275 刻む
性的表現あり。
十五歳以下の方は戻って下さい。
フィンの言ったこと、その内容、これからのこと……それらが腑に落ちてきて。
カルナリアは、涙が止まらなくなった。
「どっ………………どうしてもっ…………!?」
「どうしてもだ。お前がお前であり、私が私である限り、どうにもならないことだよ」
頬を撫でてくれた腕が、肩に来て、引き寄せ、抱きしめてきた。
カルナリアもしがみついていって、首筋に顔を埋め、すすり泣いた。
「よし、よし」
裸の背中を撫でられて、さらに涙があふれ出た。
タランドンで、助け出された後そうなったように、ひたすらカルナリアは泣き続けた。
自分を買い戻すと決めた時に、もう二度とこんな風にあやしてもらうことはないのだと思った、それをまたしてもらえている喜び。
しかしこれが今度こそ本当に最後の機会なのだという悲しみが、それ以上に大きく心の中で渦巻いた。
泣きながら、必死で、全力で考えもしていた。
フィンが姿を隠さないですむ道はないのか、と。
外国の力を借りることになっても構わないと、フィンの存在をむしろ堂々と言って、面倒は自分が引き受けて……。
……思うだけなら簡単だが、外交交渉はもちろん実務などしたことのないカルナリアに何ができようか。
自分の「目」で、それができる人間を見つけ出せばいいのではないか。
しかしガルディス軍との戦いが待つ中で、そんな者が見つかるのか。いなかったらどうする。見つからなかったではすまない。ものすごい数の人の命が失われてしまう。
そもそも国とは無関係にフィンを狙ってくる者がいる。
フィンが死神の剣の持ち主である限りまとわりついてくる、しがらみ。
それはカラント国王であってもどうすることもできない。
自分にどうにかする力はまだ宿っていない。
それ以上に、その力を使え剣を振るえ敵を殺しまくれと望む者たちがフィンに群がってくるのを、どうすることもできない。
反乱軍という強大な敵がいる限り絶対に止められない。
自分ですら、このままでは負けるまわりの者たちがみんな殺されるとなったら、フィンにお願いしてしまうことだろう。
それは、最もやりたくないこと、最も醜いことなのに。
フィンに死神の剣を手放してもらうのは。
……それのおかげで生き延びた身で要求できることではない。
また手に入れた者がそれをどう使うかも、カルナリアの責任となる。
そもそも、手放した場合、すでに絶世の美女と知られている彼女が、いつまで無事でいられるか。
フィンは賞金首で、賞金を出して彼女を求めている帝国の皇子がおり、夫の心を奪われた妻が賞金をかけたという話も前に聞いている……。
カルナリアはさらに必死に考えた。
脳が煮えたぎるほどに考えた。
しかし、どのようにどれほど考えても――。
フィンが東のブルンターク出身の姫君という身であり死神の剣を持つ世界最強の剣士であり、自分はカラント王国の継承者であり『王の冠』を装着し終えた女王である、という事実がある限り、どのようにしても、厄介ごと、面倒ごと、多くの人を幸せにできなくなる状況にしかならないという未来が見えてしまうのだった。
フィンの言った通り、国内に滞在してはくれても自分の前には姿を現さない――別行動を取ったということを皆にはっきり示し、今後一切関わらない…………あらゆる意味で、それが最も、カルナリアのためになること!
カルナリアを想ってくれているからこそ、それこそが最善手、愛しい相手のためにできる最大の献身……!
「うっ………………ううっ…………うああぁぁぁぁぁぁ…………!」
とうとう何一つ道が見えなくなって、カルナリアはフィンにしがみついて号泣した。
麗しい手は、どこまでも優しく裸の背中を撫でさすり続けてくれた。
――だが。
その手がもたらす感覚が、全身に響いてから、左手の指に結集した。
フィンに噛まれたその部分。
何度もうずき、熱くなって、命を救ってくれた、しるし。
バウワウに言われたこともよみがえる。
「……ご主人さま」
カルナリアは決意した。
これからの人生の、全てを、ここで決める。
ある道を自分で選び取り、それを進む。
「いえ……フィン・シャンドレン様」
名を呼び、真っ向から見つめた。
少し体を離し、何一つまとっていない体を、美しくきらめく瞳にさらす。
「あなたと、お別れしなければならないことは、わかりました…………それなら、その前に…………わたくしに、あなたを、刻んでください」
左手を突き出す。
「わたくしはあなたのものであるという、しるしを……この指と同じように!」
「…………」
フィンは、カルナリアの視線を受け止めた。
悲しげに下がっていた目尻が、真剣になり、深い光を宿した。
子供を、保護の対象を見る目つきではなかった。
対等の相手として、見てくれていた。
「…………いいのか」
その問いには、カラント女王がその道を選んでいいのか、という意味も含まれていた。
カルナリアは、一時の感情だけではない、これまでの全てを思い返し、これからのことも考えた上での判断として、告げた。
「はい。わたくしを所有なされている方に、わたくしの全てを、ここで、捧げます。
これからもう会うことはできなくなるというのなら、今、この時にしか、依頼料をお支払いする機会がございません。
わたくしを受け取り、わたくしの命、わたくしの体、わたくしの血の一滴まであなたのものであるということを、確定させてくださいませ!」
言い切ったカルナリアを受け止めるまなざしが……。
同じく、これまでの日々、これまでふたりで重ねた経験のすべてを思い返したのだろう相手の目が…………『夜の瞳』に、変化した。
「そうだな…………わかった。剣を使った代価を、受け取ろう」
フィンの手が動いた。
突き出したカルナリアの手に――そのくちびるで噛んだ指に、自分の指を絡めて。
引いて。
抱き止めて。
片腕で、死神の剣を掲げた。
「絶対に、邪魔が入らないようにする。神でも、許さん」
鞘ごと夜空に突き上げる。
巻かれている布が、はらはらとほどけた。
「!」
あの漆黒、いや「完全黒」の鞘があらわれる。
あまりにも黒くて、月光程度では輪郭がまったくわからない。
その向こうにある白々とした岩を遮ることで、ようやくそこにあるとわかる。
そこに、黄金の紋様が輝いた。
グンダルフォルムを斬った時と同じか、それ以上に強い輝き。
その鞘ぐるみの長剣が――大きく、ぐるりと、周囲をひとめぐりした。
カルナリアは自分たちが何かに包まれたのを感じた。
あらゆるものから遮られた。
今、ここにいるのは、完全に、自分とフィンのふたりきり。
自分たちを見ているのは、夜空の月だけ――のはずだったが、その月が、まぶたを閉ざし、目を逸らしたことがわかった。
月の神が、見ないようにしてくれたのだ。
フィンが、死神の剣を脇に置いた。
ぼろ布が取り外され、これも横に置かれた。
まばゆく輝くか、底知れぬ闇に沈むか、それ以外の色彩は存在しない世界の中で。
宵闇の化身は、ゆっくりと、最も美しい姿をカルナリアの前にさらした。
「おいで、私のもの」
「はい、ご主人さま」
二人の体は、重なりあった。
カルナリアが自分を保っていられたのは最初のうちだけで、すぐ耐えられなくなり、快美の声を漏らし、悲鳴をあげ、叫び、のたうち、泣きじゃくり、どこに何をされているのかわからないまま、ひたすら獣のような声を漏らすばかりになった。
相手は人類の敵、捕食者だった。人を食べるために在るものだった。これに食われるのは必然だった。
その中にいる内気な少女は、一度心を決めると、むしろ歯止めがきかず、全力を注ぎこんできた。
この存在の全力。
優しすぎ、巧みすぎる扱いに心身すべてが溶かされ、そこに灼熱の愛を注ぎこまれ、溶かされずに保てるものなど何もない。
だが同時に、自分の手が動いて、夢に見たものを包みこみ握りしめ揉みしだいて、相手を溶かしていっていることも感じた。
自分がされるばかりではなく、相手にしてあげられることがあるというのは、途方もない喜びだった。
身も心も幸せに埋め尽くされとろけていって、相手と混ざり合い、ひとつになってしまいそう。
それこそが目指すべきものなのだが――その前に。
カルナリアは、自分自身を、愛しい相手とはっきり峻別して、最も大事なことを求めた。
「刻んでくださいっ!」
溶けてひとつになる前に、はっきりと、自分という存在に、相手のしるしを。
泣きながら、感情のすべてをあふれさせながら、求めた。
応じてもらえた。
相手が、来た。
「っ!」
噛まれたどころではない、鋭い痛みがはしる。
自分に、刻まれる。
入ってくる。体に食いこんでくる。
痛い、すごく痛い、だがこれは望むもの、欲しいもの、刻まれなければならないもの!
(あっ!?)
魔力が動いた。
勝手に動き出した。
体が、強い苦痛に対して、反射的に治そうとしてしまっている!
それはいけない。
この痛みは、絶対に、治してはいけない!
猛烈に動く体内の魔力を、押しとどめ、流れを逸らし、緩和させ、あるいは打ち消し、痛みがなくならないようにし続ける。
治そう、癒やそうというのが根底にあるカルナリアにとって、その真逆の魔力操作はきわめて困難だったが、自分の全てをかけて、やりとげた。
「ああ…………!」
魔力の奔流がどうにか収まっても、痛みはまだそこにあり続けた。
大粒の涙を流しながら、カルナリアは歓喜する。
これでもう、一切の障害はない。
本当に、自分はこのひとのものになったのだ。
あとはもう遠慮なく、自分を捨てて、幸福に飛びこんでいった。
痛みと共にすべてが溶け落ちて、相手とひとつになる。
これほどの幸せがこの世にあっていいのかと恐ろしくなりながら、溶け落ちて、どこまでも落ちて、落ちる先には夜空があって、夜の中に、きらめく星々の中に、無限に広がってゆき、何もわからなくなった………………。
…………気がつくと、温泉にいた。
夢……ではなく、刻まれた痛みはまだ強く残っていた。
仰向けに横たえられ、体に布をかけてもらっている。頭の下には緑色、すなわちぼろ布を裏返して折りたたんだものを枕にしてもらっていた。
乳白色の川のほとりに、美の化身がいた。
何も身につけていない。黒髪を頭の上にまとめている。麗しい後ろ姿。まばゆいばかりの背中。肩甲骨。背筋。すばらしい腰のくびれ。水際の岩床でたわんでいるお尻。
起き上がると、近づいていった。
何もかもふわふわして、体が今にも浮き上がりそう。
肌にぬるいお湯をかけて汗を流してから、隣に水音を立てつつお尻を落とし、身をもたせかけた。
相手の肌も、熱い。
「大丈夫か」
「はい……」
「…………あ~…………こういう時、何を言えばいいか、わからないな……」
「私もです……」
しかし抱き寄せられて、素肌と素肌を触れ合わせてくれた。
それだけでも幸せだった。
「お前は、本当に、可愛いな。何もかも」
「今だけですよ。もうすぐ、きれいって言われるようになってみせます」
「それはそれで、待ち遠しいよ」
カルナリアは自分の理想である、愛する者の美しい体を見回した。
真横から見る、豊かなふくらみ。『夜の姫』の時もそうだったが、その頂の突起に吸いつきたくてたまらなくなる。
「……みんな、ずるいです。私より先に、このお顔も、このお体も、見ていたなんて……わたくし以外、見るのを禁じる法でも作ってやりたいです」
「私に、風呂に入るなと」
「お呼び下さい。今度こそ、ご主人さまのお体を、隅々まできれいにしてさしあげます」
そう、隅々まで、もう知っている。
すべてを見て、すべてに触れた。
知らぬところはもう――。
「……あの。よろしいですか」
返事を待たずにカルナリアは伸び上がる。
フィンは、つややかな黒髪を、湯につけぬようにまとめ、持ち上げている。
それによりさらけ出された、うなじ。
そこは初めて見る。
「まだ、ここを、拭っておりませんでした……」
唇を近づけ、吸いついた。
「ひゃうっ」
初めて聞く声が、剣聖の口から漏れる。
ゾクゾクゾクッと背筋をすごいものが駆け上がり、カルナリアはべったり唇を押しつけ――手も、体の前に這わせて、豊かなものを、揉んだ。
「うう…………お前、ラーバイで、本当に、何も教わっていないんだな?」
「話は聞かされ、手つきは見せられましたけど、実際には何も」
「じゃあ、これは、純粋に、才能か……何てやつだ」
「才能……」
その言葉で、大事なことを思いだした。
――それについて触れる前に、心ゆくまで揉んで、満たされて、仕返しされて、はしたない姿を何倍もさらしてしまってから――。
汗ばんだ体を湯で洗い、岩の上にあがって涼みながら、言った。
その手に――無造作に置かれていたフィンの衣服の、その中にあった『王の冠』を取り出し、つまみ持ちながら。
「わたくしは――前から、他の人の持っているもの……才能が、見えました。
この人はこういうことができる、こういう分野に能力を発揮する、そういうことがわかる目を持っておりました」
「前にもそんなことを言っていたな」
「その力が、これをつけて、大きく伸びました。
その相手の才能がもっと細かくわかるようになり、特定の才能を持っている者を見つけられるようになり、他の人と組ませた時にどういう才能を発揮するかまで、わかるようになりました」
「とんでもないな。女王としては最高のものじゃないか?」
「はい。必要なら、能力を切ることも――相手の才能を見ないようにすることもできます。先ほどまではそうしておりました」
「……今、その目で、私を『見た』ということか」
「はい」
正直にカルナリアは答え――『王の冠』を装着した。
「あなたとお会いして以来、ずっと見たいと思っていたものを、ようやく、見ることができました」
ふたりは結ばれた。女王は完全にご主人さまのものとなった。
身も心も全て捧げたカルナリアは、出会いの時から抱き続けてきた欲望をついに果たす。
次回、第276話「朝」。性的表現あり。




