60両目
ことこと、と、煮える音が聞こえていた。
朝は寒い。グレートマザーはそういっていたが、寝床から出るのが億劫なほどの寒さではない。
「おや、起きちまったか」
グレートマザーは、住まいの真ん中にある囲炉裏で食事をこさえていた。
「おはよう。うん、美味しそうな匂いがしたから」
カナコは「かふり」と、欠伸をすると、グレートマザーの傍に寄った。
「嫌いな食材が入っているかもだが、勘弁しておくれ」
グレートマザーは鍋から中身を杓子で掬い、木をくりぬいた器に注ぎ入れると、カナコに差し出した。
「全然。いえ、ご馳走になるの。美味しくいただきます」
カナコは中身が入っている器に木の匙を挿し、具材のひとつである茸を掬って口のなかに含む。
「嬉しそうに食べてくれてよかった」
グレートマザーは、お腹のポケットの中で寝ているニャ助とラコジローを取り出し、床に並ばせる。
「あはは。まだ、寝ている」
ラコジローがころりと、床に転がっているのを見るカナコは、笑みを溢した。
「躾はみっちりとしているけれどね。どういうわけか、あんまり効いていないことがほとんどだ」
こそこそと、床を這いつくばるニャ助を、グレートマザーは「むんず」と、掴み、囲炉裏の前に腰掛けをさせた。
「おかわりを、お願いします」と、カナコは空になった器を、グレートマザーに差し出す。
「あいよ、カナコ。ホラ、あんたたちもしっかりと食べなさい」
もぐもぐと、二匹は食事に舌鼓をしていた。そして、グレートマザーはカナコにお代わりを差し出すと、遅れながら食事を始めた。
「ねえ、グレートマザーさん。お世話になりっぱなしで申し訳ないけれど、わたし、みんなのところに戻りたい……。」
ニャ助とラコジローが膝の上に攀じ登る感触がくすぐったい。カナコは2匹をあそばせながら、グレートマザーに言う。
ぱくぱくと、グレートマザーは器の中身を掬った匙を口の中に入れていた。
「あのう……。」
カナコの呼び掛けに、グレートマザーが食事を途中で止めるはなく「むしゃむしゃ」と、咀嚼の音ばかりが続く。
「ごめんなさい」
グレートマザーを怒らせてしまった。
きっと、そうなのだ。と、カナコは謝った。
グレートマザーは空になった食器を乗せたトレイを抱えて腰をあげると、建屋の外へと出た。
カナコはニャ助とラコジローを抱えて、グレートマザーに付いていった。
建屋の側に流れる小川の岸に、グレートマザーは腰を下ろしていた。
ぱしゃぱしゃと、水飛沫の音がする。
グレートマザーは、小川の水で洗い物をしていた。てきぱきと、グレートマザーは洗い終えた食器を水切り籠に次から次へと積める。
こんなに近くにいても、グレートマザーは振り向いてくれない。
カナコは寂しくてたまらなかった。黙々としているグレートマザーに、カナコは声を掛けることでさえ戸惑うと、落ち込むさまとなった。
カナコは、涙を溢す。
唇を噛み締め、嗚咽を堪える。
「カナコ、何で泣くのさ」
グレートマザーが、やっと口を開いてくれた。
カナコは顔をくしゃくしゃにしながら「わんわん」と、泣く。
「正直にいえば、あんたを手離したくないよ。此所でずっと暮らして欲しいさ。でも、あんたにはやっぱり“帰る処”がある」
グレートマザーは「ひっく、ひっく」と、しゃっくりが止まらないカナコを抱き寄せ、何度も頭を撫でる。
「カナコ、よくお聞き。あんたが“帰る処”に帰る為には、この森を抜ける。あんたのように〈イキモノの森〉に入り込んだ生者が森を出るには、自分だけにしか通れない路を繋げるのが必要なのだ」
グレートマザーはカナコの手を引いて、落ち葉が敷き積もる細い路を歩く。
何処から来たかさえわからなくなっていた。
グレートマザーがこうして、森にあたたかく迎え入れてくれたのは、幸運だった。
空を仰いだつもりでも、見えるのは樹木の枝葉ばかり。陽の光はやっと射し込み、夜明けなのか日没かを見極めるに苦労する。
“イキモノ”にとって〈森〉は、安住の地。其処に踏み込んだ“生者”は、異物として駆除される。
カナコを森に追い込んだ“異物”は、グレートマザーによって“駆除”された。
グレートマザーは、カナコに見せていた。
「此所は“異物”の廃棄場所。そして“帰る処”に帰れない“生者”が行き着く場所。カナコ、あんたを此所に放り込みたくない」
竪穴の中に、うっすらと積まれる黒い塊。グレートマザーが発見した“異物”がどれ程あったのかを見せつけられたようだった。
「わたし、絶対に帰る。だから、帰る為の方法を教えて」
カナコは涙を溢すのを止めて、グレートマザーに催促する。
「……。ひとつだけの“大切”が“帰る処”へと、路を繋げる。カナコ、ひとつだけの“大切”が決まったら、あんたがつないでる私の手を離しなさい」
“帰る処”に帰る為の“大切”は、ひとつだけ。
カナコは、頬をゆるめていた。
“大切”は、沢山ある。その中で、一番の“大切”を選ぶ。
これだ。と、カナコは“大切”をひとつ、決めた。
「グレートマザーさん、手を離すね」
笑みを湛えるカナコは、グレートマザーに合図をして見せた。
「そうか、いいのだな」
グレートマザーは、あまり喜んでいない。声に弾みがないのは、別れが寂しいからなのだろうか。
カナコは、手を離すのを躊躇った。
「グレートマザーさんにまた、会いに来ていいかしら。もちろん、ニャ助くんとラコジローくんとも」
「ああ、それはかまわないが」
どことなく、虚ろ。やはり、グレートマザーの声に弾みがない。
「またね。グレートマザーさん、ニャ助くん、ラコジローくん」
カナコは、グレートマザーの手を解す。
まっすぐと前を行く先に“帰る処”がある。
カナコは褄先をちょんと、敷き積もる落ち葉に乗せる。
路が繋がると、カナコは心を踊らせていた。
しかし、だった。
カナコは顔色をくもらせた。景色が漆黒に染まった、これが“帰る処”なのかと、カナコは「ぞくっ」と、身震いした。
「グレートマザーさーー」
カナコは、振り向く。
さっきまで手を繋いでいたグレートマザーが、いない。ニャ助も、ラコジローも。
“大切”が、間違っていた。きっと、そうだ。
カナコは「すう、はあ」と、息を吸っては吐いて、落ち着こうとした。
目が眩む雷光、足元がおぼつかない振動。
グレートマザーは、知っていた。
“大切”が違っていたら“帰る処”の為の路は繋がらない。
帰る為に、焦った。だから、俄仕込みの“大切”を決めてしまった。
遠くて、望めない“大切”を“大切”だと、勘違いした。
「わたし、しくじった。でも、タクトもいけないの。タクトがはっきりと振ってくれなかったら、僅かに期待していたことを、ひとつだけの“大切”にしてしまったの」
八つ当たりなのは、解っている。
グレートマザーの手を離した瞬間から“異物”になった“現実”を誤魔化すは、無駄。
「わたしは“憧れ”を、ひとつだけの“大切”にした。お母さんが『時と場合によっては辛いものだ』と、よく言っていた。でも、わたしには何のことなのかさっぱりだった」
“異物”ではない。を、証明するにはこの手段しかない。
強行突破をする。と、カナコは身構えた。
ーーイブツハッケン。タダチニ、クジョ……。
「ごめんなさい。わたし、あなたの思い通りになる訳にはいかない。どうしても、それでも“帰る処”に帰る」
暗闇に目が慣れるカナコが見つめる先にいたのは、巨大な猫の象をした〈イキモノの森〉のーー。
ーーイブツ、イブツヲ、クジョ……。
牙を剥き出して繰り返し口を突く、爪を突き出すグレートマザーだったーー。




