伊那滝幸子
その日、伊那滝幸子は洞窟の当番だった。
稲滝村の滝の裏側の洞窟には、地球ではない場所に繋がっている通路がある。そこにやってきた人が迷子にならないよう気を付ける、そういう仕事をするための当番だ。
昔からこの通路は使われている。通路の向こう側の国、日出に住む人と日本の人とで友人になったり親せきになったりするのは普通のことだ。行先を知ったうえで通路を使っている人達は問題ない。しかし旅行者が通路の存在を知らないままに飛び込む危険があるから対策をとる必要がある。だから滝の近くには看板も立ててある。
『危険!関係者以外立ち入り禁止(水に流された場合、救助は困難です。撮影、調査等で滝に近づく必要がある場合は事前に稲滝村役場に届出してください。
稲滝村役場総務課 電話×××-×××-××××)』
村議会で相談した結果、こういう文面になった。
『危険!関係者以外立ち入り禁止(水に流されても、異世界に流されても、救助は困難です。異世界では物理法則の一部が異なるため、協力者のない状態での生存は予測不能です。尚、水に流された場合、死体の捜索も困難です。
ご相談は 稲滝村役場総務課 電話×××-×××-××××))』
幸子ならこう書きたいと思っている。しかしこれでは困ることも起きそうだ。滝は観光名所なわけで、事情を知らない一般客にふざけていると叱られる可能性もある。ジョークと勘違いされ、あえて危険に飛び込む猛者が出るかも入れない。万一行方不明者が出た場合、捜索に苦労する。稲滝村役場としては、無駄に仕事が増える事態は勘弁してほしいのだ。
洞窟の当番には、わずかだが手当が出る。当番の仕事自体は大変ではない。幸子はこの仕事が好きだ。ただ、恐ろしく暇な仕事でもある。
幸子は朝、役場に顔を出し、今日の当番であることを告げてから洞窟にやってきた。村から滝へは急斜面を登る。続く小道は滝の裏側の洞窟に向かってに伸びている。大人が立っても頭に当たらない高さのある洞窟で、奥行きは五メートル程度。硬い岩をくりぬいたようにしてできている。入口から奥の突き当たりまで良く見える。でも突き当りには絶対に行くことができない。途中が、違う世界に渡る通路になっているからだ。
洞窟に入って三メートルほど進めば向こう側の世界に渡ってしまう。正確には異世界の日出という国だ。通路を抜けた先も同じような洞窟になっているから異世界に渡ったことに気がつかない可能性もあって、そうした場合には迷子が発生するのだ。入口から奥に向かって進んでいるとなぜか入口に向かってしまうのだから方向転換した覚えがなければ、普通はおかしいと気が付くはずだ。だが足を踏み入れた先が地球ではないということに、気が付けというのも無理がある。
異世界側は滝の裏側を抜けるのではなく、流れ落ちる水を潜って外に出る。潜れる場所には親切に手すりがついている。異世界には魔法があって、手すりの位置なら滝を潜っても濡れない、流されない魔法の術式がかかっている。手すりは「ここを通れ」という標だ。手すりがないところも通れるのかチャレンジした強者はいない。即死しそうな勢いで滝が流れ落ちているのだから。
滝を抜けたら小道を少し歩くと道幅の広くなった場所がある。そこに、異世界側の通路を管理する人がいる。今日も折り畳みの小さい椅子を用意して【撮影スポット】と書かれた看板の虫を払ったりしていた。
「おはようございます。今日もおじいちゃんが当番ですか。」
幸子が声をかけると、日に焼けてしわだらけの顔が振り向いた。かくしゃくとした細い体は背筋がピンと伸びている。
「やあ、おはよう。今日はお嬢ちゃんか。この間も一緒だったが、名前何だっけ?」
「伊那滝幸子です。村人のほとんどが伊那滝だから、区別付きませんよね。」
「ボケがきているから忘れてしまってね。管理日誌に書くのに、正しく書きたいから毎回聞くようにしているのもあるがね。まあ確かに、伊那滝さんは多いねえ。でもたまに寺田さんとか、加藤さんってこともあるねえ。」
老人は、ニコニコと笑う。まじめな人なのだろうと思う。
「こっち側の日誌では、相手側の当番の名前も書くのですね。ウチの方で必要な記録は通過した人の住所と名前くらいかな。」
「ははは、ここで見張っているのはたいてい私だからね。そちらで書く必要がないのかもしれないよ。」
「青木さんのお家、麓でしょ?毎日お疲れさまです。」
「名前を覚えていてくれたのかい?ありがとう。でもおじいちゃんでいいよ。そう呼ばれたい。ここが廃村にならなければ、そう呼んでくれた家族と一緒に、ここに住んでいられたのにね。」
異世界側にも昔、稲滝村と呼ばれる村がこの地にあったそうだ。
「いっそのことウチの村に住んだらどうですか。役場で手続きできますよ。」
「事情があってね、実際、廃村の時は、私のように麓に降りた者だけじゃなくて、そっちの稲滝村に移った者も多かったものだ。」
おじいさんは、昔を懐かしむように目を細めた。
「そろそろ、私戻りますので」
「ああそれからね、伊那滝さんの今立っている辺りが滝に浸食されて危なくなってきた。足元に気を付けておくれ。」
幸子は、いろいろと気遣いを見せてくれる青木老人に礼を言い、通路を抜けて持ち場に戻る。
洞窟に立てかけてあるパイプ椅子と長机を広げて座る。床が凸凹しているので座り心地が悪い。持ってきたカバンを開け、数冊の本の背表紙を指でなぞる。資格試験のための教本。新刊の小説。漫画雑誌。
結局、漫画を取り出して広げた。
「わ!」
子どもの声がした。みると、通路に子どもの顔と右手、左足、腹部の一部が浮かんでいる。通路を渡る途中で立ち止まると、傍からはこんな感じに見える。
「ぼくは迷子かな?」
問いかけると、子どもの顔が後ろに引かれるようにして消えた。
直ぐに、スニーカーを履いた男性の右足が出現し、ひと呼吸おいて子どもを抱いた男性の姿が現れた。全身が現れると後ろを振り向いて、
「大丈夫だからおいで」
と声をかけているが、向こう側に人がいるのだったら、声は届かない。
男性もそう気づいたのだろう、子どもを抱いていない方の手を前に差し出す。手先から肘近くまでが消えたように見えなくなる。頭も見えなくなり、それから男性が一歩後ろに下がると、消えたはずの手を握って、女性が現れた。もちろん男性は頭部を取り戻している。長い黒髪の女性は驚いたように目を見張る。私を見たり、男性を見たり、滝を見たり振り返ったりしている。通路を初めて渡った人の反応だ。
「今日も、お仕事ですか。」
幸子は現れた男性に声をかける。彼は最近頻繁に通路を利用している。日出の商社勤務の人物らしい。農産物の取引をしたいと言って役場に来ていた。日本では稲滝村役場が異世界との窓口として機能している。これは政府から村役場に委託された『国としての業務』ということになっている。もっとも稲滝村は昔から隣村扱いで異世界と交流していたからそうなっただけで、政府の役人ですら異世界への通路があるという事実を知っている人は少ない。そのせいか行き来にパスポートは必要無い。
通路の先の国である日出ではこちらをどのように扱っているのだろうか?向こう側で通路の出入りを見守っている青木老人は役人ではないそうだ。稲滝村役場の職員はもちろん役人であるけれど。
「今日は観光。家族サービスですよ。」
男性はそう言いながら、幸子の差し出す筆記用具を受け取り、慣れた様子で書き込んでゆく。書き込むために俯いた切れ長の目。睫毛が長くてハンサムな人だと幸子は思う。
「何かありましたら、村役場でご相談ください。ごゆっくりしていってくださいね。」
幸子がそういうと、男性は礼を言って滝の裏側の道へと歩き去った。子どもを抱きかかえ、奥さんの手を引いて。
「宇島卓さんと優子さんと、太朗ちゃん、九時半と。」
受け取った受付用紙に記載された名前の右脇、そこに村に入った時間を書き込むと、幸子は再び手持ちの本を開いた。
昼近く、宇島が滝の洞窟に現れた。焦った様子で息を切らしている。村から滝までは急斜面を登らなければならない。駆け上がってきたのだろうか?
「急いで、連絡を取りたいのだが、向こう側に。」
宇島の言葉に幸子は、誰か怪我でもしたのだろうと思い、心配になった。
「どうぞ、通ってください。向こう側の滝の撮影スポットって所にいる青木さん。おじいさんですけど、通信機を持っているはずです。必要なら。」
「ありが・・」
宇島の礼の最後の方は、通路を通過してしまったので幸子に聞こえなかった。かなり慌てているようだ。
しばらくして宇島が戻ってきた。
「一時間くらいで、伊那滝という男が来ますから、役場の場所を教えてやってください。」
そう言って、あわただしく滝の裏側から村の方に出ていく。
「何があったのかな。怪我じゃなきゃいいけど。」
そうつぶやいたが今は幸子にできそうなこともない、再び本に目を落とした。
『日出にも伊那滝なんて姓の人がいるのか。』
などと思いながら。
お昼用に持ってきたお弁当を食べ終わり、水筒のお茶を飲みながらくつろいでいると、通路から向こう側で通路の番をしている青木老人が現れた。青木の手に引かれて男性が姿を見せる。男性はボサボサの髪をして黒縁の眼鏡をかけている。顎のあたりに剃り残しの無精髭。着ているのは草臥れた作業着。
「すまないが伊那滝さん、この人を役場まで連れて行って欲しい。事故があったそうだ。向こう側は封鎖したから、私がしばらくここにいよう。役場の方にもそう伝えて欲しい。」
そう青木老人が言う。
「一応、これ書いてください」
用紙をさしだすと、ボサボサ頭の男性は用紙に日出の住所と伊那滝荘作と名前を書いた。俯くと眼鏡に埃がたまっているのが分かる。こんなに埃だらけの眼鏡で見えているのが不思議に思える。幸子は書かれた名前の右に十四時と書いて
「ご案内します」
と言い、村に向かう。
「足元に気を付けてくださいね。」
幸子が振り返りながら言うと
「こっちの道は整備できているから安全だよ。向こうは崩れかけているもの。まあ、村がなくなっちゃっているから整備したいと思う人がいないのだろうね。君も伊那滝っていうの?こっちには多いって聞いていたけどさ。ウチは、ばあさんがこっちの稲滝村出身らしくて、その代から伊那滝を名乗っているらしいよ。僕は初めてこっちに来た。青木のじいさんに、そこに通路があるって言われても判らなくてさ。あの通路、どんな仕掛けだろう。滝の流れを潜る仕掛けは解ったよ。僕はそういう仕掛けを仕事にしているからね。こっちには一度来てみたいって思っていた。魔力が影響を与えない物理法則に興味があってさ。」
ボサボサ頭の男の人は、一方的に話しながらついてくる。
「事故があったようですね、何があったか聞いています?」
幸子は荘作の話に割り込んで、気になっていたことを尋ねてみた。
「魔力の暴発らしいって聞いたよ?ウチの方では子どもがそういう事故を起こすこと多いよ。こっちでは珍しいよね。魔法の概念が一般的じゃなかったよね、こっちは。」
滝から村へは急斜面を下るのだが、荘作はとめどなくしゃべる。幸子もつられて言葉を返していた。
「稲滝村には、日出から移り住んだ人もいますし、通路の向こうが廃村になる前は隣村として交流していたようですよ。だからこちらにも力そのものを持っている人はけっこういるそうです。向こう側の人みたいに力を使っている人は見たことないですけどね。」
そんな会話をしながら彼らは山を下った。小さな村に入れば役場はすぐだ。荘作を役場の担当者に会わせて、幸子は滝に引き返した。
青木老人はパイプ椅子に座っていた。
「留守中、だれも来なかったよ」
と告げてくれる。用紙を見ると青木老人は律義にも自分の名前と住所を書いていた。
「ありがとうございました。」
と頭を下げると、青木老人は頷いて通路の向こう側へ消えていった。幸子は名前の右に十四時と書き、更に右に十四時半と書いた。