3話
新しく切り取ってきた中程度のサイズの笹をリビングに飾る。ガーデニングなど、景観を意識するものを趣味としていた母のコーディネイトした部屋だ。笹が飾られると、それなりに風情はあった。先ほど友人六人ほどがやってきて、短冊だけ飾って帰って行った。赤や黄の色を得た笹は、花壇に咲くチューリップに対応している。一晩のみ、天川家のリビングはエレクトリックで小さなお祭り状態だった。
しかし反して外は豪雨にさらされていた。灰色の雨雲から落ちる雨粒が、叩くように窓ガラスを鳴らしている。友人の一人が吊るして行ってくれたてるてる坊主も、雨の勢いに気圧されて震えている気がした。
この分では天の川は見ることが出来ないだろうな、と天川はもの鬱げに思った。雨が降っては短冊の意味もほとんど無くなる。どうして梅雨の季節に七夕なんてあるんだろうと、変えることの出来ない天道を恨んで虚しくなった。雨雲になりそうな吐息を残して、天川は自室に戻ろうと身を翻した。
二階に上がろうと階段に差し掛かったとき、けたたましく電話の電子音が鳴った。外はすっかり日が落ちており、食事も終えた時間だ。天川は少し疎ましく思いながら、階段横の親機の受話器を取った。
「もしもし、天川です」
「あ、星野ですけど。……渡くん?」
星野の母親だった。電話越しに聞いたのが久々で、一瞬誰だか分からなかった。昨晩挨拶したので向こうは天川が分かったようだった。
「昨日はどうも……」
昨晩寄って行ったことが急に恥ずかしくなり、しおらしく返答した。
「ほんと、久しぶりだから驚いちゃったわ。最近姫子とは話してないの?」
「話してないっていうか、そういう機会があんまり」
「へえ……。中学三年生にもなったら、お互い恥ずかしいのかしらね」
「そ、そういうわけじゃ」
しどろもどろになりながら否定するが、受話器の向こうでくすくすと笑い声が聞こえて、天川は口を塞いだ。星野の母親らしく、人を懐柔することが得意な彼女に対して少しだけ苦手意識があった。無駄に口を開かないほうが良いと思った。
「ところで姫子がそっちにお邪魔してない?」
唐突に星野の母親はそう切り出し、天川は心臓を槍で突かれたように、ぐっと息詰まった。竹薮であまり良好的とは言えない別れ方をしたのち、星野のことは見ていない。電話もしなければ、メールの一通も送っていない。
昔から拗ねた星野をなだめるのは難儀なものだった。電話をすれば無視を決め込まれ、謝れば誠意が伝わらないと言い退け、もので釣ろうとすると卑下しているように思われて怒った。触らぬ神に祟りなしという言葉を知った中学の頃から、天川もそんな星野に構わなくなっていた。今回もそういうわけで、彼は星野を追いはしなかったし、様子を探ってもいない。
「来て無いですね。昼間に竹薮で別れたっきりです」
「竹薮で?」
「は、はい」
不自然なところで反応されたので、天川も言葉に詰まった。
「どこかで遊んでいかなかったの?」
遊びと聞いて星野の服装を思い出し、少し苛立って答える。
「星野のほうがどこかに出かける予定だったらしくて、途中で帰らせました。多分、着替えに一度家に帰ってると思いますけど」
言葉のあとに数秒の沈黙と、うなるような声があった。どうやら考え込んでいる様子だったが、それも束の間だった。
「私、今日は家にずっといたから、多分姫子帰ってきて無いみたいね」
「えっ。で、でも、洋服すごい汚れてて外を出歩ける感じじゃなかったですよ」
「あー、うん。なんとなく分かってるから」
何が分かったんだろうと思いつつ、天川はそのまま受話器に耳を傾けた。
「多分外で傘も差さずにうろついてると思うから、一緒に探してくれない?」
「傘も差さずにですか?」
「そう。だから心配なのよ」
季節は初夏とは言え、梅雨だ。夜は冷え込む時間帯で、雨に当たれば簡単に風邪をこじらせるだろう。時計を見た。時針が十一の前まで来ている。女子中学生が外出していて良い時間ではない。天川もこの時間まで遊んでいたことは今までかつてまだ無い。
「心当たりとか無い?」
言われて色々場所を思い浮かべるが、どれも当てはまらない。あの格好でうろうろ出来るのは、人目が少ないところくらいだ。
「公園あたりじゃないですかね」
「じゃあ渡くんはそこをまず見てきて。私は近所を回ってみるから」
「分かりました」
天川は受話器を降ろすと、壁にかけてあったカーティガンを取って羽織った。携帯電話を持っていることを確認すると、早足で玄関に向かう。傘を取って外に出たとき、空は一面の雨雲に覆われていた。
頬に一撃を叩き込み、そんな空を吹っ飛ばすような勢いで天川は走り出した。
探し続けること数十分。流石に雨風に当てられて身体も冷えてきて、天川はだらしなくくしゃみを一つした。強い雨脚は傘を激しく叩き付け、打楽器と取れなくも無いリズムを奏でている。濡れた街はほのかな雨の香りを漂わせている。吸い込んだ空気は冷たく、星野はこの冷たさに当てられていると思うと、雨脚と同じく天川の足も早くなった。
回れるところは全て回った。星野の母親からの連絡はまだ無い。つまり近所にはいなかったということだ。すると残っている場所は限られてくる。その中で最も可能性の高い場所を考える。
「空見山か……?」
厳密に言えば、そのふもとにある竹薮のことである。今日星野と行ったあの竹薮だ。距離も近くなければ天候も悪い。時間も遅いときて、あまり行きたくは無い場所だ。しかし、彼女が行きそうな場所を考えて、そこあたりしか思い浮かばなかった。
空見山は今、暗闇に包まれた空との境界線を失っている。街灯のある住宅街とは違い、空見山周辺には街灯が少ない。都市化に伴い、最近は増えてきているようだが、それも工事中の一時的なものに過ぎない。中腹辺りを開発するにおいて、恐らく一部は舗装工事くらいはされてしまうのだろう。思い入れがある場所だったので、少し寂しくもあった。
そんな風に立ち尽くしていた天川を呼ぶように、突然上着のポケットに入っていた携帯電話が振動した。急いで取り出し、緊張した面持ちで携帯電話を開いた。ディスプレイを見ると、『星野 姫子』と表示されている。ほっ、と漏らした安堵の吐息が、寒空に消えていく様を見送り、通話ボタンを押した。
「姫子か?」
「……」
電話越しに彼女の声はなく、しんしんと降り続くノイズのような雨音だけが聞こえてくる。
「なんとか言えよ」
「……」
だんまりを決め込むつもりなのか、やはり返事は無い。本当に電話の向こう側に星野がいるのか、天川は不安に駆られた。
「みんな心配しているんだぞ?」
「……みんな?」
ようやくあった声は、酷く沈んでいた。どんよりと浮かぶ雨雲を見て、「お前のせいだ」と心の中で毒づいた。
「みんなって誰?」
「俺もそうだし、家族が心配するだろ」
「わたるも……?」
「もちろんだろ」
嘘は無い。星野を放っておいたことには少なくとも罪悪感があったが、今はそれよりも彼女の身の安否のほうが気持ちとして大きい。天川の口にした言葉が、あまりに真摯だったのか、久方ぶりに聞くような微笑が電話から漏れて聞こえた。
「あたし、今空見山の竹薮の中にいるんだ」
おいおい、と天川は予想が的中したことに肩をすくめた。
「それで、どうしてそんなところにいるんだ?」
「落し物探し」
「何を落としたんだよ」
「短冊」
有無を言わせないはっきりとした口調に、それがいかに大事なものだったのかを思い知らされる。
しかし、竹薮の中で短冊を落としたとは、天川も話の脈がつかめなかった。雨の中探すほどなのだから、よほど大切なものなのだろうが、どうして竹薮でと考えた。
「お前もしかして、今朝持ってきてたのか?」
「そう。で、転んだときに落としたっぽいの」
「あの時か……」
思い出して頭を抱えたくなった。崖から転落しそうになるし、姫子は何故だか激怒するし、さんざんなイベントだった。加えて星野の短冊を落としたとなると、不幸だったの一言に限る。昨晩星野に伝えた占いを思い出して、不運に対するやり場の無い憤慨をあてつけたくなった。
「とりあえずそっちに行くから待ってろ。どうせ、一緒に探して欲しくて電話したんだろ?」
何にせよ、既に天川は空見山へ向かっている。今更引き返せといわれても断ってしまいそうな心持で歩を進めている。
「……ありがとう。待ってる」
幼馴染から聞いた、久々の感謝の言葉に、自然と天川の足取りは軽くなった。