2話
天川と星野は空見山のふもとにある竹薮に来ていた。深緑の香りを鼻腔に吸い込むと、どこか都会から離れたような気分になる。季節が初夏ということもあり、やぶ蚊が多く群れを成している。日陰を求めてさまよっているのは人だけではないようだ。差し込む日差しは木漏れ日となって美しい幻想の景色を作り出している。人に嫌われるものとはいえ、日光を浴びて飛び交う様は一つの風景として形を成しているようにも見えた。
「しっかし、それでも蚊は蚊だもんなあ」
天川はここに来たことを少なからず後悔していた。仲の良い星野との軽いピクニック程度に考えていたが、これでは地雷原を抜けるのと大して変わらない労力を使いそうだったからだ。足場も悪く、後ろでは先ほどから星野が何度も転んで泥だらけである。見ていて滑稽な様ではあったが、そう何度も見ていると不憫に思えて仕方が無い。
しかし星野も星野である。天川はそういう事態を想定して、作業着にも似た長袖長ズボンで着ているというのに、彼女はまさに外出用の淡い青のワンピースを着てきていた。化粧も中学生ながら多少乗っており、彼女のほうがピクニック気分だったのではないかと疑える。
「さいあくなんだけど。ああもう、また蚊に一箇所刺された」
「ご愁傷様です。O型の血ってのは、悲しい性だな」
「血液型のことはあんまり信じないけど、蚊に関してだけは納得するしかないよ」
「俺なんか虫除けスプレーすらつけてないのに一箇所も刺されて無いぞ」
「はあ……」
大きなため息とともに、星野は歩みを止めた。天川もそれに応じて立ち止まり、振り返った。
「疲れたか?」
「ていうか、これ歩き難い」
履いていた低いがヒールの靴を脱いで、手に持ち替えた。足の裏に泥がつくのは気にしないらしい。天川はそれを見て、嘆息を漏らした。しょってきたリュックサックから、予備の運動用スニーカーを出して星野に渡した。
「用意が良いね」
目を丸くして受け取った星野だったが、遠慮もせずに生足のままスニーカーを履く。
「姫子さ、お前一体ここに何しに来ようとしてたんだ?」
「竹取の翁のように、竹を取りに」
「どんな風にだよそれ」
悪びれた様子もなく冗談を言う星野に、昔からこんなやつだったなと、懐かしみながら笑みを返す。
それにしても、と思う。姫子の服装のそれは、明らかに外出、それも外観に気を使わなければいけないようなものだ。女子の化粧など毛の先ほども知らない天川だが、竹薮という場所にあまりにそぐわない格好には流石に違和感を覚えた。
「お前、これからどっか行くのか?」
「えっ、どうして?」
「いやだって、やけにめかしこんでるっつうの? 良く分かんないけど」
「あーうん、そうだね。ちょっと用事があるかも」
やっぱりか、とわざとらしく天川は納得する。あまり見たことの無い星野の姿に、そうせざるを得なくさせる相手に少しだけ嫉妬した。それに気付いた天川は、幼馴染だからと心の中で無理矢理頷かせる。
しばらく考えながら星野を見ていると、それに気付いた星野が大きく手を左右に振って、心なしか赤面しながら言った。
「そ、そろそろ良いんじゃない?」
天川も当初の目的を思い出したように、握っているノコギリを見た。大きすぎず小さすぎず、ちょうどいいサイズの竹を切って持ち帰ってくるのが二人の仕事だった。計画を催した友人は願い事を書く紙の用意と、ついでにパーティーでもしようということになって、その準備で忙しいらしい。
日照りに汗を流す。今頃クーラーのきいた部屋で作業をしている友人が恨めしく思えてきた。首にタオルをかけてあったため、それで軽く額を拭いた。
「やるかあ。身長より少し高いくらいが良いよな?」
しかしそれに星野は不満の声を漏らした。
「ううん、でも願い事書くんだから、やっぱり天に届くくらいが良いんじゃない?」
「現実を見ろよ姫子。そんなの持って帰れるか?」
「わたるならいけるでしょ」
そいつは過信だよ、と天川は苦笑した。
星野がちょうどいい程度の高さの竹を見つけて、天川を呼ぶ。その声が妙に懐かしく感じる。
昔は公園やこの竹薮でよく遊んだものだが、中学にもなれば男女の違いに気付き始めて、自然と疎遠になっていくものだ。天川と星野の二人も例外には当てはまらなく、決して遠い存在になってしまったわけじゃないが、こうして企画を立てなければ進んで合おうともしなかった。
ノコギリを竹に立てる。技術の授業の際にノコギリの使い方は教わった。うろ覚えでしかないが、切れれば良いだろ、と軽い気持ちで刃を立ててまず引いた。
「……堅いな」
「非力」
「うるせえ」
周りを見渡す。確かに竹はこれ以上無いくらいベストサイズだったが、いかんせん足場が悪い。加えて近くに崖もあり、勢い余って飛び出してしまいそうだった。断崖絶壁ではなかったが、それでも落ちたらただの怪我ではすまなそうなもので、天川の肝が縮こまった。
「なあ、別のやつにしないか? ここ、落ちそうで危ねえんだけど」
すると星野はいたずらそうに言う。
「竹が?」
「冗談言うなよ。俺が、だ」
「なら大丈夫でしょ。いくらなんでも、そんなところに落ちないって」
言われて確認したが、地面が斜面になっており、星野の言うように安心は出来なさそうだった。星野のいる位置からは見えなさそうだが、すべったら一直線で落ちていきそうな気がした。想像して、天川は身震いした。
「まじで危ねえんだけどなあ」
とは言ったが、星野が見ている手前、情け無い面は見せたくなかった。男としてのちっぽけなプライドだったかもしれない。
再びノコギリの刃を竹に立てる。作業能率は悪いが、地味ながら竹はバランスを失って行く。天川は時折吹き出た汗をタオルで拭う。放っておくとまぶたまで垂れてきて、先ほどは調子付いていたテンポを崩すはめになった。男として汗を滴らせておくのも悪くないかなとも思ったが、首筋まで落ちてきた汗を服が吸い込むことを考えると嫌になった。
作業も半ばまで来た頃、星野が声をかけてきた。
「手伝う?」
一体何をだよ、と言いかけて、天川は暇そうにこちらを眺めていた星野を思い出して仕方なく頷いた。
「とりあえず水をくれ。水筒で一杯」
「分かった」
少しだけ嬉しそうに頬を緩まして、星野は走って水筒の入ったバッグを開け、家で入れてきた冷えた麦茶を持参した紙コップになみなみ注ぐ。
「おいおい、あんまり走るなよ。ここ結構滑るし、斜面がきつい……」
言葉はそこで止まった。寸隙の光景に天川の心臓が口から飛び出しそうになる。
星野が転んだ。手に持っていた紙コップを投げ出して、豪快に肩から転がるように身を倒した。
天川は地面の状況を思い出す。水辺の苔の生えたものに比べれば優しいが、斜面がある分、雑草の生い茂った地面はすべりやすい。昔、この辺りで星野やほかの友人と遊んでいた際、段ボールでソリを作って走れるほどの滑らかな斜面だ。
思考を切り替えるのに二秒もいらなかったが、行動に移すのにはもっと時間がかかった。
「いっ……」
星野がか細い声を上げたのが聞こえて、初めて天川は自分がまだノコギリを握っていたことに気付く。夏なのに雪だるまが転がってくるように星野は二転、三転しながら刻一刻と崖に向かっていた。
情景反射で天川は手を伸ばす。正面から向かってくる星野の腕を掴むのは難しくなかった。数年ぶりの彼女の肌の感触を味わう暇も無い。
引っ張られるように、天川の上体もぐらつく。
「姫っ、子!」
以前ふざけてお姫様だっこをしたことを思い出した。あれは重かった。漫画で余裕綽々でやっているが、実際はそんなものではない。天川の腕にかかる重力は、それをゆうに超えていた。
片方の腕はノコギリをしっかりと握っていたが、星野の腕に回された手の平は日の光とノコギリの柄の密着のせいでしっとりと汗ばんでいた。それが円滑油となってすべる。
どうして洋服を掴まなかったのだ!
内心大きな叫びを上げた天川だったが、口から漏れるのは緊張という色を纏った吐息だけ。
星野の表情は垣間見れない。しかし、彼女は自らに起きたことを理解できていない。
「わ、わたる……っ!」
星野の咄嗟の判断か本能だったのか、力いっぱい爪を立てて天川の腕を引っ掻いた。痛みに顔をしかめたが、そのおかげでノコギリから手を離した天川は、そのまま星野に飛びついて抱いた。想像よりずっと華奢な身体が腕の中にすっぽりと収まる。星野の頭を抱えるようにし、肩を地面に引っ掛けるようにして押し付け、重力をかけてなんとか失速に成功した。
倒れこんだ二人の横で、竹が折れて崖の下に落ちて行った。竹が着地する音が聞こえてきたのが予想以上に遅かったことから、天川は冷や汗を今更浮かべた。
がけっぷちに立たされたとはまさに今のことだろう。天川は内心震えながら、ゆっくりと立ち上がって顔を怒りに歪ませた。
「ば、馬鹿野郎! 危ねえって言ったろうが!」
その有無を言わせない勢いに、星野も「ごめん」と小さくなって謝った。
「……お前もう帰れ」
星野は天川をそれこそ崖っぷちに立たされたような青い顔をして見上げて言う。
「ど、どうして?」
「危ないからに決まってるだろ。俺一人でも出来るし、姫子はこれから出かける予定があるんだろ? 服がそんなんじゃどうしようもないだろ。帰って着替えて来いって。まだ時間あるだろ」
「いやこれは……」
言って自分の姿を見直す。青かったワンピースは泥で真っ黒になっており、簡単な洗濯では落ちそうなくらい汚れている。転んだせいで所々肌にも泥が張り付いており、乾いた泥が肌にひびを作っていた。
「な。流石にその格好じゃ外歩けないだろ」
作業着だが、しっかりと着込んでいる天川のほうがよっぽど大衆の目に優しい。めかしてきたはずの自分の服装とそれを見比べて、星野は急に目頭が熱くなるのを感じた。
「あたし邪魔?」
うつむいて前髪をいじり、なんとなく気を紛らわしていたが、かすかに声は震えていた。そんなことに気付かない天川は、腰に手を当てていまだ地べたに尻をついている星野にため息混じりに言う。
「邪魔ってわけじゃないけど、いてもどうしようもないだろ」
「そうだけどさ」
「家で日暮たちの手伝いしてたほうが良かったんじゃないか? 泥だらけになっただけじゃん」
「……そう」
星野はそれだけで、ほかに言うことはないとでも言いたげな無表情で相槌を打つように返し、立ち上がった。服についた泥を軽く払っただけで、天川に背を向けた。
「帰る」
「あいよ」
「……帰る」
二度目は一字一字を区切るように言った。星野は天川の反応を確かめるためにちらりと天川のほうを見たが、彼は既に星野に興味を失ったように、ノコギリが折れていないかを確認していた。
それを見た星野は顔を真っ赤にし、吐き捨てるように叫んだ。
「手くらい貸してよね、馬鹿!!」
天川が驚いて振り向いた時には、既に星野は走り去っていた。後姿を眺めながら、所在なさげに彼女のいた場所を見つめ、小さくため息を漏らした。
「昔はこんなんじゃなかったはずなんだけどなあ……」
つぶやきは深緑の竹林に吸われて、誰にも届かなかった。