拝啓、兄上様
拝啓、兄上様。
今年も間もなく終わりますが、如何お過ごしでしょうか?
時の流れは早いもので、貴方様が里を発ってから一月が過ぎ去ろうとしており、三日前には初雪も降りました。
今秋の収穫は良好で、今年は里の者も飢える事なく冬を越せるでしょう。
これもひとえに兄上の内政手腕の賜物だと、私は思っております。
王都は港町故、クロノよりは温暖な気候だと伺っておりますが、兄上もお風邪を召されませんよう、ご自愛下さいませ。
こう釘を刺しておきませんと、兄上はいつもご無理をされますから。
王宮での生活は如何でしょうか。きっと順応性の高い兄上の事、既に馴染んでいらっしゃるのでしょうね。
叶うのなら、私も一度王都がどのような地なのか、拝見してみたいです。
民は豊かな暮らしをしているのでしょうか。それとも、徴兵制度により、子供達は父親がおらず寂しい思いをしてはいないでしょうか……。
話は逸れましたが、そう思うと父上や兄上が築いてきたクロノの里は、どれ程平和なのだろうと思うのです。
今度クロノに戻ってきた暁には、兄上からの土産話を拝聴したい次第です。義姉上や姪も、きっと喜ばれましょう。
それでは本日はこれにて。また兄上と相見える日を心待ちにしております。
敬具
結びの文まで書き終えると、私は筆を硯の上に置きました。
今から二十日程前に里を発った兄上へと、文を認めるようになってからというもの、墨の減りがとても早いです。
これでは、兄上が里に戻って来た時に、
「無闇に消耗品を使うな」
と、お叱りを受けてしまうでしょうか。
それでも私は、筆を走らせたい衝動に駆られてしまうのです。
ある時は、朝に夕に移り変わる景色を伝え、またある時は、家族や里の者達の様子を伝えました。
自己満足と言われても構いません。それが里長の唯一人の弟として生まれた私の、役目であると思ったからです。
「ルナ様ーっ! 見て見て、私古代文字が全部書けるようになったんだよ!」
「あ、ずるーい。全部書いたのは私が先なんだからねっ」
何やら外が賑わって参りました。もう子供達が来る時間なのですね。
「ふふっ、今日は早いのですね。今確認するので少々お待ち下さいね」
「はーい!!」
そしてもう一つ……私は兄上と違い政治の才覚はございませんが、それなりに学問は修めて参りましたので、里の子供達を相手に、手習いの教室を開きました。
里を見回るようになってから気付いたのです。この狭い里の中では識字率が低く、その中でも学問を身に付けられる人間は、ほんの一握りである事に。
ならばせめて、文字だけでも知っていた方が将来役に立つだろうと、この試みに至った次第です。
特に里に代々伝わる古文書は、古代文字を知らなければ読めませんので……これが里の繁栄の第一歩になる事を願うばかりです。
新しく見知ったものを、土が水を吸うように覚えていく子供達を見ているのは、思っていた以上に楽しく、嬉しいものですよ。私には妻子がないので、子供達の喜ぶ顔が生き甲斐となっております。
子供達に渡された木簡に目を移すと、先日教えたばかりの文字が、一つも間違える事なく書かれていました。
ここ、クロノでは紙は貴重品。手習いの練習帳として使えるようなものではないので、子供達は木簡で練習をしています。
木に字は書きづらいもの。拙く見える文字も、紙に書かせれば大分見映えが良くなるでしょう。
「二人共、よく書けていますよ。それでは今日は、数字の練習をしてみましょうか」
「はあい! ルナ様、数字って難しいの?」
「難しくはありませんよ。私は……四つか五つの頃に覚えたように思います」
子供達に学ぶ事、知る事の楽しさを知って欲しい。
ただそれだけなのです、私を突き動かすものは。
尤も、兄上の留守を預かっている間私は長の代理を務めなければなりませんので、必然的に出来る事は限られてくるのですが。
子供達が来てから、どれ程の時間が経ったでしょう。
空は灰色の雲に覆われており、太陽が何処にあるかも分からない程です。
「二人共、今日はもうお帰りなさい。間もなく雪が降って参りますので」
私の邸には暖炉があるものの、多くの家庭にはそれがありません。
家屋自体も木造ならいい方で、茅葺き屋根の簡素な建物が大半を占めます。
それらの家々では、火で暖を取る事さえ叶いません。家屋に燃え移ってしまいますので。 故にクロノの冬はとても厳しく、大雪の降った日には凍死者が出る事もあります。
子供達も本当はここにいたいのでしょう。自分達の家よりも、ここの方が遥かに暖かい。それが理解出来るだけに胸が苦しくなります。
「ここにいた方が、貴女方が生き延びる確率は高くなるでしょう。ですが、貴女方が帰らなければ、ご両親は心配されましょう」
雪の日に幼い我が子が帰らずに、何の心配一つしない親がどこにおりましょう。
クロノの里は山や森に囲まれている為、雪の降る中を出歩くのは大変危険なのです。
我が子を捜しに外出した両親が雪崩に巻き込まれ、子供だけが取り残されてしまった例も私は存じております。
「わかりました」
「うん! また来れるの、楽しみにしてるねっ!」
「ええ……少々お待ち下さいね」
そう言って私は子供達を僅かな間引き留め、外に出ました。
持ってきたものは、二つの石。けれど、私が触れるとそれは熱を持って。
「温石です。二人共、これをお持ちなさい。そうですね、恐らく一日くらいは熱を帯びているでしょう」
「これって、魔術なんですか?」
年長の物静かな子供が訊ねて来まして……私は一瞬言葉に詰まりました。
魔術ではありません。けれど、説明を求められると困るのです。
何故なら、私はこの能力の原理を存じませんので……。
「魔術ではないのですが、生まれつき備わっていた能力なのです。私が物に触れると熱を帯びる。傷に触れるとそれが癒える……」
それが何故私にあるのかは分かりません。
他人にはない能力。兄上は何かご存じの様子なのですが。
「ルナ様、ありがとう! 帰ろ、雪が降ってくるよ」
年少の元気な子供が年長の物静かな子供の手を引き、邸を後にしました。
あの子供達は無事に家まで帰れるでしょうか。
窓の外を見ると、雪が降っておりました。
木製の格子の間から、雪が邸の中へと入って来るのも、時間の問題でしょう。
私は一人、窓から見て奥に位置する玄関の近くへと移動しました。
それでも尚、吹き抜ける風は冷とうございます。
子供達が帰ると、燭台の灯りが消えたかのような感覚に陥りました。
一人住まいとは何と寂しいものなのでしょう。
去年の冬は姉上がいらっしゃいましたが、彼の方も今年の春に隣国へと嫁いでしまわれました。
齢十七を数えてまで一人が怖いと申し上げるつもりはございませんが、何なのでしょう……心の中に隙間風が吹いているかのようなのです。
兄上のように奥方が居れば、このような事はないのでしょうか。それとも兄上は今見知らぬ地で、私以上にお寂しい思いをされていらっしゃるのでしょうか……。
雪雲に覆われた空のように、晴れない心はどうすれば良いのでしょう。
「兄上もこのような思いをされたのですか? その時、貴方様は如何なされたのですか?」
降り積もる雪も、兄上への疑問も、止む事はありません。
私は部屋の暖炉もつけず板張りの床に座り込んで、膝に顔を埋めていました。
そうして微睡んでいると不思議な事に、遥か遠い地から懐かしい笛の音が聞こえて来た気が致しました。
父上が存命の頃、幾度となく歌った――凱旋行進曲の旋律が。
「……ん」
目を覚ますと、外は一面の銀世界となっており、私の背には毛皮が掛けられておりました。
どなたかが私の元を訪れて下さったのでしょうか……?
「ルナ様、お目覚めですか?」
宙から降って来た高い声の主は、兄上の奥方であるアメリア殿。
という事は、この毛皮も彼女が?
「アメリア殿、お手間を掛けてしまい申し訳ありません」
「いいえ。どうという事でもありませんわ。今日は貴方に主人から手紙が来ておりましたの。あの人は、形に残るものは嫌われますのに……正直、妬きますわ」
アメリア殿は、そう冗談と本音が入り混じったような事を仰るものですから、私の顔は突如熱を持って。
「ア、アメリア殿っ、からかわないで下さいませ!」
「ふふっ、ごめんなさい。ルナ様は主人とは比べものにならない程可愛げがあるからつい。それでは私はお暇致しますわね」
そうおかしそうに、けれど小さく笑いながら、アメリア殿は邸を後にしました。
私は心を躍らせながら、兄上からの書簡を紐解きました。
アメリア殿の仰っていた通り、形に残るものを好まない兄上が、私に何を残されたのか――楽しみ半分、不安半分に。
拝啓、ルナ殿
これで合っていますか? 手紙なんて書いた試しがないので、君からの文を見よう見まねで書いているのですが。
コルネルは港町というだけあって温暖ですね。まだ雪も降っていません。
そちらは変わりありませんか? これを最初に書くべきだったのでしょうが。
君を信用していない訳ではありませんが、そちらに戻るのが五日に一度に限られてしまうと、僕も心配事が尽きなくて。気を悪くしないで下さいね。
それと、ご冗談を。
僕に政治の才能なんてありませんよ。外交に至っては、君の方が優れているくらいでしょう。
正直、僕は何故自分が長に選ばれたのか、未だに理解出来ずにいるくらいですよ? 単に、正妻腹の子だからという理由でしょうけどね。君が妾腹の子である事が実に惜しいです。まあ、今更嘆いたところでどうなる話でもありませんが。
ルナ、君には恋人は出来たんですか? まさかとは思いますが、未だに一人ではいないでしょうね?
浮いた話を聞かないものですから、母上はとても心配しているようですよ……十にも満たないような子供が、君の邸に出入りしているとも聞きますしね。
話が逸れましたが、海ですか。流石に実物は見せられませんが、絵くらいは描いて帰りましょうか。
そろそろ文字が入らなくなりそうなのでこの辺で。アメリアと母上にも宜しくお願いしますね。
敬具
私は兄上からの手紙を読むと、不覚にも笑ってしまいました。いえ、失礼である事は承知の上なのですが。
「形式自体はしっかりしているじゃないですか。字が入らなくなりそう、って締めが笑えますけど」
きっと兄上は簡潔に書くおつもりだったのでしょう。それが意外とつもるお話があって、長くなってしまったのでしょうね。
そしてまさか、一人身である事を指摘されるとは、思いもしませんでした。母上が兄上に何を仰ったのかが、気になって仕方がありません。
「書簡を出さなければ」
私は書簡を机に広げると、硯を出して墨をすり、筆を浸しました。今日は何から書きましょう。それを考えている時間は、私の楽しみでもあるのです。
そうです、今日はあの事をお伝え致しましょう――書簡、いえ、手紙に書く内容を粗方決めると、私は硯に浸していた筆を取り出しました。
窓の格子からは、程よく冷たい風が部屋に入り込み、意識をよりはっきりとさせてくれ、私はいよいよ筆を走らせました。
拝啓、兄上様。