じゃない! また誰かにつけ狙われたらどうするの?
わたしは決心した。自分を守るために、これからも悪女で居続けよう、と。
だけど、本当は分かっていた。わたしは真からの悪者にはなれない。あくまで悪い女性の仮面を被った、か弱い少女なのだ。
つまり、わたしはちっとも変わっていなかったということである。
この貸金庫に保管してある品々が何よりの証拠だ。
夢見がちでぬいぐるみを親友扱いするような自分を変えたかったのにできなかった。だから、皆には内緒で貸金庫の奥底にしまいこんでいた。そして、悪女のふりをするのに疲れたら、癒やしを求めて時々ここに来たんだ。
――ラングドシャ卿、聞いてちょうだい。わたし、また廷臣を一人失脚させちゃったわ。
そんな風に自分のしたことをぬいぐるみに話したりしていた。十七歳の頃、そうしていたように。
自分を偽る息苦しい生活。でも、わたしが一番心を痛めていたのは、フローランさんのことだった。
わたしたちは、表面上は仲の良い夫婦として過ごしていた。互いの心にある、「この結婚は自己保身のためのものだ」という暗黙の了解を隠すかのように。
だけど、その内にわたしは本当にフローランさんが好きになってしまったんだ。
――愛してる、マルグリット。
彼がそう言う度に心を揺さぶられていた。その言葉が本当だといいのにと切実に願うようになってしまっていた。
でも、今まで色んな人を陥れてきたわたしには、もう彼の言葉を裏がないものとして受け入れる素直さは残っていなかったのである。
――愛してる、マルグリット。君が僕を裏切らない限りは。
本当はそう言いたいんでしょう? 実は、わたしのことなんかこれっぽっちも好きじゃないんでしょう?
いつもそんな言葉が口から出かかったけど、ぐっと我慢していた。そして、こう答えていたんだ。
――わたしもよ、フローランさん。あなたを愛しているわ。
でも、甘い言葉を聞いてもフローランさんはちっとも嬉しそうじゃなかった。もちろん表面上は喜んだふりをするけれど、それは本心じゃないとわたしは気付いていた。
その反応に、わたしの心はますます荒廃していく。フローランさんはわたしからどう思われていようがどうでもいいんだろう。そう考えるようになっていたんだ。
そんな日々が何年も続き、わたしはついに我慢しきれなくなった。フローランさんの愛が欲しいのに与えられない。いっそのこと、全部ぶちまけたいと何度思ったか知れない。
でも、できなかった。
そんなわたしが唯一取れた行動は逃避だった。
この辛い現実からの逃亡。愛が得られないのなら、何もかもなかったことにしてしまおう。
わたしは夫に置き手紙を残して、船に飛び乗った。そして、あの事故が起きたのだ。
「わたしは……自分の意志で記憶を消したのかしら……?」
もう戻れないと思っていた五年前の自分になった。全てを忘れるという強引な方法によって、幸せだった頃を取り戻したのだ。
ラングドシャ卿を抱きしめる。
「……大丈夫よ」
大親友にだけ聞こえるように、そっと囁く。
「わたしはもう、大丈夫だから」
わたしは貸金庫を出た。
失っていたものを全て取り戻した、二十二歳のマルグリットとなって。




