32両目
タクトの背の高さに合わせようと、カナコは踵を上げて背伸びをした。やっと触れさせた唇の感触は、長くは続かなかった。
タクトが直ぐに離れた。期待はしていなかったが、タクトに振り向いてもらえなかった。
「カナコ、キミは馬鹿だよ」
タクトの目は、まるで娘の我が儘に困り果てている父親のようだった。
カナコの唇に、タクトの指先が這っていた。押し当てた唇の感触を、タクトは拭っているようだった。
「わたし、やっぱり“子供”なのね?」
言葉にして、今を自覚する。辛いがその選択しかないと、カナコは唇に触れるタクトの指先を振り払った。
「ああ……。」と、タクトが頷く。
追い討ちをかけるようなタクトの受け答えだと、カナコは顔をくしゃりと、窄めるをした。
じわりと涙が溢れてしまう。タクトの顔を見ることが出来ないと、カナコはうつむく。
「タクト。もう、置いてけぼりをしないで」
振り向いて貰えなかったとわかっているが、タクトの傍にいたい。まだタクトに甘えたいと、カナコの駄目でもともとの覚悟での言葉だった。
「参ったな」
小さく溜息を吐くタクトはカナコを引き寄せ、腕の中にと包み込んだ。
タクトが何度も髪を手櫛している。こうして髪をといてもらえるのは母親からだけだった。
「わたしのお母さんね、ぐずってどうしようもないわたしを寝かせるためにタクトのようなことをしてくれた」
「だからといって、寝ないでよ」
「……。でも、眠たい」
カナコは微睡んでいた。足元を踏ん張らせるのでさえ堪えられないほど、カナコの目蓋は閉じかけていた。
「こら、カナコ」
がくっと、カナコの身体が落ちそうになり、タクトは焦りながらカナコを支えた。
カナコはすうすうと、寝息を吹いていた。
起きるのを待っていていたらいつになるかわからない。それならばと、タクトはカナコを抱えるのであった。
此処でまごまごと、しているわけにもいかないと、タクトは全身を蒼の光で輝かせて“転送の力”を発動させたーー。
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〈悠凜のムラ〉
田園に根付く緑の麦穂。緩やかで澄みきった川の流れの中で游ぐ魚の群れ。地面を見下ろすと、何処かを目指して点々と列をなす蟻。
幾つもの竪穴住居。田畑には収穫が可能な作物が植えられており、食糧を保管するための高床倉庫が〈ムラ〉を一望していた。
ルーク=バースは〈ムラ〉を囲む柵に掌を乗せて、空を仰いでいた。
カナコは我々と別の場所にいる。カナコは、危機や危険がはらんでいることに巻き込まれていない。
ーー慌てないで。カナコは奇蹟を見たあとに〈此所〉に来ます……。
〈此所〉に訪れた直後だった。カナコがいないと狼狽えていると、思考に直接語りかける声がした。
常識では考えられない、何かが起きる。考え方は浅はかだが、声が言う『奇蹟』はそれ以外にない。
ルーク=バースはじっとして、空を仰ぎ続けた。
不規則に瞬く“蒼の光”が見えていた。
“光”は此所に降りてくると、ルーク=バースは直感した。
たとえ習得した“力”だとしても“光”は生まれ持った色で輝く。
ルーク=バースは確信した。
“転送の力”を発動させて、到達地点である〈此所〉の誰かの“力”に照準を合わせたのはーー。
ぱちっと、電流に軽く痺れるような感覚。吹き込む風に噎せ、舞い上がる土埃を被る。
「よっ」
ルーク=バースは蒼い霧の中にいる“人の象”に声を掛けた。
「意外と、落ち着いておられる。こっちが拍子抜けしてしまいました」
「“感知”をしていた。それに、おまえは“証人”と一緒だ」
「……。僕が“本物の僕”と、はっきりとされているのですね?」
「“光の色”は、たとえ《奴ら》の技術をもっても模写は出来ない。絶対に、真似られない」
「バースさん。いえ、ルーク=バース隊長。僕に、指示をお願いします」
「タクト=ハイン。直ちに我が部隊に復帰しろ」
鼻の頭を赤くして、涙を溢すのを堪えるタクト=ハインは、抱えているカナコをルーク=バースに委ねる。
「了解」と、敬礼を終わらせたタクト=ハインは回れ右をすると、真っ直ぐと〈同士〉のもとへと駆けていったーー。
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これまで、あれほど無かった時の刻みの感覚が【国】に入ったとたんに戻った。
蒼白い月明かりが〈ムラ〉を照らしている。
地面に落とされる影。夜風を吹き込まれ、枝を揺らして葉を擦らせる樹木。
寝明かりにと、住居内で焚かれる篝火より飛び散った火花が目に入ったカナコは、痒いと藻掻いた。
「目を擦るのではない」
様子を見たアルマは、カナコの掌を掴んだ。
「お母さん、まだ起きていたの?」
「人のこと、言えるか?」
「昼間、たっぷり寝たから……。」
カナコは頬を熱くしていた。
「そうだったな。ようやく起きたのは、日没間際だったな」
「タクト、帰ってきたよ」
「藪から棒に。しかも、母に何を言わせたいのだ?」
「お父さんもお母さんと同じ反応だったから」
「……。カナコ。おまえ、狸寝入りしてたな?」
「おやすみなさい」
カナコは土床に敷かれている莚に、背中を丸めて寝そべったーー。
一方、陽光隊は〈ムラ〉の集会所である建屋に集まっていた。
「《奴ら》は【国】の何処かを拠点にしている。だが、此方から動くはするな」
「偵察を含めてなのか? バース」
ルーク=バースの発言に、タッカは挙手をした。
「俺たちが動いたことによって〈プロジェクト〉メンバーを《奴ら》に引き渡すは、絶対にあってはならない。勿論、タクトも同じくだ」
バースの返答に、隊員達は一斉にタクトを振り向いた。
「皆さん。僕が“本物”かは、まだ疑われているのですね?」
タクトは、虚ろ気味で隊員達の視線を反らした。
「『タクト』は、いない。俺はあの時にそう、受け止めていた」
タッカは腰をあげると、建屋の外へと出ていった。
「おい、タッカ」と、ロウスが、タッカを追うをしようとした。
「タッカの他にも『タクト』について何か文句がある奴は、出て構わないぞ」
バースの罵声で、しん、と、建屋内が静まり返った。
「アニキ。タッカはあんたを無視してでも、単独行動をするつもりだぞ?」
「だろうな」
木の器の中身を飲み干したバースの顔が、たちまち厳つくなる。
「……。この茶、誰が淹れた」
バースは強い眠気に襲われていた。
「倉庫に茶葉が保管されていたのを、俺が持ち出した」
ロウスは顔を青くさせていた。
バースは眠気に堪えようと、膝と掌を土床につけて身体を支えていた。
「イヤだ、これ〈ネニイリ草〉の葉っぱが混じっているワ。ロウス、アナタらしくないうっかりをしちゃったの?」
茶瓶の蓋を開き、濾された葉を見たザンルはロウスに言い寄った。
「ロウスがそぎゃんことすっもんねっ! だんな。おどんも飲んだばってん、なんともなかばいた」
ハケンラットは、空になった器を振り上げていた。
「俺が飲む茶は濃いめで淹れてくれと。だから、茶瓶はふた……つ。あ……。」
バースは盆に乗せられている、もうひとつの茶瓶に指先を向けていた。
「そうだ。俺はバース以外に飲む茶を淹れる為に、茶瓶を取りに行った。考えたくはないが、その隙にあらかじめ淹れていたバース用の茶に〈葉〉を混ぜたのはーー」
「タクトは此所で待機。ザンルとバンドで不審者の捜査。タイマンはロウスと共に〈ムラ〉周辺で、通信機器を含めた不審物の調査。他の隊員は、子ども達が就寝している住居を警護……。」
「だんな。アネさんにもこの事態ば、ゆっとったほうがーー」
「ア、ルマには、黙っとけ……。」
バースは身体を支えきれず、土床に伏せてしまった。
ーーバースさんーーっ!
とうとう寝に落ちたバースに、タクトは何度も身体を揺すぶっていたーー。




