07 露見
太陽が中天にかかる頃、再び休憩となった。
今日、三つ目の農村である。
ランダルがこれまでの村と同じように村長と話しこみ情報を伝えている間、レントは走り続けてきた荷かつぎ奴隷の二人と一緒になって、井戸端で上半身裸になって水を浴びた。
彼らは奴隷ではあるが卑屈ではなく、レントにも軽い冗談を言ってきた。主に似ていた。影響を受けているのだろう。この者たちは、主人の危機には武器を取って戦うに違いない。
「少し長く休む。奥さん、家の中で休ませてもらえるよう話をつけたぜ」
ランダルがそう言って、自分も肩や首を回してコキコキ音を立てた。
乗馬していても、疲れるものは疲れるのである。
「助かる」
レントは体を拭くと、馬車の荷台でつらそうにしているエリーレアに声をかけ、起き上がらせた。
当然、ルナも手伝いに来る。
ランダルに教えられた家に入り、住人は外に出てくれたのだろう、誰もいないことを確認し戸を閉めると、エリーレアはすぐに勢いよく両腕を上げて体全体を屈伸させた。具合が悪いどころではない、騎士の訓練前の準備体操のような動き。先ほどのランダルをも上回る音が麗しい女体のいたる所からボキボキゴキゴキと鳴った。
「歩いた方がましだったかも……いたたたた」
「ここからは、座っていても大丈夫だってことにしましょう」
「下に敷くものが欲しいわ」
「ワラか何かもらえないか頼んでみますよ」
エリーレアがひととおり体をほぐし、ようやく人心地がついたらしく素朴な椅子に腰を下ろした途端に。
「俺だ。入っていいか?」
「ああ、ちょっと待ってくれ――いいぞ」
ランダルの声に、レントは素早く他の二人に目くばせして、態度や表情をあらためさせる。エリーレアは疲れたように背を丸め、カルナリアはそのかたわらに控える。
戸を開けると――知らない男が入ってきた。
いや、ランダルだ。体格と服装で間違いない。
しかし、ヒゲがなかった。
若干のそり残しはあるが、ほぼなくなっている。
あご回りの線が太い、力強い、いい男ぶり。四十代だろうと見ていたのだが、そうしてみると男盛りの三十代、それも前半の顔つきだった。
「やっとさっぱりした。半分は地毛、あとは付けヒゲさ」
「は、はあ…………びっくりした」
「ははは。まあこっちがいつもの顔でな。うちの村出身であそこで兵士やってるのもいるから、そのままじゃまずいと思ってな」
「…………ということは、あんたは…………やっぱり?」
平民兵士にばれるとまずい存在。
つまり。
「……ローツ村で村長を勤めております、第七位貴族、ランダル・ファスタル・ローツにございます。あらためてご挨拶申し上げます。ナオラル神のよき巡りの風に感謝を」
ランダルは長身を折り、床に片膝をつけ、右手を左肩につけて深々と――。
エリーレアに頭を下げた。
それはまぎれもない貴族の礼法であり。
「挨拶を喜んで受けましょう。私は第三位貴族の娘、エリーレア・センダル・ファウ……」
「エリー!」
左手をかざしてから風を送るように手の平を動かす、貴族の返礼をエリーレアはやってしまい、同時に自分の本名を口にしかけて、カルナリアが鋭く声をあげた。
だがもう遅い。
そして二重の失敗だ。
貴族位階は、王位継承権を持つ王の直系血族が第一位、そこから降りた王族および第一位貴族の配偶者が第二位、自領を持つ有力貴族が第三位と厳密に定められている。第三位貴族の娘ということは四位貴族。七位のランダルよりはるかに上。
そのエリーレアを呼び捨てにし、とがめることができるというのは――つまり。
「あ…………!」
レントは蒼白になった。
エリーレアも顔色を失っている。
だが――慣れ親しんだ世界から突然引き離されたあの夜以来、ずっと礼儀のかけらも知らぬ粗野な平民たちの中に置かれていたのだ。
そこで久しぶりに礼儀正しく振る舞われて、反射的に身についている振る舞いをしてしまったことを、どうして責められよう。
「……やっぱりか」
ランダルが身を起こした。
レントたち三人は固まる。いやレントは即座に女性二人をかばう位置に身を入れる。騎士の従士として、ある程度武芸は訓練させられている。相手を倒すのではなく主人を守るための技がもっぱらだが、今の状況ではそれが役に立つだろう。
「まあ待ちな――待ってください。何もするつもりはありません」
ランダルは両手を広げてゆっくり距離を開け、敵意のないことを示した。
その口調もこれまでの粗野なものとは違っている。その気ならきちんと振る舞える人物なのだ。
「レント殿。あなたが貴族かどうかは少々疑わしかったのですが、今のことで確信しました。東から――王都から逃れてきた、かなりの家柄の方と、その従者――お待ちを!」
鋭く手の平を突き出し、何か言いかけたエリーレアを制した。
「素性も、事情も、おっしゃらないでいただきたい。私は村長です。村と、村で生きる者たちを守る義務がある。四百八十五人の命を背負っている。上位貴族の事情を知ってしまい、厄介事に巻きこまれて、村が滅ぼされることになるのはごめんこうむりたい。知ってしまったこと次第では、あなた方を兵士に突き出したり――私は誰にも会っていないということにしなければならないかもしれないのです」
レントはランダルから殺気を感じた。誰にも会っていないことにする、というのはそういうことだ。第四王女とそのお付きの者たちはこの世から消え去り、『王の冠』は気づかれないまま地中に埋められることになるだろう。ランダルおよび従う者たちにはそうする力が十分にあることは間違いない。
「……ですが、積極的にそんな真似をしたいわけでもありません。あの町長は悪い人ではなかった。郡主樣も、女癖は悪かったが、あそこまでの目に遭わされるような真似をしていたわけでもなかった」
ランダルは殺気を消すと、処刑されていたふたりの冥福を祈るように薄く目を閉じた。
「あなた方を売るつもりなら、ビルヴァでそうしていました。エリー様が上位の貴族であることはもちろん、そちらのルナと名乗っている方がただ者ではないことも、最初からわかっていました。だからこそ、うちの者たちと接触させないよう、私の馬に乗せたのです」
「う……それは…………感謝します……」
ランダルの心遣いに気づいていなかった自分を、レントは深く恥じた。
カルナリアがわずかに、悔しそうに口を歪めた。
「利害が一致するとは限りません。しかし、お互いにとって最も良くなるように、話をしましょう」
「……わかった。こちらの事情は話さない。ランダル殿は、いつもそうするように、困っている旅人をちょっと助けただけ。そういうことでお願いする」
レントもまた貴族の口調にすると、ランダルをテーブルに招いた。
女性二人は部屋の壁際に下がらせる。万が一の時にはこの家の裏口から逃げ出せるような位置取り。ランダルは何も言わない。
「レント殿、まずはこちらの事情から話しましょう。
我がローツ村は、三方を山に囲まれた、いわゆるどん詰まりの土地です。出入りする者は限られており、食料は豊富で、あなた方をかくまうことは難しくない。今は頼りになる方もおられますし――失礼、これは関係ないことで――私は今回の騒ぎを聞き、戦になるかもしれないと、自分の目で街の様子を見に来たのです。あの街にはうちの者の親類縁者もかなりいて、話をしておきましたから、戦となれば彼らはうちの村に逃げこんでくるでしょう。私はその者たちを目くらましにあなた方の存在を隠すことができると踏んでいましたが……」
「……何か懸念材料が?」
「少女狩り、あれです。十二歳の女の子を差し出せば賞金が出る。あれがうちの村に伝わってきた場合、恥ずかしながら、村中の女の子を連れ出しかねない者が何人か。私が抑えることはできますが、兵士を連れてこられたら厄介です。うちの村出身で、兵士になっている者もいるのです」
「むう……」
「私がビルヴァの街で聞いた、兵士たちへの指示はこうです。十二歳かそのくらいの女の子を集めろ。連れてきたら金をやる。王都から人が来る。その人に見せて、気に入ってもらえたら、戦に行かず遊んでくらせるほどの賞金が与えられる」
レントはさらにうめいた。
王都から来るというのは、間違いなくカルナリアの顔を知っている者だろう。
魔力を感知できる魔導師を伴っているかもしれない。貴族軍との戦場に投入すべき貴重な存在をわざわざ派遣するだけの価値が『王の冠』にはある。
ランダルもちらりとカルナリアを見た。
しかし口に出しては何も言わなかった。
ランダルが言わない以上、レントの方から言い出す必要はない。
「それで、あなた方のお望みをうかがいたいのですが」
「ああ…………我々は、タランドンへ入りたい」
「なるほど。当然ですね」
ランダルはすぐにうなずいた。
タランドン侯爵領。
カラント王国の、西の端にある大領地だ。
西の端ということは、西の隣国バルカニアと接しているということ。
バルカニアへ赴くには、必ず通らなければならない領である。
その領主、タランドン侯爵は、王国内では特異な存在だった。
広い領を与えられ精兵を養っているが、そのすべてを、国境守備に投じているのである。
王国成立以来、代々の領主はみなそうしてきた。
国境を守ることを最優先とし、王国宮廷内のあらゆる派閥に属さず、あらゆる政争に関わらない。婚姻も、王族を受け入れる以外のことはせず、その王族でも国境守備の邪魔をするようなら排除する。
タランドン家が独力で西の国境を守り続けてくれるために、王国は軍費を節約し内政に力を入れることができた。
これまで二度あった内戦でも、タランドン侯爵はどちらにつくこともせず、領内からひとりたりとも兵を出さず、ひたすら西の国境を守り続けた。
そのようなタランドン領であり領主であるから、今回のガルディスによる大逆に対しても、まず間違いなく動かない。
特に今は、隣国バルカニアにガルディスの妹ヴィシニアが嫁いでおり、三人の子を成し、さらに第二王子レイマールも訪問しているという情勢である。バルカニアがカラントに全力で介入してくる条件が整いすぎている。
だからこそ、ガルディスはタランドン領に手を出せない。
国内が安定していない状況で外国の介入など、ガルディスにとっては悪夢だ。――タランドン侯爵が動かないと確信しているからこそ、ガルディスは国内が大混乱に陥ることを承知の挙兵を行った。
それゆえに、平民に追われた貴族たちはタランドン領に逃げこむ。ありとあらゆる手を使い、安定していることだけは間違いないその地へ入りこもうとする。
当然、ガルディスはそれを阻むべく事前に部隊を配置し街道を抑えている。
――街道の封鎖や監視の強化を見越して、レントはまっすぐ西へ向かうのではなく、南西へ進んできたのだ。
その甲斐あって、ここは、距離だけならタランドン領に近い。
問題は、山であった。
「山越えの道がないかどうかを探ろうと、酒場に赴いたのですね?」
「ああ。道を知っている者がいないかと……ランダル殿、ご存じないか?」
「ふむ……」
ランダルは考えこんだ。
知っている気配が濃厚だったが、彼の立場からすれば、おいそれと伝えるわけにはいかないだろうということも、レントにはわかっていた。
山越えの道を教えて、その後にレントたちがしくじり、道の情報を漏らしてしまえば、タランドン侯家軍は道を封鎖するだろうし、ガルディス派の軍はそこを使えないかとうかがい、ランダルの村の近辺がきわめて危うい情勢となる。
情報を漏らした罪人としてランダルおよび彼の家族の身にも危険が迫るかもしれない。
しかし教えなければ、きわめて危険な存在を自分の村に抱えこむことになる。
ここでレントたちを放り出して何も知らんと村に引きこもっても、レントがどこかで捕まり、ランダル村長に助けてもらったと言ってしまえば、罪が及ぶことに変わりはない。
貴族軍と戦い始めているガルディス軍は、村長が罪を犯した村となれば大喜びで、ありとあらゆる食料、財物を奪ってゆくことだろう。
それを避けるには。
「……レント殿。大変申し訳ないが、あなたのやり方を真似させていただくことにする」
「?」
意味がわからなかったが、ランダルはそれ以上説明してくれることはなく、難しい顔で立ち上がり、外に出て行ってしまった。
「……レント」
エリーレアが不安そうに言ってきた。
「大丈夫です。私たちを放り出すような真似はしないでしょう。あれは、このようなところにいるのが不思議なほどの、ひとかどの人物です。中央に出ていれば、内政官としても武将としても優秀な存在となれたでしょう」
「そんな人がなんでこんな田舎に」
「……十三侯家の血を引いていないのでしょう」
そういう者では決して出世できないのが今のカラント王国。
そういう者たちを取りこんできたのがガルディス王太子。
王家を批判するのか、お前はガルディス派かと決めつけられてもおかしくない危うい発言だったが。
「それでは仕方ないわね」
エリーレアは何も気づかず、むしろ納得したようにうなずいた。
下級貴族が、十三侯家――本家の者は無理にしても、その傍流の者と結婚し位階を上げることにより出世を目論むというのは、今の――いや、これまでのカラント王国では常識だった。そうせずに出世しようとする者というのは常識外れ、異端そのもの。そんな貴族はあり得ない。いい家柄の者と結びつくことができないというのは、能力がないということだと判断するのが当たり前なのだった。
レントはため息をついた。
エリーレアが愚かなわけではない。先祖代々、周囲の誰もがそういう意識である中で育ってきたのだ。
ほんの数日で幼少期からの「常識」を変更するのは、普通の者には無理だ。
「うまくやれていたと思っていたのに……どこが悪かったのかしら」
その「普通の者」ではなさそうなカルナリア――もはやこの国にほんの数人となってしまった最高位貴族、「王位継承権者」の名を持つ第一位にして最も高貴な存在たる王女殿下は、奴隷の首輪と傷つき歪んだ顔をしたまま、今のやりとりの危うさになどまったく気づいていない様子で、ひとりふくれっ面をしていた。
話を理解できていなかったのだろうか。
いや、この姫君は、愛くるしいだけの方ではない。
「……姫様は、どう思われますか」
「あの人にまかせておいて、間違いはないと思うわ」
昨日よりさらに腫れが引いてきた顔で、可愛らしい笑みをカルナリアは浮かべた。
「レントの言う通りだと、わたくしも思います。あの人は信頼していいでしょう」
「…………」
どうしてそこまで信頼できるのか。
ずっと同じ馬に乗り続けている間に、レントにはわからない何かを感じたのか。何かそういう会話をしたのか。
疑問ではあったが、問いただしたところで、「思う」ものを変えられるわけではない。王女の機嫌を損ねるだけだ。
それはそれで置いておき――。
この治り加減だと、明日にでも再び「偽装」をしなければならないなと、レントは鉛の塊を飲みこんだような心地で、冷厳に判断した。
王女をぶん殴った拳の感触は、このさき一生、罪悪感として自分を責めさいなみ続けるだろう。
だが、それをもう一度やらなければ。
――自分のやり方を真似する、とランダルが言ったことの意味を、レントはその後、痛いほど理解することになった。
山越えの道はあるのか、ないのか。教えてもらえるのか。頼るしかできない一行を、予想外の事態が襲う。
次回、第8話「追放」。暴力描写あり。