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どうして、私のことを見てくれないの? こんなにも愛おしくあなたのことを思っているのに、あなたは私のことを見てくれない。恨みがましいことを言っているんじゃない。あなたが今の仕事を愛していることは分かっています。亡くなられたあなたのお父様とお母様が残してくれた大切な遺産なのだから。それは分かっているわ。でも、あなたが生まれるために、お父様とお母様は結ばれたのよ。私もあなたと結ばれて、あなたの子供を残したいの。いつかみたいに、私のことを抱いて欲しいの。たとえ、あなたにとって私がもう何の魅力がないのだとしても、それでも私はあなたをあきらめることなんてできない。あなたと一生を添い遂げたいの……
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私は今、誰が特定の人を愛するつもりはない。そのような時間はひどく惜しまれるものだ。私には私の愛するものがある。誰かの理解を得ようとは思わない。それが異常なことだと私自身がよく把握しているところのものだ……君には申し訳ないと思っている。ひと時の思いで君を抱いてしまったこともある。けれど、それはもう過去のことだ。忘れてくれ。それから、私は友の紹介で近く堺を出ることになるだろう。だが、私のことを探さないで欲しい。最初から私という存在はなかったのだ。
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坂下綾子は、自分で分かりやすく読み直すために現代語に訳したのだが、その直接的な表現に恥ずかしさを覚える。昔から男と女のやりとりなんてさして変わらないものなのかもしれない。坂下の手元にある資料は全体の一部でしかないが、中にはもっと直接的できわどい表現のものもある。
現在、性は解放的になったというが、どの歴史を見ても、昔から性は解放的だった。むしろ現在のほうが、遥かに規制が厳しい。古代、中世、近世とどの地域を見ても、開放的な性が溢れている。それを知らないのは学校で教えないからだ。それが現代の性の退廃を生んでいる。そう、退廃という表現が正しいだろう。歴史上の性は退廃していない。むしろ進んでいた。それが、近世でも一時的にひどく禁欲的な時代があった。それが現代の規範となってしまっているのだ。
坂下は文献を読みながら、自然とため息がこぼれる。玉桂という女性と、霖雨という男性との間に交わされた往復の書簡集だ。二人とも有名ではないが、坂下にとって重要なものだ。初めてこの文献に出会ったとき、坂下は震えた。感動したのか、恐ろしかったのか分からない。今まで坂下が描いていた霖雨の人物像と相違が激しかった。
電灯のオレンジ色の光に照らされて、坂下の表情もオレンジに色づいている。なぜ、二人は結ばれなかったのか。その命題はすでに解かれている。坂下は左を向き、そこに置かれている人形を見た。
電灯の光の下赤みを増した着物と、オレンジに染まった肌と。俯いた表情はまるで眠っているだけの少女のようだ。恐ろしいほど人間に近い質感を持ち、そしていつまでも褪せることのない姿。首飾りが首から垂れており、その先の蒼く輝くアクセサリーに名が記されている。花柳。
霖雨は花柳を愛していた。
だから玉桂と結ばれることはなかった。
たとえどれだけ否定されようと、坂下は霖雨が花柳を愛していたのだと信じている。それは極度に昇華され、純粋へと還元された愛。少年の日の淡い恋心とは違う。誰にも渡したくない、狂酔的で独占欲に近いもの、それこそが愛の本質だ。
坂下の視界が動き、再び文献に当てられる。だが、そこに書かれている文字が情報として認識されない。
予感がする。
もうすぐ同志が現れる。今坂下がいる建物の一階では人形展が開かれている。この人形展にきっと坂下の同志がやってくる。
そのときこそ、すべてが動き出すとき。
そして、終わりのときとなると。




