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新居の朝

結局、朝は彼女に起こされた。彼女は声をかけてくれただけだが。彼女の存在そのものが恐ろしくて起き上ることが出来なかった。恐ろしく思うのは、昨日感じた負のオーラのせいかもしれないし、インパクトのある見た目のせいかもしれない。夜中に目覚めて寝付かれず、彼女について恐ろしい妄想をめぐらしてしまったことも原因になっている。異世界の魔物だとか、謎の宇宙生物などという可能性を考えてしまったのだから。

小一時間かけてようやく気持ちを落ち着けた。クローゼットにあった服に着替え、ヒゲを剃り顔も洗ってダイニングに行く。

朝食がダイニングテーブルに並べられていた。

 彼女が、並べてくれたのだ。昨夜覗いた冷蔵庫の中には、皿に盛られラップされた料理があった。それを温め直しただけだと思う。湯気を立てている南瓜の煮物に、思わず箸を伸ばし取って口に入れる。

「うまい。」

 一口食べたことがきっかけになり、腹ペコな状態を自覚した。近くにあったおにぎりに手を伸ばしガツガツと口に押し込む。考えてみたら、昨日の昼頃から何も食べていなかった。フラフラするわけだ。彼女は、いきなり食べ物にがっついた僕に気押された様子だ。それに気が付いた僕は、飯粒を口いっぱいに頬張りながらしゃべる。

「ごめん。どうぞ、君も食べて。うまいよ。」

ついでに、忘れていたことを付け加える。

「いただきますって言ってなかった。いただきます。」

 彼女はフッと笑った。そして静かに椅子へと腰を下ろす。笑い顔が怖かったけどそれは心の中に留めておこう。

「いただきます」

彼女もそういうと、サンドイッチを手に取り口を付けた。僕はひたすら飯を食った。おにぎりを三つくらい飲み込んだ後にポテトサラダを掻っ込んだ。その後は南瓜を喉に詰まらせてしまい、みそ汁でなんとか飲み下した。更に里芋に箸を突き刺し頬張る。四つ目のおにぎりを齧ってから具が鮭であることに気が付いた。先に食べたおにぎりの具は何だったのだろう。覚えていない。サンドイッチにも手を伸ばした。最後にカットフルーツを口に詰め込み飲み下す。

 ようやく満足した。カップにコーヒーをつぎ足しゆっくり味わうと、急速に膨れた腹が少し落ち着つく。

 彼女は意外と小食のようで、サンドイッチを二切れとポテトサラダを少し口にしただけだ。コーヒーのお代わりを尋ねるとコクンと頷いたので注いでやった。ミルクのポットを手に取って見せると、また頷いたからこれも注いでやる。彼女はカップを両手のひらで包み、香りを楽しむように口元までもっていった。しぐさは良いとこのお嬢さんそのものだ。

「ごちそうさま。」

と言って食器を下げる。僕がシンクに皿を置くと、彼女が食洗機に皿を並べていった。手際よく片付け終わると彼女は言いだした。

「書類を取り戻さなければいけません。時間切れになる前に。」

「時間切れって?」

「昨晩考えてみました。おじいさまに婚姻届けの書類を取り上げられたのは、六時過ぎでしたからその時間には役所は閉まっていますよね。

それで、おじいさまの予定ですが、今朝の七時からは幹部会なのです。朝食を取りながらの情報交換と、その後は会議。全部終わるのが十時過ぎになるはずです。終わるまでおじいさまは役所に行けませんから、書類を取り返せるかもしれません。」

 決意を瞳に宿し、頬を紅潮させ、拳を握り締めて語る彼女は、なんて強そうなのだろう。金太郎にそっくりだよ。熊なら投げ飛ばせる。そうだな、昨夜の夢に出てきた熊のラスボスにだって勝てるかもしれない。

「君が僕を見染めたとか聞いた気がするけど?結婚取り消しでいいの?」

 彼女が、書類を取り返そうと言ったことに違和感をもったので聞いてみた。そういえば、『敵わなかった』とかいろいろ言っていた気もする。

「結婚は、その・・・希望しています。けど・・・。でもこんな無理やりなのはひどいです。強引すぎます。もう九時を回っていますけど、車で行けば間に合うと思います。」

『結婚を希望しています。』ってサラッと告げられた事実に、今更だけど少しへこむ。それにしても書類を取り返すとかいう甘っちょろい案は何のために出したのだろう。僕へのご機嫌取りだろうか?何となくイラっとしたので意地悪く否定してやる。

「いや、手遅れだと思うよ。相手は理事長と部下の山本秘書だもの。夜のうちに書類は提出されているさ。」

更に説明を加える。

「結婚届は、三百六十五日二十四時間受け付けてもらえる。総務で仕事していた頃に聞いた話だけど、役所にも時間外窓口があってね。あの理事長が書類を手に入れたのなら、朝まで置いておくはずがないよ。」

 山本秘書が担当しているのだとしたら、あの人の仕事に不備なんて考えられない。

「それにね、山本さんが、君と僕の二人だけをここに残していった理由は何?書類を未提出にするつもりがあるなら、少なくとも山本さんは君に付き添そうはずじゃないの?山本さんは、何て言って君をここに連れてきたの。理事長は書類を受け取った後に何か言ってなかったかい?」

彼女は俯いてしまった。

 昨夜僕には車でアパートに帰るという逃げ道があったけど、彼女は僕の妻という立場から逃げられなかったはずだ。もっとも、僕が彼女に襲い掛かる可能性なんて少しもなかったけれど。

佐藤係長が帰り際に僕に伝えた言葉、『彼女がまだ書類を持っていたら破るなり話し合え。』そう言われたから、昨夜書類の所在を確認したのだ。理事長に渡しているならどうしようもない。彼女が理事長に書類を渡した時点で詰んでしまった。いやそうじゃない、僕が署名した時点で詰んでいるのだ。昨日、理事長室に入ってから今まで、僕が人間として扱われていないみたいな気がして苦しい。

 彼女は、僕の言葉にショックを受けたらしく、顔色を悪くしてキッチンの床にへたり込んだ。ドシンと音まで立てて。

『おーい、さっきまでの元気はどこへ行った。ちょっとばかりうまくいかないくらいでへたれるなよ。これでも最大限、君に配慮する気持ちがあるのだから。』

このまま彼女が倒れてしまうのは困るので、何とか会話を続けようと思う。

「手続きのことはもう、仕方ないよ。今から自分で動くとするなら離婚っていう手もある訳だ。とりあえず、パワハラ紛いに無理やり結婚届を書かせるようなまねをした理由と経緯を知りたい。知っているよね。話してもらえるかな。キッチンで立ち話しするような内容でもないからダイニングか、リビングで落ち着いて話そう。立てる?」

 そう言って、一応手を差し出してみる。幸いなことに彼女は僕の手を取らずに自分で立ち上がった。そのままリビングのソファーまでギシギシ音を立てて歩いて行く。よかった。手を取られても彼女を引き起こすのは無理だった。僕の背中の筋肉とか、腕の力とかが足りないと思う。

 リビングにたどり着いた彼女はソファーに深く沈んだ。僕はダイニングの椅子に座る。構図的には昨夜と同じ。違っているのは、昨夜、脱力していたのは僕で、今、脱力しているのは彼女だっていうことだ。しかし、ソファーの状態が昨夜とは違っている。昨夜彼女が座った時には音を立てなかったソファーが、悲しみの叫び声のような音を立てながら潰れてしまった。本来床と接着している足の底部分が斜めに傾いでハの字になり、クッションが床に届いている。

『元に戻るかな?ソファー。コレの修理は僕が心配しなきゃいけないのだろうか?匠が技を極めた高級ソファーのようだから、潰れても自力で回復してくれないかな。』

 彼女は潰れたソファーに包み込まれ、ソファーと一体化するような形になっている。案外、メンタル方面が弱かったのかもしれない。話しを聞き出したいので、なんとかしようと思う。

「今更だけど自己紹介しよう。君のこともよく分かっていないから。僕は浦島太朗。カメは助けていないけどね。」

僕の軽口に彼女の目に少し光が戻った。

「カメ、助けましたよ。私は伊那(いな)(たき)(かおり)です。」

 カメを助けたと言われ、僕は頭にクエッションマークを出現させて考え込む。彼女はソファーから立ち上がりサイドボードからメモ用紙とボールペンを取り『伊那滝香』と書いてダイニングテーブルに置いた。

 ちなみにソファーは回復しない。プルプル震えているように見えるから、元に戻ろうと四苦八苦しているのかもしれない。『頑張れソファー!』

 メモをテーブルに置いた彼女はソファーに戻ろうとしたけれど、ソファーが瀕死状態なのに気が付いたようだ。さり気なくダイニングの僕の斜め前の椅子に座る。今度は音を立てない。ちらちらとソファーを見ながら『やっちまった!』って表情をしている。ちょっと面白いけどソファーの件には言及しない方向で話を進めよう。

「君を助けたってこと?」

「はい、小学校に上がる前のことですけど」

 彼女はソファーを気にするのをやめ。僕が忘れてしまっていた昔話を語り始めた


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