37 下山
これもすっかり頭から消えていたが、太陽の位置を見る限り、時刻はまだ正午になっていなかった。
それでも、動き出したのが日の出すぐだったことを思えば、けっこう時間を食ってしまったことは間違いない。
(原因は、私……)
それを思うと、額の痛みと熊の掌の重みも合わせて、カルナリアはどうしても沈んでしまう。
追っ手はどこまで来ているだろうか。
山小屋に到達しているのでは。
自分が転がり落ちたあの急斜面の上に達して、縄か何かで一気に降りてきている途中かも。
カルナリアの足はついつい速くなり、何も言わないままフィンが横に並んで、それでペースを落とす……というのを数回繰り返した。
「ここで待て。先を見てくる」
下ってゆけそうな地形が二股に分岐しており、どちらも麓へ続いていそうに思える。
フィンがその片方の先を探りに行ってしまった。
残されたカルナリアは不安にかられる。
しかし今度は耐えた。
もう失敗するわけにはいかない。
ぶら下げている熊の掌に触ってみた。
獣よけになるというそれは、洗ってはあるがやはり獣くささは濃厚に漂っていて、王宮の剥製の感触とはまったく違う。
肉球はかなり硬く、カルナリアの指の力では押してもほとんどへこまない。
甲の側の毛は細いが強靱で、騎士たちが獣の相手は厄介だと言っていたことを思い出す。レントの短剣を使っても自分ではこれを切れる気がしない。
爪はもうとにかく怖い。これで軽く引っかかれるだけでも、カルナリアの体はずたずただろう。
こんなものを相手にし、狩る、猟師というものはどういう存在なのか、畏怖した。
騎士たちも、自分の所領にこういう獣が現れた時は、立ち向かわなければならないというが――これに立ち向かえるなんて、どれほど彼らは強いというのだろう。自分を守ってくれていた彼らの真価を知らないまま、むざむざと失ってしまったのではないだろうか。
そして、あのフィン・シャンドレンは、強いのだろうか。
少なくともこんな掌、こんな爪をした巨体に追いかけられても、自分を失うような様子は見せなかった。
すぐそこまで迫られても焦らなかった。
本当に剣士かどうかはまだ疑わしいとしても、少なくとも、胆力が尋常ではないことだけは間違いない。
あの巨体に刃を入れて、血みどろの内臓だの爪だのを切り取ることができるのも事実だ。どこかでやったことがある。それどころか手慣れている。
(本当に、謎ばかり……)
同じ時間を過ごすにつれて色々なことがわかってきたが、それと同じだけ謎もまた増えてきて、結局のところ何もわかっていないも同然だった。
(もっとわかりたいから、早く、戻ってきてくださいませ……)
ただ、顔の「やけど」を撫でつつ、これはもう勘弁してと思いはした。
祈りが通じたように、ぼろぼろが斜面の下の方に現れた。
湿った落葉が積もっていて滑りそうなところを、スイスイと戻ってくる。
カルナリアはそちらへ足が出かけたのを、強く自制した。
「ん」
すぐそこまで来たフィンは、それだけ言った。
カルナリアには、上出来だとほめられたのがわかった。頬がゆるんだ。
「いかがでしたか?」
「ダメだ。こっちは本当の獣道、人が降りるのは無理だ。こちらが正解のようだ。行くぞ」
別な方へフィンは動き出し、今度はカルナリアもついてゆく。
さらに山肌を降りていった。
時にはフィンが地べたに這いつくばって、人の痕跡を探した。
そうしていると確かにぼろ布は熊に似ているなと、カルナリアは実物を見た後の感想として考えた。
「つくづく、思うんだが」
「何でしょう」
「この国の王様は、すべての山に、足を動かさなくても滑り降りることのできる、麓まで続く長い板を設置してはくれないだろうか」
「ご主人さま、疲れてきましたね」
カルナリアも疲れてきたので、あまり友好的な対応は取れなかった。
「――む」
さらに下り続け、熊の掌の重みがきつくなってきた頃に、フィンが何かを見つけた。
一本の太い木。
その幹に、朽ちかけているが、縄が巻いてあった。
「この木の皮は、やわらかくて色々使えるからな。はがした後、木が傷まないようにこうする。……ということは、この辺りまでは、人が来ている」
人里が近いということだ。
カルナリアは休憩と食事を期待した。
もうじき休める。
人の作った建物と、椅子、あるいは寝台、寝具とは何と素晴らしいものか。
踏み固められ、つまずくもののない道路というものも。
当たり前と思っていた様々なもののありがたみを、身に染みて理解する。
期待と共にさらに下ると、カルナリアでもはっきりとここは道だとわかるようになってきた。
人の足跡があった。
木の切り株もあらわれ始めた。
太い木を切り倒した後の、陽光をさえぎるものがなくなった空間に、細い若木が立ち並んでいる。
「少し休むぞ」
ありがたい。
切り株にカルナリアは腰を下ろし、息をついた。
手の甲で汗をぬぐった。
「……口を開けろ」
近寄ってきたフィンが、何か小さな、石のようなものをカルナリアの口に入れてきた。
甘い。
飴玉だ。
王宮で日常的に口にしていたものに比べると、ざらざらして、練りも材料もいまひとつ。しかし今は極上の幸福を得られた。甘みがみるみる全身に広がってゆく。たまらない。
甘いだけではなく、舌にぴりっとした刺激も感じる。鼻には祖母の王太后の部屋に漂っていた、湿布薬を思い出すにおいがわずかにした。色々な薬も混ぜこまれている様子。
「この山を下りてくる者というのは、そうそういるわけではないだろう。となると、この先の村人たちは、こちらを歓迎してくれるとは限らない。場合によっては逃げなければならないかもしれない。最悪の場合、荷物をすべて捨てて走れるように、必要なものは身につけておけ」
「は、はいっ」
この休憩と栄養補給は、いわば戦闘準備の時間でもあったのだ。
カルナリアは飴を口内で転がしつつ、急いで自分の荷物の中身を整理し始めた。
レントの短剣とエリーレアの身分証、もちろん『王の冠』は常にカルナリアと共にある。
それ以外を配置しなおし、背負い袋は少し軽くなり、その分カルナリアの衣服が重たくなった。
しかし休憩と飴のおかげで、かなり回復してきた。
ある程度全力疾走することもできそうだ。
「……気づかれていてもおかしくないからな」
フィンは、後にしてきた山の、上の方を振り向いた。
ぼろ布の動きでそれと察し、同じ方を見たカルナリアにも、何のことを言っているのかすぐ理解できた。
木々の隙間に見えている空を、鳥が、猛禽類も小型の鳥も、かなりの数が舞っている。
時折降りていって、上がってきて、争っているものもいる。
その下に何があるのか、考えるまでもなかった。
あの川べりからけっこう降りてきていたんだなとカルナリアは思った。
麓の村の者があれに気づいたら、山中で何かあったなと様子を見に人を出すだろう。
それと鉢合わせたらどうなるのか、カルナリアには想像がつかない。
村長に会って、事情を話して、先を急ぐことになるのだろうが――この熊の掌や牙や爪を売るという話だったから、その商談というか、取引をするのだろうか。カルナリアの知る「村長」というのはランダルしかいないが、この先の村の長もあのような人材なのだろうか。
ともあれ、休憩を終えて、また下りはじめた。
「……あっ!」
少し突き出た状態になっているところの上にさしかかり、視界がひらけた時、村が見えた。
山肌の中腹にへばりつくような小村。
まだ距離があるが、まぎれもない人里。
目を輝かせてフィンを振り向く。
「……私の方を見ないように、という心得は、忘れていないな?」
冷や汗をかいた。
完全に忘れていた。
今のフィンは、カルナリアを完全に自分の所有物とみなしたからか、ひどいこともけっこうやってくる。
顔の「やけど」に触れて、強く自分を戒めた。
「道を決して外れないように。村の近くには、獣よけで、罠がしかけてあることが多い」
「はいっ」
切り倒した材木を一気に滑り下ろしてゆくために切り開いたのだろう、障害物のない、細長い人工的な斜面が広がっていた。
少しくぼんでいる中央を、水流が一直線に流れ下っている。
その下る先に、村があった。
ローツ村を見た後だと、戸数の少ない、寂しい村に見えた。
山の北側で日照に乏しいので、農業よりも林業や狩猟採集の方が主なのだろう。
山ひとつ越えただけなのに、家のつくりがローツ村と違っている。屋根が急角度で、窓が大きい。縦に長い。どの家も向きが大体同じだ。日照を最大限に得ようとしてのつくり。
違う『領』に来たのだということをカルナリアは肌で感じた。
――見えているのに、木々の間を縫う道は曲がりくねって、なかなかたどり着けない。
ひらけた斜面を一気に駆け下るのは――もう二度とやりたくなかったので、考えることもしなかった。
それでも、徐々に、木々の向こうが明るくなってきて、陽光が当たっている屋根瓦の、赤茶の色合いがちらちら見えるようになってきて、人里への期待と不安が高まってくる。
柵があった。
丸木を地面に打ちこんで幾重にも組み合わせたものが、道をふさぎ、延々と左右に伸びている。
明らかに獣の侵入を防ぐためのもの。
丸木の間隔が広くなっていて容易にすり抜けられるところがあるが、その先は深く地面をえぐった堀のようになっていて、そこに入りこんだらもうどうしようもない。知恵を持たない獣を引っかけるための罠だろう。
では、知恵のある人間は――。
「これ……向こう側から持ち上げられるようになっていますね」
最も頑丈そうな部分が、『扉』になっているということにすぐ気づいた。
そして、人のみが使うもの――文字が。
ワグル村、鳴らせ、と読める文字が書いてある木の板と、青錆びた小さなものだがまぎれもない鐘がぶら下がっていた。
ここはそういう名前の村で、入るためには鐘を叩いて音を立てて村人を呼べ、ということだろう。
「叩いていいんでしょうか?」
「ああ。勝手に入ると攻撃されても文句は言えん。真っ当に入った方がいい」
声は聞こえたが、フィンの姿がなかった。
今の声の出所を、目ではなく、魔力で探ると――。
「ええっ!?」
柵の、向こう側にいた。
飛び越えたらしい。
「ずるいです!」
「開けられたところをくぐったらさすがに気づかれる。私は警戒しているとでも言っておけ。まかせる。うまくやれ」
「…………はい?」
理解するのに少しかかった。
それは、村人との交渉を、カルナリアに全面的にまかせるという風にしか聞こえないわけで。
カルナリアが目をしばたたいている間に、鐘が鳴った。
フィンが小石か何かをぶつけたようだ。
カーン…………と、思ったより大きな、鋭い音が鳴り響いて、木々の間をはしっていった。
「え…………え…………え…………」
すぐに、柵の向こうに、動くものが現れた。
山で動くのに適した、厚手の衣服をまとった、年配の男たち。
髭面を並べて急いで登ってくる。
その手にはそれぞれ、槍や、弓や、山刀が握られていた。
「ええええええっ!?」
押しつけられた。めんどくさいからに違いない。どうしてくれようか。王女は初めて、直接平民とのやりとりに挑む。次回、第38話「奴隷のお仕事」。怠惰なご主人さまへの仕返しは成功するのか。




