32 すれ違いの夜
目隠しが解かれた。
照明の魔法具が再び額に。
「寝るぞ。荷物をまとめて、起きたらすぐ動けるようにしておけ」
いくらカルナリアが羞恥していようと落ちこんでいようと、あるいはその正体をどのようなものと思ったにせよ、扱いをまったく変えることなく、ぼろぼろ姿のフィンはずるりと寝台に上がってしまう。
カルナリアも、いやいやをし続けているわけにもいかないので、のたのたと動き出した。
飛んだり跳ねたり転がったりしたらこうなる、というのがわかって、背負い袋の中身の配置を変える。
「あの、これはどうしましょう」
例の発熱サイコロとそのケース。これは袋の中ではなくフィンが直接身につけていたはず。
「まだ使っていないものに、一本刺して、それを三つ、床に置いておけ。夜は冷えるからな」
「はい。……これ、とっても便利ですね」
「そうだな。使いすぎると疲れてしまうので、そこは気をつけなければならないが」
「疲れる?」
「ある種の生き物だ。動物でも植物でもないが、間違いなく生きている。だから刺した痕も治る。上手く使えば元気よく働いてくれるが、使いすぎると疲れ、死んでしまうこともある。長く使わないでいてもやはり飢えて死ぬ。適度に使って、魔力を供給してやらないとならない。便利だが、めんどくさい」
「…………」
明日の朝食を荷物の一番上に置いて袋の口を閉じ、カルナリアの仕事は終了した。
「来い」
フィンが、寝台にカルナリアを招いた。
「え……あの……私は、床で……」
失態で、添い寝はなしだと覚悟していたのに。
「石の上は冷えるし体も痛む。明日もたくさん動くからな。よく休むのも奴隷の仕事だ」
「よろしいのですか?」
返事なし。一度言ったから終了といういつものあれだ。
仕方なく――主人の命令だから仕方なく、弾む胸を抑えつつ、カルナリアはいそいそと寝台に上がった。
ぼろ布の塊が広がっている、その隣に身を横たえる。
あの手が出てきて、照明の魔法具を奪い取られた。
「これも、使いすぎると弱る。光を目当てに襲ってくるやつも多い。消すぞ」
何も見えなくなった中で、ごそごそフィンが動いて、カルナリアに温かいものがかぶさった。
あのぼろ布を、毛布のように体にかけてくれたのだ。
「二人ならこの方がいい」
肉声が聞こえた。
顔を出している。
声を発する唇が、すぐそこにある。
隠していない頭部があり、髪がカルナリアの顔にわずかに触れる。
「…………!」
カルナリアは力の限りを目に込めた。
照明は消されたが、床の発熱サイコロ、あれは淡い光を放っているから完全な闇ではなく、目が慣れれば、フィンの顔も見えてくるはず……!
「寝ろ」
無理矢理、上向かされた。
「明日は、ずっと下りだ。脚を休めておけ」
「……はい」
山向こう、下った先は…………念願の、タランドン領。
「……ご主人さまは、この山の向こう側は、行かれたことがあるのですか?」
「いや。この小屋に来たついでに下の方の森はざっと見回ったが、人里には入っていない。どうもよそ者には厳しい所らしくてな、いやな感じがしたので関わらないようにした」
タランドン領はそういう土地だ。
自領の安定と、それによる兵力維持、西方国境の守備に全力を注ぐ、独立した軍事国家のようなもの。
安定を揺らがせる、外からの者、あるいは変化は、あまり歓迎されない。
もっとも今は、その安定がどうなるかわからない、非常事態だ。
ここが山の上で、自分たちしかいない静穏な場所だから忘れてしまいそうになるが、山を下りれば、恐らく今この時も、人と人とが激しく殺し合っているのだ。
タランドン領も、領地全体としては動かないだろうが、領の東側、つまりこれから降りてゆく先の一帯がどうなっているかはまったくわからない。
逃げこんできた貴族、追いかける平民兵士。タランドン領内にもガルディスを支持する者はいるだろうし、逆にこれまでの秩序を守ろうとする者もいるだろう。反乱や暴動、戦闘が始まっていても何の不思議もない。
「山を下りて…………そのあと、どちらへ?」
「下りた先の村が、ランダルのところと同じようにのんびりさせてくれるといいんだが……私を追ってきてる連中がいるから、この山地自体がもうだめだろうなあ。となると、特に目当てという場所はないから……あの村みたいに、のんびりさせてくれるところを探して、東か、西か、風まかせだな」
(…………あれ?)
カルナリアは違和感をおぼえた。
重大なすれ違いが起きているような気がする。
このフィンというご主人さまが、剣聖と呼ばれており怪人にして変人だから、というだけではない何か、自分の目的ともからむ、大きな見落としが。
必死に考える。
ここで指摘できずに流してしまうと、致命的にまずいことになりそうな気がしてならない。分水嶺に立っているあの感覚。
(………………「東」?)
フィンが眠りこんでしまう前にと焦り、思い返し、ようやく気がついた。
「あ、あの……ご主人さま……東の方は、戦が起きていますよ?」
「…………なんだと?」
焦った声がした。
(やっぱり……!)
正解を引き当てた。
(この方は、今この国で反乱が起き、到るところで戦になっていることを、ご存じない!)
フィンは、去年からずっと山の中。
その間、人付き合いをめんどくさがり、ほとんど他人と関わりを持っていない。
ランダルは――思い返してみると、自分を預けた時の口上でも、その後の会話でも……王太子により国王が殺されこのカラント王国全体が内戦に突入している……ということを、フィンに伝えていない。
村にやってきた軍勢も、フィンは自分を捕らえに来たものと思っている。
そして自分も、前のご主人さまたちが殺されてしまった、としか言っていない!
自分が渦中にあったため、みなが知っていて当然だと思いこんでいた。
つまり、このフィン・シャンドレンというめんどくさがりのぐうたら怪人は、下界で起きていることを一切知らないまま、下山しようとしていたのだ……!
(ひぃっ……!)
カルナリアは総毛立った。
とんでもないことになるところだった。
フィンが、何も知らないまま、ガルディス軍と貴族軍が激突している真っ最中の「東側」へ足を向けてしまったら!
戦場に、次の国王を決定する神器『王の冠』を持つ第四王女カルナリアが登場する。
大変なことになる。
危険などというレベルではない。
ガルディスが、ガルディス派の武将が、全ての戦力を叩きつけてくる。
そこを逃れたとしても、何千、何万人という兵士、腕利きの戦士、魔導師、異能の持ち主たちが、どれほどの犠牲を出そうとも、徹底的にカルナリアを追跡し続ける。
『王の冠』を手に入れられるかどうかで自分たちの覇権の行く末が変わるのだ。当然のことだ。
それにより『王の冠』が奪われたら、何もかも終わる。
ここまで逃れてくるために死んでいった者たちの命が、思いが、すべて台無しになってしまう。
(だめっ……それだけは、絶対に……!)
「…………どうした」
カルナリアの動揺、焦り、体のこわばりを感じ取ったのだろう、フィンが言ってきた。
「いっ、戦ですっ、戦が起きているんですよ! この国のっ、王子さまが王さまになろうとしてっ、王さまがっ、殺されてっ、それはだめだって、貴族さまたちがっ、戦いを挑んでっ……でも平民の人たちが、貴族を倒せって、それで、たくさんの人が、死んじゃって…………貴族だったから逃げていた、前のご主人さまたちも……!」
「むう…………!」
何とか言葉を選んでいたが途中から涙混じりになってしまったカルナリアの述懐に、フィンは強くうめいた。
「本当か」
「はいっ!」
「王が討たれたのか。それで王子が…………む? 王子は、待っていればいずれ王になれる者だよな? それとも次男か三男あたりが兄と父を排除しようと?」
「いえっ、王さまはっ、元気なままでっ、ずっと元気で、それで、王太子……さまが、あせって、ひどいことを……許されないことをしたと、聞いてます!」
「ふむ。それは、よくある話ではあるが」
王を殺したというだけで、カラント王国人ならすぐにガルディスが悪人だと断定できるはずなのだが。
この国の者ではないフィンは、そうは考えないようだった。
カルナリアは泣きながらも全力で頭を回転させた。
このひとが、ガルディスの方が正しいのではなどと言い出したら全ておしまいだ。
「王さまを、殺しちゃうなんて、とっても悪いことだと思います」
「失政から反乱を起こされ王が討たれるというのは、そんなに珍しいことではない。あちこちで起きてることだ」
「何も、悪いこと、してなかったのに……かわいそうです!」
「……そうか。奴隷にもそう言ってもらえるとは、いい王だったのだな」
「お会いしたことは……ありませんけど……きっと、いい人だったと思います!」
実の父、その顔かたちもたたずまいも、声も仕草も笑顔も手の感触も、何もかもよく思い出せるのに、そう言わなければならない罪悪感で胸がチクチクしながら、カルナリアは言いつのった。
「ご主人さま――前のご主人さまたちは、王さまのこと、とても尊敬していました! むやみに下の者を殺すようなことはしてませんし、王さまを殺した、ガルディス――王太子さまという人の方が、いっぱい、ひどいことしてます! たくさんの人が殺されて、ひどい目に……前のご主人さまたちだって……街でも、人が、いっぱい……ガルディスさま万歳とか言ってる人たちが、暴れて、人を襲って……ひどいこと……そこら中で……!」
しゃべっているうちに、胸に怒りと悲しみが沸き上がって、嗚咽となって噴出した。
これまで起きた残酷なことは、すべて実の兄によるものだというのが、どうしようもなく腹立たしく、つらく、悲しい。
「よし、よし。落ちつけ。ここにはひどいやつはいない。お前を襲うやつはいない。私を襲うやつもいない。怖いものはいない、怖いことも起きない」
なだめられながら、頭を撫でられた。
「いやです、戦は、たたかいなんて、殺し合うのなんて、いやです!」
「同感だ。やらずにすむなら、その方がいい」
「戦になりそうなとこ、行かないでください!」
「最初からそのつもりだ、安心しろ」
――最大の懸念が回避された。
「本当ですか!?」
「ああ、行かない。戦なんか、めんどくさいにもほどがある」
「よかった……!」
新しい涙が流れ出た。
喉に手をあて、カルナリアはすすり泣き続けた。
「すっ、すみませんっ、こんな……みっともない……!」
「いや、昨日よりずっとましだ」
頭を撫でてくれていた手が、肩にかかって、引き寄せられた。
あたたかく、いい匂いのする首筋に額が触れる。
いくつか堅いものがポケットに入っている上着の、前が開かれていて、豊かなふくらみの谷間に顔を押しつけられた。
「あ……!」
甘い香りとやわらかな感触。
深い安心感と愉悦がカルナリアを包みこむ。
「昨日と違い、今はもう、お前は私のものだからな。持ち物の手入れをするのは、持ち主の役目というものだ」
抱擁してくれる手が、カルナリアの背中にあてがわれ、優しく撫でさすり始めた。
「つらいことは、どうやっても、消せはしない。受け入れて、自分を作るもののひとつにしていくしかない。
だがそれにはどうしても時間がかかる。お前の年齢では大変だろう。
泣かずに眠れるようになるまで、何度でも、こうしてやるよ」
「ううっ……!」
背中が熱く感じられ、さすられるままに、体も心も溶けてゆく。
なおもすすり泣きながら、カルナリアは自然に目を閉じ、体を丸くしていった。
丸まった体を、大きく包みこまれ、さらに撫でられ続けた。
そのまま溶け落ちてゆき……。
(………………)
顔に、冷気と、鋭い光を浴びて目が覚めた。
意識がはっきりするより先に、見た。
まばゆい光の中を動く、ひと。
ぼろ布。認識阻害。わかるけど見えない。
だが――首から上が。
出ている。見えている。
そこに人の顔がある。
だが、明るすぎる逆光で、色合いも、「色」も、わからない……。
光が消えた。
いなくなった。
……違う、この小屋の入り口が、戸板でふさがれたのだ。
頭が回り出す。
今のは、フィンが、外に出て行ったところだ。
まばゆい光は、朝日だ。
フィンは――顔を隠していなかった!
外から水音が聞こえてきた。
顔を洗っている。
「!」
カルナリアは飛び起きた。
また今日も、ゆるみきっていた体が重たい。
だが昨日よりは動く。動かさねばならない。フィンの素顔を見られるのだから!
「お、お、お、お……!」
王女として許されない声を漏らしつつ、歯を食いしばった許されない顔をしつつ、小屋から飛び出した。
――遅かった。
まばゆい世界の中で、ぼろぼろの毛皮の獣がうずくまっている。
顔を洗い終えたのだろうフィンは、頭から布をかぶってしまっていた。
「こら」
額を硬い物で突かれた。
ごつっという音が耳の中に響いた。
「いたっ!」
ぼろ布の合間から、剣が突き出ている。
先端まで色あせた布でぐるぐる巻きにされた、少し反りのある細剣の鞘。
それでカルナリアの額を突いたのだ。
「おはよう。だがいきなり飛び出すな。敵や獣がいたらどうする。何をするにも、その前に状況を観察し、警戒するように」
「は、はい……おはようございます……」
自分を所有物としたせいか、昨日と比べて遠慮がなくなっている。
「予想が外れた。顔を洗え。洗ったら、来い」
ぼろぼろは、地を這うような低い状態のまま、するすると――岩壁の方へ移動していった。
目で追ったが、とにかく先に、冷たい水で顔を洗う。
一気に目も頭も冴えた。
ちゃんと持ち歩くようにしていた拭き布で顔をぬぐった。
誰かに差し出してもらわなくても、自分でできる。
すっきりすると――恥ずかしくなった。
昨夜、またしても色々な醜態をさらし、慰めてもらい、甘やかしてもらい、添い寝してもらって。
今もまた、はしたないことこの上ない真似を。
(わたくしは王女です、カラント王国の、王女です!)
自分に言い聞かせ、気持ちを立て直す。
(王女が、やむなく、今だけ、あの方の持ち物になっているのです……それを忘れてはなりません! わたくしには使命があるのですから!)
そう、これは、仕方のないこと。
フィンを目で追う。魔力を探す。いた。
あのぼろ布の中にあるはずの、整った、美しい、あの体。
かけてくれた優しいあの声。
自分を揉みしだいたあの麗しい手。
添い寝し、包みこんでくれたあの胸……。
(……わたくしは、王女です……)
カルナリアの足は、見えない何かに引っ張られるように、フィンのところに向かって動き出した。
「うわあ…………!」
昨日は、ほぼ日暮れ時だったのでうっすらとしかわからなかったが。
陽が出た後の早朝の光景は、まったく違った。
ここは崖の上、高所。
地平から顔をのぞかせたばかりだが、太陽が自分の目線より下にあるというのは、生まれて初めての経験だった。
見下ろす、広大な空間。
まだ陽光の届いていない、暗めの緑に覆われた山襞が幾重にも重なり、うねりながら広がってゆく光景が、眼下に――視界いっぱいに広がっている。
光は空から降り注ぐもの、というのが当然だった常識が書き換えられた。
横からの陽光、このような影の差し方というものがあるのだ。
王女のままでは決して見る機会を得られなかっただろう、雄大な光景にカルナリアは感動した。
「ああ…………!」
両腕をいっぱいに広げて、思いきり息を吸いこむ。
ひんやりした、澄み切った空気に、いやなものは浄化され、力がみなぎってくる。自分はどこまでも行ける。何でもやれる。
「……立ったまま来るな。大声も出すな。はいつくばって、こっちに来い」
あきれたような声に、現実に引き戻された。
また恥じらいつつ、言う通りにして、四つん這いになって崖の縁に近づく。
最初の時の恐れが嘘のように、このぼろぼろに近づけることが嬉しくてたまらない。
だが、甘い感覚に浸らせてくれない気配を、崖縁にうずくまるフィンの姿は発していた。
「気をつけて、下を見ろ」
そろそろと顔をのぞかせた。
立っていた時以上に雄大な視界。
小屋の脇を流れる細い水流が、岩の割れ目に吸いこまれ、途中で飛び出して、空中で霧になって消えている。
しかしカルナリアはすぐに、フィンが何を見せたいのか、予想が外れたとは何のことなのか、理解した。
「…………!」
あの魔法具『流星』で飛び上がるのでなければ、そこを通るしかないだろうという崖の崩れたところ、『階段』の根元に。
人がいた。
武装した集団が、群がっていた。
ご主人さまは情弱だった。山小屋でのんびりしている場合ではなく、追っ手が迫る。次回、第33話「峠越え」。
 




