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新居からの脱出

 急に左手が痛くなった。思わず右手の指先で左手を擦る。すると例の指輪が熱くなっていた。熱くなっているのは指輪だが左手全体が痛い。火傷したのかと思い、洗面所に行って水道の水をかけ流しにする。

 指輪を外さなければと、流しっぱなしの蛇口の下で石鹸を塗り付けてみたり指輪をひねったりして見るけれど外れない。指の付け根から関節のあたりまでは何とか移動するのだけど、関節の部分でどうしても抜けない。指輪は相変わらず熱いが指の皮膚を見ても火傷はしていないように思う。

『あれ、さっきまでかろうじて動いた指輪がびくともしなくなった。手が痛い!左手が腫れてきた気がする。いや、気のせいじゃない。絶対に腫れている!左手の方が右手よりもでかいもの!』

 途方に暮れていると、佐藤さんがパタパタとスリッパの音をさせてやってきた。徐に水道を止め洗面台に栓をする。そして手にしていたペットボトルの水をトクトクと僕の左手に掛ける。冷蔵庫にでも入っていたのはその水はとても冷たかった。左手が浸りきるまで水を注いだ佐藤さんは、しばらくつけておくようにと指示を出した。少し、痛みと腫れが引いた気がする。

「これが効くって言われたのよ。だめだったら声をかけてね。」

 佐藤さんは一人頷いてパタパタと戻っていった。香の介抱をしている途中だったのだろう。僕の面倒まで見ていただいて申し訳ない。それにしても何で指輪が熱くなったのかな。どうして左手が腫れて痛いのかな。理由が思いつかない。

『うん、これはあれだな。庭に出たとき刺激のある植物か、毒虫にでも触ったのだな。そうでなければ病気だけど、こんなにいきなり片手だけが腫れてくる病気なんか聞いたことがない。指輪の熱くなった原因は何?何か熱源に触った?電波か何かに影響された?』

 無理やり理由をこじつけてみた。

しばらく水に手を浸していると、痛みが治まったようなので水から手を引き上げる。そうすると痛みが始まる。仕方なくまた手を水に浸す。そんなことを数回繰り返す。同じ姿勢で洗面所にいるので疲れた。腰が痛くなってきた。

 楽な姿勢がとれるように試行錯誤していたら、佐藤さんが洗面器に水を汲んできてそれに手を浸せと言ってくれた。これでようやく移動できるようになった。座りたくてダイニングに戻ろうとしたら、

「今から出かけますので車に乗ってください。」

などと佐藤さんがと言う。

言われるままにガレージに行く。オフロード車の後部座席には既に、香が乗っていた。驚いたことに後部座席が一人で満杯になっている。いくら体質だといっても膨れ過ぎだと思う。助手席を佐藤さんに開けてもらって乗り込む。車高が高くて洗面器を抱えたままでは乗りづらい。なんとか助手席に乗り込みシートベルトをする。

「洗面器抱えて乗っていると、車酔いする人みたいですね。」

佐藤さんが運転席に乗り込んできたので、そう軽口をたたく。

「少しの間辛抱してね」

佐藤さんは真剣な表情でそう答えた。

エンジンをかけた佐藤さんが、何かのスイッチを押すとガレージが開いていく。車が発信しガレージから出きったところでサイドミラーを覗くと、ガレージが閉まっていくのが確認できた。

 五分位走って住宅街を抜けた。そのまま町とは反対側に向かってゆく。

「山の方へ向かっていますよね。隣町ですか?県境かな。」

 佐藤さんに声をかけてみる、どこに行くのか気になるから。

「稲滝村へ行くのよ。」

佐藤さんの答えは、簡潔だった。

『たしか其処、理事長の出身地でしたっけ?』

「理事長の奥さまが、今は村に住んでいらっしゃるので、今日は其処に泊めていただきます。」

寺田先輩が新居にきたことがとても怖かった様子だったから、避難することにしたのだろうな。それにしても不安なことがある。

「確か、寺田先輩の出身も、稲滝村でしたよね。大丈夫ですか?」

僕は懸念したことを尋ねてみる。先輩からの避難なら別の場所のほうが安心ではないかな。都会の人ごみに紛れてしまうとか。

「稲滝村は寺田にとってもマイグラウンドですものね。だから新居を買ったのですよ。彼の知らない家に隠れてしまえばお嬢様は安全だと考えていたのです。でも、家は見つかってしまいました。膨れる症状も進むばかりです。浦島さんに指輪をはめていただいたことでお嬢様の負担は分散できるはずと考えていました。うまくいけば膨れる症状が軽くなると期待していたのですけれどね。逆に浦島さんにまで症状が出てしまって焦りました。その洗面器の水は、稲滝の水です。その水に効果があると進言する人がいたので持って来てよかった。水の効果も含めて奥様に連絡したら、すぐ稲滝村に来なさいと言われました。もっとも、行くことにはなっていましたが。」

 寺田先輩がストーカーすることよりも香が膨れることへの対策が優先されるって言いたいらしい、確かに香は苦しそうだ。これ以上膨れたら命にかかわりそうな感じに見える。

稲滝村に行くことになっていたっていうのは、家族への挨拶かな。家族へ挨拶するというのなら、まず僕と相談くらいしてほしいものだが。

しばらく無言のまま外の景色に顔を向けていた。考えることが多くて思考に没頭していたのだ。

「浦島さん、ご迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ありません。」

後部座席から香が声をかけてきた。車に乗ったときにはぐったりして息も絶え絶えな様子だったけど大丈夫なのかな。佐藤さんも同じことを思ったみたいで、

「お嬢様、あまり無理をなさらないでください」

と言っている。ちらちらとルームミラーを気にしているが、後部座席の様子は運転席からはよくわからないのだろう。僕は洗面器を抱えたまま、上半身をねじって後部座席をのぞき込む。

 驚いたことに香の身体が縮んでいた。出発の時は後部座席の容積をほとんど一人占めしていたはずだが、今は両脇にずいぶんと隙間ができている。顔のむくみも取れていて、今朝と同じくらいにみえる。

 体が縮んだせいで、胸元がはだけている。僕はうっかり見てしまった、いろんな意味で暴力的な胸元を。それが脳内スクリーンに焼き付いてしまった。どうしよう。

「恥ずかしいです。あまり見ないでください。」

香芽さんが俯いて小さな声で言う。俯いた時に、はだけていた胸元に気が付いたらしく、あわただしく襟元を掻きよせる。僕は慌てて前を向く。

「香さん、腫れが少し引いてきたみたいですよ。僕の手も痛くないです。」

 左手はいつの間にか洗面器から出てしまっていたけれど、もう水に浸っていなくても痛くない。腫れも引いている。立て続けにいろんなことが起きて、まともに脳が働かないけれど、今一番重要なのは、香の胸元を見てしまったことに触れないことだよな。たぶん。

 視線を車の外に移す。車窓から見えるのはカラマツ林の濃い緑。道の両脇にそびえ立つ木々の幹。やがて車は、つづら折りの急カーブへと進んでゆく。助手席側が崖になっている。曲がるたびに胆が冷える。なんで崖側にガードレールが付いていないのだろう。道幅は車一台分、山側から伸びた木の枝や崖側から伸びた草が、車にあたってペチペチと音を立てた。眼下に山が見える。その山麓に町が広がっている。車の正面に、頂に雪を乗せた山脈の稜線が現れた。遠いはずの山脈がすぐ隣に存在するかのように感じて、思わず息をのんだ。

「もうすぐ駐車場ですから」

佐藤さんがそう言うとまもなく、車は整地され砂利を敷いた駐車場に乗りいれる。

「観光客がだいぶ来ていますね。山菜取りの時期だから地元の人かも?」

佐藤さんの言葉どおり、駐車場には十台ほど乗用車が止まっていた。県外ナンバーが数台、あとは地元ナンバーか。

 林の中から若者が三人ばかり大荷物を抱えてやって来る。止めてあったミニバンの後部を跳ね上げ、抱えた荷物を積み込んでいる。あれはタケノコか蕨か。楽し気にお互いを小突きあったりしながらクーラーボックスからペットボトルを取り出したり、Tシャツを着替えたりしている。

 一人がデオドラント用のウエットティッシュを取り出し一枚とって隣に投げ渡す。渡された子も一枚とって一番年かさに見える隣の男性に渡す。ウエットティッシュで首筋やら体を拭きながら談笑しはじめた。体を拭き、着替えをしているときに見せる背や腹は引き締まって、少し日焼けして、艶やかで、事務仕事ばかりをしてきた僕にはとてもうらやましく見えた。

「山菜取りって、ジジババのすることだと思っていました。若い人も来るのですね。」

僕がポツリと漏らすと

「業者に売るのでしょう。学生さんにはいいアルバイトだと思いますよ。」

と佐藤さんは何でもないことのように返事をする。

 車は山菜取りの若者の車の後ろを横切り、奥へと向かっている。駐車場の一番奥の端、『観光案内』の看板を掲げた建物の前に来ると、建物からおじさんが出てきて大きな扉を解放する。佐藤さんは建物の中に車を乗り入れた。乗り入れるのと同時に扉が閉められる。途端に暗くなり、目がみえなくて戸惑う。腕に紙袋を押し付けられた感触がある。

「山道を小一時間歩きますので、これに着替えてください。申し訳ないですが此処で。私たちは奥を借りて着替えます。十五分くらいしたら戻りますのでそれまでに。」

 佐藤さんはこの暗がりで見えているのかな。僕はまだ目が慣れなくて困っているのに。車のドアの閉まる音が二つして、足音と建物のドアの開閉する音がした。

 少ししてようやく目が慣れてきた。紙袋を確認すると、長そでの白いスウェットシャツとタオル、登山靴が入っていた。急いで着替えて靴を履く。「タオルは帽子の代わりなのか?」と思ったので掃除するときのように頭にかぶる。ポケットからスマホを出すと圏外になっていた。時間を確認すると午後の二時を回っている。

『そういえば腹が減ったな』

 佐藤さんが呼びに来たのでついてゆく。何のことはない。車を入れた場所と壁一つ隔てた隣の部屋だ。観光案内所の事務室みたいな場所だった。事務机と椅子が一組、パンフレットの置かれた棚が一つあるだけの狭い部屋だ。香がリンゴを剥いている。腹が減ったところに勧めてもらったので思わず二切れ食べた。四分の一カットだったから香と佐藤さんの分は一切れになってしまった。

 佐藤さんは登山靴を履いているようだけどジャージの上下という軽装。香は白の長そでスウェットにグリーンのブラウスを羽織っている。黒のタイツの上に青のチェックのスカートをはいていた。この狭い事務室の中にいるのに、どこにもつかえて居ない。家から出たときに比べたら、だいぶ縮んだように見える。

 建物から出ると水音が聞こえた。近くに沢が流れているらしい。水の粒子がヒンヤリと皮膚にあたる感触がある。よく晴れていて霧がかかっているわけでもないのに。

「滝のしぶきが、漂っているのですよ」

佐藤さんが言う。

「おかげでお嬢様の体調も良さそうです。早くこちらに来るべきでした。」

そういいながら、僕にリュックを差し出す。受け取るとずっしり重かった。

「脱いだ服と三人分の飲み物です。お願いね。」

「はいはい」

僕はリュックを背負う。先頭が香、次に僕、後ろが佐藤さんの順に一列になって山道に入っていった。



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