浦島太朗
社会人四年目、五月の連休が明けた。連休といっても休めた日はなかった。僕は病院で事務を執っている。
半年前に経理課で僕の一歳上の先輩がノイローゼになって休職した。僕は総務課にいたのだが、休職した先輩の席へ異動になった。四月に新人の鈴木さんって女の子が総務課に入った。その教育係は僕だった。鈴木さんは頭が良く、飲み込みも早い。だが、彼女に仕事を教えている間、僕の仕事は止まってしまう。連休前に仕上げるべき経理課の案件がいくつか溜まり連休中の仕事になった。
仕事をするのは嫌いではない。僕の直属の上司、経理課の佐藤係長も連休中は出勤していた。そのおかげだと思う。祝日の仕事の割には孤独を感じなかった。
朝一番で、仕上げた書類を提出し、少ししたところで佐藤係長に呼ばれた。
「浦島君、ちょっと来てくれ。」
『あっちゃ。大ポカやったか?』
タイミング的にそう思った。休んだ先輩からの引継ぎがない状態で仕事をしているために、不手際は日常だ。提出の際、上司へ伝えた説明に不足があったのかもしれない。
「浦島くん、あぁ、ハンコも持ってきてくれないか」
佐藤係長は、僕の顔も視ずにそう言ってスタスタ歩き始めた。僕は、係長の地肌が見えそうな後頭部を目印にして後に従う。パートでベテランの加藤さんが、微妙な顔つきをして、僕らを目で追っていた。
『なぜ、ハンコ?ひょっといて始末書ものだったのか?』
とても嫌な気分で、何が悪かったのか考えながらついていく。
『まずい。心当たりがありすぎる。』
連れていかれたのは、理事長室だった。下々の僕などが、仕事で呼び出されることなどあり得ない部屋だ。
佐藤係長が、額の汗をハンカチで拭き、神妙な顔つきをしながらノックする。
「どうぞ」
中から女性秘書、山本さんの柔らかな声がした。
「経理係長の佐藤勉です、失礼します」
係長はドアを開けると、そう名乗って四十五度ピッタリの角度で綺麗なお辞儀をした。
『あれ?係長、フルネームを名乗る必要あったの?こういうときって職名と姓だけでいいよね。
なんで、フルネームで言うの?僕も合わせなきゃいけないじゃないか。』
と心の中で突っ込みを入れた。僕はフルネームで名乗るのが嫌いだ。
「経理係、浦島太朗です」
そういって四十五度になっているのかわからないけれど、なるように気を付けながらお辞儀をした。軽めの自己紹介ができる場合なら、
「太朗は太く朗らかと書きます。カメを助けた人とは違います。」
と茶化したいところだが、まさか理事長室でそんな軽口を叩けるはずがない。
「呼び出してすまなかったね。二人とも椅子に掛けて。」
すすめられるまま二人してソファーに掛けると、山本秘書がお茶を出してくれた。
『これは叱られるのと違うな。』
そうは思ったけど、だったら呼ばれた理由に心当たりはない。
お茶をいただくように促され、佐藤係長は流れるような所作で茶碗を手に取り口に持っていく。たまに思うのだが、この人は無駄にしぐさが美しい。外見と違って。
僕は係長の真似をしようとしたのだが手が震えた。手の震えが外そうとする白い茶碗の蓋に伝わってチリチリと音を立てる。理事長室に居るというだけで緊張している。
ローテーブルを挟んだ向かいのソファーに誰かが座ったのに気が付いた。
手にした茶碗を、すぐに下ろして挨拶すべきだった。でも、震える手に持つ茶碗からお茶がこぼれてしまいそうだ。飲んでしまえばこぼれないと思ってしまった。間違いだった。
茶碗に口をつけている時に、理事長から目の前の人物の紹介が始まってしまった。上品な桃色のワンピースを着た女性を確認する。彼女と目が合った瞬間、僕は盛大にむせてしまった。彼女の瞳から殺人光線が発射されたような気がしたからだ。お茶が少し鼻に入ってしまったせいで、クシャミが何度も出てしまう。
むせながらくしゃみを繰り返す。僕の目は涙でかすんでいるけれど、向かいに座った人が大惨事になっているのはよくわかった。僕の口や鼻から噴出したお茶を浴びたのだから。
「おまえ、・・・。申し訳ありません。」
係長がハンカチでテーブルを拭いている。前半の台詞は、僕に小言を言おうとしたのだ。だけど優先すべきことを直感して方向転換。理事長と、向かいの女性に頭を下げてくれたのが、後半の台詞だ。
山本秘書がタオルをたくさん持ってきて僕の前にも置いてくれた。一枚取って自分の顔を押さえる。鼻水が大変なことになっていた。
「ぐ、も、もう、しわけ、ありませんでした。」
えらいことをしてしまったと焦りながら、なんとか無理に声を出して謝った。
山本秘書は桃色のワンピースを拭っているようだ。そのとき、ビリビリと、布が張り裂けるような不穏な音がした。
「バリン!」
向かいの女性が着ていた桃色のワンピースは細かな布切れになって消し飛び、当人は変身していた。体が三倍くらいに膨れ、体中から凝縮した負のオーラのようなものが漏れ出ている。ワンピースの下に着ていた伸縮性のありそうなスリップが体と一緒に膨らんでいた。それ以上を僕が目にする前に、山本秘書は彼女に、ひざ掛けのような布を被せ、靴を脱がせた。内線でドクターに連絡している。布からはみ出している彼女の手足が紫色に変化していくのが見えた。
すぐにドクターがやってきた。連れてきた看護師と山本秘書の三人がかりで、ストレッチャーに変身後の女性を押し込む。カラカラとストレッチャーの遠ざかる音が聞こえる。山本秘書は部屋に残り、僕の起こした大惨事と変身の後始末をした。
「あの子は、やっかいな体質でね、最近はこういう発作を起こすまでになってしまった。」
「彼女は、理事長のお孫さんだ。」
理事長の言葉と、続けられた係長の説明に僕の息は止まりそうになる。何故呼び出されたのか分からないが、理事長の親族にお茶を吹きかけてしまった。僕は首になるだろうか。頭の中はすでにパニック状態だ。それでも落ち着こうと深呼吸をする。
「あの子というよりは、ウチの一族の体質なのだよ。あの子の場合は特にひどい。結婚して子供を産む頃に体質が改善する女性が多いと聞く。佐藤君のところもそうだったろう?」
係長はウンウンと頷いている。
理事長の話がどこに向かっているのか分からないが、首にされる方向でなければありがたい。僕はひたすら神妙にして、鼻水を拭いたタオルを握り締めていた。
「そこでだねえ、浦島君。君にあの娘と結婚してもらいたいのだよ。この三月で高校を卒業したが、あの体質での進学は難しくてね。小さい頃はそうでもなかったが、成長するほどに症状が重くなっているようだ。高校はウチの病院に入院させて病棟から学校に通わせていた。休みがちではあったが、なんとか卒業できた。
あの子の話によれば、入院中に君のことを見初めたらしい。だからね、よろしくたのむよ。良い娘だから。結婚すれば体質は改善するはずだ。新居を、あの娘の名義で一軒用意したから、そこに住むと言い。」
「理事長、お時間です」
理事長が一方的に話をまとめたタイミングで、山本秘書が何かの時間を伝える。
「お車の用意ができたと連絡がありました。本日の運転は駒山が担当いたします。」
「そうか、では後を頼むよ」
理事長は、自分の言いたいことは終わったとばかりに、出て行ってしまった。僕は状況が理解できずに、ひたすら深呼吸するばかりだった。
何か言わなければ、人生が終わってしまうような気持で焦るけれど。頭が停止してしまったらしく言葉が出ない。 山本秘書と、佐藤係長が僕に話しかける。夢を見ているようで、現実味がない。説明されているうちに、催眠術にでもかけられたような状態になったらしい。