新居
山本秘書と佐藤係長からステレオ状態で話しかけられた。丁寧に、優しい口調で。どういうわけか話を理解できない。僕の頭が混乱しているからだと思う。まずは気持ちを落ち着かせようと深呼吸し続けた。そして倒れた。
手足が痺れ、力が抜けてしまったのだ。結果、僕もストレッチャーで運ばれた。
小部屋をカーテンで仕切っただけの急患室。そこに置かれた狭い処置用ベッドに点滴でつながれた。何かの薬が効いたらしく僕は眠ってしまった。
目が覚めると、夕方になっていた。僕の様子を見に来た看護師さんがドクターを呼ぶ。
ドクターは、僕に触ったり、のぞき込んだりしてから、僕がパニックを起こしていたとか、パニックからくる過呼吸を起こしたとか話してくれた。対応として安定剤などをいろいろ投与されたらしい。帰っても良いけど、眠気はまだ残るかもしれないから車を運転してはいけないといわれた。
「どうやって帰ろう。僕は車通勤なのに。その前に事務室に戻らなきゃ、結局一日仕事しなかったな。」
そんなことをぼんやり考えている。
ドクターは忙しそうにしていて、すぐにいなくなってしまった。残った看護師さんが、パニックを起こした時の対応を教えてくれている。僕が上の空なのを見抜いたのか、自ら呼吸法をやって見せ、僕にもやるように促す。
『なんか疲れるなあ。』
と思ったことは胸にとどめ、おとなしく従う。
そうこうしていたら、佐藤係長が顔を出した。僕のカバンを抱えている。
「どうだ、動けるか。動けるなら帰れ。お前の車のキーはこの中か?俺が運転してやるから。」
そういってカバンを僕に渡した。
「お前、今日は一日点滴だったな。だが仕事したってことで勤怠つけて良いって連絡があった。理事長室から総務を通してだが。だから今日の分は休暇を出さなくて良い。それと、連休に出勤しただろう。その分を明日から代休で取れ。祝日分三日休んだあとは週末に入るから五日の連休だ。次の月曜から出てくればいい。手続きは総務で処理するそうだ。仕事は、まぁ、何とかする。今日の診療費は、確か給料から引かれるはずだ。帰れるか?お前の車、どこに置いてある?」
僕はおとなしく車のキーを差し出し駐車した車の場所を教える。僕の車のことは、よく知っているはずだ。僕が時々係長を乗せているから。
いつもは係長が待っている場所で、今日は逆に僕が待っている。変な感じがする。間もなく、僕の車がやってきた。助手席に乗りこむ。
「係長は僕の家に着いた後どうやって帰るのですか?」
「女房が迎えに来る。」
女房という単語に反応してしまった。頭は動いていないのに口から言葉が飛び出していく。
「係長だって奥さんとお付き合いしてから結婚したでしょう。僕がいきなり入籍ってどういうことですか?しかも知らない人ですよ。僕にだって人権がありますよね!」
口から出てくる言葉が止まらなくなった。話の要点も、順番もまるで考えていない。
「いきなり婚姻届けとか、訳わかんないです。彼女、この春卒業したっていったら十八でしょ。子どもでしょ。理事長のお孫さんかもしれないけど、親御さんにも会ったことないですよ。僕だって結婚の前にはお付き合いとか恋愛とか、親に報告とか、いろいろ順番ってあるでしょう。だいたい彼女の名前知らないですよ!顔見ただけでも恐ろしかったのに!とにかくあり得ないですよ!なにかいろいろ!とにかくありえないです!」
言葉が飛び出すほどに感情が溢れ、しまいには大声になっていた。
佐藤係長はしばらく黙っていたが、やがてぼそっと
「先に書いてあっただろ。届けの用紙に彼女の名前。」
と言った。
僕は叫んだ。
「そんな!確認できる余裕なんてあるわけない!」
「そうか、そうだな。」
係長はそうつぶやき、その後はお互いに会話できなかった。
その後、しばらくして、
「ついたぞ」
と、係長が言った。
「ここ、僕のアパートと違います」
「だろうな。新居だ」
「どうしても?拉致ですか?監禁ですか?」
「嫌ならこのままアパートへ帰るか?」
係長は、そこでひと呼吸置き、言葉を続ける。
「まぁ、家の中だけでも見ていこう。な。そのうちお嬢さんも来るだろうし。二人で話し合うのが良いと思う。な。その、お前さんが署名したことはお嬢さんも知っている。署名したお前さんがアパートに逃げちまうのは、お嬢さんが困るだろう?『おじいさまが無茶してすみません。』ってあの後言っていたそうだから、お前さんが逃げても理解はしてくれると思うがさ。それでも話してみたらどうだ。届けの用紙はお嬢さんが持っているって話だ。理事長が無茶をした事情も詳しく本人から聞けばいい。届けの用紙を破るなら話し合って決めればいい。まぁ、確かに俺が署名するよう説得をした。だがな『今すぐ書け』なんて言ったつもりはないぞ。それなのにお前さんがあそこで名前を書いてしまったから驚いた。」
係長は、ハンドルに手を置いたまま、困ったような顔をしている。
「状況が解って署名したようには見えなかったし『いきなりどうした!』って、正直思った。今日の俺の段取りでは山本秘書が説明して、俺はお前さんを説得するところまで。そのあとお前さんは署名を断るだろうと思っていたし、山本秘書は理事長に結果を報告ってことになると思っていた。いくらなんでもいきなり婚姻届けって無茶だからな。お前さん、雰囲気に飲まれやすい性質だったか?だいたいその指輪だって自分ではめちまうし。」
そういわれて自分の左手を見つめる。
倒れる寸前、僕自身の手で指輪をはめた記憶はある。どうしてそんなことをしたのか自分が信じられない。
『パニックを起こすって怖いな。』
そう思いながら、指輪を外そうとしたが抜けなかった。
家の鍵を開けた係長に促され、玄関から中に入る。玄関ホールから、右手にリビング、ダイニング、キッチンと一間で続いて広々としている。壁や家具の配置がうまく工夫されていて、それぞれが独立したスペースとしても成立しているようだ。係長は冷蔵庫からペットボトルのお茶を出し、一つを僕に渡した。
僕はダイニングテーブルに陣取り、肘をつく。手にしたペットボトルで額を冷やした。じっとして沈黙していると、眠くなってくる。
『まだ薬が効いているのかな。』
係長はリビングのソファーに腰を下ろし、テレビをつけた。
そうこうしているうちに、来客を告げるチャイムが鳴る。係長が飛び出していった。山本秘書が到着したらしい。係長はすぐに戻ってきて、
「お嬢さんがみえた。俺は帰るから。俺と一緒に帰るなら来るか?その、どうする?」
『係長と一緒にここから出ていきたい。』
そう思う。思うのに口から言葉は出てこない。立ち上がる気力も出ない。僕が黙っているので係長は言葉を続ける。
「ならまあ、話し合え。な。お嬢さんと話し合え。お前の車は置いていくのだから、アパートに帰りたくなったら帰れるだろう。まず、話せ。穏便に。頼むから。な。」
係長はドタバタのコントっぽい動き方をしながらそう言う。僕とラフな話をする時はたいていこんな感じの人だ。理事長室で、きれいな所作をしていた人と同一人物とは信じがたい。場面や人に合わせて行動も言葉も変える。そういうことができる人を大人っていうのだろうか。僕にはできないが。
やがて玄関の閉まる音がした。エンジンの音が遠ざかっていくのが分かる。
家の中に人の気配がなくなった。でも僕一人じゃなかった。いつのまにか僕の視界に、係長の言うところの『お嬢さん』の姿が割り込んでいた。『お嬢さん』は気配なく移動してさっきまで係長の居たリビングのソファーに着席した。つけっぱなしだったテレビの電源が落ちる。
「とんでもないことになりました。ごめんなさい」
驚いて、声の聞こえてきた方向を凝視してしまった。声の主は間違いなく『お嬢さん』だ。『お嬢さん』は理事長室で少し見た程度だけど、この人がアレと別人じゃないのは確かだ。これほどインパクトのある見た目の女性はそうはいない。顔がむくんで赤紫色に見える。顔の肉に埋もれた目は、殺人光線を発射しそうなくらいギラギラしている。理事長室で膨らんだ体は、今は少し縮んでいるようだが、それでも常人よりはかなりでかい。関取とか、節句人形の金太郎を連想してしまう。恐怖する程漏れていた負のオーラが今は出ていない。紫色に変化していた手足は人間らしい色に戻っている。
初めて聞いた彼女の声は、見た目とまるで違って、信じられないくらいに可愛い声だった。
彼女を凝視している自分に気づいて、あわてて顔を反らす。目線を手に持っていたペットボトルのお茶に集中させ、ボトル以外が視界に入らないようにした。ずっと手に持っていたペットボトルはだいぶ温くなっている。
「こっちこそ、お茶を吹いたりしてすみません。失礼なことをしました。仕事、首になるかと思いました。」
「祖父が追い詰めたのでしょうね。ほんとうにごめんなさい。」
会話が頭に入ってこない。その後お互い沈黙してしまった。いや数秒?もしかしたら数十分?時間の感覚がわからない。
やがて、僕は切り出した。重要なことを確認しなければいけなかったから。
「署名した用紙。あなたが持っているって聞きましたけど。」
それを聞いた彼女は焦ったようにソワソワと動いた。
「それが、ここへ来る直前に、おじいさまが見せるようにおっしゃったので、渡したら返していただけなかったのです。それで、さっき車の中で秘書の山本さんにお願いしたのです。おじいさまがそれを役所に提出しようとしたら阻止してくださいって。
私が、先に署名していたのに、『何を言っているのか』って思われますよね。私が署名したときはまっさらな契約書だったのです。それにあれは、私たちが身を守るためには必要なことだと聞きました。結婚届はおじいさまが思い付いたことらしくて。昔から強引にことを実行する人らしくて・・・、そうやって財を築いた人ですし、私、敵わなくて。こんな強引な方法は、私も嫌で悲しいです。」
姿を見ずに声だけ聴いていると彼女が別の人かと勘違いしてしまいそうだ。僕は、自分の手元を見つめてじっと黙っていた。何かしゃべったら、収拾のつかない事態になりそうで怖い。僕が黙っているので、彼女は再び話し出した。
「私は変な体質でして、それを改善するために、あなたの近くにいることが必要らしいです。それについてよく話し合うように、秘書の山本さんに言われています。」
彼女は、僕が返事をするのを待っているようだったが、ぼくは黙っている。
「それでは話し合いは明日にして、今日は休みましょう。」
僕の返事のないことにむしろほっとした様子で彼女は続ける。
「玄関を挟んだ向かい側に書斎があります。その奥が寝室になっています。そちらを使ってください。トイレとバスルームは階段の向かい側です。生活用品や服などは、寝室のクローゼットと、バスルーム入口の洗面所の棚や引き出しに入れてあるそうです。あと冷蔵庫に食べ物と飲み物が入っています。お好きに利用してください。私は二階を使いますので。
それから、『明日の朝八時までには、浦島さんを起こしなさい。』と山本さんに言われています。ですから、できるだけ、起こしに行かなくてもいいようにご自分で起きていただけるとありがたいです。」
彼女は、少しの間、僕の返事を待っているようだったけど、僕が反応しないので立ち上がり
「おやすみなさい。」
と言って、二階に上がってしまった。しばらくすると、二階から水を使う音が聞こえてきた。
『二階にも浴室があるのか。』
それをきっかけに立ち上がる。ずっと座ったまま動かなかったせいか、体がぎくしゃくする。このままアパートに帰ってしまおうかと思う。でも体がだるくて、ふらつく。車を運転できない気がする。
まだ手に握り締めたままだったペットボトルのお茶に気が付き、封を開けて一気に飲み干した。冷蔵庫を開けると、すぐに食べられそうな、おにぎりにサンドイッチ、スープやサラダ。煮物などが皿に盛り付けられ、ラップしてあった。うまそうだけど食べる気分になれなくて、扉を閉めて浴室に行く。
シャワーを浴びる。髪も体もベトベトしていた。いやな汗をかいていたのだろう。さっぱりして、新しいパジャマを着こみ、寝室に行く。ダイニングに置きっぱなしだったカバンを持って行った。書斎に置かれたデスクトップパソコンに興味はあったけれど、今はスルーして寝室のベッドに身を投げ出した。カバンから取り出したスマートフォンを起動する。今日一日使わなかったから、電池は減っていない。毎日閲覧しているSNSを巡ることも考えたが、頭が痛くて、スマートフォンは枕の脇に置いた。
やがて肌寒くなり、もぞもぞと掛け布団の中に潜り込む。温かさを感じると同時に寝入ってしまったらしい。
夜中、熊みたいな敵と戦っている夢を見た。ゲームのラスボスと対戦しているみたいだった。こちらから攻撃を加えるたびに熊みたいな敵は巨大化し、強くなるので焦る。体が重くてうまく動けない。それでも飛んでくる攻撃を必死になって躱す。ラスボスの瞳から光線が発射された。視界が光でいっぱいになって、目が覚めた。
枕もとにあったスマートフォンの着信ランプが明滅している。この光のせいで変な夢を見たのだろう。
『こんな時間にかけて来るなんて、迷惑な電話だな。』
機械を裏返す。着信ランプの明滅は見えなくなった。
その後は、おかしな妄想に取りつかれ、それが頭の中でぐるぐるして、明け方まで眠れなかった。