30 山小屋
「あそこだ」
示された斜面の上に、また崖があった。
飛び上がってきた断崖ほどではなく、二階建ての家程度の高さではあるが、岩の壁がそびえている。
その下に、「小屋」があった。
ローツ村の、フィンの住処と似たような感じの、丸木を組み合わせた上に板を乗せただけの、きわめて粗末なもの。
ただ、こちらはしっかりした丸木を頑丈に組み合わせてあり、フィンでも立ったまま中に入れそうな高さがある。
そのかたわらの岩壁を、人の指程度の細い水流が流れ落ちて、かわいい音を立てていた。
岩床がえぐられて、水がたまっている。明らかに人間が手を加えて作ったものだ。
「山に入った猟師が時々使う、仮小屋だ」
フィンは、入り口をふさいでいる扉――木と草を組み合わせた、ふたのような――をどかした。
中は暗くて何も見えなかった。
流れ出てくる空気は湿っぽく、わずかに獣の臭いがする。
淡い光が灯った。
フィンの小屋にあった、あの照明用の魔法具だ。薄い板状のそれが、ぼろ布の合わせ目から出てきて、光を放って視界を確保した。
岩のくぼみを利用した小屋らしく、外から見たより奥行きが広い。奥の方は壁も天井も岩だ。少しずつ掘り進めている様子も見てとれる。
床は岩そのまま。完全に平坦ではなく少し傾斜がある。
丸木で組んだ寝台らしきものが設置されている。
かまど代わりだろう、平らな石がいくつか置いてあり、焼け焦げた痕や灰が残っていた。
水瓶も置いてあった。形がいびつで街ではとても売り物にならない。だからこそこんな所に放置されているのだろう。
カルナリアには用途がわからないが、天井から鉤が何本も生えており、細い棒や取っ手のついた太い丸木など、何らかの作業に使う道具らしいものも置いてあった。
フィンの住処と違って、生活感はまったくない。
しかし、人間が滞在することのできる場所だということだけは間違いなかった。
「うむ」
何に納得したのか、フィンがするすると入りこんでいって、背負い袋を床に残してから、寝台の上に這いあがった。
そこで動かなくなる。
根が生えた、とカルナリアは見たままに感じた。
これはもう、あそこから動かないな、と。
「まかせた」
「そう言われましても」
「これを、額に」
照明の魔法具が寝台の上に差し出された。
薄い板には紐がついていた。
「ひたいに……巻け、ということですよね……」
そうすれば両手が使えて、様々な作業もやりやすい。
ただ、カルナリアには抵抗があった。
首輪の中に隠されている『王の冠』。
これもまさにこのような形状をしている薄板状の額飾りで。
新王は、即位の後の「装着の儀」で、『王の冠』を額に触れさせて、輝かせるのだ。
その儀式と同じことをやる、というのには、王女として強い抵抗をおぼえざるを得ない。
しかし――今のカルナリアの立場では拒否もできず。
(いえ、むしろ、これがわたくしにふさわしいものなのかもしれませんね)
考え直した。
『王の冠』をレイマールに届けるためなら、何でもする。
その決意をしたカルナリアにとって、働くための照明魔法具は、主人にして庇護者でもあるフィンに気に入られるために必要なもの、すなわち『王の冠』を守るための道具ということだ。
それなら何も恥じることはない。
カルナリアは額に、淡く光る板を張り付け、紐を頭の後ろで縛った。
確かに、額に光源があるというのは、きわめて動きやすかった。
次に何をするべきか、見回して考える。
寝床。自分たちが所持しているもの以外の寝具はないから、フィンはぼろ布、自分はマントにくるまって横になるしかないだろう。
では食事の支度か。
朝というか昼、寝過ぎた後に食べたきりだ。
ローツ村を逃げ出してからここまで、半日でも心身ともに無数のことが起きて、その緊張が解けて、カルナリアの腹がとてつもない欲求を訴え始めていた。
「水。そこのはそのまま飲める。完全に暗くなる前に汲んでおけ」
言われて、荷物から器や水筒を取り出して外に出た。
空の色はほぼ失われて、山の輪郭がかすかにわかるだけ。
高度が違うせいか、肌寒かった。
照明具がなければ、自分の手で火を起こしたことなどないカルナリアには何もできなかったことだろう。
水は、ローツ村の水路よりもさらに冷たかった。
自分に腕力があれば、水瓶の方を運んでいって、水を満たして持ち帰ってこられるのだが、とてもそれは無理なので、小さな鍋を使って何度も往復して水をためてゆく。
その間フィンはまったく変化せず寝台の上。
王宮の、下働きの者たちの苦労を思った。もしああいう暮らしに戻れることがあったら、今度はいたわり、彼らができるだけ楽になるように色々工夫をしよう……。
完全に外が真っ暗になった頃、おおむね必要な水汲みを終えた。
次は、湯を沸かす。
二度目なので何の迷いもなく、発熱サイコロを三角形に組んで、煮炊きスペースだろうところに置いた。
下が石なので熱についての心配はいらないが――魔力の流れが、フィンの家の時よりも弱いような気がした。
場所によって違うのかもしれない。そういえば大地に宿っている魔力は、地形とは別な大きな流れを形成していると教えられたおぼえがある。魔導師はそれも利用して魔法を行使する。流れが特に良い場所には魔導師が工房を設置する。大きな街ができるところも大抵は良い場所である……。
「ええと……」
自分で荷物を詰めたので、何が入っているかはよくわかっている。
食料とおぼしき包みはある。
干し肉や野菜がある。硬い、パンらしきものもある。
「この次は、どうすればいいのですか」
ためらわず訊いた。
料理ができないことは昨夜知らせてある。それならわからないことを勝手にやって失敗するより、最初から指示を受けた方がいい。
「板」
荷物の中に、それらしいものがあった。
カルナリアの両の手の平を合わせたより少し広いぐらいの、横長の白っぽい石の薄板。布に包まれていて、取り出すと食欲をそそる匂いがかすかに漂ってくる。
「湯が沸いたら、一度下ろして、その板を乗せて熱する。熱くなったら、燻製肉を薄く切って、乗せて、溶けた脂を広げる」
(切る……!)
カルナリアは喉を鳴らして、荷物の中にある調理用のナイフを手にした。食事の時にナイフはよく使うが、食材を切るのは初めてだ。燻製肉は、カチカチの干し肉よりはましだが、それでもかなり硬い。薬がない今、手を切りでもしたら大変だ。慎重に。
「お、大きさは」
「食べやすいならどうでもいい」
野菜も切るように言われた。上は緑の薄い葉、下の茎は幅広く厚い板のようになっているものを数枚、真ん中で切って葉と茎を分ける。
湯が沸いた。
言われた通り鍋を横に下ろして、薄板をサイコロの上に置く。
少しして、何とか切断した不揃いの干し肉を置いた。
ジュウジュウと、かすかな音がし始めた。
フォークで円を描いて脂を広げる。
立ちのぼってきた香りはまぎれもない肉料理のそれで、カルナリアの腹がはしたない訴えを起こした。
「鍋に入れろ」
唾をためつつ、指示に従って火の通ったものを移動させ、さらにもう数切れ同じように焙る。
その次は、脂まみれになった薄板に、野菜の茎部分を乗せた。
こちらもすぐいい音を立てはじめ、肉とは違う香ばしい匂いを立ちのぼらせる。
「ひときれ、食べてみろ」
奴隷がいいのか、と思わずフィンを見てしまったが。
口の中いっぱいにたまった唾液をどうすることもできなかった。
許可が出たのだから、とフォークで刺し、口へ運ぶ。
「!!!」
熱そうなので慎重に口に入れたが、たちまち全身が歓喜にしびれた。
シャクッという歯ごたえ。脂の風味に彩られ、青臭いどころか甘みすらおぼえる。口が幸せに満たされる。
気がついた。炒めただけなのに塩味がする。
「こっ、これっ、味がっ!?」
「岩塩だ」
この板は、塩でできたものらしい。
「いいようだな。鍋に入れろ。板を下ろして、鍋を温める。火傷しないように」
隙間に詰めておいた布を――何もとがめられなかったので――使って、熱い岩塩板をサイコロの上からずらして、床に置いた。
まだ熱が残るうちに、野菜の葉でぬぐって、脂をできるだけ残さないよう指示される。
その葉も鍋に投入してすぐに、細長い棒のような硬いパンを、折って、入れるように言われた。
「かきまぜているうちに柔らかくなってくる。ほぐれたら、好みで味をつけて、最後に『3番』の袋の中身を指先でひとつまみして振りかけろ」
味を見ることを許された。
フゥフゥ吹いて冷ましてから、スープをひとさじ唇へ運ぶ。
「…………!」
またしても体が歓喜に震えた。
火を通した燻製肉の風味。野菜の香り。やわらかくなった穀物の甘い味わい、幸せな満足感――だが確かに、塩味はするものの、少し薄いとは思った。
竹の筒から調味料の 醤をかきだして、溶き入れる。
豊かな香りが重なって、さらに食欲が刺激された。
薬だろう小袋が沢山まとめられそれぞれに番号が書かれている、その「3番」の袋。
昨夜の黒い粉とは違う、少し黄色がかった粉だった。
刺激臭のするそれを鍋に入れると、香りに色がついたように感じられた。初めての香り、しかしたまらなく魅力的にカルナリアの嗅覚をもてあそんでくる。
「どっ、どうぞっ……!」
腹のうなりを恥ずかしく思いつつ、器によそって、フィンに持っていった。
今度はフィンも受け取った。
手を見せることなく器と匙がぼろ布の中に吸いこまれる。
「私はこれでいい。後はお前の分だ」
カルナリアは、ランダルがくれた自分用の器に、鍋の残りを急いで入れた。味見で少しだけ腹に入れたものだから、空腹感はかえって切実なものとなっていた。手が震えてこぼしそうだった。
「よっ、よき糧を与えてくださるっ、麗しき風の流れにっ、感謝をっ……!」
食前の祈りを冷や汗を浮かべつつ唱えてから、ありつく。
(ああ…………!)
沢山のことがあった一日の終わり、敵の目を逃れつつ逃げてきた山の上、まわりには自分たち以外誰もいない場所。
そこで、最初からすべて自分の手で作った料理。
感動が王女の脳を埋め尽くした。体も心も宙に舞い上がった。
(父様、母様、レント、エリー、みんな、見てくれていますか。わたくしは今、生きております!)
昨日は悲しみと喜びに同時に襲われつつ食べた。
今日は、喜びだけを味わうことができた。
食べることは生きることなのだと、本当に、カルナリアは学んだのだった。
「美味かった」
ぼろ布の中から、空の器が出てきた。
その言葉と、食べてもらえたという事実もまた、カルナリアに大きな喜びを与えてくれた。
(わたくし、料理人になってみるのもいいかもしれません!)
そんなことすら考えた、そこへ。
「文字は読めるし、お祈りもきちんと。鍋から直に食うこともしない。この国の奴隷は教育水準が高いな」
ぼそっと言われて、全身に冷水を浴びた。
「私に楽をさせてくれるのだから、実にいいことだ。ありがたい」
(よくありません! い、いえ、それでよろしいのですが、ああ、しくじりました!)
フィンがこの国の人間ではないため、カルナリアが奴隷としてとてもおかしいと気づかないでいてくれることを、心から神に感謝した。
食事は終えた。だが山小屋の夜は始まったばかり。次回、第31話「洗いっこ」。王女が何かに目覚める。性的な描写あり。
 




