20
太陽は沈み、物置小屋の暗さは一層深まっている。それでも目が慣れてしまったのか、物置の中の様子ははっきりと分かる。霖雨は猟銃を抱えて座り、頭を強く振っている。目の前には普の姿が映っている。体を震わせる以外ほとんど動かない。
突然襲ってきた欲望にほとんど抗いようがなかった。何十年も押さえ込もうとしてきた感情だ。かつて玉桂にしてしまったことを、再び繰り返してしまうところだった。
すんでのところで思いとどまることができたのは、花柳を思い出したからだ。
愚かで、ひどくさましいことだ。
だからといって、普という少女に与えてしまった傷は癒されることはないだろう。自分が彼女の人生を殺してしまったのと同じだ。そう、もう玉桂と同じなのだ。
外から何度も花柳が呼びかけてくる。けれどまるで答える気がしない。
壊れてしまったのは花柳ではない、自分の方ではないか。
そうだ、壊れてしまったのだ。
霖雨は立ち上がった。頭は空ろだ。だがよく回る。普がここにいる。いずれはシエンもここまで来るだろう。これほど憎らしい名前を今まで聞いたことがない。響きが恐ろしい。私怨……まさに名にふさわしい。そもそも、こいつがいなければよかったのだ。男のこいつが花柳に近づこうとするから、こんなことになってしまったのだ。すべての元凶はシエンにあるのだ。
霖雨は物置を出た。そしてそのまま小屋に戻ることなく道をゆっくりと下っていく。
・
霖雨は花柳の姿を見つけると声を出した。
「花柳、どこに行ったんだ? 早く帰ってきなさい。父さん、怒っていないから」
シエンと花柳が何かやり取りをしている。
「ああ、そうだ。小さな女の子がいたから、家で預かっているんだが、お前、知らないか?」
視界が空ろだ。花柳がシエンを木の陰に隠した。昼と同じだ。それから花柳が手を上げる。
「お父様、ここです」
「またここか」
「夜風に、少し当たりたかったものですから」
霖雨は河原に出た。
「そうか。夜も遅いし危ないぞ」
そう言葉を発した霖雨の手にはしっかり猟銃が握られ、その銃口はまっすぐ花柳を指している。花柳はそれを見て驚愕する。
「お父、様?」
「さあ、いるんだろ、出て来いよ!」
霖雨は辺りを睨みつけるように叫び散らした。
「隠れたって無駄だ」
夜の薄暗さがその言葉を包み込み、拡散する。
「普をどうした」
「閑」
シエンが木の陰から姿を現す。こいつだ。すべてこいつが悪いんだ。
「やはり隠れていたか」
「普をどうした!」
さらに一歩踏み出そうとするシエンを制するように、霖雨は銃口を閑に向ける。
「どうもしてない。お前と同じように、愛そうとしただけだよ」
「そんなのは愛じゃない」
霖雨の言葉を遮るように閑が睨みつける。
「花柳、こいつが愛なんて言葉を知っているはずがない」
「意味をわかって言っているのか?」
「彼女をこんな山奥に閉じ込めて、何をしているかなんてすぐに分かる。花柳はこいつの娘じゃないんだ」
「閑?」
霖雨はシエンの瞳に憎しみの色を見た。まさに名にふさわしい色だ。
「悪いが、まだ失うわけにはいかないんでな」
霖雨の指が引き金にかかる。
「普は、どうした?」
「花柳と違って言うことを聞かないものだから。今は血を流しながら小屋で気を失っているよ」
口から出ていた。
その瞬間、シエンは霖雨に殴りかかった。
否、銃声が鳴り響いた。
鈍い音がシエンの胸から霖雨の耳にまで聞こえる。
「きゃーーーーーっ」
それと同時に花柳の体が大きく奮え、その場に倒れた。シエンも倒れる。霖雨は猟銃を落とした。すぐに花柳に駆け寄る。
「花柳!」
だが花柳は答えない。胸の辺りを押さえ、びくびくと体を震わせている。目は開いているが意識は感じられない。
「花柳!」
もう一度霖雨は声をかけた。
花柳は目を大きく開くと、動きを止めた。
まるで、そう、人形に戻ってしまったかのようだ。今度は霖雨の体がぴくぴくと震え上がる。花柳の頬を触る感覚は冷たい。死人を連想させる。動かない体はまさに死んでいる。
「花柳!」
花柳は何の反応も示さない。霖雨は手を動かして花柳の目に当てた。そのまま瞳を閉じさせると、口へと移動する。息はしていない。当たり前だ。その手は胸部へと移動する。だが、当然鼓動は感じない。
「あ、ああ」
意味のない言葉が口から溢しながら、霖雨は花柳を抱きしめた。だが、その首は重さに抗うことなく後ろへと倒れた。
花柳の襟元を濡らしたのは、よだれだったのか涙だったのか、霖雨自身にも分からない。
もう何も分からない。
消えてしまいたい。
己のさましさと。
あさましさと。
愚かしさと。
虚しさと。
空ろと。
生と。
死。
・
霖雨は歩いていた。
背には花柳を負ぶって。どこをどう歩いていきたのか、本人ですら分からない。今、どこを歩いているのかさえ分からない。
それでも、行く先だけははっきりと分かっていた。
そこへと、ただ、足を動かす。
意志など存在しない。
何日歩いたのか、力もなく、ただ歩き続けて霖雨はその場所にたどり着いた。そして霖雨は店の中へと足を踏み入れた。




