56両目
あの人の自由を奪った。
女が“あの人と”呼ぶのは、オカムーラ。
《奴ら》を陥落する為に【国】へと出動要請した派遣部隊の、隊長のことである。
オカムーラを【此所】に呼び寄せた所為で、オカムーラの自由が奪われた。
傍迷惑な情況に加えて、因縁を吹っ掛けられてしまった。
“力”は、通用しない。ならば、女が言いはなった“自由を奪った”を逆手でどうだーー。
「あんたは奴の自由が云々と理屈をぶっかました。だが、奴の時の刻みは止められた。此れこそ、奴の自由が奪われているのではないのか」
揺すぶりを掛ける。女の深層に突き刺す瞬間を、ルーク=バースは待ち構えた。すると、女は眉を吊り上げて「ぐ」と、唇を噛み締めた。
手応えがあった。女はルーク=バースから状況下の矛盾を突き付けられての態度を示した。
ルーク=バースは見逃さなかった。
瞬きをする女の瞳の色が、左右で異なっていた。
右眼の瞳孔が琥珀色を放っており、ぱしゃりと、微かにカメラのシャッターを切るような音が聞こえた。
女の右眼から火花が飛び散ったのが見えた。
女は即、右眼に掌を覆い被せる。そして「ない、私は絶対に、あの人の自由を奪ってない」と声を荒らげ、首を何度も横に振る。
女の襟元が開けて、髪が乱れる。それでもルーク=バースは、動じなかった。
女は足元を蹌踉めかせ、羽織る朱色の装束の裾を踏みしめた。女が転倒して突っ伏しても、ルーク=バースは手を差しのばすをもしなかった。
女の正体がまだ掴めないうちは、憐れむをするわけにはいかない。
「はあ」と、荒らげな息遣いがした。
女からだった。地面に片掌を押し当て背中を丸める女の呼吸が乱れていると、ルーク=バースは知っていた。
片眼に掌を覆わせたまま、女は息苦しそうにしていた。
ーーイブツハッケン。タダチニ、クジョ……。
雑駁な状況だった。
雑音が混じった響きとともに表れた黒い霧が、女を包む。
何だ、この妙な物質は。
ルーク=バースは目の前の状況に息をのんだ。
事を複雑にさせるわけにはいかない。
ルーク=バースは血を滾らせた。
“橙の光”を掌に輝かせ、照準を合わせたのはーー。
ーー消えろ、雑魚……。
ルーク=バースが解き放した“橙の光”によって、女を包む黒い霧が消滅した。
黒い霧の正体は“渾沌”だ。
異質を感知して排除するのが“渾沌”の役割りである。
《奴ら》が放ったのであれば、もし女が《奴ら》の回し者だったとすれば、何の理由であるのかは見当がつく。
進展しない情況に痺れを切らせた《奴ら》が、女を始末しようとした。
片眼を掌で覆っている女を《奴ら》は戦力外と判断しての通告を送りつけた。
あくまで、ルーク=バースの臆測だった。
事実であったとしても、後味が悪い結果をこの目で見るのは性分ではない。
「続けるぞ」
邪魔な情況を取り除いた、今度こそ女と決着をつけると、ルーク=バースは女に口を突く。
「もう、いいわ。私は所詮、すでにいなかったのですから」
地面から起き上がった女は片眼を覆う掌を外して、ルーク=バースへと振り向いた。
「おい、手当てをするぞ」
ルーク=バースは、変わり果てた女の顔を見て促した。
「これは、報いよ。だから、気にしないで」
女はルーク=バースが差し出す、ハンカチを握りしめた掌をそっと押し返した。
「ならば、訊く。あんたが言いはなった『すでにいなかった』の意味は何だ」
女の態度に納得しなかったルーク=バースは、突っ返されたハンカチを女の片眼に覆い被せて、端を額の位置で縛った。
「生きたい為に自分を作り替えた。あなたが『手当てをしろ』と勘違いして見たのが、その証よ」
女は、ルーク=バースが付けたハンカチを剥がして、目蓋が綴じられた眼を表した。
ルーク=バースは、堪らず目をそらした。
女が目蓋を開いて見せた眼が空洞になっており、直視を続けられなかった。
「命を脅かす病に冒されて、治療の末に眼を失った。代わりに埋め込められたのが、私が持つ“力”を増幅させる装置だった。壊れちゃったけれどね」
ルーク=バースは、はっとした顔つきをした。
「あんたは生きる為に《奴ら》と取り引きをしたのか」
女は黙って頷いた。
けして誘導したわけではなかったが、女は《奴ら》との繋がりを認めた。
やっと、これまでの経緯の辻褄が合った。
女は“時間操作の力”の使い手だった。
《奴ら》の指示のもと“時の刻みを止める”という手段で、我々を撹拌した。
ただひとつ、盲点だったのはルーク=バースの時の刻みを止められなかった。女は焦って“力”を連続で発動させる。装置に負荷が掛かるのは、当然だった。
女はまた、眼を失った。
生きたい為に《奴ら》の懐に入り込んで、自分を作り替えた。理解をする一方で、不可解なのが女が因縁をつけたことだった。
あの人の自由を奪った。
ルーク=バースは、女がいう“言葉”の心当たりに辿り着けなかった。
「あいつ、あんたのことを捜していたのだ」
オカムーラが【国】に赴いた、理由が何だったのか。ルーク=バースなりの、女への押し付けだった。
「あなた、お節介な人ね。わざわざ、こんな姿になった私とあの人を遇わせる為に、あの人の自由を奪ってしまうとはね」
いっちいち、こいつは。しかも、しつこい。と、ルーク=バースはふて腐れた。
「冗談よ」
「謝れ。と、言いたいところだが、今から俺が突き付ける条件で水に流してやる」
「どうぞ、なんなりと」
女はすっと、姿勢を正した。
「あんた、今すぐオカムーラと一緒に、家に帰れ」
穏やかな物腰のルーク=バースに「え」と、女は驚きが隠せないさまとなった。
「私、てっきり罰を受けることだとーー」
「だから、さっきも言っただろう。オカムーラは、あんたを……。と、その前にこの鬱陶しい情況をどうにかしてくれい。あ、でも、装置が壊れちまったから、どうしようもない……。待て、たんま、ストープッ!」
“時の刻み”は、まだ止まっていた。
装置によって増幅された“力”が留まっている。
解くには“力”を発動させた張本人でなければならない。
女が“力”を発動させる為に詠唱を始めていると、ルーク=バースは狼狽えたのであった。
「発動させた“力”と同じ質量で留まる“力”を打ち消すのだぞ。あんたの今の状態では、絶対にキツいぞ」
「心配しないで。ほら、其処に。あなたにも見えているのが、私の“力”を補助してくれるわ」
女は笑みを湛えると、指差す方向へと移動した。
「なるほど、だ。やれやれ、あっち向いてホイをしとくから、さっさと“王子さまとの接吻”をブッかませろ」
「だって、晴一さん」
女は“時の刻み”を止めたままのオカムーラと、そっと口づけをしたーー。




