21 奴隷売買
どこかから浮かび上がった。
朝だ、と思った。
口がゆるんだ。
「マリエ、おはよう…………こわい夢を見たの。ここが燃えてね、みんないなくなって……でも、聞いて、自分で、お料理作ったのよ。とても面白かったわ。わたくし自身の手で、こう、お鍋に水を入れて、お野菜とかお肉を入れてね……お母様にお話ししたら、王女のすることじゃありませんって、怒られちゃうわね……夢でくらい、いいじゃないの……むにゃ」
毎朝起こしてくれるのは乳母にして筆頭侍女のマリエール。四十歳を越えた太い女性。ものごころついた頃から側にいて、色々しつけられ、遊んでくれ、時にはいたずらのおしおきとしてお尻をひっぱたかれることもあった、絶対に逆らえない存在。
カルナリアが目覚めたとわかるとベルが鳴らされ、他の侍女たちが入ってくる。七人のうちから日々入れ替わって三人ずつ。今日はリエラ、クローヌ、エリー。
エリーレア。
突然倒れる。
胸から血を流している。
刺されたのだ。
侍女にあるまじき姿で、地べたにくずおれて、痙攣し、動かなくなる。咳きこむ。血を吐く。鮮やかな赤。動きが止まる。エリーレアではないものになってゆく。
「!!!」
飛び起きた。
激しく息をつき、心臓を押さえた。
夢、違う、エリーのあれは現実で、彼女はもうこの世におらず………………。
ここは……?
「…………」
ところどころに節のある丸木と、草の束でつくられた天井。
三角形の空間。
粗末な小屋の中。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
呼吸を整えつつ、色々思い返した。
自分は、カラント王国、王の第七子、第四王女、カルナリア。
王太子ガルディスの反逆で全てを奪われて、唯一の希望である『王の冠』を第二王子レイマールに届けるべく、奴隷の「ルナ」に偽装して、多くの命を失いつつ、ここにいる。
首に手をやった。
それはちゃんとそこにあり、安堵する。
今更ながら、ひとりきりで、小屋の中には誰もいないことに気がついて、それにも安堵した。
うつらうつらしながら口走ったことは、誰にも聞かれてはならないことだった。危なかった。
――この小屋の奇妙な主のことを思い出し、念入りに小屋の中に目をこらす。
大丈夫、いない。本当にいない。
(…………!)
昨夜、添い寝してもらったような。
恥ずかしい、とても恥ずかしいところを見られてしまったような。
しがみつくと包みこんでくれた、やわらかで幸せな感覚がまだカルナリアの肌に残っている。
見ることはできなかったが、感触の記憶が残っている。すべらかでやわらかな肌。女性でしかありえないふくらみと、魅惑的な肌の匂い、あたたかさ。底なしに沈みこんでいった安心感。
あれがぼろぼろの中身だったのか。カルナリアの願望や妄想ではないのか。あんなぼろ布の中にあんな麗しい女体があるというのか。もし妄想だったら。いや現実であっても、どうしようもなく恥ずかしい。
しかし、とにかく今は。
(これから、どうするか……考えないと)
頭は、これまでかかっていた靄がすべて晴れて、明瞭に回るようになっていた。
自分は今、すべての忠臣を失い、すべての持ち物もなくして、『王の冠』だけを隠し持って、妙な怪人「ぼろぼろさん」の庇護下に入っている。
この状態から、西の隣国バルカニアへ赴いて、『王の冠』をレイマールに届けるにはどうすればいいのか。
自分ひとりで山を越えてタランドン領へ入りバルカニアを目指す、というのは論外だ。
この数日の逃避行でわかっている。自分は何も知らないし、何もできない。
それでも行かねばと無策で突進するような、愚かな真似はできない。自分はたくさんの命を背負っているのだから。
レントのような外の世界を知っている保護者がいなければ、子供で、女で、強いわけでもなく、お金というものの使い方すらよくわかっていない自分には、旅は不可能。その現実をまずは認める。
ランダルはどうか。
彼にはレントと同じように、自分を守ってくれる能力が十分にある。
だが彼は村長、この村が最優先。
反乱軍にばれたら家族どころか村人全員が巻き添えで処刑されて当然の、王女の護衛など引き受けてくれるはずもない。カルナリアたちの素性を知ることを避けていた、あの態度ではっきりしている。
ランダルに誰かを紹介してもらうのはどうか。
その相手の意志で勝手についてきた、という形にすることができれば追及は逃れられるはず。
バルカニアまでとは言わない、山を越えてタランドンまでならば、報酬次第で、誰かしら名乗り出てくれるのでは。
――しかし、そういう者がいたとして、信頼できるのかどうかが問題だ。
平民軍による少女狩りが行われている。
自分が連れている子供が、ガルディス王子が賞金をかけている王女だと知れば、即座に売るかもしれない。
そんな真似はしない者でも、兵士に見つかり、レントのように……。
信頼という言葉には、強さという意味も含まれる。
自分の案内を買って出たために殺されてしまう者の姿など、もう二度と見たくなかった。
(結局は…………やっぱり、そういうことなのでしょうね)
ランダルがカルナリアを、自分の家でかくまうのではなく、この小屋へ行かせたのは、同じ結論に達したからだろう。
すごい剣士で、風来坊で、異国の人物で、女。
ひとりで旅をしていたというのだから、世知にも長けているだろう。
高価きわまりない魔法具を多数所持しているところから見ても、薬師の技能があるところからしても、賞金に目がくらむようなことは考えにくい。
まさに、王女を護衛するのにうってつけの存在。
となると、カルナリアがするべきことは。
(気に入ってもらうこと……)
すべてはそこにかかっている。
異国の者に、王女への忠誠や、王女を守るという崇高な任務を引き受ける喜びというものは期待しない方がいい。
まして、名を広めたいと諸国遍歴を行う修行の騎士ではなく、こんな田舎の村に住みつくような変わり者だ。
王女という身分ではなく、カルナリアという女の子そのものを気に入ってくれなければ、動いてくれないだろう。
(………………)
――だが、きわめて大きな問題は。
昨日出会ってから一晩を経た今に至るまで、カルナリアの方が一方的に面倒をみてもらい、守ってもらうばかりだということ。
カルナリアの方が、あの謎ばかりの怪人にきわめて強い興味を抱き、正体を知りたくなっているということ。
そして。
目覚めたばかりだというのにもう、また添い寝してもらいたくてたまらないということだった…………。
とにかく、外に出ることにした。
ぼろぼろの所在を確かめ、指示をもらい、自分にやれることをする。
何をどう計画するにしても、まずはそれをちゃんとやってからでなければ。
「う……」
体が重い。
怪我や疲労ではない。逆だ。
ゆるみすぎたので、力が入らない。
立ち上がるには危ない高さしかない小屋なので、身をかがめたまま、出口へ向かった。
むしろをめくる時、思い出して、胸の中に入れた例の「布きれ」を探った。下腹部まで落ちていたそれを上へ移動させ、落ちつかせた。
「…………!」
青空が目に突き刺さってくる。
美しすぎる色合い。
陽光。
その角度は――高い。
すなわち、今は、朝どころか、昼近く。
「うわあ…………」
嘆く。
寝過ぎた。失態だ。
だが――青空と緑が、すばらしく美しく。
気温も、風も、渓流の水音も、何もかも快く少女の肢体を包みこんできた。
「う~~~~~~~ん!」
声をあげ、大きく伸びをした。
体をほぐす。あちこちが音を立てる。
(エリーもこうしてたわね……)
悲しみを抱きつつも、生きていることを実感する。
全身に陽光を浴びる幸せ。
どこにも痛みを感じない幸せ。
前屈してから、思いっきり腕を振って、後ろに反らした。
ひっくり返った視界の中に、いた。
「!?」
ぼろぼろが――小屋の入り口の、すぐ横に生えていた。
全部見られていた。
「!」
カルナリアは顔を逆さにしていたところから、跳ね上がり、転びかけて、片足の爪先だけで立ち、両腕ともう片方の脚を振り回して、どうにか踏みとどまった。
王宮の人々には絶対に見せられないポーズだった。
「ふむ」
「ひゃっ、ひぇっ、すっ、すみませんっ! ねぼうしてっ!」
「寝るのはとてもいいことだ。その間、何もしなくていいし、育つ」
「もうしわけありません!」
今の醜態にまったく触れられないのが、かえって居心地悪かった。
渓流の冷たい水で顔を洗う。つい横に手を出したが、誰も拭き布を渡してくれない。これからはずっと、何もかも自分ひとりでやらなければならないのだとあらためて思った。
ぼろぼろのところに戻ると、地面に置いてある包みを示された。
「お前の分だ」
風味豊かなパンにハムとチーズをはさんだものに、瑞々しい野菜が添えられていた。これも二人分ではないかという量だ。
「少し前、ランダルのところの者が様子を見に来た。その時置いていった。野菜は採れたてだ。美味かった」
その言葉で、ぼろぼろがとうに自分の食事を終えていることがわかり、カルナリアはますます失敗した気分になった。
口にするときわめて美味で、すべてあっさり腹に入ってしまったことも、やらかしてしまった気分を増した。体が求めて止められなかった。
「子供はそれでいい」
「ですが、これでは…………昨日の、あとかたづけも、そういえば……本当なら、わたしが……」
「構わん。自分のことは自分でできるし、そもそも――」
しょげるカルナリアに、ぼろぼろはあっさり告げた。
「お前は、私のものではないからな」
「……え?」
「お前は、村のものであって、私のものではない。村のものを一晩預かっただけだ。だからお前に、私の世話をする義務はない」
「あ…………!」
そうだった。
村で「持ち主」が死んだ場合、その所有物は村のものとなる。
「物」である奴隷も当然村のもの。
ルナという奴隷は、今はローツ村の共有財産なのだ。
「その話をする必要がある。ランダルに来いと伝えておいた。そろそろ来るだろう」
カルナリアの食べるペースも計算して全てを仕組んだのではないか、と疑いたくなるほど絶妙のタイミングで、下から上ってくる人影があらわれた。
確かにランダルで、ひとりだけだった。
カルナリアは不安にかられた。
もしかすると、自分は村の下働きに使われるようになってしまうのではないか。
寝る時だけこの小屋に戻されて、昼の間は畑仕事や家の雑用に追われて――西へ向かうどころではなく、この村から出ることさえできない状態に置かれるかも。
それを想像すると、近づいてくるランダルが魔物のように思えてしまう。
だが、すぐそこまで登ってきたランダルもまた、こちらを見て凍りついた。
どうしたというのか、あの剛毅な村長が、とてつもない怪物を見たかのように顔色を失っている。
ぼろぼろが何かしたのかと、これまでの前科からつい思ってしまい、振り仰いだ。
――いなかった。
認識阻害ではない。本当に、ついさっきまでいた場所から消え失せていた。隠れてしまったようだ。
ということは、ランダルの反応は、自分を見て?
「……あ!」
顔を隠していないことに、今になって気がついた。
昨日ぼろぼろに言われたのに。
カルナリアは、完全に治った顔を――カラント王国の宝石、太陽の美姫、愛の姫などと称揚されていた美貌そのままを、めざとい村長の前にさらしてしまっているのだった。
ぼろぼろがあれ以降自分の顔について何一つ言わないために、完全に失念していた。
ランダルは、若い頃に王宮に上ったことがあると言っていた。それなら王都のあちこちに掲げられている父王の肖像画や、母后フェルミレナの姿絵を見たことがあるかもしれない。
自分が二人の容貌を受け継いでいることに気づかれたら。
正体を隠して逃げる高位貴族。賞金がかけられた十二歳。
この人物ならすぐに完璧な正答にたどりつくだろう。
小屋に戻って顔を隠せる布を取ってくるか。
いや、布ならある、服の中、胸に触れさせている逆三角形の、これをかぶる――それが頭に浮かぶほどにカルナリアは狼狽した。
「…………ルナ、なのか」
「……はい」
結局なんの対処もできないまま、目の前に立たれた。
じっくり見られる。
うつむいたが、見られ続ける。幼女に戻って、乳母のマリエに叱られている気分。
「……これほど、か」
賞賛の言葉ではあった。
これほど美しいとは、と。
しかしそれ以上の懸念、困惑、危機感を、カルナリアは冷気のように肌で感じ取った。
「治したら、こうだった。聞いていないぞ」
真後ろから声がした。
心臓に悪すぎる。
ランダルも目をみはった。
声を聞き、見えるようになったのだろう。
「久しぶりだな……だが…………これは……これほどとは……すまない。しかし、俺も知らなかった」
「わかった。ではそれはいい」
あっさりとぼろぼろは言った。
「どうするか、だ」
「うちには置けないな。隠せない。これでは、俺がどれだけかばっても、無理だ」
「そうだろうな」
声がカルナリアの頭上で飛び交う。
大人ふたりが、自分の運命を決めようとしている。
「昨日の、ランケンたちのことも、すまなかった。見張っていたんだが抜け出しやがった。狼が出たとみっともなく逃げてきた。
今は見張りつきで畑に置いてきたが――あいつらがこの子を見たら。いや、あいつらだけじゃないな、子供たちも、いつ遊びに来るかわからん。本当はすごくかわいい子だ、とひとりが言えばすぐ村中に広がる。そうなれば軍の耳に入るのも時間の問題だ。
今日あたり、事情を確かめに軍の人間が来るだろうし……」
「病の疑いがある、ということでどうだ。はやり病。それでしばらくはここに置いておけるだろう。顔も見せられないという理由にできる」
「それは、助かるが…………いいのか?」
「私は構わない。本当に病というわけでもないし、余計な者が近づくのも防げるだろう」
「ふむ…………しかしその場合、村の財産である奴隷が病気だということになる。治療費は村全体の負担だ。文句をつけるやつが出てくるだろうし、本当に病気かどうか確かめると押しかけるやつも――看病したがる子供たちも――ぞろぞろ出てくるだろうな。俺にはそれを止める理由を作れない」
「むう」
「それより、提案なんだが」
ランダルはカルナリアをちらりと見下ろし、言った。
「いっそのこと、このルナを、あなたのものとしていただけないか?」
「!」
カルナリアは弾かれたように顔を上げ、大人たちを見回した。
「それならほとんどの問題が片づく。今までに村の者たちが何度ももらった薬の、代金代わりとして支払ったということでどうだ。
文句つけるやつも、村で働かせるにしてもあの細すぎる女の子では役に立たないからそれよりも――ということで納得させる。薬代を取り立てられたいのか、と。
この先も、他人のものを見に行くなと止めることができる。自分の持ち物を見せる、見せないと決めるのは持ち主の権利だからな」
「ふむ」
ぼろぼろはうなり、反応しなくなった。
考えているようだ。
自分が売られるという話だが、カルナリアは先ほどまでの不安から一転、希望に包まれた。
この村でランケンのような連中におびえながら暮らすのは、いやな上に先がない。
正体不明の怪人だが、一晩共に過ごしてわかった、この人物が自分に害を加えることはなさそう。
それどころか……!
カルナリアの肌を、添い寝の、抱擁の記憶が覆う。
「どうだ」
「そうだな……私がこれをもらい受けた場合、面倒を見るのは主人の義務ということになるのだな」
「ああ」
「服や食事、寝具なども、私がそろえなければならないことになるな」
「それについては、全て俺の方で提供する。その服や持ってきた荷物も全部譲る。今までの薬の正当な対価としてはそれでも全然足りてないのを、納得してもらったということで、村の連中に文句は言わせん」
「………………………………ランダル」
しばらく停止、いや黙考していたらしいぼろぼろが、突然名を呼び――何かをした。
ランダルが目をむく。
愕然とする。
カルナリアは見上げた。
――ぼろぼろの形状が、変化していた。
頭からかぶって円錐形を形作っているぼろ布。
その上の方が、わずかにずれている。
隙間を作って………………顔を見せた。
いや、あれでは、見えるのは目だけだろう。
カルナリアは伸び上がったが、ランダルほどではないが女性にしては長身であるらしいぼろぼろの中身は、下からではまったく見ることができなかった。
大人二人は、視線を重ねているようだった。
いや、ぼろぼろが、ランダルを威圧している。
ランダルの頬が、気弱な笑みを作って媚びそうになって、必死で耐えている。
「お前にも、この村にも、世話になっている。楽にさせてもらっている。深く感謝している。
その上で訊くが――」
カルナリアの肩に手が置かれた。
あの手だ、と思った……が。
カルナリアの全身が動かなくなった。
硬直の魔法具が使われたわけでもないのに。
絶対に、いま動いてはならないと、全身すべてが警報を発していた。
「私に譲るということは…………これに、何をしてもいいということなのだな」
もしこの怪人が結婚した途端に豹変するタイプだったら。自分で自分のことを決める権利を一切持たないカルナリアの処遇はいかに。
次回、第22話「新たなご主人さま」。




