25 ローツ村の終焉
※ランダル視点になります。
残酷な表現あり。
警報板が激しく打ち鳴らされている。
軍勢が、日暮れ時のローツ村に迫っていた。
(早すぎる!)
ランダルは焦燥感にとらわれつつ、帯剣して家を出た。
すがりついてくる村人たちに、女子供は家に隠し、男たちには何かあれば足止めのバリケードをすぐ作れる準備をして待機するよう指示を出す。
自分以外は武器を持たず、抵抗の姿勢は示さないよう厳命した。
「あなた、ランケンがいないの! あの体で、抜け出して!」
「……下に行ってないならいい! 後にしろ!」
馬鹿息子が兵士に「ぼろぼろさん」と奴隷少女のことを告げ口するのが、最もまずい展開だった。それさえ回避できれば今はいい。
いなくなったというなら、行く先は容易に想像できた。
足を折ってやったというのに、山を登っていったとは。
だがぼろぼろ――あの人物は、自分たち凡人とは桁違いの、とんでもない存在だ。馬鹿息子ごときに何ができるはずもない。
それよりも――。
(なぜ、いきなり中隊規模でやってくる!?)
ランダルがビルヴァの軍営に伝えさせたのは、兵士が二人、行商人を襲って相討ちになって死んだということだけ。
それならまず事情を調べに来るはず。騎兵を一班、六騎。自分が指揮官ならそれだけにする。
今は、領主がまだ抵抗しており、城を攻めている真っ最中で、後方で余計な軍事行動をしている場合ではない。
調査の結果、兵士を害したのでローツ村を潰すということになるにしても、まずは事情聴取、その後に軍勢派遣という段階を踏むはずだ。
なのにどうして、いきなり軍勢が。
ただ――少しだけ安堵したのは、近づいてくる部隊から、危険な気配を感じなかったことだ。
村を潰す、略奪する、皆殺しだ……というような殺気がない。
(……少女狩りやこちらの連絡を聞いてではなく、その前からこのあたりを回っていた部隊か?)
それなら可能性があった。
支配者が変わったことを伝えて回り、ついでに新しい兵士を募集する宣伝隊。
それが村から村へ移動しており、今ここへ来たということなら、理解できなくもない。
よく見てみると、騎乗している先頭の中隊長には見覚えがあった。反乱が起きる前はビルヴァで門番をしていた人物。
後ろに続く歩兵たちには、年齢の高い者が多かった。
明らかに、戦わせるためではない部隊だ。
支配者が変わったと聞かされ戸惑う農村の者たちをなだめ納得させるには、年かさのいった者の方が向いている。
見知った顔が他にもちらほら。
馬に乗った小隊長のひとりは自分と同い年、一緒に酒を飲んだこともある相手で、ランダルを認めて小さく手を振ってきた。
ほっとした。
そういう隊であるなら、兵士の遺体を検分させ事情を説明し、ほどよくあしらえば、やりすごせるだろう。
もうじき日が暮れる。村に泊め、食事を提供することになるだろう。それくらいならどうということはない。
だが、問題は――。
「戻りました」
「…………おう」
昨日の朝、兵士の死を伝えにビルヴァへ向かわせた者が、この部隊に同行して戻ってきたことだ。
ビルヴァまでは、健脚の者が徒歩で半日。馬なら一日の間に往復も可能。だが昨日のうちには戻ってこなかった。
今になって軍勢と共に戻ったということは、ビルヴァから、この部隊の所在地へ向かい、同行させられた――。
そういう指示を出した者がいるということだ。
ランダルの愛馬にまたがったその村民は、青ざめた顔をして、先頭の隊長を追い越してこちらに進んできて馬を下りた。
「何があった」
「後ろの、犬の連中です。かなり上の者です。事件に強い興味を持ったらしく、現場へ案内するよう命令され、途中で色々細かく聞かれました。あの道にも人をやってます。俺は夫婦のことしか言ってません。この部隊はタイン村にいた連中で、のんびりしていたのを、あいつらが無理矢理こっちに向かわせました」
普段からランダルが鍛えている者なので、簡潔かつ的確に説明してくれた。守るべき情報も漏らさないでくれた。
ねぎらって村に入れる。
(ふむ……)
あの部隊はやはり宣伝隊で、領内を大きくぐるりと回って最終的にビルヴァに戻るというルートを取る予定だったようだ。
それを強引にこの村に向けてきた。
軍の部隊に命令する権限を持った、「犬の連中」とは。
――すぐわかった。
明らかに「隊の一員」ではない雰囲気の者たちがいる。
よく調教されていることがうかがえる、静かに足を動かす大型犬が三頭。
それを引く男たち。
あからさまな武装はしていないが、いずれも素人ではない。
かなり、やる。
そして……犬およびそいつらの後ろにいる、その三人の上官だろう男。
マントをまとっていて身なりはよくわからないが、ごつい防具や武器を身につけている様子はない。
体は細く、姿勢は悪く、こちらではなく地面を見て歩いているようなひどい猫背。
軍に引き回される民間人いわゆる軍属、あるいは勝手にくっついてくる商人の手の者……普通ならそう見てしまうだろう風体。
しかしランダルは、その人物が視界に入った途端に、鳥肌を立てた。
あれだ。
とてつもない手練れ。
あいつが、この部隊の本当の指揮官だ。
ガルディス王太子直属の人間かもしれない。
狙いはもちろん――「少女狩り」の根本原因、あの十二歳の女の子、ルナ。
「……みんな、絶対に、動くなよ。動いたらこの村がつぶされるぞ」
周囲に声をかけて、ひとり進み出た。
ここからの自分の対応、言葉、表情ひとつだけで、この村の者は皆殺しにされかねない。
すさまじい重圧にかられつつ、騎乗する指揮官の前に立った。
「ここの村長、ランダルだ。軍が来るとは聞いていないぞ。何の用だ」
「ああ、いきなりすまないな」
隊長は、むしろ申し訳なさげに言ってきた。
「新しい王様がお立ちになられたことと、郡主どのが変わったことを伝えに来たんだ。兵どもはここで止めておくから、俺たちだけ、村に入れてくれないか?」
「それは…………正式なものなら、構わないが……」
指揮官は自分から馬を下りた。
背後の部下たちもならった。
とりあえず、そこには悪意を感じなかった。
ランダルは彼らを村へ招き入れようとして――。
「お前が村長か。聞きたいことがある」
あの猫背の男が、犬を連れた三人と共に、近づいてきた。
ランダルは意図的に、指揮官の方を見た。
誰だこいつは、という不機嫌な顔を露骨にしてみせる。
田舎者は、よそ者には警戒心を抱く。それを丸出しにする。
「ああ、その、王都から来た人でな……」
指揮官は、明らかに好意的ではない様子で言ってきた。
しかし、従うしかないという、組織の一員の顔もしている。
王都から来た。
つまり、絶対に逆らってはいけない相手ということ。
だがランダルは、あえて空気を読まない態度を取った。
「それじゃわからん。村長として、ちゃんと名乗ることもしない相手を、村に入れるわけにはいかない」
「いや、だから、この人たちはな……」
「犬どもが反応している。ランダルといったか、ガルディス新王陛下の御名において、お前を拘束する」
猫背の男が隊長を無視して淡々と言った。
犬がすべて、ランダルに鼻を向けて、低くうなった。
明らかに、追っている相手のにおいをかぎつけた反応。
冷や汗がにじむが、顔には出さない。
むしろ戦意をかきたたせる。
「拘束、だと? この村をまとめて、育てられるものをきちんと育て、決められた税とそれ以上に求められるものを、できるかぎりしっかり納めている、この俺をか!?」
腰の剣に手をやり、本気の殺気を叩きつけた。
この犬程度なら首をはねてくれる。
「言葉が悪かったか。では訂正する。ガルディス陛下の御名において、お前に情報提供と、協力を要請する」
猫背の男は、一切動じた様子もなく言ってきた。
「断る。どこの誰か、名乗りもしないやつ相手に、協力する理由がない。名乗らずにこちらに言うことをきかせようとするなら、それはすなわち賊だ。賊が村に入りこもうとするなら、防ぐのが村長の義務だ」
犬どもが強くうなった。
その綱を持つ者たちが判断をあおいで猫背の男を見た。
猫背の男は――。
「そうか。では俺は村には入らない。ゆえに村長、お前にはここで色々話を聞かせてもらう」
やはり一切変化を示さず、淡々と言う。
逆にランダルの方がうめいた。
肌感覚でわかってはいたが、やはりこの相手は手練れ、本物の実力者だ。
ランダルが何をしても簡単に対応できるから、いちいち態度を変えたりしない。その必要がない。
「隊長、こちらのことは気にせず、お前はお前の仕事をしていい」
言われた隊長は、猫背の男に敬礼した。
上下関係は明らかだった。
ランダルを気の毒そうに見やりながら、直属の部下たちと共に村に入ってゆき、長老に、村人を集めるように指示を出す。
「……さて」
うなる犬とそれを操る者たちが、静かにランダルを囲んだ。
ランダルは剣から手を離し、両手とも開いてぶら下げる。
背後を取られては、抵抗は考えるだけ無駄だ。
「兵士と戦い死んだという行商人夫婦について、話が聞きたい。道中、村の者から色々聞いたが、村長、お前の口からも聞いておきたい」
やはりか。
どこまでのことを知っているのか。
もう一人いただろう、女の子だろう、十二歳ぐらいだろうと、どこでカマかけを交えて踏みこんでくるか。
ランダルは、肉体ではなく、頭脳の戦いに備えた。
ここからは言葉の戦い、情報を使っての果たし合いになる。
「…………ふむふむ」
しかし猫背の男は、気力を高めたランダルをいなすように、いきなりあらぬ方を向いた。
村の入り口横の、柵の縦杭の一本に近づいていく。
元からかがめていた上体をさらにかがめて、ほとんど這いつくばる姿勢になる。
それこそ犬のように鼻を鳴らし、さらに犬と違って地面や杭を見回し、手で撫でた。
「……ほうほう。ここに、いたな。成人していない、体の軽い者。上の方にわずかな血の痕跡。爪がはがれた指で触れたか。軽い者が、割と長く動かずに横たわっていた――失神していたのか?」
つぶやく声が聞こえてきて、ランダルは総毛立った。
その杭はまさに、昨日の早朝、「ルナ」がしがみついて気絶していたものだったのだ。
この男は、戦闘が強いというだけの実力者ではない。
足跡ひとつで相手の様々な情報を見抜き、草をかきわけた跡ひとつも絶対に見逃さずに着実に後を追う、追跡者だ。
王都からずっと「ルナ」の痕跡を追ってきたに違いない。
猫背の男は振り向き、ランダルを見上げて、ニヤリと笑った。
全て察している上で、こちらをいたぶるつもりが丸わかりの、邪悪な顔だった。
(まずい…………こんなやつが来たのでは、だめかもしれない…………すまない、レント、守ると言ったのに…………剣聖どの、どうか、ルナを連れて、逃げてくれ…………!)
ランダルが敗北を認め、唯一の希望にすがった、次の瞬間。
「なんだ!」
「火事だぞ!」
黒い煙が、村よりも奥の、山中から立ちのぼった。
「いかん!」
猫背の男が血相を変え、ランダルを完全に無視して村に駆けこみ、村人に新しい国王と郡主について説明していた指揮官に怒鳴った。
「この村の住民、全員を拘束しろ! 女子供、特に子供をひとりたりとも逃がすな! 抵抗する者がいたら殺せ! 許可する!」
「なっ!」
ランダルは剣に手をかけた。
その手首に噛みつかれた。
牙は肌に届かないが重みで動きが止まる。訓練された犬の行動。
即座に犬使いふたりがランダルの足を払い、地面に引き倒し剣を奪い、全身を探って予備の短剣や隠し武器なども奪い取ると、後ろ手にランダルを縛り上げた。
足も縛られた。
こういうことに慣れきっている素早い手並みだった。
「お前たち、来い!」
猫背の男が犬使いたちを呼ぶ。
ランダルは放置される――が、もう何もできない。
「急げ! まだ近くにいるはずだ、逃がすな!」
犬が離され、三頭とも矢のように斜面を駆け上がっていった。
犬使いたちがその後を素早い身ごなしで追い、さらにその後ろを、消火のために村人たちが登ってゆく。
村に突入した兵士たちが、あちこちの家に押し入りはじめて、あたりは騒然となった。
「どういうつもりだ! 何の真似だ! 村長に何を!」
村人が猫背の男に食ってかかった。
先ほど戻ってきた者ではないが、一緒にビルヴァへ赴いたひとり。
――その首が、落ちた。
鮮血の噴水。
猫背の男は、剣やそれに類する武器など持っていない。
だが、大量の鮮血が噴き出る中で、何かがキラッと光った。
恐らく、細い糸。
鋼か何か、強靱な。
場が凍りついた。
重たい音を立てて、首を失った体が倒れた。
「この村には貴族をかくまった疑いがある!」
猫背の男が、淡々としゃべっていたのが嘘のように、大音声を発した。
「これまで散々横暴をはたらいてきた貴族どもが、ガルディス様の新たな国において、許されることは絶対にない! 探せ! 村の者は全員集めろ、協力者かもしれん、一人も逃がすな! 知っている者がいたら言え! 抵抗する者は殺せ! 命令だ! 逆らう者はこうする!」
転がっていた首を蹴飛ばした。
隊長はじめ兵士たちが、鞭打たれたように直立し、形相を変えた。
百人近い兵士たちが、殺気だって村中へ散ってゆく。
家の扉を叩く。怒鳴る。蹴りつけ、叩き壊して入りこみ、女性の悲鳴が上がる。
つい抗ってしまったのか、腹に槍を突き立てられた男が絶叫しながら転がり回った。
大人しくしていた少年がそれを見て逃げ出そうとして、槍で足を引っかけられ、強引に引き戻されて、腕がおかしな方に曲がり絶叫した。
泣き叫ぶ子供が腕をつかまれ広場へ引きずられてくる。
一方で、山中の黒煙は太さを増している。
その下では小屋がもうもうと燃えあがっていることだろう。
縛られたまま放置されたランダルは――大混乱と凶行に飲みこまれた自分の村と黒煙を地面から見上げて、ぎりぎりと歯ぎしりした。
(ふざけるな!)
転がる首に、激怒した。
幼い頃からこの村で共に育ち、苦楽を共にしてきた友だった。
彼が、首をはねられるどんな罪を犯したというのか。
(何が「横暴な貴族は許されない」だ! お前らも同じことをしているだろうが! 俺への態度も、横暴そのものじゃないか!)
あの猫背野郎は、ぶっ殺してやる。
――だが。
彼にだけはわかっていた。
あの煙、事態を急変させたあの火事は。
自分の息子、ランケンのしわざだ。
昼に、もう絶対にルナや「ぼろぼろさん」にちょっかいをかけないよう、本気でぶちのめしたのだが。
気絶から覚めるなり、そのようにしたこの父ではなく、自分がそうされた原因であるあの者たちに「仕返し」してやろうと、家を這い出たのだ。
当分悪さができないように片足の骨を折ってやったにもかかわらず、痛みをこらえて山道を上り、フィンの住まう小屋に放火したのだろう。その気力、体力は、自分に似ていた。
前に小屋を焼いた時も散々ぶん殴ったのだが、結局、痛みからは何一つ学ばない息子だった。
どれだけやられても屈しない気の強さと言い換えれば、ある意味、自分の精神力を受け継いでいるとも言えた。
しかし何より重要な、周囲の気配を読み危機を感じ取る能力は、まったく受け継いでくれなかった。
よりにもよって軍兵と、厄災そのものの犬つかいどもが来ている時に、あんな真似をしでかすとは……。
いま火をつけたということは、まだ小屋の周辺にいるだろう。
犬とあいつらと、大勢が駆け上がっていく中で、隠れてやりすごせるわけがない。
放火だけでも罪なのに、軍を惑わせた罪が重ねられ――猫背男の裁量次第では、国の大事に関わる重大な失態をもたらしたということで、ランケン本人、その父の自分をはじめ、家族全員が処刑されてもおかしくない。
次の村長が誰になるにしても、その家名はローツではない。
ローツ村は、この瞬間に、終わったのだった。
(すまない、みんな。俺がもっとあいつをきちんとしつけていれば……俺が、まともな父親だったら……もう一人子供がいれば……)
ランダルは地べたに額をつけて村人たちに詫びた。
(……だが、襲われ、逃げる貴族たちに同情したこと、レントやエリーやルナを手助けしたこと、あのひどい有様のルナを村に招き入れたことは、後悔していない。お前たちがどれほど俺を非難しようとも、それは絶対に後悔しないぞ)
ランダルも一応は貴族だ。しかし第七位、最下級貴族である田舎の村の村長など、平民と同じようにしか見られない。貴族は許さぬと言っていた猫背男も、ランダルを貴族としては扱わなかった。
それをありがたいとは、ひとかけらも思わない。
(貴族にはろくでもないやつが多いことはわかってる。俺たちが汗水流して育てた作物を遠慮なく持っていくのも気に入らない。だが、平民をその手で沢山殺していたやつというならともかく、貴族というだけで見境なく殺すのは違う。絶対に違う。郡主さまたちを吊して燻して笑っていたやつらや、自分だって同じ平民のはずなのにあいつを簡単に殺した猫背野郎……お前らと同じになってたまるか!)
意地にすぎないと言われればそうだ。
だが張るに値する意地だ。
猫背男が狙っている目標の、ルナ。
彼女は、まだ子供だが、意地を張り命を懸けて守るに値する、高貴な精神の持ち主だ。
守り手を失い、あれほどに傷つき、打ちひしがれていたのに、ほとんど自力で立ち直り――。
わたくしを助けなさい、守りなさいとランダルに命令してきて当然の、身分と状況と精神状態であろうに、正体を明かすことも助力を求めることも、一切してこなかった。
それどころか、自分を守って死んでいった者たちに涙を流していた。
あの幼さで、ひとりで立つ強さを持っている。
他人の命の重さを知っている。
あれこそが本当の貴族。
制度として決められた位階ではなく、魂の有り様によって規定される、高貴な存在。
……だが、意地を張って守るにしては、存在が強烈すぎた。
ランダルの見たところ、ルナは、高位貴族どころか最上位、王族の可能性が高い。
エリーがそうであった程度の、三位、四位ぐらいの貴族令嬢なら、守れるつもりでいた。
だがそれより上となると、狙ってくる者、追ってくる者もまたそれにふさわしい手練れになる。
まさにあの、猫背の男のような。
一介の田舎村長にすぎない自分ではとても守り切れそうにない。
だから、ルナを――自分の知る、もう一人の真の貴族であるフィンのところへやった。
フィン・シャンドレン。
剣聖。
獣に襲われている自分を凄まじい剣技で助けてくれた。
それでいて、謝礼を要求するどころか、こんな田舎の村に住まわせてくれという、何の得もなさそうなことを願ってくるだけだった。
厚遇とはほど遠い、村のはずれのぼろ小屋に住まわせたというだけなのに、苦しんでいる者に薬をくれ、危険な獣を気づかないうちに退治し、子供たちの面倒を見て――ランダルの母も救ってくれた。
病に倒れ長く痛みに苦しんでいた母が、フィンがくれた薬で、苦痛が薄まり微笑みを取り戻し、家族みなにそれぞれ言葉をかけて、安らかに旅立っていくことができたのだ。
あれほどのことをしてもらえる、何を自分はしたというのか。
してもらったことに対する恩を、どうやって返せばいいのか。
けれども彼女は、何も求めてこなかった。
剣聖、と呼ばれる者がいるという噂は、街で旅人から聞いたことがあった。
間違いなく、その本人だ。
聖なる人物だ。
本物の貴族。
自分のようなただ人よりもはるかに高貴な存在。
(ルナを押しつけたことで、このような事態が起きるだろうということも、あの方は最初から理解していた……)
自分が見抜けたことを、フィンが見抜けないはずもない。
連れていったルナが、普通の奴隷どころではない存在だということは、すぐにわかっていただろう。
高位貴族、もしかすると王族のルナを庇護下に置くことで、多大な迷惑をこうむるのは間違いない。
詮索される。
告げ口される。
外から人が来る。
狙われる。
恐らく、村にいられなくなる。
逃げるしかなくなる。
それでもなお、ランダルはそうするしかなく。
フィンも、そうとわかって、受け入れてくれた。
受け入れたのだから、これから先に起きることはもうランダルの責任ではないと、言ってくれた。
殺気を放って、すごんで、これまでの代価としては足りないぞという怒りを示してみせることで、ランダルに「相手がすごく怒っていたからルナを譲るのは仕方なかったんだ」という言い訳をする余地まで与えてくれた。
お前には村長という立場があるから仕方ない、だから私もこう怒ってみせているのだと。
恐らくあの時にフィンは、自分が無理矢理押しつけたルナをかばうために、村を離れることを決めたのだ。
多大な恩義を受けているのに、自分が村長という立場であるために、恩を返すどころかさらに迷惑を重ね、村を追い出すも同然の仕打ちをしてしまったランダルは、謝罪するしかなかった。
しかしフィンは、ランダルが頭を下げると、顔を見せてくれた。
これまで一度も見せてくれたことのない布の下の素顔を、さらしてくれた。
あれは、許しだ。
フィンに頼るしかない、守りたいものを自分で守れない、意地を張り通す力のないランダルの弱さを、許してくれたのだ。
たとえこの後処刑されるとしても、自分のしたことをひとかけらも悔やまない。
意地を張ったことを誇り続ける。
もう、女神の許しは得たのだから。
「私は、あなたの心遣いを、忘れない」
あの声と共に与えてくれた美麗な笑みは、いまわの際まで胸の中で輝き続ける。
それに比べれば、あんな猫背男ごときの断罪などどうということもない。
(申し訳ない、美しき方、フィン・シャンドレン殿。
恐らくあの姫君でありましょうルナ様。
どうか、逃げのびてください。
あの猫背野郎どもの鼻を明かしてやってください。
うちの村の者を殺した連中の目論見を台無しにしてやってください。
俺が意地を張った甲斐があったということを、風に乗せて伝えてください……!)
ランダルは手足を縛られた体をくねらせて、村人たちと運命を共にすべく、村の中へ這いずっていった。
ついに追いつかれた。ぎりぎりで逃げ出した二人はどこへゆく。
次回、第26話「ぐうたら哲学」。




