伊那滝香
「カオリちゃん、あそぼ」
声が聞こえた。隣の家のシーちゃんの声だ。お天気が良ければ公園で遊ぼうと約束をしていた。だから迎えに来てくれたのに違いない。お気に入りのオレンジ色のパーカーに灰色のレギンスと同色のスカートをはいて準備はいつでもOK。この服装の時は、いくら砂遊びをしても叱られない。
「おばあちゃま、はやく、はやく、シーちゃんきたよ。」
一刻も早く遊びに行きたいカオリは、祖母にせっついた。
「はしゃいでいると、転んでけがをしますよ。少し落ち着きなさい。」
元気のよすぎる孫をなだめながら、祖母というには、些か若く見える婦人が、玄関の扉を開けた。直ぐにも玄関から飛び出そうとする孫の襟首をがっしりつかみ、おばあちゃまと呼ばれた婦人は外の人物と挨拶を交わす。挨拶の相手はシーちゃんの母親だ。
「今日は本当に申し訳ありませんね、家の者も後ほどそちらに向かわせますが、しばらくの間、孫をお願いいたします。ご厄介さまではございますけれど。」
「いえいえ、とんでもございません。いつもお世話になっていますのは、こちらのほうですし、これくらいは何でもありませんから。他のお母さん方も大勢いますし困ったことにはならないと思います。それにカオリちゃんは、いつもおりこうにしていますから。」
大人の女性にありがちな、やたら長い挨拶にカオリは、じれてしまって祖母の手から何とか抜け出せないかと身をよじらせている。カオリとほとんど同じ背丈のシーちゃんは、長そでのTシャツにデニムのオーバーオールを着ている。母親と手をつないだまま、うふふと笑った。やがて二人は子猫のようにじゃれ始める。片方は襟首をつかまれたまま。もう片方は手をつないだままではあるけれど。
ようやく大人の挨拶が終わり、カオリはシーちゃん共々手を引かれて、公園に向かった。
公園には、まだ他の子は来ていなかった。誰にも邪魔されずに遊具を使えるのはとても嬉しい。滑り台もブランコも、ジャングルジムも一通り登り降りすると気が済んだ。後は、おままごとだ。地面すれすれの位置で砂場の周囲に巡らされている木枠の一部を台所に見立て、お料理を作るのだ。シーちゃんが水を汲んできた、カオリは砂に水を混ぜ良くこねて団子にする。
二人の子どもが夢中になって砂の団子を作っては木枠の上に並べていると、ちらほら人が集まってきた。
子どもを連れてきた大人たちは、一塊になり例によってやたらと長い挨拶を交わす。やがておしゃべりに湧き始めようだ。子どもたちは、いくつかの仲良しグループで固まっている。
カオリ達の前に、フリフリのついた水色のスカートにニットのカーディガンという服装で、真新しいバケツを下げた女の子がやってきた。
「メイちゃん、こんにちは、おようふくきれいだね」
女の子に気が付いたシーちゃんが如才なく挨拶をする。
「シズカちゃん、こんにちは」
メイちゃんと呼ばれた女の子は、シーちゃんの挨拶に機嫌をよくした。ところがカオリは挨拶してこないのでそのまま立って待っている。
「カオリちゃん、メイちゃんきたよ。あそぼって」
シーちゃんに声をかけられ、ようやくカオリは顔を上げる。
「いいよ。あそぼ」
カオリの返事を聞くと、メイちゃんはつま先で砂の団子をひとつ蹴飛ばした。
砂の団子の一つはダメになったけど、カオリは気にした様子もなくひたすら新しい団子を作り続ける。シーちゃんは『困ったな』という顔をした。
メイはイライラし始めた。背丈はカオリよりもメイのほうが高い。たぶんほんの少しお姉さんのはずだ。服だってメイのほうがきれいなものを着ている。それなのにカオリが自分よりも偉そうな態度をとるから気に食わないのだ。
「なによ、あんたなんか汚い服着てるくせに、なまいきよ。」
メイの母親は、子どもの服装を自分のお洒落の延長と考える人物だ。それを自分のこだわりとしてやっている分には問題ないのだが、子どもが聞いているところで、カオリの遊び着についてついうっかり、批評家よろしくやらかしたことがあったのだ。メイは母親のうっかり発言を自分の武器に使ってみたのだ。
「お砂遊びの時は、汚すからきれいなお洋服はだめなの。知らないの?」
カオリの祖父母は、庶民から成りあがって今の地位と財産を築いている。特に祖母は庶民感覚が抜けていないので、大事にとっておいた娘の子ども時代の服を孫の遊び着に使いまわしたりする。今日着ているのもそんなお下がりの一着なのだが、カオリは今着ている服を気に入っている。特に、汚しても叱られないという点がポイントだ。
メイのイライラは増していった。カオリの服装を馬鹿にしたことで自分が優位に立てると思ったのに、うまくいかないからだ。とうとう並べられた砂団子を全部踏みつぶしてしまった。
砂団子を全部踏みつぶされたカオリはカッとなってメイに組みつこうとした。泥だらけの手のまま向かって来たカオリに驚いてメイは避ける。カオリは勢い余って腹ばいに転んだ。だがすぐに立ち上がりメイに体当たりする。メイは砂場に横倒しに転んだ。大して痛くなかったが、服に砂が付いたことがショックで、メイは泣き出した。
興奮して鼻息を荒げ、仁王立ちしているカオリだったが、すぐに後ろから突き飛ばされた。メイの一つ上の兄が、メイの助人に来たのだ。カオリは砂場に転がるが、すぐに立ち上がる。髪の毛まで砂だらけになっていた。
兄が味方に付いたことで、メイは泣くのをやめ、兄の後ろに隠れながら思いつく限りの悪口をカオリにあびせはじめる。
「何よ、あんたなんか、お父さんもお母さんもいないくせに。知ってるんだから!鈍くさいカメだって!」
それを受けて、兄がはやし立てる
「やーい、やーい、親なし、ドンクサ、カメ、かめ、かーめ」
そして近くに落ちていた小枝を拾い、ぴしぴしとカオリをたたく。
初めのうちは、果敢にも抵抗しようとしていたカオリだったが、ほほや腕を小枝でたたかれるのが痛いので逃げ出した。逃げるカオリに小枝を持った兄とメイの二人で追いかける。
その頃になって、ようやく大人たちは騒ぎに気が付いた。シズカの母親が、驚いた顔をして走ってくる。その後から、メイの母親が顔色を悪くしてついてくる。
兄妹に追いかけられたカオリは、半泣きで逃げる。とうとう公園の端、生垣のところまで追い詰められた。逃げなければ小枝を振り下ろされると感じたカオリは、生垣の下のわずかな隙間に潜り込み、そこから道路に出てしまった。道路といってもそれほど車が通るわけでもなく、幅の広い歩道もあるので、通常ならそれほど危険な場所ではないのだけれど、その日は運悪く乗用車が一台通過していた。
生垣を潜り抜け、そのまま車道に向かって走っていこうとするカオリを抱きとめたのは、中学の制服を着た少年だった。
その日、中学校は早めに授業が終わったのだろう。少年のほかにもちらほら家路につく制服姿がある。生垣をくぐって飛び出してきた子どもに、何人かが気が付いて立ち止まった。子どもは押さえられ、乗用車は通り過ぎる。事故も起きずに無事だったのでそのまま歩き去ってゆく。ただ一人。子どもを捕まえてしまった少年は、この子をどうすればいいのかと途方に暮れる。子どもは泣きそうな顔で少年を見上げた。少年は少し困った顔をしながらほほ笑んだ。
そこへ、生垣を迂回してシズカの母が走ってくる。無事なカオリを見て、胸をなでおろす。
「車の音がしたからびっくりしたわ。ありがとう。この子を押さえてくれて。助かったわ。」
少年に頭を下げ、礼を言う。
「えっと、この子のお母さん?」
「この子は娘のおともだち。あなたに助けてもらったことを、この子の家に報告しないといけないわ。一緒に来てくれる?すぐ近くだから。」
シズカの母はそういうと振り返り、少し離れた場所から様子を伺っているメイの母親に向かって頷くことで合図を送る。メイの母親もそれに対し頷くことで答え、兄妹を連れて帰っていった。
シズカの母は、カオリを抱きかかえて歩く。シズカは母親の服の裾を掴んで歩く。数歩遅れて制服の少年が、言われるままについていった。
「まあまあ、カオリはお転婆で困ったわね。」
カオリの祖母は子どもたちに茶菓を振舞っている。
カオリは、砂を洗い落とされ、シズカの着ているものとよく似たオーバーオールに着替えたのでご機嫌だ。まるでシズカと姉妹のように見える。じゃれたり菓子を食べたり楽しそうだ。
シズカの母は、子どもの取っ組み合いから、追いかけっこに発展したと簡単に状況を説明した。相手の子どもの名前も出さず、相手の子どもから聞こえてきた悪口などは、一切口にしていない、だがいずれカオリ本人の口から伝わるだろう。無言の合図をメイの母親と交わしたけれどこれが限界。まぁ、致し方あるまい。
「それで、こちらのお兄さんが、カオリを助けてくれたのね。」
「はい、危うく車道に飛び出すところでした。お預かりしておりましたのに、申し訳ありません。」
カオリを危険な目に合わせたことを詫びる。祖母はそんなシズカの母に、咎める言葉を向けたりはしない。むしろ少年のほうを向いて話しかける。
「では、お兄さんに、たくさんお礼をしなければね。あら、まだ、お名前伺ってなかったわね。教えてくださいな。」
「浦島太朗といいます。ちょっと変な名前ですけど。」
少年は、そういって照れ臭そうに笑う。
「昔話みたいね。でも変じゃないわよ。孫を助けてくれたことが、運命のようね。」
そういってニッコリした。少年は『何が運命なのかさっぱり判らない』といった顔をしている。
「そうそう、あなた、お腹がすいていない?食べていきなさいな。」
「弁当を食べました。」
と少年は答える。答えながら、せっかく誘われたので食べられないのは残念だと顔にでている。カオリの祖母は、少年のそんな様子にニッコリすると、
「少しお待ちなさい」
と席を外した。やがて大きな皿に湯気を立てる大きな肉饅をいくつも並べて盆に乗せ、持ってきた。
「お昼を食べても、軽いものなら食べられるでしょ、育ち盛りの男の子ですもの。」
遠慮なく召し上がれと勧められ、少年は特大の肉饅にかぶりついた。
太朗は、彼女の子どもの頃の思い出話を聞かされて、しばらくは何の話なのか見当がつかなかったのだが、肉饅の件でようやく理解した。
「そうか、あの肉饅は旨かった。すごくよく覚えている。」
香は、自分のことも覚えてくれているものと期待して話をしたので、少し残念に思った。